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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ヨハネ7:37-39, エペソ5:18(聖霊充満)

投稿者
tbic
投稿日
2022-09-04 20:05
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ヨハネの福音書 7:37-39、『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。』

エペソ人への手紙 5:18、『また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。』

聖霊充満を一生、一回だけ受け取ることで満足する人がいるのですが、それは大きな過ちです。彼らは自分が昔、一回体験した聖霊充満を強調しながら、その聖霊充満を体験すべきだと叫びます。もちろん、聖霊充満を一回受け取ることはとても大切ですが、聖霊充満は一回受け取って終わりではありません。受け取ってからその後、また受けなければならないし、その受けた聖霊充満を維持し続けることがもっと大切です。

そして、「聖霊のバプテスマ」という言葉が聖書に出て来るのですが、理解しにくい言葉でもあります。つまり聖霊充満は聖霊の洗礼ですが、洗礼はギリシャ語で「バプティゾ」、水の中に浸すという意味です。水の中に入れることです。だから、「水のバプテスマ」は水の中に完全に入れられることを意味し、「聖霊のバプテスマ」は聖霊の中に完全に入れられることを意味します。

つまり、聖霊が自分の中に入って来るよりは、自分が聖霊の中に入って行くことです。もちろん、聖霊が自分の中に入って来ると表現しても構いませんが、その時は一回入って来た聖霊はずっととどまるという意味で理解してほしいのです。聖霊様が信者の中に入って来たり、出て行ったりするわけではないからです。しかし正確にはエゼキエル書の生ける水の川のように、私たちが聖霊の中に入れられることが聖霊充満の概念です。

もちろん、私たちがイエス様を信じる時、その時から聖霊様が私たちの内に住まわれます。聖霊の内住と言っています。しかし、聖霊充満というのは私たちが聖霊の川の中に入って、完全に潜ることを意味します。だから聖霊が内住しても、聖霊充満でない時があります。まるで聖霊充満は滝の水を浴びるようなものだと言っても過言ではありません。力強く落ちて来る滝の下で、その水を自分が浴びていると考えてみて下さい。それが聖霊充満です。

神様からの聖霊の油注ぎは生ける水の川で天の宮から流れ出て、それがこの世に落ちる滝のようだと想像して見てください。自分がその滝の中に立って、その聖霊の生ける水を浴びること、それがまさに、聖霊充満です。聖霊の中に自分が浸ることです。ここで大切なことは、私がその中にずっと、とどまることです。しかしその滝の水から出てきたら、聖霊充満を受けることはできません。

ある人はこう言います。「自分は2000年に聖霊のバプテスマを受けた」と。はい、分かりました。それは正しいかもしれません。しかしそれは言い換えれば、「私は2000年に、自分の車に燃料を満タンにした」と言っていることと同じです。もしその後、燃料を満たしていないのであれば、22年前に一回満タンにしたのは、今は何の意味もありません。車はもう既に止まっていて、長い間動かない車です。

皆さん、聖霊充満は続けて受けることです。それがエペソ5:18の意味です。「ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」ここで、「御霊に満たされなさい」というのは、英語でbe being filled、つまり続けて聖霊に満たされなさいという意味です。

今日の本文、ヨハネの福音書7:37-39には聖霊充満を受けるための二つの条件が出てきます。一つは自分が渇いている状態であって、もう一つはイエス様が聖霊充満を与える方であることを信じることです。もし皆さんが、聖霊充満に対する飢え渇きがなければ、当然聖霊充満を受けることはできません。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と言われます。とても渇いている人、今すぐ聖霊の生ける水を飲まなければ死にそうな、その人が聖霊充満を受けることができます。

皆さん、電球は電気が入らなければ使えません。だから電球が自分の役割を果たすために、電気を切に求めるように、私たちは聖霊充満を切に求めなければなりません。もちろん、皆さんがこのメッセージを聞いたとしても、明日から何か変わることはありません。ただ豊かなクリスチャンの人生を生きるためには、それができるパーワが必要です。それがまさに、聖霊充満です。

言い換えれば、皆さんが聖霊充満を受けなければ、聞いた御言葉は一つの耳から入って、もう一つの耳へ流れ出て行くと思います。この聞いた御言葉を、自分の人生の中でちゃんと生かす方法は、ただ聖霊充満を通さなければなりません。

皆さん、イエス様の山上の説教を真剣に読んで見てください。マタイの福音書5章、6章、7章を読んでから、ある方はこう言いました。「このイエス様の山上の説教は、守るのにとても難しい御言葉ですね」と。しかし私は彼にこう言いました。「守るのに難しい御言葉でなく、守ることが不可能な御言葉です」と。もちろん、山上の説教は守るのに難しく、不可能に見えますが、私たちは絶えず試み、チャレンジすべき御言葉でもあります。しかしそのチャレンジの中で「完璧に守ることは、もうできない」ということを悟るようになります。

皆さん、過ぎ去った過去の人生の中で、一回も罪を犯していない人は誰もいません。「隣人に腹を立てれば、殺人の罪を犯したことだ」と主から言われたので、過去の人生の中で一回も腹を立てず、山上の説教をそのまま守りながら生きられた方はここにいらっしゃらないと思います。もちろん、イエス様はそのように生きられましたが、私たち人間は完璧にそれを守りながら生きることはできません。不可能です。では、どうやって人の栄光を求めず、ただ神の栄光だけを求めながら、生きられるのでしょうか?私たちは、ただ罪深い人間なのです。

皆さんが真剣に山上の説教を読んだら、そこには一つ抜けていることが分かります。つまり、主は山上の説教を、ちゃんと守る方法を教えてくださらないのです。

では、私たちがどうやってその教え通り、守りながら生きられるのでしょうか?聖霊充満のパーワです。それが抜けています。実際に、人間の決心だけでは、もうできないことを、私たちは経験で分かります。

皆さん、山上の説教は旧約聖書の十戒と同じです。神様の裁きの基準、信者の人生の標準を表したものです。分かりやすく言えば、100点、満点の答案用紙のようなものです。つまり受験で満点をもらうことです。しかし誰が満点をもらえるのですか?もちろん、ゼロ点をもらっても構わないという意味ではありません。ただ神様の基準はそれぐらい高いし、人間はそれぐらい堕落したという意味です。

十戒を詳しく読んでみて下さい。人間が九戒まではある程度守ることができます。それらは外部の行いによってみんなに見えるから、周りの人々の目が怖くて九戒まではとにかく守られます。しかし、10番目の戒め、十戒は「すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」です。これは心の問題です。つまり、「隣人の妻、家、畑、奴隷、牛、ろばを、欲しがってはならない」と言われます。

これは心の問題だから、他人が自分の心を知らない限り、この戒めは破られる可能性が高いのです。私の考えでは、欲望のない人はこの世にいません。だから、神様がこの守れない10番目の戒めを十戒に入れたというのは、人々を謙遜にさせる目的があったと思います。「主よ。私はこの戒めを全部守ることはできません。私は自分の力で自分を救うことはできません。」という告白、神様は私たちから、この告白を聞きたかったのです。

これはパウロがローマ人への手紙7:24で告白した内容と同じです。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」自分がどれほど神の戒めを守ろうとしてバタバタしても、到底守れないし、ただ救いは恵みの信仰によって、値なしに、ただで得られるものです。もちろん、戒めを全部廃棄し、守らなくてもいいという意味ではありません。100点、満点はできませんが、最善の点数をもらわなければなりません。私たちは自分がもらった点数で救われるわけではないのですが、その満点を追求しながら生きる人生です。

とにかく、十戒と山上の教えは神様の基準、標準を見せてくださり、そこで人間は絶望します。自分の力で神の基準を満たせないからです。だから私たちは自分の罪と無能さを認め、救い主イエス・キリストを切に求めるわけです。「主よ。私はこの罪から自由になれません。私を助けて下さい。私は自分が道徳的に完璧な人になって、自ら自分を救うことはできません。罪深い私を哀れんでください。」これを教えてくださるのが、十戒であり、山上の説教の根本的な目的です。もちろん、信者がこの戒めを守って、世の人々より尊く素晴らしい人生を生きるのは事実です。しかし同時に、この戒めを守りながら自ら挫折して、始めて自分が哀れな罪人であることを悟り、主の救いを切に求める謙遜な人になります。私は聖霊充満も、この流れで理解しています。その謙遜な状態、その飢え渇きの状態で私たちは聖霊充満を切に求めるようになります。

私たちは自分の力で神の戒めを全部守ることはできません。だから徹底的に挫折してしまいます。その渇きの状態で、私たちは聖霊充満を求めるようになります。そうしたら、今日の本文の7:38、「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」という、この御言葉が成し遂げられます。

ルカ11:13、「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」つまり自分が挫折した状態で、切なる祈りをもって聖霊充満を求めるようになり、それで受け取るようになります。それによって、山上の説教と十戒を守られる力が得られるわけです。

皆さん、聖霊については神学的に論争が激しく、いろいろな異論があります。皆さんがそこに巻き込まれ、喧嘩する必要はありません。ただ私たちは、それぞれ聖霊充満を求めればいいのです。そして聖霊の中に完全に入り込み、毎日聖霊充満を受け取ることです。論争には絶対に巻き込まれないように気をつけてください。

私は家近くの川沿いを散歩するとき、いつも聖霊充満を求めています。川近くの生き物、木々やいろいろな草はその川の水を供給され、青い葉っぱを出し、花を咲かせて、秋にはいろいろな実を結びます。それを見ながら、私も祈ります。「主よ。私もあのように聖霊充満の中にとどまり、青い葉っぱを出して、たくさんの実を結びますように。決して渇くことがありませんように、お守りください。」と祈るばかりです。

イエス様の山上の説教を読むときも、「主よ。私は自分の力ではこの御言葉を守ることができません。聖霊充満を与えてくださり、主の戒めを守るように助けてください。」と祈り、もし私が山上の教えを守ることができたのであれば、それはただ聖霊充満の助けだったと思います。

このように持続的に聖霊充満を受ける人は自分の人生の中で起きる罪の誘惑を乗り越えることができます。そして聖霊の油注ぎがあったとき、私たちは自分の働きの中に力が注がれていることが分かります。私がTBICでメッセージを伝え続けることができたのも、聖霊の油注ぎがあったから可能だったと思います。

皆さん、聖霊充満を維持し続けることを願うのであれば、まず自分の良心がいつもきれいでなければなりません。聖霊様はとても敏感で、センシティブなお方です。だから自分の良心が気づいた小さな罪でも、私たちはそれを直ちに捨て、悔い改めなければなりません。そういう人が聖霊充満を維持し続けます。

そして、もう一つ聖霊充満を維持し続ける方法は謙遜です。神様が自分を謙遜な所へ、低い場所へ導かれる時があります。そうしたら、そこに従って、下って行かなければなりません。水はいつも高い所から低い所に流れて行きます。生ける水の川、聖霊充満も同じです。神様はいつも私たちを高い所へ導かれる方ではありません。低い所に、侮辱される所に導かれるときがあります。これは私の経験です。いつも良心的に、聖霊に敏感になり、また低い所へ喜んで下って行く謙遜を維持するとき、私は聖霊充満を維持し続けることができました。

今もサタンは強く働いています。だからサタンは私たちが聖霊充満について神学的論争(自分勝手な信仰)に陥るように誘惑します。実際の聖霊様についてはあまり関心がなく、いくつかの 極端な理論についてお互いに攻撃し、論争するように惑わします。それは間違いであり、悪魔の誘惑です。気をつけてください。私たちはただ御言葉どおり、聖霊充満を受け取ればいいのです。また受け取った聖霊充満を維持し続けることです。エペソ5:8、「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。

イエス様も公生涯を始めながら、聖霊の油注ぎを受けられました。それがイエス様の働きの秘訣でした。もしイエス様も聖霊の油注ぎが必要だったのであれば、言うまでもなく私たちのような普通の人々は聖霊の油注ぎと聖霊充満が絶対に必要です。

最後にもう一度、今日の本文をご一緒に読んでメッセージを終わりたいと思います。

ヨハネ7:37-38、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。

エペソ5:18、「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
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