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詩篇 119:105

マタイの福音書16:16-27(信仰告白の後、二つの道がある)

投稿者
tbic
投稿日
2022-09-18 18:09
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283
マタイの福音書16:16-27『シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。』

信仰が与えられれば、イエス様を受け入れる信仰告白は誰でもできます。しかし、十字架で自我が死ぬことは簡単ではありません。今日の本文のマタイの福音書16:16には、ペテロの有名な信仰告白が出てきます。何ですか?「あなたは生ける神の子キリストです。

その信仰告白をした後、ペテロは十字架の道を理解せず、むしろイエス様に忠告をしながら十字架の道に進まないように助言をしたのです。そのとき、ペテロはサタンになるところでした。本文の23節、『しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」』

これは信仰告白が私たちの信仰生活の終点ではないことを意味します。信仰告白がすべてではありません。信仰告白をした後、二つに道が分かれるのです。つまり信仰告白した後、イエス様が歩まれた十字架の道を、そのまま歩む人がいるのであれば、信仰告白の後、なお肉の思いで世の人々とあまり変わらず、信仰生活(偶像礼拝)をする人がいるのです。私たちが世の中で、うまく行って出世しようとする思いで信仰生活をするとき、イエス様は私たちに向かってペテロにおっしゃった同じ言葉で咎められると思います。「下がれ。サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。

正直に、今私たちの信仰の現実を見れば、クリスチャンになった以上、信仰告白はほぼ100%したと思います。しかし信仰告白はしたのですが、その後、信仰(十字架)の道を歩む人は、果たして何人いるのでしょうか?私たちは深く考えなければなりません。

皆さん、熱心さと力より、もっと大切なことは、十字架で死ぬことです。どれほど熱心さをもって力強く働いても、十字架で死ななければ、その人はむしろ、サタンになる可能性が高いです。ある人はリーダーシップや組織力、言葉と知識の力など、また情熱もあって完璧に準備された人のように見えます。特に教会の中でも、世の中で得た経歴を総動員して、熱心に奉仕する人がいるのですが、もし十字架で自我が死ななければ、その人は必ずサタンの道に進みます。

有能な人こそ、悪魔の道にもっと速く、もっと簡単に行けるのです。むしろ彼らの奉仕が共同体に害を与えるときがもっと多いわけです。つまり十字架で自我が死ななかったとき、私たちは本文のマタイの福音書16章のペテロの役割、その悪役をするという意味です。

もちろん、信仰生活には意欲(やる気)も力も必要です。ここで言っている意欲は、この世の意欲ではなく、主に対する意欲、御国のための情熱です。しかしそれよりもっと大切なことは、徹底的に自我を殺すことです。

ところが、イエス様は最初から弟子たちにその「十字架の道」を教えて下さいませんでした。つまり彼ら、弟子たちがイエス様をキリストとして信仰告白した後、始めて「十字架の道」を明確に教えてくださったのです。

本文のマタイの福音書16:21「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。

しかしイエス様は「十字架の道」を知識だけで教えたのではなく、実際にペテロが身をもって十字架を経験するように導かれました。つまり弟子たちの信仰告白の後、イエス様は「十字架の道」を教え、実際にペテロを十字架で死なせます。それは何ですか?ペテロが3度イエス様を否認するように、彼の否認をそのまま許したということです。それを通してペテロに十字架を経験させます。

実はイエス様は鶏が泣く前に、ペテロがイエス様を否認することを、もうご存じでした。それでペテロに前もって警告のみことばを与えたのです。そうしたら、もしイエス様がペテロのつまずきをすでにご存じだったのであれば、なぜペテロをちゃんと監視して、他の弟子たちにも頼んで、ペテロが倒れないように、徹底的に防ぐことをしなかったのでしょうか?

その理由は、もちろん責任転嫁でもないし、主の間違いでもありません。ただペテロが主を3度否認することによって、自分の十字架を体験するように、その目的でそのまま裏切りを許したということです。

裏切りのすべての責任はペテロ自身にありますが、主がそれを積極的に防ぐことをしなかったのです。だからペテロを含め、私たちすべての人間の過ち、弱さ、失敗の背後には主の摂理があるのです。つまり私たちは自分の罪の性質と自分の責任によって倒れますが、その背後にある、もっと大きな絵、大きな枠を見ますと、そこに主の摂理があるのです。それが何かと言うと、イエス様がこのように祈られたのです。ルカ22:32「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

前もってすべてをご存じだったイエス様は、ペテロのために祈りながらも、そのように倒れるように(もちろんイスカリオテユダのように、完全には倒れなかったのですが)、それを許した理由は「あなたも十字架を体験しなさい。十字架で死んでみなさい。自ら十字架の信仰(自我の死)を体得しなさい。」という意味でした。それによって、兄弟たちを力づけることができるからです。

だから本文のマタイの福音書16:21では、イエス様が十字架の信仰を知識的に教えて下さって、ペテロの裏切りを通しては、十字架の信仰を体験的に教えて下さったということです。それが正しいのは、前のルカの福音書22:32で「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われたからです。こういう意図があって、イエス様はペテロが立派な使徒となる準備をさせるために、つまり自我の死を直接経験させるために、裏切りを黙認したということです。

だから私たちクリスチャンが失敗するのも、イエス様の意図的な許しがあります。それで完全に防ぐことなく、そのまま置いとくのです。その失敗を通して自我が死んで自分自身に対して絶望するように、摂理的な放置なのです。なぜでしょうか?人間は自我が死なないと高慢になってサタンのしもべになるからです。

子どもに、電気ストーブに近づいたらだめだ、手を出したらだめだ、と言ってもあまり聞きません。しかし自ら一回触ってやけどしたら、次からは絶対にストーブに近づきません。だからイエス様は一回ペテロが徹底的に自分の自我を否認できるように、自我を十字架につけるチャンスを与えるために、その裏切りの事件を許したということです。

このように自分の十字架を通らなければ、私たちは主の働きをしても、自分の実力で、自分の力で走ります。そして自分の意欲で活発に主の働きをして、周りに自分のようにできない人々を見て、むしろ非難し、批判するのです。しかしペテロとパウロのように、パウロも使徒となる前に、既に大きく倒れた経験があります。

だから彼ら(弟子たち)はみんな「私は何もありません」と。自分の自我が完全に十字架につけられ、ただ主にだけ仕える人になったわけです。だからこそ、自分の十字架を負い、主に従う人々の中では、このように倒れる経験をする人が以外に多いのです。特に生ぬるい信仰の人々より、熱心に主に従う人々が、しょっちゅう倒れます。そしてその次が、イエス様に従わず、罪の中で勝手に過ごしている人々が、しょっちゅう倒れるのです。

本当に恐ろしい罪の中で過ごしている人々は、自分の罪の結果、完全につぶれて、めちゃくちゃになり、ほとんど死ぬ直前に両手をあげて戻って来るケースが多いのです。このように完全に自分の自我が一回死んでよみがえる、その体験をして戻る人がいて、そして中間層に、つまり生ぬるい人々は実際に霊的に見れば、こういう人々が一番良くないケースです。彼らは熱くも冷たくもないので、絶対に自我が十字架で死ぬことなく、ずっとそのまま、生ぬるい信仰をもって生き続けるわけです。

しかし、反対に熱心な人々は、主のために忠実に献身し、犠牲も奉仕もたくさんします。ペテロがそうしました。彼は誰よりも熱心に奉仕をし、献身したのです。このように熱心な人々は、むしろ主が彼らに実際の十字架の経験をさせます。現場の学習です。そこへ、わざと導かれます。まさに、これが主の摂理です。

だから旧約聖書のダビデも十字架の経験をしたと思います。ダビデはあまりにも熱心に奉仕をし、忠誠を尽くしたから、もしダビデがバテ・シェバとの姦淫の罪を犯さなかったのであれば、彼はとても高慢な人になったかもしれません。多分簡単に他人を判断し、批判したと思います。ダビデは当時、主に対して熱心で忠実だったから、「あの人、主を信じるのがとても浅くて耐えられない。熱心さが足りない。おれを見ろ。おれのように信じなきゃ。おれはいつも、うまく行って戦いも百戦百勝したじゃないか。また戦争で得た戦利品もすべて主にささげた。おれが主にささげた財産がどれほど多いか知ってる?数千億だ、数千億。お前らは、いくらささげたの?言ってみろ。また、おれは詩篇もよく書ける。おれが書いた詩を通して、どれほど多くの人々が慰められ、恵まれたのか知ってる?お前らと、おれはレベルが違う。」こういうふうに考えたはずです。

ダビデはいくらでもそのように、霊的に高慢になる可能性がありました。なぜかというと、当時ダビデは誰よりも大きな恵みと祝福をいただき、偉大なことをたくさんしていたからです。だから、彼が周りの人々を見たら、とてもつまらないし、ちっぽけな存在に見えたはずです。そんな高慢さの中では、ダビデは多分、イエス様の先祖で救いの歴史の主人公にはなれなかったと思います。

だから神様はダビデがつまずいたとき、それをわざとほっといて、それを無理に防ぐことをしなかったということです。ある人は、それを神の摂理的倒れ、摂理的つまずきと言うのですが、しかしその罪を言い訳にしたり、正当化することは、だめだと思います。とにかく、ダビデの倒れも、ペテロの倒れも、みんな神の摂理の中で起きた出来事です。なぜかというと、彼らは自分たちの自我を十字架につけ、救いの歴史の一つの柱として、本当にそれぞれの責任を果たす人になったからです。だから神様は彼らを、彼らの十字架につけて、完全に殺したわけです。

この内容をまとめれば、信仰告白した後、二つの道があるのですが、一つは御利益のシャーマニズム的信仰で、何でも、うまく行って祝福されるのがいいと。これは考える価値もありません。もう一つは十字架の道を歩む人々がいて、彼らはどんな人々でしょうか?冷たくもなく、熱くもない生ぬるい人々は十字架の道を歩めません。なぜかというと、十字架の道は知識も必要ですが、知識だけで歩める道ではないからです。

運転もそうですし、泳ぎも、自転車に乗るのもそうです。知識的に習っても、あまり意味ないし、実際に自分の体に慣れることです。自分の手足で、自分の体で直接経験したとき、自転車も乗れるし、車の運転もできるわけです。同じように、私たちが十字架について学びますが、実際に十字架を負う必要があります。しかしその人生はとても大変で難しい人生です。だから神様は摂理的に、あるいは強制的に、十字架を負わせるのですが、ちゃんと見てみますと、熱心に信仰生活をする人々を、神様はもっとつまずかせ、叩かれる気がします。もちろん怠けているとき、叩かれる人もいるのですが、その人が叩かれるのは当然です。

しかしイエス様を信じて信仰生活をちゃんとやっているのに、走る馬にむちを加えるようなこと、「もっと正しく、もっと真実に信仰生活をしなさい。」という意味で、まさにマタイの福音書5:48のみことば通りです。「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」主のみことばです。

皆さん、このように神様は私たちが自ら負うことはとても難しい十字架を無理やりでも負わせて、自我が十字架につけられ、死ぬことを願っておられます。それを新約聖書ではペテロ、旧約聖書ではダビデを通して教えてくださいました。

だから、主の働きをし、主から与えられた使命を全うすることは、自分の力より十字架が優先であり、また自分の経験より十字架が優先です。十字架でダビデのように、ペテロのように、完全に自我が死んだときに、その中で、ある働きが完成するのであって、自分の自我が死んでない状態で、ある働きをすることは、むしろイエス様がペテロを叱ったように、本文の23節「下がれ。サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」このように、責められる人になります。

だからこそ、今私たちは信仰告白した後、十字架の道を歩まなければ、むしろサタンの道を歩む人になってしまうことを、深く黙想し、必ず十字架の信仰をもって、十字架の道を歩まなければなりません。そして、そこに真の復活と勝利があることを、ちゃんと覚えて今週もその道に進み、勝利したいと思います。
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