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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ヨシュア記1:1-9(約束の地を受け取りなさい)

投稿者
tbic
投稿日
2022-09-25 15:17
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372
ヨシュア記1:1-9『主のしもべモーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げられた。「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。7.ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」』

イスラエル民族はエジプトで430年間、本当に長い年月を奴隷として過ごしました。人権もなく人間らしさを否定されながら悲惨な生活を強いられました。それで彼らは涙と悲しみ、嘆きの中で神様を呼び求めたわけです。結局、神様は彼らの涙を見て、また叫び声を聞いて奴隷の生活から彼らを救い出し、出エジプトさせたということです。もちろん難しく大変な過程を通ったのですが、イスラエル民族は確かにエジプトから解放されました。これを霊的目で見ますと、私たちが罪の奴隷として過ごしていたが、ある日、突然イエス・キリストによって罪から解放され、自由な身となったことと同じです。だから使徒パウロは、ローマ8:1-2でこう告白します。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

皆さん、イスラエル民族は出エジプトしたら、すべてが終わったと思いましたが、実は苦しみと困難、大変さはそのときから、また始まったわけです。エジプトのパロ王は自分の奴隷だったイスラエルの労働力で城を築き、倉庫を建てたので、彼らがいなくなってから悔しい思いをし、後悔しました。だから兵士たちに彼らを追いかけるように命じたわけです。イスラエル民族は葦の海、紅海の海辺まで来たとき、追撃して来るパロの兵士たちを見てビックリしました。本当に恐ろしかったと思います。それでリーダーであるモーセを恨み、激しく抗議をして、つぶやいたのです。しかし神様の助けによって、イスラエル民族は海を陸地のように渡る奇跡を体験します。そして自分たちを追撃したエジプトの軍隊がみんな海に水没する、ものすごい光景を見たわけです。このようになってから、彼らの荒野の生活が始まります。

荒野の生活は決して簡単なことではありませんでした。しかしながらも、神様は食べ物がないときはマナとウズラを与えて下さいました。だからイスラエルの民は最初、驚きや神秘を体験し、感激したのですが、40年の間、同じものを毎日食べているため、感激も神秘もなくなっていったわけです。あるときは喉が渇いたと、あるときは肉が食べたいと恨み、つぶやいたのです。

それにもかかわらず神の恵みは続きます。昼には雲の柱で強烈な日差しをさえぎられ、夜には火の柱で砂漠の寒さを防いで下さいました。しかし彼らは神様に感謝どころか偶像を作って礼拝し、姦淫を行うことによって神様を試み、つぶやいた結果、荒野で滅ぼされた人々がたくさん出ました。このプロセスを通りながら、イスラエル民族は40年間の荒野の生活を終えたわけです。しかしそれが彼らの人生のすべてではありませんでした。彼らには行くべき目的地、彼らに与えられたカナンがありました。この地は神様がイスラエル民族のために用意して下さった約束の地です。彼らはこの地に入って、神様が願っておられる生き方をしながら、神様に栄光を返すべき人生でした。このイスラエルの使命をもって引っ張っていくリーダーがモーセで、その後継ぎがヨシュアになったわけです。この内容を取り扱う聖書がヨシュア記です。

皆さん、約束の地カナンはイスラエル民族が入るべき地であり、彼らが戦って征服すべき地です。つまり汗と血を流しながら開拓すべき使命の地でした。使命がある人には責任が伴います。私たちは神から選ばれ、救われた神の御民です。だからこそ、イスラエルの民のように私たちにも使命が与えられています。その使命が具体的に何であれ、ちゃんと果たして責任をとる、神の立派な兵士となってください。その報いとして約束されたカナンの地は、素晴らしいものです。

しかしイスラエルの民は出エジプトして、自由を得たのですが、彼らの目標であるカナンの地に入れず、荒野でさ迷い、信仰あるヨシュアとカレブ、また20歳以下を除いて、みんな滅ぼされました。本当に民族的な悲劇だったのです。

しかし今私たちクリスチャンの中でも、こういう悲劇は起きています。信仰によって自由を得ました。罪が赦され、神の愛と赦しの感激を味わったのです。本当に神の子どもとなりました。だから私たちには新しい目標、神から与えられた驚くべき約束が用意されています。それにもかかわらずいまだに揺れ動き、恐れと心配、思い煩いの中で迷っている人がいます。その迷いの場から立ち上がってください。そして約束されたカナンの地に向かって歩み出してください。私たちに約束された地は神様が保証された、確かなプレゼントです。今日の本文、2-4節に「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。

このように神様はその地が必ずイスラエルの民の地となると約束しました。 神の約束は必ずその通りになりますから、その地は必ずイスラエルの民の地となります。人間との約束は破られるときもありますが、神の約束は必ず守られますから、私たちはこの約束を信じ切る必要があります。もしこの約束が信じられないのであれば、私たちの信仰生活は無駄であり、何もない空しいことになります。だから主の約束を堅く信じて、前に進みたいと思います。万軍の主が私たちと共におられます。しかし、この約束の地は完全に完成した形、包装されたプレゼントではありません。今日の本文、5-6節のみことば「あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ

皆さん、もしカナンの地が完成されたもの、完璧に用意されているものであれば、そしてただ受け取ればいいものであれば、勇気と大胆さはいらないはずです。しかし、「強くあれ。雄々しくあれ。」と主がおっしゃった理由は、約束されたカナンの地は汗と涙、血の苦しみを通して得られる地だからです。神から与えられる約束の地は苦労なしには得られません。多くの苦しみに直面するから「強くあれ。雄々しくあれ。」とおっしゃったわけです。だから詩篇128:1-2節でこう言われます。「幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。」私たちは「自分の手で労働して実を食べるのが何の幸せなのか」と疑問に思うかもしれません。むしろ「全然働かないで食べて行けるのが幸せではないか」と思いがちです。しかし自分の手で働いて実を食べる喜び、その満足感は味わってない人は分かりません。

皆さん、労働してから食べる食事と、ずっと寝転んで食べる食事は、どっちがうまいと思いますか?言うまでもありません。働いた分を受け取るのが神の原理です。蒔いた通りに刈り取る原理が、まさに天国の原理です。これが一般の恵みです。神様は私たちにこの一般の恵みだけでなく、特別な恵みと祝福を豊かに約束してくださいました。しかしそれも自分の手で努力し、自分の手でチャレンジすることによって得られる恵みと祝福です。これが正しいクリスチャンの生き方です。

皆さん、歴史を見てください。血を流さずに得られた偉大なものは一つもありません。価値あるものはみんな涙と汗を流さずには得られませんでした。血は勇気の象徴であり、涙は真実さ、汗は努力のシンボルです。血と涙、汗が私たちに繁栄と幸せを約束します。このように約束の地は勇気と誠実さ、努力によって得られるものです。歴史の中には決して奇跡は存在しません。偶然もないし、運もありません。一生懸命に働き、誠実に生きる民族は必ず祝福され、リバイバルを体験しました。神様はイスラエルの民におっしゃった通りに私たちにもおっしゃいます。「約束の地を受け取りなさい。」このみことばは私たちの乾いた人生を豊かな人生に変えようとする神のみこころです。このチャレンジのみことばを素直に受け取ってください。そうすれば、必ず神の栄光を見るはずです。

皆さん、人生の中で一番不幸なことは愛のない生き方です。つまり自分の愛を注ぎ出せる対象がないのが一番悲しいことです。愛する人もいないし、愛する仕事もない、愛する祖国もない時、人間は人生の意味を失ってしまいます。空しさはいつ感じられますか?愛する対象がいない時、私たちは空しさを感じます。だから誰でも愛する対象が必要です。その対象によって自分の意志、感情、情熱を集中させることができます。飢え乾いた人が水や食べ物を切に求めるように、私たちは人生に対する飢え乾きを感じながら生きなければなりません。食欲が強い人は食事がいつも楽しく、おいしいのです。同じです。私たちは食欲が強い人のように人生を楽しく、美味しく生きなければなりません。

しかし愛する対象がいなければ、すべてのことに意欲を失い、呆然として退屈な人生を生き、何の希望と期待もないから、むしろ病気になってしまいます。そういう人は秋の落ち葉のように、いずれ落ちて死んでしまう哀れな人生となります。だから私たちはすべてのことに愛を、それも熱愛と熱意をもって歩まなければなりません。熱意は熱い意欲です。こういう意欲をもっている人は新しい創造力を発揮します。熱意、情熱、創造力、これらが偉大なものを作り出す原動力です。約束の地、カナンはイスラエルの民が戦って征服する地でした。しかし彼らは戦いを予想しなかったので、彼らがその地に入ったとたん、戦いが始まって戸惑いました。約束の地は戦いを通して、血と涙の苦労を通して得られるものでした。そのプロセスを通して乳と蜜が流れる地上の楽園を建設しなければなりませんでした。これは簡単なことではありません。だから私たちは信じながらも、座り込んで倒れるときがあります。

皆さん、今日私たちに与えられたこのみことばが、もしここで終わったのであれば、私たちは絶望して、あきらめるしかありません。私たちは弱いのに、敵はあまりにも強いからです。しかし神様は私たちを絶望のまま、ほったらかす神ではありません。今日の本文の5-7節に「あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである」イスラエルの民が戦いながらカナンを征服するのは大変な作業であることを知った神様は約束なさいました。「強くあれ。雄々しくあれ。」とおっしゃった後に「わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。」とおっしゃったのです。

これはヨシュアだけの約束ではありません。すべての時代を生きるクリスチャン達、主を愛するすべての人々に対する神様の変わらない約束です。神様がモーセを呼んだとき、最初モーセは断ったのです。「私にはそんな力はありません。それにふさわしい人をエジプトへ送ってください。」と。そのとき、神様はおっしゃいます。「行きなさい。モ-セ。わたしがあなたとともにいる。

ギデオンを呼んだときも神様は「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」とおっしゃいました。復活なさったイエス様は昇天される前に11名の弟子たちを集めて、マタイ28:19節に、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」とおっしゃいました。しかし弟子たちは当時、パレスチナの外に一回も出たことのない田舎の出身でした。当時は、世界の概念さえなかった時代です。しかし主は彼らに世界を委ねられました。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」弟子たちはお互いに顔を見つめながら戸惑ったと思います。「こんな、ちっぽけな私たちがどうやってそれができるのか」と。しかし、主は明確に約束なさいました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

皆さん、主がともにいらっしゃれば、何でもできます。主がパウロにも、この宣教の使命を与えて下さいました。しかしパウロはまだ心の中に恐れを持っていました。その時、主はパウロに現れ、こう言われます。使徒18:9-10「ある夜、主の幻によってパウロに、恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるからと言われた。」これは神様がともにいる人は苦しみを受けないという話ではありません。もちろん神様がともにいらっしゃる人も苦しみと危害を受けます。死の影の谷を歩くときがあります。それにもかかわらず、完全に滅びる者はいないということです。必ず立ち上がります。イザヤ書41:10「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

神様はご自分の民をみことばによって導かれます。だから私たちが歩むべき所もみことばを通して知恵を得、正しい判断ができるわけです。神様は私たちがどのように生き、どのように敵に立ち向かうのか、またどのように絶望を乗り越えて試練に打ち勝つことができるのかを、ちゃんと教えて下さいます。だから必ず約束の地、祝福の地を受け取られることを約束して下さいます。それを具体的に教えて下さる道具が、まさに聖書です。神様は今もなお、超自然的に教えることが出来る神様です。夢と幻を通して、また天から直接教えることもできます。しかし可能であれば、確かなみことばである聖書を通して教えたいと一番願っておられます。だから聖書を読むことが大切です。

神様はモーセがこの世を去ってから、イスラエルの民を導く新しいリーダーとして既にヨシュアを選びました。そして彼が確かな指導を受け、民を正しい方向へ導くことが出来るように、彼にメッセージを与えようとしたのです。だから彼が神の御声をちゃんと聞けるように、モーセを用いて神のみこころを記録させました。そしてモーセにそれを読ませ、「ヨシュアがちゃんと分かるように聞かせなさい。」と命じました。だからこのみことばによって生きるのであれば、必ず祝福されます。このみことばが聖書です。詩篇1:1-3「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
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