メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ヨハネの福音書13:1-20(イエス様のたらい)

投稿者
tbic
投稿日
2022-10-16 15:17
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ヨハネの福音書13:1-20『さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」』

今日の本文ではイエス様が先生として弟子たちの足を洗ってくださった、とても有名な内容です。この洗足式は、クリスチャンの仕えることの大切さとして、多くの人々が理解しています。もちろん、正しい理解です。しかしもう一つ、逃がしてはならない観点があります。この出来事は、イエス様がローマ兵士によって逮捕される前日の出来事です。聖木曜日の事件です。しかし本文の1節、3節を読みますと、イエス様はすでにご自分が父のみもとに、天に戻られることを御存じだったことが分かります。つまり十字架を負われることを、もうご存知でした。だからこの出来事は、イエス様の遺言のような最後の出来事です。最後に、意図的に見せるための遺言的なメッセージのある出来事だということです。

イエス様は上着を脱いでタオルを腰にまとわれ、たらいに水を入れました。そして弟子たちの足を一人ずつ洗ってくださったのです。その時、弟子たちが感じたのは、どういうものだったのでしょうか?多分、戸惑ったに違いありません。当時、人々の汚れた足を洗ってくれるのは奴隷の仕事でした。一番卑しいことだったのです。しかしそれを彼らの主であり、先生であるイエス様が取った行動でした。弟子たちがどれほど戸惑ったか、十分わかります。その戸惑いを理解するために、例えば、あるお客さんが万華鏡(温泉)に行って、あかすりをやっているマッサージ師を呼びます。そしてそのマッサージ師を横にさせて、お客さんがマッサージ師にあかすりのマッサージをやり始めます。その時、感じるマッサージ師の戸惑いは、わかりますよね。役割が逆になっているからです。常識はずれたことだから、みんなが戸惑うと思います。そんな戸惑いを弟子たちは感じたと思います。彼らはぼんやりして、イエス様から足を洗わされたのです。

しかしペテロの順番になって、ペテロはそのまま黙っていられませんでした。本文の6節に、「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」これはどういう意味でしょうか?「私たちはあなたを神の御子として、この世の救い主として信じたのに、そんな尊い方がどうして私の足を洗うのですか?」こういう反問でした。そして本文の8節に、「決して私の足を洗わないでください。」つまり主が自分の足を洗うことは道徳上あり得ないこと、到底受け入れがたい、とんでもないことだということです。ある意味では礼儀正しい発言だと思います。やはり一番弟子らしい素晴らしい反応でした。しかしイエス様の反応は正反対です。8節の後半に、「イエスは答えられた。わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」むしろイエス様は関係の断絶をおっしゃいます。これが今日の本文を解き明かす、とても大切なカギとなります。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」今日はこのみことばの意味が何か、主が弟子たち(私たち)に伝えようとするのは一体何か、それをまず考えてみたいと思います。

皆さん、人間は3種類の人間がいます。ちゃんと愛を与える人と、受けることばかりをする人、そして愛を与えることも受けることもせず、自分一人で生きようとする利己的で高慢な人、この3種類の人間がいます。今ペテロの態度はどちでしょうか?三番目の利己的で高慢な態度です。ペテロは自分の意志が強い人で、自分の基準を持っています。だからイエス様の意図が、どれほど素晴らしいことであっても、自分の判断、自分の基準に合わなかったら、拒絶します。イエス様の愛が、どれほど大きいものであっても、自分の基準に合わなければ、その愛を受け入れません。これがペテロの態度でした。

実際に私たちも、イエス様を信じながらも神のみことば、神の愛より、自分の判断と自分の基準をもって、むしろ主に逆らうことがたくさんあります。だから今日の本文が強調するキーポイントは何ですか?「あなたがたは神の子どもとなって、神に用いられたいのか?そうしたら、一番最初にやるべき先行条件がある。それは何か?まず、神の愛と神の助け、溢れる恵みを神から受けるべきだ。」ということです。その時、始めて用いられる器となります。これがキーポイントです。

ある人は自分の力でやると。神の助けを全然求めません。これは神の御前で高慢であって、決してクリスチャンの姿ではありません。ルカの福音書15章には放蕩息子の話が出てきます。お父さんの財産をもって外国に行き、放蕩のまま、ゆみずのように財産を使い果たしました。結局豚小屋で豚と共に過ごしながら、こういうふうに生きるのなら、むしろ父の所に帰って雇人の一人として過ごしたほうがましだと思って、父の所に戻って来ます。しかしお父さんは彼を雇人ではなく、息子として迎え入れます。肥えた子牛をほふって祝宴を開き、彼の手に指輪をはめさせ、一番良い着物を着せたのです。そうしたら、誰が本当の息子ですか?お父さんがそうするとき、申し訳ないのですが、受け入れるのが本当の息子です。あつかましくずうずうしいのですが、お父さんの恵みを受け入れるのが本当の息子です。

しかしもし、反対に行動したとすれば、どうですか?「お父さん、私は罪を犯しました。だから私はお父さんの息子にはなれません。」と。最後の最後までしもべを主張するなら、それは本当の息子ではありません。この帰ってきた放蕩息子はお父さんの愛を受け入れること、もちろんこれは痛みと恥ずかしさが伴います。自分の兄にも申し訳ないことであり、家のしもべたちにどれほど恥ずかしいことでしょうか。しかしその恥ずかしさ、申し訳ない心でもお父さんの愛を受け入れること、これが本当の息子であり、謙遜です。私たちも神の御前で、こういう態度が必要です。

この物語は、実は私の告白であり、皆さんの告白です。私も人間として人格の足りなさをいつも感じているし、失敗を繰り返す人生です。特に夫婦喧嘩をするとき、それが実感できるわけです。夫婦喧嘩をしてから、次の日が主日で、教会に来てメッセージをするとき、一番最初に感じるのは恥ずかしさです。次に恐ろしさですが、妻が私をじっと見つめているわけです。メッセージでは愛し合いなさい、仕えなさいと言いながら、生きる時は反対に生きるのです。そしてまた、教会に来て同じメッセージを繰り返します。「あの人は本当にあつかましい人だな。」と言われるかもしれません。でも、私も恥ずかしいです。そのあつかましさは、自分で分かります。それにもかかわらず毎週メッセージを伝える理由は何ですか?天の父が伝えなさいと、みことばをちゃんと伝えなさいと主がおっしゃるからです。その時、同じ罪人の立場でみことばを伝えること、これが真の息子です。

だから信じる者(信者)とは何を意味するのでしょうか?どれほど弱くて足りなくても、その弱さをもって、ありのまま主の御前に出る者です。ここにいらっしゃるすべての方々は、弱さと足りなさをもっていても、ありのままイエス様の前に出る者となってください。それが真の息子、娘です。イエス様は、ペテロが自分の足を絶対に洗ってはならないと言ったとき、そうしたらあなたはわたしと何の関係もないとおっしゃいました。だからイエス様を信じるクリスチャンの人生とは何でしょうか?イエス様と関係のある人生、かかわりのある人生だということです。言い換えれば、私たちのすべての人生において、イエス様のあたたかい愛のかかわりと、愛の助けを体験すること、これが真のクリスチャンの人生です。

たまに、ある人々の伝記を読みますと、イエス様を信じる人と、信じない人との差がすぐ分かります。イエス様を信じない人々は、どれほど素晴らしくて出世したとしても全部自分しかありません。自分が努力して、うまく行き、熱心に頑張ったから成功した、と偉そうに振る舞うのです。ただ自分が強調されます。だから伝記を読みながら、むしろ腹が立ちます。読みたくなくなって、本を投げ出したくなります。しかし反面、イエス・キリストの恵みの中で成功した人はいつも謙遜ですし、すべてのところでイエス様の愛の手が感じられます。「私は主から離れて、世の中でさまよったのですが、主の愛の手が私を助けてくださいました。ほとんど死ぬところだったのですが、主が私に訪ねて来られて救い出し、いつも恵みを与え、慰めてくださいます。」こういう告白ばかりです。だからこういう人々の成功は彼らの力ではなく、主の恵みだったということが分かり、彼らに対する尊敬より神の恵みと愛がもっと深く感じられるわけです。これが真のクリスチャンの姿です。だから私たちも「神の恵みによって、私は今の私になりました。」と告白したパウロの告白、それが私たちの告白でなければなりません。

皆さん、誰が一番愛のできる人生を生きられるのでしょうか?たくさんの愛を受けた人です。だから私たちは神の御前で、たくさんの愛を受けることが財産です。では、どの教会が強い教会ですか?神の愛をたくさん受けた教会が強い教会です。だからイエス様の弟子たちも、イエス様から訓練を受けた人々ではなく、イエス様から特別な愛を受けた人々であることを、忘れてはなりません。愛をいっぱい受けたから、弟子たちはその愛に感激して、キリストの愛を伝える者となったのです。こういうふうに愛を受け、感激しながら生きる存在が私たちクリスチャンであり、イエス様の弟子です。だから私たちが何をしても、どんなことがあっても、まず必要なことは、イエス様の愛を体験することです。

皆さん、イエス様の愛をいっぱい体験してみてください。人生が変わります。そうすれば、奇跡の人生が自分の人生となります。こういう神の愛をいっぱい体験した人々がこの世に入ったら、どんなことが起こるのでしょうか?

ルカの福音書22章には今日の本文の背景と同じ記事が出てきます。つまり、イエス様の洗足式が行われる前に皮肉なことですが、弟子たちの中では誰が一番偉い弟子なのかという論争(喧嘩)が起きました。その喧嘩に火をつけた人はヨハネとヤコブの母サロメだったのです。彼女は思いました。「イエス様が過ぎ越しの祭りをきっかけにユダヤ人の王様になるんだ。」と。こういうふうに推測したため、彼女は悩みました。なぜかというと、二人の息子ヨハネとヤコブのためでした。イエス様の3年半の公生涯の期間、弟子たちの中では地位のランクがつけられていました。一番トップの弟子がペテロ、そしていつもイエス様が3人を連れて行ったのですが、ペテロのほか誰ですか?ヨハネとヤコブでした。この3人がいつもイエス様の身近にいて、微妙な競争を繰り広げたわけです。だからヨハネとヤコブの母は、こういうふうに思ったのです。もしイエス様が王様になるのであれば、確かにトップの弟子ペテロがイエス様の右の方に、そして左の方にはヨハネなのかヤコブなのか、本当に疑問に思ったわけです。だからじっくり考えたら、心が痛かったのです。二人の息子の中で、一人だけが左の方に立てられ、一人は除外されるのが本当に辛かったのです。だから悩んで悩んで、結局、割り込みを試みて、イエス様に頼んだわけです。これがマタイの福音書20:20-24の内容です。つまりペテロを除外させて、自分の息子の一人は右の方に、もう一人は左の方に座らせてください、と割り込みを試みたということです。

そうしたら、その話を聞いていたすべての弟子たちは、ものすごく怒りました。ペテロの怒りは爆発の寸前で、他の弟子たちもものすごく怒ったわけです。そういう険悪な雰囲気の中で、弟子たちの嫉妬や妬みのために喧嘩する寸前の緊張したところで、イエス様がたらいに水を入れ、それを持って来られて、弟子たちの足を洗った出来事、それが今日の本文の背景です。

皆さん、この世の中で生きる論理がみんなこれです。互いに誰が一番偉いのか、その戦いです。だから世の人々はその緊張のため、夜になるとお酒を飲まずにはいられません。眠れないからです。一日中競争と緊張、また自分を見つめるたくさんの目のため、その緊張を和らげるために、夜になると自分の身をお酒に投げ出します。これがこの世の姿、この世の秩序です。

しかし神の御民がこの世に入れば、どんなことが起こりますか?世俗の秩序が全部破られます。先頭に立とうとする競争の論理から仕える論理に変わります。皆さん、考えて見てください。イエス様が足を洗った時、どんな雰囲気だったと思いますか?みんな緊張したのでしょうか?いいえ、多分弟子たちは恥ずかしかったと思います。その時、彼らは「あ!イエス様のように仕えることが弟子の本来の姿だ。」と悟ったに違いありません。その時まで支配していた世俗の論理が、一気に消え、仕える姿に雰囲気が変わったと思います。だから私たちクリスチャンがこの世を変化させる論理は、仕えること、犠牲の論理です。そのため主が、私たちを呼ばれたということです。

皆さん、聖書を読みますと、二つのたらいが出てきます。一つは今日の本文に出るイエス様のたらい、もう一つはポンテオ・ピラトのたらいです。このピラトのたらいは、どんなたらいですか?イエス様を十字架につけるように渡して、自分はそれに一切責任を取らないと手を洗った責任回避のたらいでした。義人の血を洗った犯罪のたらいです。これは自分だけは生き延びたいという利己的なたらいです。この世を見ますと、まさにそういう人ばかりです。ある問題が起きたら、責任を取る人が誰もいません。みんな他人のせいにして、自分と何の関係もないとみんな逃げます。ピラトのたらいにみんなが手を入れています。

しかしイエス様は、たらいに水を入れて仕えました。汚いものを洗い落とす、清めるたらいでした。だからすべての信仰ある者が持つべきたらいは、このイエス・キリストのたらいです。愛する皆さん、愛のない所に愛をもって行きましょう。祈りのない所に祈りの火をつけましょう。賛美のない所に自分が先に賛美の声となり、伝道のない所に自分が伝道の扉を開くこと、これが私たちの使命です。

だからイエス様を信じる人々は周りの環境に左右される人々ではなく、むしろ環境を変化させる人々です。これをちゃんと覚えて、私たちの周りにある、すべての世俗の雰囲気に、恵みの火をつける、尊い神の人になってください。イエス様は私たちクリスチャンをキリストの香りだとおっしゃいました。香りのないものは偽物です。本当にいのちあるものは香りを放ちます。だから私たちが行く所ごとにおいても、イエス様がなさった犠牲のように、仕えてキリストの香りを放つ者になりたいと思います。
合計 144
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
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ヨハネの黙示録14:14-20(愚かな人生を生きてはならない)
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ヨハネの黙示録12:10-12(終末の時は悪魔がもっと賢い)
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ヨハネの黙示録7:9-14(神様から祝福より、認められよう)
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ルカの福音書5:27-32(天の御国にゴミ箱はない)
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創世記22:1-8「苦しみ(十字架)を受け入れれば、素晴らしい逆転(復活)がある。」
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ヨブ記6:21-27(慰めの秘訣)
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ヨハネの福音書16:25-33(わたしはすでに世に勝ちました)
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ヨハネの福音書 14:1-5(変えられた言葉が新しい人生を造る)
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