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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ヨハネの福音書13:34-35(互いに愛し合いなさい)

投稿者
tbic
投稿日
2022-10-23 22:50
閲覧数
216
ヨハネの福音書13:34-35「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

私たちは神様が受け入れて下さる、すべての人々をみんな認めなければなりません。この世には自分と国籍や教派が違っても、神の子どもとして受けいれられた、たくさんの人々がいます。そして私たちももちろん、同じ神の子どもです。そうしたら、私たちは神の子どもとして受け入れられた、彼らをちゃんと認めて受け入れ、尊重しなければなりません。排他的になってはなりません。

しかし現実を見てみますと、彼らも神の子どもなのに、ただ教理の違いや、ある特定の分野での違い、また教団の差のため、互いに壁を作って、あまり関わりしないで過ごしています。例えば、カトリック教会の中でも、私たちと教派と教理は違うのですが、彼らの中にはイエス様を信じて、救われた真のクリスチャンがいるはずです。

もちろん、私はカトリック教会の教理については、たくさんの部分同意しません。マリヤを救い主として崇拝したり、どんな宗教でも救いはある、という宗教多元主義に開放的な態度など、私はそれには同意できません。しかしその中に、信者たちの中では本当にイエス様を信じて、生まれ変わった、真のクリスチャンになった神の子どもが、必ずいるはずです。私は彼らに対しては、ぜひ愛をもって同じ神の子どもとして受け入れ、交わりできることを、切に願います。

皆さん、ただ教理的問題のために、同じ神の子どもであり兄弟姉妹が、互いに喧嘩をし、排他的になることは聖書的ではありません。私たちは後に、みんな神の裁きの座に立つわけですが、その時、神様は私たち一人ひとりを、それぞれに教理的問題をテストしないと思います。ただ私たちの心の真実さと、私たちの真実な信仰によって、神の子どもと、そうでない者たちが区別されると思います。それは今、現実にも同じです。

皆さん、教理とか教派の信条は、ただ知識的問題で、頭の問題です。教理と信条が正しくても、心と信仰の真実さがなくて、天国へ入れない人がたくさんいると思います。反対に、教理と信条が弱間違っても、神様は彼らの心と信仰の真実さ(正しさ)を見られ、神の子どもとして認めてくださり、天国へ入れられる人もたくさんいると思います。

カトリック教会とともに、もう一つの論争になるグループはカリスマ派、つまりペンテコステ派の人々です。いわゆる、聖霊を強調する聖霊派です。しかし彼らも私たちのように、生まれ変わった信者であり、神様が彼らをちゃんと受け入れられたということを、私たちはもう知っています。そうしたら、私たちも彼らを受け入れ、互いに愛し合い、壁を作ってはなりません。聖霊についての意見の差、聖霊運動に対する態度は、教理の差があるように、それぞれの気質によって、異なる可能性があります。

私たちは彼らと聖霊論とか、聖霊運動についての理解が異なるかもしれません。しかしそれは多様性として認めるべきであって、そのため、互いに喧嘩をし、背を向けることは神のみこころではありません。

私たちは彼らと一緒に働かなくても、彼らも私たちのように神様から受け入れられた兄弟姉妹であることをちゃんと認め、彼らを直接助けることはできないのですが、ただ見守って上げればいいと思います。神様が受け入れて下さった兄弟姉妹を、私たちと違うという理由で、非難したり、背を向いて排他的になれば、それは神のみこころではありません。最近、お互いに異端に定める争いが多いのですが、もし自分が異端として罪に定めた人が、後に天国に行って自分と出会うのであれば、神様から相当叱られて、はずかしめられると思います。

皆さん、私たちのキリスト教会はお互いに教団と教派、信条と教理が違うのですが、それぞれ神様が私たちを呼ばれた領域で、自分の使命を全うしています。もちろん、彼らと一緒に公式的に働くことには大きな壁があり、とても無理ですが、それにもかかわらず私たちは、お互いにその存在を認めなければなりません。神様から受け入れられた信者は、私たちも受け入れなければならないからです。もちろん、違う信者同士が一つの所に集まって、一緒に礼拝する必要はありません。そして必ずしも、お互いの異なる教理を、無理やり合体して一つにする必要もありません。イエス様が、「そういうふうにしなさい。」と命令したことはありません。しかしイエス様ははっきり、こう命令しました。「あなたがたは、互いに愛し合いなさい。」と。

私が他の地域に行って、その地域の教会で教会のメンバーと交わりをする時、私にこう質問する人がいます。「あなたの教会は毎週、聖餐式を行いますか?」と。そうしたら、私はこう考えるのです。「あ、この教会は多分、毎週聖餐式を行うBrethren Church(兄弟教会)だろう。」と。間違いないのです。そして、「あなたの教会はみんな異言で祈りますか?」と聞かれると、私は、「あ、この教会はペンテコステ派の教会だ。」と。やっぱり間違いありません。また、「あなたの教会では、姉妹たちがみんな頭にベールをかぶりますか?」と聞かれたら、「この教会はメノナイト教派だ。」と、すぐ分かります。しかし残念ながら、こういうふうに聞かれたことは一度もありません。「あなたの教会では、みんな愛し合っていますか?」と。問題はただ教派とか、伝統的特徴を聞くだけで、キリスト教の本質に関しては、一切聞きません。本当におかしいのです。

皆さん、イエス様は今、私たちのように、教理とか信条を教えられたことは一回もありません。ただ一つ教えられたのは、今日の本文のヨハネの福音書13:35、「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」と。つまりイエス様の弟子となる条件はただ一つ、「互いに愛し合うこと」です。しかし今日私たちはその大切な新しい戒め、「互いに愛し合いなさい」という命令を忘れて、人間が作り出した教団、教派の差、教理と伝統の差で互いに喧嘩をし、排他的になっています。

皆さん、「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」という、このみことばが、今のすべての教理と信条、伝統的排他性を超越する、イエス様の信条と教理にならなければなりません。

今日の本文をもう一度読みます。ヨハネの福音書13:34-35、「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。

またヨハネの福音書15:12、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」15:17、「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。

テサロニケ第一4:9、「兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。

テサロニケ第二1:3、「兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです。なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。

ペテロ第一4:8、「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

ヨハネ第一3:11、「互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。」3:23、「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。

ヨハネ第一4:7、「愛する者たち、私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」4:11-12、「愛する者たち、神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

ヨハネ第二1:5、「そこで夫人よ。お願いしたいことがあります。それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。

聖書に、こんなに多く「互いに愛し合いなさい」と命じているのに、もし私たちが、神様から認められ、受け入れられた一人の小さい者を受け入れなければ、私たちは信仰生活において、遅れている者、信仰の失敗者となってしまいます。

彼らの教理と信条、伝統に、私たちが同意する必要はないのですが、彼らもイエス様を信じて、イエス様を愛するのであれば、私たちは互いに愛し合うことができます。愛は心の問題だからです。

例えば、私が必要な物を買うために、あちこち店に行ったとしましょう。店に行って、いろいろな物を見るのは、無料です。誰が何と言っても、それはただです。しかし、私が物を買うときは、必要な物を一つか二つを買います。私がその店の物を全部買う必要はありません。ただその店は、私に必要な物、いくつかを売っているから、私がその店に行って買うわけです。もちろんその店は、私に必要でない物も並べて売ります。そうしたら、私に必要でないお酒やたばこを売っているからといって、私がその店に行かないわけではありません。この意味、分かりますよね。

私はマザーテレサから貧しい人々への愛を、ビリーグラハムから福音伝道への情熱を見ました。しかし私は彼らのすべてのところに同意するわけではありません。とにかく、私たちは神の子どもとして、互いに愛し合い、尊重しなければなりません。

皆さん、「互いに愛し合いなさい。」という戒めより、私たちの教理とか信条、伝統がもっと上になってはなりません。そして、もし彼らが神様から受け入れられた神の子どもであれば、私たちが彼らを認めなく愛さないことは、自ら私たちの価値を落とす、間違った選択となります。それは確かに成熟していない愚かな信者です。

もちろん、「自分の信条と教理を捨てなさい。」ということではありません。ただ自分が真理として受け入れた教理を持って、神様から呼ばれた所で熱心に仕えてください。しかし神様から受け入れられた他の兄弟と姉妹に対する態度が、排他的になったり、霊的高慢になって彼らを無視したりすることなく、心の扉を広く開けて、開放的になってください。その時、主が再び来られる日に、私たちは悔いのない人生となります。この広い愛の心を持って、私たちの一生を全うしたいと思います。
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