メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

イザヤ書40:9-11(良い知らせを伝える者)

投稿者
tbic
投稿日
2022-11-13 19:25
閲覧数
335
イザヤ書40:9-11『シオンに良い知らせを伝える者よ、高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ、力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ、あなたがたの神を。」見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の御前にある。主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。』

福音」とは、どういう意味かというと、「良い知らせ」です。私たちは教会に来て、神からの良い知らせを聞きます。私たちの神様は悪い方ではありません。良い知らせを私たちに届けてくださるお方です。「福音」という言葉が、どのような言語的意味を持っているかというと「福音という言葉は、古代ギリシャ、ローマの世界では、結婚など何かに関する良い知らせを宣言するもの」です。元々、ギリシャとローマの世界で使われていた言葉でした。では、どのように使われていたのかというと、「良い知らせをふれ回る」という意味でした。

今日読んでいただいた、イザヤ書40章は9節から『シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。』とあります。高い山に登って「良い知らせがあります!」と、大きな声で宣言するのが、当時使用されていた「福音」の意味です。福音とは「宣言」です。良い知らせを高い山に登って、より多くの人々に宣言する、すべての人々に届くように宣言するという意味です。

今は受験のシーズンに入って、良い知らせを待っている人々が多いわけですが、私は受験生のために祈る時、いつも主から与えられた祈りをささげます。自分の受験のときも、そう祈ったのです。普通は「受かるように祈ってくれ」と言われたら、どう祈りますか?「どうかこの子が受かりますように」と真剣に祈ります。しかし私の祈りは、この子が受かると、他の誰かがすべるわけですから、すべる子は、きっと部屋の片隅で、うずくまって泣くはずです。私が祈っている子が受かることはすばらしいけれども、どこかで泣く子が発生するわけです。それで何を祈るのかというと「受かる人によって、すべる人の人生が、おかしくなり、人生を悲観して自分をダメにしたりとかしないように」と、すべる人の守りと祝福のために祈ります。その祈りが良かったのか、結果はいつも満足でした。主は、私たちに良いことをしてくださいます。私たちは管理人です。すべての領域で良い知らせを宣言することは「福音」であり、重要なことです。これから願い事があったら、自分だけが良ければいいというのではなく、自分が受かった場合、すべった人々の祝福を祈ってください。そのように祈られたら、神様も自分の祈りを聞かざるを得ないはずです。

私たちは「福音」という言葉をよく使うのですが、マルコの福音書16:15に『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』これは私たちに与えられた、イエス様からの一大命令です。「福音を伝えなさい」です。しかし、福音そのものの理解が、案外あいまいで、教会は「福音を語っていますよ」と言っていますが、案外、正しく受け入れられず、理解されていないのが現状です。福音を伝えても、なかなか伝わらない原因が、そこにあるのではないかと思います。コロサイ人への手紙1:6『この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。

福音はイエス様によって完成されたのですが、2000年の歴史の中、語り続けられ、私たちの所まで来ています。しかしイエス様が始められ、初代教会の弟子たちが語っていた福音と、現代の教会が語っている福音が、イコールかどうかは別問題なのです。つまりイエス様が告げられた福音を、また弟子たちが語っていた福音を、今日の福音としないと、本当の意味で、福音を理解していない事になります。そのため、福音が広がらないというわけです。

福音の再発見』という本がありますが、そこに「なぜ多くのキリスト者が今日、教会を去ってしまうのか?」とありました。すばらしい福音を聞いたはずなのに、教会を去ってしまう人々が多いというのです。その理由に、福音の一部を、福音のすべてと勘違いしているのではないか?という指摘でした。今まで教会は「イエス様を信じたら救われる。これが福音のすべて」としていたというのです。イエス・キリストを信じたら永遠のいのちが与えられるから、こんなすごいことはありません。今日ここにおられるすべての方が、イエス・キリストを信じるなら、皆さんのいのちは決してなくならないはずです。そして、やがて「地球から天国に避難できる」のです。イエス様を信じたら救われ、この苦しい世から逃れて、宇宙の彼方にある天国に避難できる、という理解です。しかし信じなかったら、地獄の火で燃えてしまうぞ、という恐ろしい面もあります。これらも聖書が述べていますから、間違いではありません。しかし教会は「これが福音のすべて」であり、「人間の救いこそ、福音なんだ」と理解してきました。

しかし聖書をよく読むと、福音とは「全宇宙、地球、自然、すべての生物、社会制度、被造物全体の回復」と教えています。しかも人類は、被造物全体の回復のために、管理人として創造されたというのです。だから、人類の救いが重要なのです。クリスチャンは何をするのか?それは本来、人に与えられた役割のために働くということです。詩篇8:3-9、「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。

人とは何者なのでしょう。」という問いに対する答えがここにあります。人とは神に次ぐ存在として造られたのです。神は天の高い所から、地のどん底まで、どれほど多くを創造されたのか分かりません。しかし神が造られた被造物を、なんと「人の足下に置かれた。」というのです。それはなんのためでしょうか?神が造られたものを人が管理する為でした。人間は、神の代理人として、万物を神から委託されているのです。

福音の再発見』という本を読んだら、人間はどういう存在かについて語られていました。著者スコット・マクナイトさんは、優秀な神学者です。特に新約学、初期のキリスト教史、史的イエス研究で高名な学者です。彼はイエス様が地上におられた頃の社会的状況とかを、よく研究している人で、聖書が告げる福音がどのようなものであるのかを、詳しく調べたのです。結論として現代の教会が語っている福音と、聖書が告げている福音を照らし合わせると、結構違うということに気づいたわけです。もしも現代の教会が聖書の時代と違った福音を伝えていたら、いくらクリスチャンになったとしても、教会から去ってしまう結果にもなりかねないというのです。

彼はこのように記しています。「人間の責任は、神、自分自身、他者との間に関係を持つことであり、また神と共に支配するものとして、神の宇宙的神殿における、神の臨在の仲介者として、世界と関わることである。」少し難しい表現ですが、気が遠くなるような宇宙規模の福音が表現されています。神の神殿は、全宇宙に広がっているわけですが、その臨在の仲介者として、人は世界と関わる存在だというのです。神と人との間にも、自分自身に対しても、また他者との間にも、私たちが管理人として、神から委託された権限を行使する役割として造られたのです。今まで「福音を伝える」という理解は、ただ単に、人が天国に行って地獄に行かないように、救い主を紹介することが福音だと考えていましたが、それだけではないのです。福音を宣べ伝えるとは、被造物全体に対する視点が必要です。

一人ひとりの職業は、何らかの回復のためにあります。人々の生活がよりスムーズになるため、豊かになるように、何らかの問題解決の手段として、職業はあります。ということは、福音を伝えるとは、会社に行って周りの同僚たちにイエス様のことを話してあげることも福音宣教ですが、「関わっている仕事そのものが、何らかの回復のためにあるならば、福音宣教そのもの」です。一人ひとりが遣わされた場所で、「ここが私の宣教地だ」という意識で、福音を宣言するのです。今日、ここにおられる全員は宣教師であり、私しか登ることが出来ない山と、入ることができない領域があります。その場所を管理し、福音を宣言する役割が私たちに与えられているのです。

イエス様の十字架は、人類の罪の身代わりだけではなく、万物との和解と回復のためでもありました。コロサイ1:20、「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」そして、イエス様の十字架の血は、人間のためだけではありません。万物と神との間の壁を砕いてくださったのです。ローマ8:18-22、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしていることを知っています。

やがてイエス様がこの地上に帰って来られ、新しい天と新しい地が創造される時、被造物全体が栄光の中に入れられる日が来ます。神が造られたものすべてが、その日を目指して共にうめき、産みの苦しみをしているというのです。これが現代社会です。世界にいろんな問題が起こっていますが、ある意味、被造物全体の産みの苦しみです。そんな中、私たちクリスチャンが何をすべきか、それは主がいち早く帰って来られ、王となってくださることを祈り、そのために働くことです。

先ほど読んだローマ8:22を、リビングバイブルで読むと、このようになっています。「動物や植物のような自然界のものでさえ、このすばらしい日を待ち望みながら、病気や死の苦しみにうめいていることを、私たちは知っています。」人間だけが苦しんでいるように思うかもしれませんが、そうではありません。今の時代、被造物全体がうめき、苦しんでいるのです。しかし、イエス様が帰って来られる日が、被造物全体の解放の日です。その鍵を持っているのが、他でもない教会であり、クリスチャンです。福音を宣べ伝えるとは、天地創造から、新しい天と新しい地の創造に渡る物語のすべてを宣言することです。そして、初代教会はこれを福音としていたわけです。

しかしそれが今の時代は変わってしまったとマクナイトさんは語っています。『福音の再発見』の中で、こんな記述もありました。「救いの文化と福音の文化は同じではない。救いの文化が福音の文化と同じだと考えるなら、福音の真の意味や、福音の文化が私たちの世界に、今どのような意味を持ち得るのかという認識を、著しく欠くことになる。聖書に戻り、もう一度福音の文化を発見し直し、福音の文化を教会の中心に据える必要がある。

考えてみれば、現代の教会の文化は「救いの文化」です。魂が救われるという、人の救いを中心軸とした文化形成が行われています。教会の一年の活動といったら、人々が教会に来て、永遠のいのちを持つために、礼拝も、様々な集会も、救いを中心に計画が立てられます。そうすれば、その概念を中心軸とする文化が形成されます。しかし、これではいけないというのです。救いの文化と、福音の文化は同じではないというのです。私たちは福音の文化を、教会の中心に据えなければなりません。使徒パウロは、どのような福音理解をしていたのかというと「その核心においては、偽りの神々に対抗する真実の神を宣言するものだった」というのです。

エレミヤ書10:11、『あなたがたは、彼らにこう言え。「天と地を造らなかった神々は、地からも、これらの天の下からも滅びる」と。』パウロが持っていた福音理解は、「偽りの神々に対して、本物の神を宣言する。」それが、福音だったわけです。それは福音であり、霊的戦いそのものです。日本には、偽りの神々が満ちています。そんな中で「イエス・キリストを信じます」と宣言することは、時には大変ですが、それは福音宣教そのものです。多少、迫害があったとしても、福音を宣言する時、主が喜んでくださるわけです。

NTライトという有名な神学者がいますが、彼は「福音とは何か?」に関して、次のように言っています。『紀元一世紀の文脈における「福音」という言葉は「宣言」を意味した。それは、主は王であるという宣言であり、同時に「ローマ皇帝カエサルは王ではない」という宣言であった。』紀元一世紀頃、イエス様がお生まれになった頃、イスラエルはローマ帝国の支配下にあり、植民地でした。そんな中、「主は王である。イエスは救い主だ」という宣言がどのような意味を持ったかというと「ローマ皇帝カエサルは王ではない」という宣言だったのです。更に、当時はギリシャ神話の神々や、ローマ神話の神々が満ちていたのですが、そんな中で「イエスは主であり、神である」という宣言は、当時の社会的環境に対する挑戦だったわけです。

現代の教会がこのような時代にあって、同じ福音理解を持っているかといったら、そうではありません。あまり問題を起こさないように、少しは妥協しながら福音を伝えましょうというところがあります。しかし初代教会ではそうではなく、命をかけて福音を伝えていたのです。パウロにとっての福音は、こんなふうにも書いてありました。『パウロにとっての福音は、「救いをもたらすイエスの物語」であり、それは「旧約聖書に記されている通り」に、イスラエルの物語を完成させるものである。福音を宣べ伝えるとは、「この物語を宣言する」こと。

旧約聖書には、やがて救い主が現れて救いをもたらすという預言の書でもありました。預言の通りにイエス様が来られて、旧約で預言されていた事柄を成就され、宣言されました。つまり一世紀頃のクリスチャンは、どのような福音理解を持っていたかというと、旧約聖書全てのストーリーと、イエス様が地上でなされたすべてのストーリーを一つとして「それ全体が福音」として、受け入れていたわけです。

そして旧約聖書から、新約聖書にいたる壮大なストーリーを宣言することが「福音」でした。これは重要な視点です。紀元一世紀頃の福音とは「聖書に記されているイスラエルの物語の成就としてのイエスの物語だった」というのです。「この福音の物語が、初期のキリスト者たちの文化を形づくり、枠組みとなった」のです。「救われた人たちとは、イエス・キリストの福音の物語を受け入れた人たちであった。福音の文化の中で、救いの文化というサブ・カルチャーが生まれた。」のです。

今はどうでしょうか。サブ・カルチャーのほうが中心となって、福音の文化は影を潜めています。旧約聖書から新約聖書、全体のストーリーが福音です。それをそのまま宣言するのが、福音を伝えることです。簡潔にいえば「天地創造から、新しい天と新しい地の創造」という、神の物語を宣言し、それをとどめる暗闇の力に対する挑戦です。福音とは、ただ単に人間の救いと捉えていてはいけません。被造物すべての解放です。

ダラス・ウィラードという有名な神学者は、現代人の福音理解を、「罪を処理するための福音」と表現しながら、おもしろく話しています。『神がバーコードスキャナーを持っており、私たちが正しいバーコードを示すならば、天国に行ける。「罪を処理するための福音」ではキリストの役割はもっぱら、人類を贖う事だけで、他にさしたる重要な働きはない。人々はキリストのわずかばかりの血を求め、あとは天国に行くまでイエスと何の関わりも持つ気はない、吸血鬼クリスチャンを育ててしまった。

イエス様を信じたら、バーコードをもらい、死んだ時、天国の入り口ゲートでバーコードをかざすと、チャリーンといって、ゲートが開き天国に入ることができる、これが福音だと考えている人が多いという指摘です。しかし福音とは、宇宙規模のもので、神の被造物全体の回復に通じるものです。その使命が与えられているのが人類です。人類が回復されなければ、他の被造物は回復に至りません。まず私たち人類が救われるべきです。私たちはスタートラインに着いて、万物の管理人として、遣わされた領域で福音を宣言することが使命です。

イエス様はご自分のミッションをはっきりと神の国に結びつけておられました。イエス様は神の国が歴史の中に、はっきり表れると、「神の国は近くなった。」マルコの福音書1:15は「すっかり近くなった。」「とても近くなった。」という意味で、イエス様は「しかしわたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのであれば、もう神の国はあなた方の所に来ているのです。」と言われました。ここで使われているギリシャ語は「今ちょうど出会った」という意味です。ここで、イエス様は、明らかに「悪霊追い出し」を、「長い間待たされていた神の国の到来の現れ」として考えていたということです。

これからTBIC教会は、更に霊的戦いが激しくなると思います。イエス様から言わせれば、ある意味で「神の国の到来」です。この戦いを続けて行くならば、主の再臨につながり、新しい天と新しい地の創造につながるわけです。だからこそ、今与えられている福音の豊かさを回復し、聖書に述べられている全福音を受け取って、宣言する者にならなければなりません。今まで私たちは、一人でも多くの人々が主を信じる決心をして、地獄の火から救われるようにという働きでしたが、この働きだけで終わってはいけません。福音の全体像を理解しないといけないのです。

創造から始まり、新しい天と新しい地を創造するという、全体のストーリーが福音です。これを人々に投げかけなければなりません。ただ十字架の血を吸血鬼のように吸って、バーコードをもらって天国に入るというのは、福音の全体ではありません。これは縮小された福音であり、この路線で走っても、神の国は広がらないのです。なぜ福音はこんなに縮小されたのか。悪魔は巧妙だと思います。イエス様が帰って来られたら、自分たちは終わりになりますから、それをとどめるために、真剣に働いていると思います。それで、豊かな福音、被造物全体の回復を、人間の回復だけに縮小して、それだけに焦点を合わせさせ、他のことを考えさせないようにする策略をサタンが持っているからです。

マルチン・ルターから始まった宗教改革から今500年が経ったわけですが、スコット・マクナイトさんに言わせると「信仰のみ」というルター神学の強調が、豊かな福音を縮小させたと主張しています。16世紀までローマ・カトリック教会が世界を支配していました。彼らは「良い行いによって、人は救われる」という「行為義認」を説いていたわけです。これに対抗して、ルターは「良いことをしたら救われるとか、カトリック教会の言いなりになって救われるのではなく、信仰によってのみ救われる」と、「信仰義認」をもって対抗したのです。その主張により宗教改革が広がったのですが、信仰によってのみ救われるという強調は、より強く個人にフォーカスを当て、豊かな福音が縮小されてしまったと語っています。

神はイスラエルに対して、大きな計画を持っていました。その計画とは、やがて来たるべき神の国を現していたわけです。それがイエス様によって成就し、豊かな神の国の福音が実現したのです。しかしキリスト教が、ローマ・カトリックに飲み込まれ、4世紀から16世紀くらいまで、その本質が失われたわけです。しかし宗教改革で信仰のみという、個人にフォーカスが当たった為に、福音は縮小され、それが霊的覚醒運動、リバイバル運動によって、世界中に広がったのです。しかし、今日この豊かな福音が回復されなければなりません。福音を、ただ単に人間の救いに焦点を合わせるのではなく、万物の回復と救いに関して理解しなければいけないのです。人類は万物に対しての責任を果たさなければならないからです。

創世記1:26-28に、こんな御言葉があります。『神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」』人間を創造された時、神が人にどのような命令をなされたのか、それは「すべてのものを支配しなさい」という命令でした。『神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 』人間はすべての生き物を支配するために造られました。また、2:15では『神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。』とあります。神の園に敵が侵入することがないように、ガードマンのように園を守る役割として人を造られたわけです。しかしそこに蛇が侵入して、人間が持っていた権限を奪ったのです。つまり、エデンの園で何が起こったのかというと、悪魔による奪い取り作戦が起こったわけです。元々人間は神に次ぐポジションとして造られたのに、悪魔によってその地位を奪われました。しかし「イエス・キリストを信じるとは、地位をもう一度回復することであり、被造物を管理する役割が人間に回復される。」ということです。そんな重要な役割として、人類は創造されたわけです。

今日、神の代理人としての使命が私たちには与えられています。被造物全体を管理する、権限が与えられているのです。具体的にいったら、まず一つは「職業」だと思います。神からゆだねられた職業は、その人しか入ることができない領域です。そこで福音を宣言し、パウロの理解のように、偽りの神々の力を打ち破り、主の御名の勝利を宣言しなければなりません。そして人類に与えられた最も強力な武器は「祈り」です。祈りは神様が代理人に与えた、最も強力な武器です。

祈りには、二つの方向性と領域があります。一つは「神への願い」の領域ですが、一番大事な祈りの領域は「敵に対して神から与えられた権威を行使する」という領域です。この世は悪魔の手に陥っていますから、神の民が悪魔が支配する領域に入って行って、与えられた権限を行使して、「おまえたちはその領域にとどまることはできない。手を離せ。」と宣言すること、これが管理人の使命です。

職業、仕事は福音宣教の現場そのものです。自分しか見えない、気づくことができない悪魔の策略が見えるはずです。そこに祈りをもって、敵に対して神から与えられた権限を行使するのが福音宣教そのものです。私しか登ることができない高い山があります。「シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ」と。私しか見ることができない領域があります。そこに全体の福音を宣言すること、神から与えられた権限を行使することは、福音宣教そのものであり、その働きの結集により、イエス様はこの地に帰って来られ、新しい天と新しい地が創造されるのです。

現代社会の最も大きな問題は、お金の問題です。貨幣経済は人類が造り出した、詐欺システムの中で最も大きなものだと言われます。お金のためなら、何でもやるのが今の世界です。お金で人生狂ったという人、山ほどいるわけです。お金のために命を落とした人もいっぱいです。今、世界は「金」で狂っているとしたら、私たちが世界の管理人としての立場に気づき、世界に対してお金ではなく、全体の福音を宣言するようになったら、主が共におられ、世界は変わるはずです。

最後にみなさんでお祈りしたいと思いますが、私たちが救われたのは、ただ単に、地獄の火から救われる為ではなく、被造物全体の回復の為です。その役割を、ちゃんと果たすよう、油注ぎを求めましょう。特に自分の仕事が祝福されますよう、祈り求めたいと思います。

・ 被造物全体の回復のために、果たすべき自分の役割を分かち合いましょう。
合計 139
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
139
創世記22:1-8「苦しみ(十字架)を受け入れれば、素晴らしい逆転(復活)がある。」
tbic | 2024.04.07 | 推薦 1 | 閲覧数 22
tbic 2024.04.07 1 22
138
テモテへの手紙第二1:7(無力からの解放)
tbic | 2024.03.31 | 推薦 1 | 閲覧数 22
tbic 2024.03.31 1 22
137
ヨブ記6:21-27(慰めの秘訣)
tbic | 2024.03.24 | 推薦 1 | 閲覧数 30
tbic 2024.03.24 1 30
136
ヨハネの福音書16:25-33(わたしはすでに世に勝ちました)
tbic | 2024.03.17 | 推薦 1 | 閲覧数 34
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135
ヨハネの福音書 14:1-5(変えられた言葉が新しい人生を造る)
tbic | 2024.03.10 | 推薦 1 | 閲覧数 34
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134
ヨハネの福音書6:1-13(頭ではなく、ハートで働く)
tbic | 2024.03.03 | 推薦 1 | 閲覧数 34
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133
ヨハネの福音書1:47-51(正直なら、天が開く)
tbic | 2024.02.25 | 推薦 1 | 閲覧数 41
tbic 2024.02.25 1 41
132
ヨハネの福音書15:15(最後の瞬間まで主を求めなさい)
tbic | 2024.02.18 | 推薦 2 | 閲覧数 45
tbic 2024.02.18 2 45
131
ヨハネの福音書1:43-46(美しいウソより、ありのままの真実が強い)
tbic | 2024.02.11 | 推薦 1 | 閲覧数 57
tbic 2024.02.11 1 57
130
ヤコブの手紙5:16(クリスチャンが祈らない理由)
tbic | 2024.02.04 | 推薦 2 | 閲覧数 58
tbic 2024.02.04 2 58

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