メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

マルコの福音書12:1-12(捨てた石が要の石となった)

投稿者
tbic
投稿日
2022-11-27 17:16
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マルコの福音書12:1-12、それからイエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わした。ところが、彼らはそのしもべを捕らえて打ちたたき、何も持たせないで送り返した。そこで、主人は再び別のしもべを遣わしたが、農夫たちはその頭を殴り、辱めた。また別のしもべを遣わしたが、これを殺してしまった。さらに、多くのしもべを遣わしたが、打ちたたいたり、殺したりした。しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。すると、農夫たちは話し合った。『あれは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる。』そして、彼を捕らえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。ぶどう園の主人はどうするでしょうか。やって来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』彼らは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようと思ったが、群衆を恐れた。それでイエスを残して立ち去った。」

今日の本文の比喩は、神様と人間、そして救い主としてのイエス様を描く比喩です。本文はいろいろな目線で見ることができますが、特に今日は神様がどういう方なのか、神の形として造られた私たちが模範とすべき神様はどういう方なのかを、皆さんと一緒に分かち合いたいと思います。

神様がどういう方なのかを知っていれば、私たちは簡単に、神様に似ていくと思います。実際、神を知ること自体が似ていくことです。カルバンのキリスト教綱要を読みますと、一番先に取り扱うテーマが「神様は誰なのか、どういう方なのか」という、神の認識から始まります。つまり三位一体の神様から出発します。それは人間が神の形によって造られたから、神様を知っていれば人間を知ることができるからです。

例えば、ハンコ(印)を押した所を見てください。印が押された形を見れば、ハンコがどういう形なのか、簡単に分かります。拓本もそうです。見たらすぐ、石碑がどういう形なのか分かります。そのように、原本となられる神様を見れば、人間が誰なのか、どういう存在なのかがすぐ分かります。

だから人間が人間を知る方法は、人間を研究するのではなく、神様を研究することです。その中で人間が誰なのかを知り、私たちがどういう存在なのかを、悟るようになります。今日はこういう拓本式のアプローチを通して、私たちがどういう存在で、どんな変化が必要なのかを確認したいと思います。それは確かに、私たちの形の母体となられる神様を知ることによって可能ですが、ぜひ皆さん、それをちゃんと知って、その通りに変化できる尊い時間となることを、切に願います。
  • 神様は、ただ与える神様です。
今日の本文の1節を読みますと、『それからイエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。」』とあります。これを見たら、ぶどう園を美しく造られた主人の姿が簡潔に描かれています。ぶどう園を造って、垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建てたのです。この三つのこと(垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建てること)は注解書を読みますと、ぶどう園を造るとき、一番基礎的で大変な仕事だそうです。少なくとも、これぐらいの仕事をして置いたら、完成されたぶどう園、ちゃんと造ったぶどう園だという意味です。こういうふうに美しいぶどう園を造って、その主人はただ農夫たちに任せたのです。いくらかの税をもらう条件で、全部与えて旅に出かけたということです。

だから今日の本文のように、神様は美しく素晴らしいものをすべて造って、私たち人間に与えてくださいました。ヤコブの手紙1:17に、「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。」とあります。神様が美しい良いものを、全部造られ、私たち人間に与えてくださったのです。天地創造を見ても、そうです。六日間、創造を終え、準備なさった後、最後に私たち人間に惜しみなく、与えてくださいました。これが神様の属性(特性)です。惜しみなく与えることです。だから私たちが人生を生きながら、神様と同じ姿で生きる方法、つまり神様の喜びに参加できる方法は、ちゃんと準備して他の人々に惜しみなく与えることです。

皆さん、忘れないでください。人間が神の形だと言うとき、一番神の形に近い姿が何かというと、徹底的に準備することです。そして徹底的に準備した後には、他の人々に与えることです。その時、神様の姿と似ているし、神様の喜びを味わうことができます。

私は神様が、こういう喜びを味わうことができるように、私たちに与えてくださった祝福が、親の立場になることだと思います。だから母の日、父の日になれば、一番感動を受けるのは、子どもたちではなく、親たちです。一応、親の立場になれば「あ、これが神様の愛だな」とある程度分かります。しかし受ける立場の人は分かりません。与える人がもっと、これが分かります。

皆さん、よく考えてみてください。すべてをちゃんと準備します。完璧に準備して、子どもたちに与える時、その喜びは本当に神様の喜びそのものです。他の喜びと比べられない喜びです。受けるより何十倍の喜びがあります。しかし残念ながら多くの人々は、この喜びが自分の子どもにだけ、自分の家族の中にだけ、とどまっています。それは自分の家族だけの喜びです。もしこの喜びが素晴らしいことだと思うのであれば、その領域を広めなければなりません。

私たちが大きくなるということは、私たちの所有が多くなって大きくなるのではありません。愛を、どれほど大きくするかによって、大きくなるわけです。愛が大きければ大きいほど、私たちは大きくなり、私たちが広く生きるのであれば、広い人になります。だから私たちは愛が広く、大きい者にならなければなりません。自分の子どもにだけとどまるのではなく、他の人々にも愛の領域を広げてほしいのです。そうすれば、続けて神の喜びを体験できる人になります。ぜひ、ちゃんと準備して、周りの人々にもそれを与え、多くの人々に仕える人になってください。

皆さん、神様に祈って、上から力を受けてください。そして何をするのですか?与える(仕える)ことです。しかし、この喜びが何か知らない人は、他人に与えることがとても難しいのです。その意味が何か、分からないからです。でも、神様から受け取ったものを持って、ちゃんと仕えれば「あ、自分は神の子どもだ」という認識が、はっきりしてきます。そして、「自分は神の喜びであり、そのため、生きる存在だ」と悟るようになります。神の御前で、ぜひこの姿をもって生きる、神の人になってください。

これを別の形で描いている聖書箇所がコリント第一13章(愛の章)です。4節、「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」これらを、一応やってみてください。そうしたら、自分が神の形であることを、深く感じるようになります。

多くの人々が、こう話します。「自分が救われたかどうか、よく分からない」と。救いの確信の問題ですが、いつも机の前に座って、勉強(論争)ばかりする人は、死ぬ時まで、それが分からないと思います。救いの確信は理論(頭)で分かることではありません。神の御前で行動をもって、従順に従ったとき、神様から与えられる確信があります。「これが神の形、救われた民の道だ」という確信です。

だから、神様の特性は何ですか?与える神様です。私たちは神の形として造られた神の子どもです。だからこそ、私たちのやるべきことも、与えることです。皆さんも、ぜひ与える者になってください。もらったものを持って、また与えてください。そうすれば、これが神の喜びに参加する道であり、神の形を確認できる近道となります。
  • 神様は、長く我慢し、忍耐する神様です。
本文の3-5節を読みますと、この内容は旧約聖書の預言者たちを送った話ですが、しもべたちを送って、また送って、送り続けているのです。しかし救い出すために送れば送るほど、人々は彼らを迫害し、殺したという話です。そうしたら、私たちだったらどうしますか?怒るはずです。「悪い奴だ。軍隊を動員して完全に滅ぼそう!」となります。しかし神様はビックリするほど、長く我慢します。

皆さん、よく考えてみてください。信仰というのは何ですか?信仰が深くなればなるほど、人がどういうふうに変わりますか?長く我慢し、忍耐強い人になります。長く我慢するということは、別の言葉で表現すれば、愛です。ある人に対して、一番長く我慢できる人が誰でしょうか?その人の親です。親が一番我慢できる存在です。最後の最後まで子どもをかばって、良いところだけを見るのが親です。そうしなければ、真の親ではないと思います。これが神の形として造られた人間、熱い情で溢れる人間です。だから愛は寛容であり、すべてを我慢できる素晴らしいものです。

そうしたら、私たちも他人に対して長く忍耐し、我慢できる方法は何ですか?親の立場で、親の愛ぐらい他人を愛すれば、長く我慢できると思います。ある人は何回か我慢してみて「もう我慢できない!」と言っているのですが、それは相手がどれぐらい悪かったのかより、そういうふうに言っている人の愛が、どれほど小さいのかを見せる決定的な証拠です。

だから、私たちはちゃんとした態度をとるべきです。私たちの態度と反応を通して、私たちの中に隠れている信仰と愛が全部表れるからです。愛のある人を見てください。絶対に言葉に気をつけて、極端な態度をとりません。愛するから待ちます。忍耐します。愛するから我慢し、祈ります。

だから、私たちクリスチャンがこの世を生きる時、どんなスタイルの人になるべきでしょうか?予測可能な人にならなければなりません。普通、信仰のない人を見ますと、急に人が変わります。今まで笑顔で接したのに、ある瞬間、急に怒り出し、裏切って逃げます。その人は、絶対に神の人、クリスチャンではありません。

創世記から黙示録まで出て来る神の人々を見てください。急に変わる人、いますか?いつも近くにいて、泣きながら訓戒をし警告して、どうしようもない時、離れるのですが、一日の間に、急に「あの人、味方だと思ったのに、敵だったのか」という人はイスカリオテ・ユダ以外にはいないと思います。だから私たちは職場であれ、家庭であれ、どんな関係の中でも予測可能な人にならなければなりません。心の変化が見えなければならないんだということです。それがなぜ、可能でしょうか?忍耐強い品性、つまり神の形として造られた存在だからです。

しかしもしそうではなく、本音を隠し、あれこれ、いろいろな姿に自分を変え、光の天使だと思ったのに、実は悪魔、サタンだったのです。大体サタンのスタイルは衝撃を与えることです。錯覚させるのです。「天使だと思ったのに、悪魔だった。真実だと思ったのに、実はウソだった。」急に変わることです。それは悪魔の属性(特性)です。だからその意味で、クリスチャンは変化するとき、急に変わるより、少しづつ、徐々に変わること、とても大切だと思います。

大同小異」という言葉があります。「大きいものは同じで、小さいものは異なる。」ほとんど同じだという意味です。中国語では「求大同存小異」と言って、「ほとんど同じものを求め、他に小さいものはそのまま置いとく。」という意味です。

皆さん、私たちが一つになる方法は何ですか?異なることを主張すれば、分裂が起きます。しかし一つになる方法は、求大同です。ほとんど同じものを求めながら、集まらなければなりません。小さい異なるものは、ただ置いといて、同じものを求め続ければ、後で時間がたってば、異なるものは全部解かれて無くなります。

しかし愚かな者は続けて異なるものをもって反対します。だから反対者なしに働く方法は一応、同じもの、一致することから始めればいいのです。クリスチャンが集まったら、一番大切なことから一致しなければなりません。一番大切なことが何ですか?イエス・キリストが私たちの救い主だということです。十字架だけが唯一の救いの方法だということ、これだけ一致できれば、残りは一つひとつ合わせて行けば大丈夫だと思います。

普通、教会に集まった人々は9割以上が「大同」です。ほとんど同じ状況です。その時は「存小異」、小さな違いはそのまま置いとけばいいのです。同じものが大きくなれば、異なる部分は消え去るからです。問題はうちのTBICのように、民族が異なる人々が集まった教会です。その時、一番大切な姿勢は何ですか?長く我慢する忍耐です。だから忍耐の力がない人は、クリスチャンの資格がない人です。どこに行っても喧嘩をし、一つになるのを妨害するからです。

だから知恵が何ですか?他人から「小異」、弱間違うことが見えたら、一応沈黙してください。順番が大切です。「無条件、異なることは沈黙しなさい」ということではなく、同じことを先に話して、次に異なることを話すこと、順番が大事です。同じことが先で、次が異なることです。神の御前でイエス様のように、この姿勢をもって歩む、真のクリスチャンになってください。

利己的な人間の特徴は何ですか?預かった者の堕落は、預かったものが自分のものだと錯覚するときから始まります。主人が自分に預けたものです。預かったものを自分のものだと錯覚したら、堕落が始まり、問題が起きます。だから、主の忍耐の対象となるために、私たちのやるべきことは、つまり不従順せず主に立ち返る方法は、毎日毎瞬間、「これは主のものだ。」と認め、管理人の姿勢に戻ることです。神の形として生きる私たちは、周りの多くの人々に長く我慢し、忍耐できる、愛の人にならなければなりません。
  • 神様は、復活なさった逆転の神様(主)です。
本文の10節を読みますと、「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。」とあります。私たちがよく知っている話です。「家を建てる者たちが捨てた石」は何ですか?利用価値のない石です。工事の現場で利用価値がなく、捨てられた石が、まさに要の石、基礎と柱の存在となったということです。

皆さん、私たちが信じるイエス様はそういう神様です。イエス様が十字架を負うとき、妨害した人がたくさんいました。イエス様の使命の妨害です。しかしイエス様の働きには、それらが妨害になりません。反対するすべてのものが、むしろ神のみこころを成し遂げる道具となります。

神の形として造られた私たちも、その人生を生きなければなりません。妨害と障害を逆転の道具にしなければなりません。神様が私たちにたくさんの長所を与えてくださいました。そうしたら、どうすればいいのでしょうか?その長所、自分の強さをもって働かなければなりません。

しかし私たちには弱さ、弱点もあります。そうしたら、働くことができないのでしょうか?いいえ、弱点を主の御前に下ろせば、むしろそれが謙遜になって、もっと力強く働くことができます。私たちクリスチャンは本当に不思議な存在です。長所をもって、働くこともできますが、短所(弱点)があっても、それによってもっと謙遜になり、もっと素晴らしく働くことができます。だから長所も私たちの力であり、短所も私たちの力です。

また別の角度で見ますと、神様が私たちに平らな道を与えてくださる時があります。その時は、あちこち、いろいろな所で働きを広げながら、福音を伝えることができます。平坦な時には、信仰をもって走らなければなりません。その平安のために堕落せず、もっと熱心に働くことです。その時のチャンスを生かすことが知恵です。

しかし、たまには私たちに苦難がやって来ます。そうしたら、苦難がやって来たら、私たちが落胆しますか?いいえ、苦難のために、私たちに一番大切な信仰が、金銀より尊い信仰となります。苦難が強ければ強いほど、もっと力強い信仰が与えられるはずです。だから苦難がやって来た時、もし私たちが間違った信仰をもって汚れた人生を生きていたのであれば、純金のようにきれいで、純粋な信仰に変えられるということです。だからこそ、苦難は悪いことではありません。正しく反応すれば、肯定的で良いことに変わるチャンスとなります。だから私たちクリスチャンは、苦難の時も、平坦な時も関係なく、いつも平安の中で走る人生となります。

まさに、イエス様がその働きをなさいました。平坦な時に、山上の説教やいろいろなみことばを伝え、立派な働きを成し遂げられました。そして苦難の時、十字架を負う時には、躊躇せず、十字架を負うことによって、人類を救ったわけです。だから「捨てた石が要の石となった。」のです。これがクリスチャンの人生を描いた一言だと思います。私たちは、これと同じ存在です。「この世が私たちを捨てた。」とすれば、「何を捨てたのか?要の石だ。」と。こういうふうに反応するのが、私たちクリスチャンです。

だからこそ、クリスチャンにとって出来ないことが一つあります。何ですか?言い訳です。私たちは言い訳ができない存在です。なぜですか?すべての状況の中でも従順できるからです。病床の中でも従順できるし、走りながらも従順できます。だから一番大切なことは、どんな状況、どんな状態でも、信仰によって反応すること、これがクリスチャンの力です。

ここにいらっしゃるすべての人々の条件と環境は、みんな違うと思います。ある人は平安の中にいらっしゃるし、ある人は苦難の中にいらっしゃいます。健康の状態と病気の状態、様々な状況ですが、私たちの共通点は何ですか?捨てられた石であれ、立派な石であれ、私たちはイエス・キリストの中にある要の石だということです。今週も、イエス様の逆転の復活の力が、皆さんの中に豊かに注がれることを切に願います。

 ・ 家を建てる者たちが捨てた石が要の石となったように、自分の人生の中で、このような逆転の経験があれば、分かち合いましょう。

祈り、

愛する天のお父様、私たちの人生の中には平坦なときもあり、苦難のときもあります。しかし、どんな苦難、どんな苦しみがあっても、家を建てる者たちが捨てた石が要の石となったように、私たちの人生の中でも、こういう逆転がありますように。

主よ。私たちは愛もなく、信仰も弱いです。長く忍耐できません。そして、すぐ変わるような弱い存在です。しかし、これは真のクリスチャンの姿ではないこと、よく分かっています。主よ。イエス様のように、予測可能な、透明な人、忍耐強い人になりますように。

また与えられたものを、惜しみなく施し、分け与え、たくさんの人々に仕えることができますように。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。
合計 139
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
139
創世記22:1-8「苦しみ(十字架)を受け入れれば、素晴らしい逆転(復活)がある。」
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テモテへの手紙第二1:7(無力からの解放)
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ヨブ記6:21-27(慰めの秘訣)
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ヨハネの福音書16:25-33(わたしはすでに世に勝ちました)
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ヨハネの福音書 14:1-5(変えられた言葉が新しい人生を造る)
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ヨハネの福音書6:1-13(頭ではなく、ハートで働く)
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ヨハネの福音書1:47-51(正直なら、天が開く)
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ヨハネの福音書15:15(最後の瞬間まで主を求めなさい)
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ヨハネの福音書1:43-46(美しいウソより、ありのままの真実が強い)
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ヤコブの手紙5:16(クリスチャンが祈らない理由)
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