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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ピリピ人への手紙4:4-5(人生の喜びとは)

投稿者
tbic
投稿日
2023-02-19 15:59
閲覧数
190
ピリピ人への手紙4:4-5「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。」

新しい年を迎えても私たち一人一人は、それぞれの人生の歩みを続けています。そして人生の中の一時、2023年2月19日の、今の現実に私たちは生きていて、この場所に集まって礼拝をささげています。このように礼拝をしている人はほとんどクリスチャンだと思いますが、クリスチャンになるということは、イエス・キリストによって新しく生まれ変わった者であるということが言われています。

では、果してクリスチャンとノンクリスチャンは、どのように違うのでしょうか?クリスチャンとして生きるということと、そうでない生き方は、どのように違うのかということです。クリスチャンとして日常の生活をしている時に「イエス様を知らない人々とどのように違い、またイエス様によってどのように変えられたの」というような疑問を持った人々がいると思いますが、もしかしたら、クリスチャンになっても同じ生き方をしていると、「前と全然変わらず生活をしているな」と思われる人もいるかもしれません。そのように考えると、クリスチャンとして生きるということは一体何なのか、何が違うのかという疑問です。

私たち一人一人の人生を考える時、多くの人々が幸せを望んでいます。喜んで生活をしたいと望んでいるということです。できれば、病気や事故、あるいは不幸と思えるような事を避けて、平安に過ごしていきたい、喜びのある生活をしたいという思いが本音だと思います。誰もが喜びの生活を、幸せな生活をしたいという思いや願いがあります。つまり私たちが生きるということは、人生に喜びを見つけて生きるということです。

しかしそれにしても、私たちが生きていく中では不平や不満というものが、次から次へと生まれてきます。それに悲しみや苦しみというものも、避けることができないものとして、次から次へと襲ってきます。あるいは、人に言えないような悩みを抱えて生きていく人もいるのです。これは、たとえクリスチャンになってからも変わらないと思います。

私たちは時々誤解を持つことがあります。クリスチャンになったら、きっと苦しいことや悲しいこと、あるいは悩みが全部なくなってしまい、安心して生きていけるというようにです。いや、それよりも、私たちはどこかでそのような苦難や困難がなくなることが幸せであり、喜びであると思い込んでいます。だからクリスチャンになってからも、不幸と思えることが次から次へと襲いかかってくると、不平不満ばっかりを抱え込んでしまうのです。だからこそ、ますます喜びのある生活から遠いものへとなって行きます。しかしクリスチャンになってからの生活は、苦難や困難を経験しないということではありません。クリスチャンというのは、たとえ苦しみや悲しみを経験しながらも、喜びのある生活をするということです。

では、これは一体どういうことでしょうか?普通は苦しみや悲しみがなくなることが、幸せであり、喜びのある生活だと思っています。常識ではそのように考えるはずです。だからこそ、「苦しみや悲しみを取り除いてください。」と私たちは必死で祈るわけです。確かに、病気が直ったり、願い事が叶ったりすると、喜びに通じるものです。喜びながら、生活をすることができるのです。つまり入学試験や入社試験に受かったり、何かうれしい事を経験すると喜びを感じます。もちろんクリスチャンになってからの生活も、そのような具体的なものを喜ぶということを、決して否定しません。私はそれによってみんなが大いに喜びながら、生活することを望んでいます。

しかしそれが本当の喜びかというと、違うような気がします。そうしたら、本当の喜びというのは何でしょうか?実は、その本当の喜びが教会にあるということです。イエス様を信じて生かされていることが、本当の喜びです。だからこそ、クリスチャンになったということ自体が、喜びそのものです。クリスチャンとは、イエス・キリストを信じて生きる人々のことを指しています。

彼らはイエス様を信じて生きるということが喜びです。つまり私たちがイエス様を信じて生きることが喜びにつながっていくということです。だからこそ、イエス様を信じることが何よりも喜びに満ちた生活であるということになります。それは、イエス様の恵みを十分に受け取っているからです。しかも、私たちはイエス様を信じて生きるという喜びがあるからこそ、イエス様のことを誰かに伝えたいと思うのです。もし私たちの中で、イエス様を信じて生きることに喜びを失っているのであれば、その人はイエス・キリストの恵みを受け取っていないと感じているかもしれません。それこそ、もう一度この喜びのことを考えなければなりません。それでは、イエス様を信じて生きる喜びとはどういうことでしょうか?私たちクリスチャンは、イエス様を信じて生きるということを、信仰生活をするという言葉で表します。そうしたら、信仰生活の喜びとは一体どこにあるのでしょうか?その秘密が神の御言葉である聖書に記されています。その喜びのことを考えながらクリスチャンとして生きることがどういうことなのか、あるいは人間が生きる喜びとは何なのかということを今日も聖書を通して皆さんと分かち合いたいと思います。

今日示されている聖書の箇所、ピリピ人への手紙は手紙と書いてあるように、誰かが誰かの所へ送った手紙です。ピリピ人へと書かれているように、ピリピという町にあった教会の人々に向けて書かれた手紙です。では、誰がこの手紙を書いたのでしょうか?それはパウロという人が書いた手紙です。このパウロはイエス様を信じて、イエス様の弟子となった人です。しかしこのパウロは随分と劇的な人生を歩んできた人でした。パウロはユダヤ人で、もとの名前をサウロと呼んでいました。しかも、最初は熱心なユダヤ教の信者でした。それに、ユダヤ教の指導者になるために教育を受け、エリートの中のエリートとして育てられました。その当時、イスラエルにおいてはイエス様を信じるキリスト教とユダヤ教とは対立をしていました。キリスト教とユダヤ教の大きな違いは、イエス様を神様、あるいは救い主と信じるか信じないかということでした。イエス様を救い主と信じるものがキリスト教です。だからこそ、それまでパウロは熱心にユダヤ教を信じて指導者として育てられていたので、キリスト教を嫌って熱心にキリスト教を迫害するようになりました。パウロはどうしてもイエス様が神様であり、救い主であるとは信じられなかったのです。しかも、イエス様を信じる人々さえも許すことができませんでした。クリスチャンを憎んでいたということです。だからこそ、パウロはクリスチャンを捕まえて牢屋に入れたり、罰を与えたりして迫害をしていたのです。

ところがパウロはそのような中で神様の不思議な導きによって、イエス様のことを救い主であると信じるようになりました。復活されて生きておられるイエス様に出会い、イエス様の言葉を聞くことによって、パウロはクリスチャンに変わっていったのです。まさに驚くべきことがここに起こったのです。それまでイエス様なんか信じることができないと思っていたパウロは、まさか自分自身がイエス様のことを信じるとは夢にも思っていなかったのです。それにしても、人がこんなにも変われるものかというぐらいに、すっかりとパウロはイエス様を信じて生きるようになりました。しかもイエス様のことを人々に伝えることを人生の喜びとしたのです。そのように、このピリピ人への手紙は、劇的に生き方が変えられたパウロが書いた手紙です。この手紙はピリピの町の教会の人々へ送った手紙ですが、今この時、この手紙を受け取っている私たちに向けられた手紙でもあるということです。

このピリピ人への手紙は昔から「喜びの手紙」と呼ばれています。この手紙には16回も「喜ぶ」という言葉が書き記されているからです。今日の本文4:4を見ますと、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」という言葉の中にも「喜ぶ」ということが2回語られています。しかもパウロは私たちに熱心に喜ぶことを勧めています。この「喜びなさい」という勧めの言葉は、この手紙全体からも同じような表現を見つけることができます。2:18には、「あなたがたも同じように喜んでください。私と一緒に喜んでください。」3:1には、「最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。」という表現もあります。

この手紙はパウロの手紙の中でも短い手紙です。この短い手紙の中でパウロは、区切りをつけるたびに、私たちに喜ぶようにすすめています。このことから、私たちの生活が区切りをつけるたびに喜ぶことができたら、どんなに幸せかということです。区切りをつけるということは、何かが行われる度に自分の生活を振り返ることです。自分が過ごして生きてきた人生を思い起こしてみるということです。それで自分が生きてきた人生をかえり見て、喜ぶことができるのであれば、どんなに幸せでしょうか。それと同時に、今自分自身の生活を考えてみて、喜ぶことができるのであれば、本当に幸せだと思います。だからこそ、パウロはその喜びの世界に聖書を通して私たちを招いているのです。

では、パウロがすすめている「喜びなさい」ということは、一体どういうことなのでしょうか?繰り返しになりますが、私たちは日常において具体的に嬉しい事や希望が叶えられた時、あるいは何かが満たされた時に喜びを感じると思います。精神的、あるいは肉体的にも嬉しく思える出来事に対して喜びを感じるということです。逆に、辛いことが起こった時や希望が叶えられなかった時に、悲しみを覚えるのです。私たちは嬉しい事柄を経験すれば喜び、不幸と思えるような出来事に出会うと悲しみを覚えるのが普通だと思います。

最近はプラス思考を持つことや楽観主義に生きるという考えが流行しています。物事が悪い状態にある時、つまりマイナスにある状態の時、プラスに物事を考えて変えていくというもの、楽観的に思うということです。たとえば、病気の時には、考え方が悪い方向にありますので、良い方向にするために、楽しいことを考えるということです。病気の時こそ、たくさんの本が読めるとか、ゆっくりと人と話ができる、嫌な人と付き合わなくてもいいというようにプラスに物事を考えていくということです。

そうしたら、パウロも同じように、ここで普通は喜べない状況の中でも、自分自身に言い聞かせて、喜びの状態になりなさいということを語っているのでしょうか?「どんなことがあっても、いつもニコニコしていなさい」ということをパウロは語っているのでしょうか?「笑顔をたやさず、喜びの顔を造って生活をしなさい」ということを語っているのでしょうか?いいえ、そうではありません。「いつも喜びなさい」というこのパウロの言葉は、厳しい世の中を渡り歩くための知恵ではありません。世間の人々と、うまくやっていくためのテクニックでもないのです。

本文のピリピ人への手紙を読んで見ますと、パウロが「喜びなさい」と語る時に、何を喜ぶのかというような、具体的な事柄や出来事については、一切書き記していないのです。ただ、漠然とした形で喜びなさいということを書き記していることが分かります。しかしながら、ただ漠然としたものではなく、一つの大切な条件がここに付けられているのです。パウロが語る喜びには、「主にあって」という言葉が付け加えられていることに気づきます。主にある喜びです。では、「」というものは何ですか?主とは、私たちの主人です。私たちのすべてを任せて信頼して従っていくことができるお方です。

日本では夫のことを御主人と言いますが、随分と意味が違うのです。家庭によっては、妻のほうが主人かもしれません。いずれにしても、主とは、その方を中心にしてすべてを任せて生きていくことができるお方です。聖書の中では、「主」とは神様のことと、イエス・キリストのことを表しています。私たちクリスチャンは、イエス様こそが「主」であるということです。だから主にある喜びとは、イエス様に結びつくことによって、与えられる喜びのことです。これは、私たちがイエス様を信じて生きていく時に与えられる喜びだということです。つまりイエス様の十字架と復活によって救われたことを信じて生きていくこと、神様によって救われて恵みをいただいて生かされていくということです。それが喜びになっていくということです。

もう少し具体的に表すのであれば、イエス様が私たちのために十字架につけられ、罪の苦しみから救ってくださり、その救いによって神様を私たちの主人としてすべてを任せて生きるようにさせたということです。さらに、イエス様のよみがえりによって、私たちにもよみがえることができるという復活の命を与えてくださっているということです。しかもイエス様は今も生きて働いておられ、日常生活の中でも私たちと共にいてくださり、私たちが人生を活き活きと生きるものとなり、必ず良い方向へ導いて下さるという信仰の喜びを意味します。

これは夢でも空想でもなく、現実に起こっていることです。だからこそ、たとえ喜ぶことの出来ないようなこと、悲しみや苦しみや不安の中でさえも、イエス様に結びつくことによって、最終的には神様が私たちに喜びを与えて下さるということです。これをある人が「にもかかわらずの喜びだ」というように表しました。だからこそ、イエス様のことを救い主と受け入れている人の奥底にはイエス様が共にいて下さることを信じることができるし、喜びが常に与えられているということです。だからこそ、パウロは私たちに「いつも主にあって喜びなさい」とおすすめをしたのです。

実は、このピリピ人への手紙は、パウロが迫害されて捕まって牢獄の中で書き記したものです。迫害していた者が、今度は迫害される者となって牢獄の中にいた時の手紙です。パウロはいつ殺されるか分からない、明日もわからない命の中にいたということです。しかし、パウロはイエス様を信じて生きていくことに喜びを感じていました。なぜならば、パウロは本文の5節で「主は近いのです。」と表しているように、イエス様が一緒に生きておられることを信じていたからです。これは、たとえ殺されたとしても、イエス様が共にいて下さり、永遠の命を与えてくださっていることを信じるということです。私たちの人生を考えてみると、いつ私たちが不幸と思えることや病気になるか分かりません。いえ命を奪われるかもしれません。しかしそれでも、いつも喜んで人生の歩みをしていくことができるのです。イエス様を救い主と受け入れ信じることによって、真の喜びの生活ができるのです。なぜでしょうか?イエス様は私たちを必ず良い方向へ導き、守ってくださるからです。それだけではありません。私たちの命がイエス様によって、終わることのない、永遠のものへと変えてくださっていることを信じるからです。この日曜日の礼拝の時だけでなく、職場であれ、学校であれ、家庭であれ、イエス様はいつも共にいて下さり、私たちは喜びの人生を歩んでいくことができるのです。これこそが、イエス様を救い主として受け入れ、変えられた者の人生だということです。

・喜べない出来事を、主にあって喜んだ経験があれば分かち合いましょう。

お祈りします。

あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「主をあがめよう」と、いつも言いますように。(詩篇40:16)

愛する天のお父様、私たちは今、人生の歩みをしている中で、教会に集まって礼拝をささげております。時には私たちの人生の中で、悲しみ苦しみを抱えながら歩んでいることがあります。喜ぶことを忘れて過ごしていることもあります。どうぞ主よ、御言葉によって、イエス様にある喜びを明らかにして下さり、喜びによって私たちを恵みで満たして下さいますように。何よりもイエス・キリストの十字架と復活によって、救いの喜びと、永遠の命を与えて下さっている喜びをしっかりと受け取め、神様に感謝をしながら人生の歩みをしていくことができますように。またイエス様のことを知らない人々の上に、聖霊の力を注いでくださり、イエス様を救い主と受け入れることができますように。イエス様のことを信じて、イエス様にすべてを任せて、喜びのある生活へと変えて下さいますように。この祈りをイエス様の御名によって御前におささげします。

アーメン。
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