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詩篇 119:105

マルコの福音書5:1-20(豚2000匹)

投稿者
tbic
投稿日
2023-03-05 20:01
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マルコの福音書5:1-20『こうして一行は、湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊につかれた人が、墓場から出て来てイエスを迎えた。この人は墓場に住みついていて、もはやだれも、鎖を使ってでも、彼を縛っておくことができなかった。彼はたびたび足かせと鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまい、だれにも彼を押さえることはできなかった。それで、夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのである。彼は遠くからイエスを見つけ、走って来て拝した。そして大声で叫んで言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください。」イエスが、「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。イエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、彼は「私の名はレギオンです。私たちは大勢ですから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないでください、と懇願した。ところで、そこの山腹では、おびただしい豚の群れが飼われていた。彼らはイエスに懇願して言った。「私たちが豚に入れるように、豚の中に送ってください。」イエスはそれを許された。そこで、汚れた霊どもは出て行って豚に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖へなだれ込み、その湖でおぼれて死んだ。豚を飼っていた人たちは逃げ出して、町や里でこのことを伝えた。人々は、何が起こったのかを見ようとやって来た。そしてイエスのところに来ると、悪霊につかれていた人、すなわち、レギオンを宿していた人が服を着て、正気に返って座っているのを見て、恐ろしくなった。見ていた人たちは、悪霊につかれていた人に起こったことや豚のことを、人々に詳しく話して聞かせた。すると人々はイエスに、この地方から出て行ってほしいと懇願した。イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供させてほしいとイエスに願った。しかし、イエスはお許しにならず、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」それで彼は立ち去り、イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったかを、デカポリス地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。』

今日の本文を見ますと、ゲラサ人の地に汚れた霊(悪霊)につかれた一人が墓場に住みついていました。マタイの福音書によれば、ゲラサ人の地をガリラヤの向こう岸のガダラ人の地だと出てきます。そしてこの人についての話はマタイとマルコ、ルカの福音書に全部出るほど、大切な出来事だと思います。

本文の記録によれば、汚れた霊(悪霊)の名はレギオン、軍隊の用語でした。つまり、6000人ほどのたくさんの人数の群れ、軍隊の悪霊でした。だからその霊につかれた人は人々が住んでいる町に住むことができず、墓場で寂しく住んでいました。人間は一人で寂しく生きる存在ではありません。共同体的な存在として、共に生きる存在が人間です。しかし彼は汚れた霊(悪霊)によって、人々と共に交わりながら生きることができなくなったわけです。人間の存在の意味を完全に失ってしまったということです。

しかしある日、イエス様が彼に訪ねて来られました。わざと彼のためにイエス様は、その地方に行かれたかもしれません。失われた一匹の子羊を探している牧者(羊飼い)の心をもって行かれたと思います。そして彼に会ったのです。イエス様に出会ったというのは、何を意味するのでしょうか?もう癒されたということです。本文の15節に、「そしてイエスのところに来ると、悪霊につかれていた人、すなわち、レギオンを宿していた人が服を着て、正気に返って座っているのを見て、恐ろしくなった。」と出ます。

しかしここで不思議なことはイエス様が彼を癒された方法が本当に理解しがたい方法でした。その軍隊の悪霊を彼から豚に乗り移して癒されたのです。もちろん、その悪霊たちの願いだったのですが、一人を生かすために2000匹の豚を湖におぼれさせて死なせる方法は、大変理解しがたい方法だったと思います。なぜでしょうか?他人の財産を、こんなに損害を与え侵害してでも、一人の癒しがそんなに大切なのかということです。

実は現代を生きる私たち人間の価値観、すべての人の基準は経済的な成功と直決しています。給料と収入がいくらかによって人間のランクがつけられ、成功が決まる世の中を私たちは生きるわけです。だから人間はその本質的な価値を失い、商品の価値以外に何もない存在となりました。そして商品の価値のない人間は共同体から疎外され、捨てられるわけです。結局、捨てられた人は自滅してしまうのが今の人間社会、悪魔が支配している現代の素顔です。

しかし今日の本文でイエス様はこの人間の間違った考え方を直してくださいました。豚2000匹を犠牲にしてでも一人の孤独な人間を救い出してくださいました。悪霊につかれた人間一人を生かすために、こんな経済的犠牲が必要でしょうか?はい、絶対に必要です。その悪霊につかれた人は呪われた人間である私と皆さん、死ぬべき人間を表しています。そういう人間を生かすために神の御子イエス・キリストが十字架の上で犠牲にされて私たちを生かしてくださったのです。私たち一人ひとりは、豚2000匹よりも、いや尊いイエス様の血潮よりも大切な価値があったわけです。この熱い神様の愛に、私たちは今日も感謝するしかありません。

マタイの福音書16:26節に、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」と出ます。しかし、実際に現代を生きる人間はそうではありません。全世界より尊いいのちどころか、いくらかのお金といのちを引き換えるような悪い時代を、今私たちは生きるわけです。本当に恐ろしい時代、悲しい時代です。

今人間の関心はただ豚にあります。経済的要求や株価の変動、また住宅の値上がりが私たちにとって一番大切なことです。悪霊につかれていた一人のためにイエス様は豚2000匹を犠牲にされましたが、豚1匹のために2000人の人も犠牲にすることができるのが今、世の中の現実です。豚1匹のために家族も、隣人も、国も犠牲にし、全部飲み込んで誘拐し、殺し合う世の中、豚のために起きる悲劇の連続は止められません。確かに、現代人にとって大切なのは人間ではなく豚です。金と快楽です。現代人に「なぜ生きるのか?」と聞いたら、正直に「豚を飼っている楽しみで生きる。」と答える人が意外に多いです。豚1匹でも、もっと所有するために手段と方法を選びません。豚を飼っている楽しみが人生のすべてかもしれません。豚1匹、2匹、3匹、家が広くなって株価が上がり、お金がためられる楽しみで人生を生きるわけです。しかしイエス様は人生の意味、人間の真の価値が何かを教えてくださいました。そして、そのためにイエス様はこの世に来られたわけです。

ピリピ人への手紙3:19 に、「彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」と主は言われながら、人間にとって大切なのは豚ではなく、一人の人間であり、救われるべき一人のたましいであることを、自ら行動によって教えてくださいました。だからイエス様は罪人と共に交わり、取税人たちと一緒に食事をなさいました。そして貧しい人々、病人たちと一緒に泣いて笑いながら、彼らも救われるべき尊いたましいであることを教えてくださいました。もちろん、彼らは商品の価値としてはゼロの人間たちです。社会の失格者、ゼロ点の人々でしたが、イエス様にとって彼らは豚2000匹よりも大切な人間、失われた尊いたましいだったということです。

だから今日の本文で私たちが悪霊につかれた人の癒しを目撃しながら経済的損失より、むしろ感謝と感激する理由はイエス様の心を、同じ憐れみ、同じ愛をもっているからだと思います。その大きな愛が今も私たちに注がれていることを感謝するしかありません。豚が支配する今の時代、人間はどうでもいい、できればたくさんの豚を求めながら誰が大きな豚をもっているか、競争します。そして、その金の豚に仕えながら尊い人生、大切な時間を費やしています。それが人生の目的となっているのです。

よく分かりませんが、教会の中ではこの豚に対する欲があまりないと本当に言えるのでしょうか?果たして、うちのTBIC教会は豚2000匹に関心があるのか、失われたたましい一人に関心があるのか、疑問です。もし教会が教会員の数や経済力によって評価されれば、それは金の豚が偶像になっている証拠です。

皆さん、教会だけでも一人のたましいが条件と関係なく本当に愛され、孤独と疎外を体験しないように心掛けてほしいのです。うちの教会は今日のみことば通り、豚2000匹が犠牲になっても一人のたましいが救われることによって喜ぶ、真の教会になってほしいのです。そして今日のみことばを通して分かるのは、豚2000匹が犠牲にならなければ、絶対に一人のたましいが救われないんだということです。マルコの福音書10章では一人の若者がイエス様に訪ねて来て、永遠のいのちを得る方法を教えてくださるようにお願いする場面が出てきます。彼は律法通りに行った清くまじめな青年でした。しかしイエス様はマルコ10:21、22で、こう言われます。

イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。

豚2000匹というのは、ものすごい量です。もしかしたら私たちのような普通の人なら、一生涯手に入れることのできない大きな金額かもしれません。しかし救われるべきたましいと比べれば、それは何もないちっぽけなものです。しかしながら、多くの人々は一人のたましいをあきらめて、豚2000匹を選びます。しかし聖書ははっきり言われます。

ルカの福音書12:15、『そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」』引き続きルカの福音書14:26-27、33、「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」またテモテ第一6:8-10、「衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

イエス様は一人のたましいの救いのために、豚2000匹をあきらめました。どちらを選ぶかは、常に誘惑ですが、悪魔はイエス様にも公生涯の初めから「世のすべての国々とその栄華を見せながら、もし自分(サタン)にひれ伏して自分を拝むなら、これを全部あなた(イエス様)に差し上げる。」と言ったわけです。しかしイエス様は豚より一人のたましいの救いを選ばれました。神に従うすべての人がそうです。へブル書ではモーセについて、こう記しています。

ヘブル人への手紙11:25-26、「はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。

皆さん、豚2000匹より、いやこの天下のすべてのものより尊い一人のたましいを救い出すことはイエス様の愛、そのものでした。イエス様の切なる愛が、その汚れた霊(悪霊)につかれた人を救い出し、正常な人に取り戻したのです。彼は神を賛美する人に変えられました。

皆さん、忘れないでください。イエス様は私たちを救い出すために豚ではなく、イエス様ご自身を犠牲にされました。主が流された尊い十字架の血潮が皆さんと私を救われたのです。この世のどんなものにも比べられない尊いイエス様のいのち、その代価を支払われたわけです。

ペテロ第一1:18-19、「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

こんな尊いイエス様の血潮によって、私たちは救われ、神の教会に加わり、聖徒の交わりに参加して、共に笑い、共に泣きながら、この世を生きるように選ばれました。この主の愛、神のみわざはあまりにも大きく、ただただ驚きです。今まで私たちは悪霊につかれた人のように、墓場のあたりをさまよいながら空中に権威ある者、サタンにとらわれて彼に服従しながら生きてきました。しかしあわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた、この私たちをキリストとともに生かしてくださったのです。(エペソ2:4,5

だから、次のみことばが私たちの約束のみことばです。

ペテロ第一2:9-10、「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。

今日の本文に戻って、マルコの福音書5:19に、イエス様が軍隊の悪霊から解放された人に何と言われましたか?「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」そうです。皆さんと私にも与えて下さった神の大きな愛に感謝し、証の人生を生きなければなりません。そのためには信仰が必要です。ヘブル11:6、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

そして人生の中で様々な試練がありますが、次のみことばもしっかり握りしめましょう。

コリント第一10:13、「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」コリント第二4:8-9、「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

私たちは神様から選ばれた尊い神の子どもたちです。だから私たちを、人間がどうすることもできないし、悪魔(サタン)がどうすることもできません。安心して自分に与えられた道を、十字架の道を堂々と歩みたいと思います。

最後に、ローマ人への手紙8:32-39を読んで終わりたいと思います。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

・自分は豚に関心があるのか、失われたたましい一人に関心があるのか、正直に分かち合いましょう。
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