メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

マルコの福音書1:14-20(成熟した信者は終末論的に生きる)

投稿者
tbic
投稿日
2023-03-20 14:29
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マルコの福音書1:14-20『ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。また少し先に行き、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネをご覧になった。彼らは舟の中で網を繕っていた。イエスはすぐに彼らをお呼びになった。すると彼らは、父ゼベダイを雇い人たちとともに舟に残して、イエスの後について行った。』

イエス様のすべての教えと教訓は、「終末論的な基盤」の上に立てられています。つまり、永遠のいのちの観点から教えられたということです。この終末論的な観点を、私たちが理解できなければ、私たちはイエス様の教えを、ちゃんと理解することができません。

イエス様の終末論的な観点は、四つの分野で発見することができます。

1.イエス様の「家族に対する価値観」です。

イエス様は結婚しないで、独身で過ごしました。イエス様はこの地上で独身で過ごし、とても終末論的な家族観をもっておられました。

イエス様はルカ8:21で、こう言われました。「ところが、イエスは人々にこう答えられた。『わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです。』」さらに、ルカ14:26では、「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」と言われました。こんな急進的な思想は、どこにもありません。

だから今日の本文では、「ヨハネとヤコブがイエス様について行くために、自分の父を残してイエスについて行った。」と出ます。

もちろんイエス様が、「親孝行をするのはだめだ。」という意味で、こう言われたわけではありません。しかし、主について行く過程の中で、神の国を追求するプロセスの中で、血縁の関係や人々の情に捕らわれたら、神の国の働き人としての資格はないということです。
  1. イエス様の「お金に対する価値観」です。
イエス様は飼い葉おけでお生まれになりました。そしてエルサレムに入城なさる時には他人から借りた、ろばの子に乗って入城なさいました。十字架で亡くなられた後には、他人の墓にほうむられたわけです。

イエス様はほとんど無所有の生き方で、物欲の危険について、いつも警戒しておられました。ルカ12:15、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」またルカ18:25、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」と言われます。

今日の本文では、漁師たちがイエス様の弟子になるために網を捨て置いてイエス様に従ったというふうに出ます。
  1. イエス様は、この世の既存秩序はひっくり返る日がやって来ると言われました。
もちろんイエス様は革命家ではありません。革命を通してこの世を変えようとしなかったのです。イエス様は社会改革を起こす人でもありませんでした。何かデモをしたり、抵抗したり、そんな政治的方法でこの世を変えようとしませんでした。

しかしイエス様にとって神の国という概念は、この世の秩序と反対であり、この世の秩序を取り替える概念です。 だからイエス様が神の国を言われるときは、遠く離れた天の御国を考える前に、この世のことでした。この世の秩序と反対であり、この世の秩序を取り替えて神様が直接治められる領域の事を考えなければなりません。

だからイエス様は逆説的な真理を伝えようとされたと思います。「あとの者が先になり、先の者があとになる。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだす。」これは何を意味するのでしょうか?世の秩序が変わることを言っています。しかし主が言われた秩序の変化は戦争とか革命のように、人間的方法を通して成し遂げられることではありません。神の恵みを通して、神様が直接なさることです。だから、「神の秩序が、つまり人間が作り出した秩序を取り替える日がやって来る。」と言われたわけです。
  1. イエス様はその当時、宗教社会の制度について終末論的な観点で見られました。
だから、イエス様はその当時、イスラエルの宗教の制度の中に入られなかったのです。その制度の中で働いておられなかったし、その制度の聖職者ではありませんでした。

イエス様は祭司ではなかったし、律法学者でもありませんでした。ただ、平凡なラビの出身であり、イエス様が選んだすべての弟子たちも、みんな制度圏の外にいた平凡な人々でした。イエス様は制度圏内で働かないで、その領域の外で新しい秩序を造られました。そして、その実が、まさに教会です。だから教会は宗教的なヘゲモニー、既得権利や制度などに捕らわれたら、その生命力を失ってしまいます。そして教会が大きくなるのは良いことですが、あまりにも組織的で、官僚主義や権威主義に捕らわれると、それがまさに、中世時代の堕落した教会の姿になるということです。

マルティン・ルターが教会を改革しようとしたとき、彼も結局、制度圏外で新しい運動を起こすしかありませんでした。その後、リバイバル運動が起きるたびに、そのリバイバル運動はいつも制度圏外で、新しい秩序を立てる結果を生み出します。ジョン・ウェスレーのリバイバル運動もそうだったし、ペンテコステの運動もそうでした。そして、つい最近ケンタッキー州のエズべり大学で起きたリバイバル運動も制度圏、教団、教派の領域を超えた所でした。

これらすべてを通しても、イエス様の終末論的な観点を見ることができるし、またそれを知らなければ聖書の中でイエス様が言われたみことばをちゃんと理解することができません。つまり、イエス様がなぜこういうふうに言われたのか、なぜこういうふうに生きられたのかはイエス様の終末論的な観点を見れば、すぐ分かります。終末(終わりの日)は一日の間に起きることだから、イエス様の終末論的な観点、その教えを受け入れなければなりません。

しかしここで私たちがぶつかる質問は、イエス様が教えられた終わりの日、終末は差し迫った終末だったのですが、それはまだ来ていないのです。2千年が過ぎましたが、今もなお、この世はそのまま流れていきます。

2千年前のイエス様は、「わたしがすぐに来る。 I'm coming soon」と言われました。しかし、イエス様の時間の概念と私たちの時間の概念が異なることを、ちゃんと覚えてください。第二ペテロ3:8、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」と出ます。それにもかかわらず、私たちにとって2千年は長い年月です。

しかし大切なのはイエス様が、終末がすぐだと前提なさって、このすべてを教えて下さったのに、結果的に私たちが見る限り、まだ終末が来ていないので、イエス様の終末論的教訓がはたして今有効かどうか、それを私たちが適用できるかどうか、そのまま受け入れて生きられるかどうかの問題を私たちはそれぞれ深く黙想し、それぞれ答えを受けなければなりません。

私は1997年12月10日に初めて日本に来て、日本の教会の初の礼拝に出席した時、私の全財産を献金箱に入れました。自分の所有に対する執着、それに捕らわれないと思ったからです。その時は独身のときでした。しかし今は私も結婚して妻と子供がいるから、お金がある程度必要になりました。無所有の生き方を独身では生きられますが、それを妻と子供に要求することは、とても無理です。無所有で生きたいのであれば、結婚しないほうがいいです。私はもらった給料をそのまま他の人々にあげることもできますが、もしそうすれば多分家から追い出されるかも知れません。もちろんイエス様はマタイ8:20で、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」と言われました。しかし牧会をする牧師は家も必要ですし、お金は現実の問題です。

皆さん、賜物の中では独身の賜物があります。多くの人々は異言の賜物や預言の賜物、病気を癒す賜物を下さいと求めますが、独身の賜物を下さいと求める人は今まで会ったことがありません。しかしそれも賜物です。みんながそうではありませんが、一部カトリック教会の神父さんたちが、なぜ酒に頼っているかというと、孤独だからです。家に戻ったら、誰も歓迎する家族がいないのです。妻もいないし、子供もいません。孤独です。

しかし人間はそういうふうには生きられません。ここで私たちは質問しなければなりませんが、そうしたらイエス様のそのすべてのみことば(終末論的なみことば)を、私たちは結局、妥協するしかないのか、人間の現実の世界では適用できない限界があるみことばなのか、ということです。

しかし皆さん、ちゃんと覚えてください。歴史的終末はいつ来るか誰も知りませんが、私たちの個人の人生を考える時、個人の終末はあっという間にやって来ます。個人もそうですし、企業もそうです。結局、イエス様の終末論的みことばは妥協せず、適用できます。皆さん、考えてみて下さい。昔は立派な企業でしたが、今は跡形もなく、無くなった企業もいっぱいあります。それは人生もそうですし、国もそうです。みんな有限の存在です。

だから、いつでも私たちの人生と、私たちが楽しんでいるすべてのものが終わりを告げる時が、必ずやって来ることを覚えなければなりません。その時、イエス様の教えをちゃんと理解することができるし、適用できると思います。

それでは今日のみことばを適用すればどうですか?終末論的な信仰を持って生きる時、私たちは成熟した信者となります。飛行機の墜落事故から奇跡的に生還した人がいます。テレビのドキュメンタリー番組を作りながら、スタッフが彼に聞きました。「あなたがその事故から生還した後、何か変わったことがあれば、教えて下さい。」と。そうしたら「たくさんのことが変わった。」と言いながら、「私は死ぬところから生還したら、今まで自分が持っていた心配や思い煩い、悩みがとても小さなことであることを、悟りました。」と言ったのです。

皆さん、人は今日でも、いつでも死ぬと思ったら、財産を失ったり、願い事が叶えられなかったり、人々からいじめられたり、子どもの勉強がだめだったり、こういう問題が何の問題にもなりません。過去には子どもの勉強がうまくできないことで腹が立ちましたが、飛行機の事故で生還したら、息子の元気な姿だけを見ても感謝が溢れるんだそうです。

私たちの考え方の変化は終末論的な経験を通して得られます。言い換えれば、死ぬところだった死の陰の谷を歩いてみたら、「あ!人生というのは、こういうもんだ!」と言いながら、過去には心の中で複雑に悩んでいたことが、綺麗に整理できるようになります。これは信仰があるかどうかの問題ではなく、みんなが共通に経験することです。こういうふうに、死の陰の谷を経験したら、誰でも心が広くなり、人格が成熟します。

皆さん、本当に不思議じゃないですか?人間のたくさんの葛藤、憎しみ、嫉妬。これらは、もっと本来的な苦難の経験を通して、何もないことに変わります。

あるテレビ番組のドラマである夫婦が離婚寸前まで行きました。だから夫が一緒に住めないと言って、荷物包んで家を出ました。そしてホテルの部屋を借りて、娘と一緒に住むようになりました。ある日のこと、職場から帰って来てホテルの部屋に戻ってみると、浴槽に水があふれ出ているのが分かりました。お風呂場に行ってみると、何と一人娘が手首を切って浴槽の中に横たわっていました。だからお父さんがその娘をおんぶして、急いで病院へ走りながら、一番最初に電話をかけた人が妻でした。この夫婦が病院の廊下で会ったのですが、数日前までも一緒に住めない、性格が違うと喧嘩ばかりしていた夫婦が娘の危機を見て、言葉を失い、お互いに抱き合って泣いていました。

ある意味で、その娘が死の陰の谷を歩くことによって、その夫婦を目覚めさせたということです。性格とか、魅力とか、「ああだ、こうだ」、そういうことが娘の命がかかわる危機の時は何もないことになったわけです。

しかし多くの人々はもっと本質的なことを見ることができないから、小さなこと、ささいなことに心を奪われ、心配して喧嘩しながら生きていきます。つまり、終末論的な信仰によって生きられないから、心配し、喧嘩しながら生きるということです。

だから、私たちは常に終末論的な観点で、イエス様のみことばを聞かなければ、それを理解することができないし、それを受け入れることも実践することもできません。言い換えれば、イエス様は私たちに、「あなたがたはこの地上で永遠に生きるような考えをしてはならないんだ。あの愚かな金持ちのように生きてはならないんだ。」と言われます。

ルカ12章に出る愚かな金持ちは畑が豊作だったので、倉をもっと大きく建てようとして倉を大きく建てました。そして、そこに穀物や財産をいっぱいに詰め込んで、こう言ったのです。19節に、「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」その時、イエス様は何と言われましたか?20節に、「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」これが終末論的教訓です。

若者たちはいつも自分が若いと思い、健康な人はいつも自分が健康だと思います。そして、この世の生活を楽しんでいる人は、それが永遠に続くと思いますが、そうではありません。いつ神様の恵みの門が閉ざされるかは、誰も知りません。ほとんどの場合、私たちが考えることより、もっと早く、その時がやって来るわけです。だから、私たちはその時になってから、「主よ。憐れんでください。助けてください。」と言わずに、主のみことばを聞く時、常に良い地に落ちた種のように、みことばを受け取らなければなりません。

だからこそ、神様は私たちを打ち砕かれるわけです。多くの人々を何に比べることができるかというと、水の上に浮いているどんぐりのようです。どんぐりは水の上に長く浮いていても皮をむいて中身を見ると、完全に乾燥しています。その皮があまりにも固くて水が入れないからです。

同じように、多くのクリスチャンがその皮、プライド、高慢、人間的思い、自分の義、こういうものがあまりにも固くて、その中にイエス・キリストが入れません。結局、神様がその皮を打ち砕かれます。苦難を通して、痛みを通して砕かれる時、その中にイエス・キリストが入られるし、そこから良い香りの香油が流れ出るようになります。だから入るためにも砕かれ、出るためにも砕かれる必要があります。私の中にイエス様が入るためにも砕かれる必要があるし、私の中から神の恵みが出て行くためにも砕かれる必要があります。

神様から用いられるためには、砕かれなければなりません。石膏のつぼを砕いたら、そこから香油が流れ出るように、石膏のつぼのような固い私たちの心を、ちゃんと砕かなければ、私たちの中にいらっしゃる聖霊様が、香油のように流れ出ることはできません。だからこそ、私たちの生命力は砕かれる時から働き始めます。

以前はどれほど頑張って努力してもできなかったことが、一回打たれて砕かれた時は、とても簡単に、それも自然にできることは、私たちの中にある神の恵みが、割れた欠け、砕かれた隙間から出てくるから可能であることをちゃんと覚えてください。結局、自分がやったのではなく、私たちの中にある神の恵みが、そうしたということです。

結論を出します。信仰はたくさんの種類がありますが、大きく二つに分けることができます。一番目はどうすればこの地上でうまく生きられるかという信仰で、二番目はどうすれば天の御国へうまく入られるかという信仰です。

大体、一番目の信仰がたくさんの人々に受け入れられます。願い事が叶えられる道、すべてがうまく行く道、祝福を受ける道をみんな好みます。しかし、イエス様はそれだけを教えられたのではありません。恵みばかり、祝福ばかり受ける道をイエス様は一度も教えられたことがありません。むしろ「心の貧しい者は幸いです。」と。幸いの人、祝福された人が誰なのかを教えられたのです。つまり、イエス様はすでに祝福された人のことを言われただけで、「ああいうふうにすれば、こういうふうにすれば、祝福される。」とは、一切言われませんでした。

だから自分にはあまり祝福がないと思ったのに、むしろ祝福がいっぱいある場合がたくさんあります。まさに、これが天国の御民の逆説的な生き方だということです。

・終末論的生き方、つまりどうすればこの地上でうまく生きられるかではなく、どうすれば神の国へうまく入られるかという信仰によって生きた結果、逆説的な祝福を受けた経験があれば、分かち合いましょう。
合計 144
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
144
ヨハネの黙示録14:14-20(愚かな人生を生きてはならない)
tbic | 2024.05.12 | 推薦 1 | 閲覧数 21
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143
ヨハネの黙示録12:10-12(終末の時は悪魔がもっと賢い)
tbic | 2024.05.06 | 推薦 2 | 閲覧数 22
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142
ヨハネの黙示録7:9-14(神様から祝福より、認められよう)
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141
マタイの福音書8:5-13(百人隊長の信仰)
tbic | 2024.04.21 | 推薦 2 | 閲覧数 33
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140
ルカの福音書5:27-32(天の御国にゴミ箱はない)
tbic | 2024.04.15 | 推薦 2 | 閲覧数 37
tbic 2024.04.15 2 37
139
創世記22:1-8「苦しみ(十字架)を受け入れれば、素晴らしい逆転(復活)がある。」
tbic | 2024.04.07 | 推薦 1 | 閲覧数 46
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138
テモテへの手紙第二1:7(無力からの解放)
tbic | 2024.03.31 | 推薦 1 | 閲覧数 48
tbic 2024.03.31 1 48
137
ヨブ記6:21-27(慰めの秘訣)
tbic | 2024.03.24 | 推薦 1 | 閲覧数 54
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136
ヨハネの福音書16:25-33(わたしはすでに世に勝ちました)
tbic | 2024.03.17 | 推薦 1 | 閲覧数 57
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135
ヨハネの福音書 14:1-5(変えられた言葉が新しい人生を造る)
tbic | 2024.03.10 | 推薦 1 | 閲覧数 59
tbic 2024.03.10 1 59

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