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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

マタイの福音書16:15-24(仮面をかぶらない)

投稿者
tbic
投稿日
2023-04-02 20:17
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マタイの福音書16:15-24『イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。』

今日は一番弟子であるペテロについて分かち合いたいと思います。ペテロは自分自身の弱さを持って主の御前にありのままの姿で進み出ました。私たちも主の御前にそのままの姿で進み出ればいいのです。欠点が多く足りないことは、私たちにイエス様が必要だということを意味します。

アメリカのニューヨーク州グレースチャペルの牧師レスリー・B・フリン先生はペテロを「ガリラヤ湖のような人だ。」と表現しました。ガリラヤ湖は海かと思うほど大きな湖です。ある時は静かで穏やかですが、あっという間に荒れ狂います。いつ波が起こるか分からない、それがガリラヤ湖です。ガリラヤ湖で魚を取っていたせいか、ペテロの性格もガリラヤ湖のようでした。いつどうなるか分からない、落ち着きのない性格だったのです。「静かにしていなさい」と言うときに騒ぎ、「目覚めていなさい」と言えば眠り、「眠れ」と言えば起きて動き出します。「勇気を持て」と言えば卑屈になって閉じこもり、「進み出ろ」と言う時には引き下がる人が、まさにペテロでした。イエス様も彼のことが、気がかりとなったに違いありません。

皆さん、イエス様が「人の子をだれだと言っているか。」と聞かれたとき、他の人々は「エリヤだと言っています、バプテスマのヨハネだと言っています。」と的外れな返事ばかりしていました。そこでイエス様は弟子たちに尋ねられました。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」その時ペテロは、待っていましたと言わんばかりに「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と正解に答えました。イエス様は大いに感動され「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」とペテロをほめて下さいました。感動されたイエス様は、やがてご自分が十字架にかかって死なれることを語られました。するとペテロは、今度は「そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」と言って、イエス様に忠告をしました。これに大いに失望なさったイエス様は、ついに「下がれ、サタン。」とおっしゃいました。このことは数日の間に起こった出来事ではありません。同じ場所で数分の間に起こったことです。人を感動させたかと思うと、すぐに失望させる、そんな目まぐるしく浮き沈みをする人がペテロでした。

マタイの福音書14章には、イエス様が海の上を歩かれた事件が紹介されています。暴風が吹き荒れる中、だれもが海の上を歩いて来られるイエス様を幽霊だと思いました。ところが、ペテロだけは「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来いとお命じになってください」と大胆なお願いをしました。しかし湖の上を歩いたものの、荒れ狂う暴風を見て恐れに取りつかれ、溺れてしまったのです。世の中に泳げない漁師など、いるものでしょうか?自分で泳げばいいのに、溺れたあげく「助けてくれ」と叫んでいるのですから、ペテロは本当に情けない人だなと思いました。

ペテロの性格は、ヨハネの福音書13章にイエス様が足を洗ってくださった時にも現れました。他の弟子たちは多少みじめな気がしても、じっとしていたというのに、ペテロはイエス様に自分の足を洗うことなど、させまいとして拒みました。ところが、イエス様が「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」とおっしゃると、今度は「それじゃあ、手も頭も洗ってください。」と言ったのです。イエス様も、これには啞然としたと思います。

また彼はマタイの福音書26:33では「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」と自信満々でした。ところがイエス様が捕まえられて、人々が「お前もイエスと共にいたではないか」と言うと、ペテロはすべての人の前で「そんな人は知らない」と否定したのです。ペテロの特徴は、このようにいつも両極端を行き来するところにありました。しかし、問題だらけのペテロが、復活のイエス様に出会った後、大きく変えられました。イエス様は完璧なペテロに向かって「あなたはペテロ(岩)です」とおっしゃったのではありません。彼はもともと「シモン(草の葦)」という名前でした。イエス様はそのシモンに「」という意味の「ペテロ」と名前を付けて下さいました。ペテロがまだ弱かった時、彼の気質を知り、過去を知り、未来を知っておられた主が「あなたをペテロとする」と言われて、彼を変えて下さったのです。だから変えられない人は、一人もいません。ペテロのような弱さがあっても、イエス様に出会ったら、誰でも変えられます。

ではいったいペテロは、どのようにいやされ、変えられたのでしょうか?まず一番目の方法はペテロ自身が自分の弱点をもって、主の御前にあるがままの姿で進み出たことです。私たちも主の御前にありのままの姿で進み出なければなりません。弱さが多く足りないことは、私たちにイエス様が必要であるということを意味します。自分の長所のゆえに、イエス様の前に進み出る人はほとんどいません。弱さのゆえに、主のもとに進み出て自分の弱さを告白するようになるのです。イエス様がペテロを高く評価されたのは、その正直さのゆえでした。ペテロは弱いままの姿で進み出て、主の御前にこのように告白したと思います。「主よ。私は罪人です。私はお天気屋です。私は意志が弱いし、整えられていない者です。主よ。私は矛盾だらけの人間です。

多くの人は、自分の弱点を自分で見ることができません。しかしペテロは自分の弱さをよく知っていました。その分、回復も早かったのです。ペテロは自分の弱さを見て、主の御前にそれをさらけ出しました。そうして主はペテロの弱さを一つずついやし、取り扱われたということです。

イエス様が最も嫌われた人々はパリサイ人たちでした。彼らは外側を美しく飾ることに懸命になっていました。内側は腐っているのに、それに気づかず、包装だけ綺麗にしていたのです。しかし主が願われるのはペテロのような姿です。あるがままの姿で主のもとに進み出ることです。パリサイ人のように、外面を飾ってはいけません。主はまた、このようにも語られました。マルコの福音書2:17、「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。

私たちは礼拝の時、ペテロのような心で主の御前に立たなければなりません。癒しにはプロセスがあります。ペテロは一朝一夕でペテロとなったのではありません。イエス様は原石のようなシモンを、三年半の間、削って、磨いて、加工し、宝石のようにして、ペテロにされたのです。私たちが癒される秘訣も同じです。ペテロのように、ありのままの姿で、主のもとに進み出なければなりません。それによって、癒しの御業が現れるのです。

そして二番目、イエス様がペテロを癒された方法は励ましでした。人が造り変えられる方法は、気質によって少しずつ異なります。例えば、イエス様がパウロを変えられる時には、どうされたのでしょうか?使徒の働き9:4に、ダマスコの途上で「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」とおっしゃった主の声は、聖なる御声というよりは、叱りつける声でした。

そのような叱責を聞いたパウロは、これは果たして何のことだろうかと吟味し、変えられました。しかしペテロのような短気の人は違います。叱りつけられると、落ち込んで何もできません。𠮟って変わる人は、ドイツ帝国の時代、鉄血宰相と呼ばれたビスマルクのように、英雄意識や意志が強い人たちです。そういう人は耳の痛いことをちょっと聞くと、それを受け止めて何とかやり遂げるものです。神様はパウロをこのような方法で変えられました。

しかしペテロに同じようにしたら、彼はへたり込んでしまったことでしょう。ペテロのような多血質の人には、継続的な励ましが必要です。イエス様はペテロが沈み込んでいたら、励まし、愛のまなざしでご覧になりました。復活された後に、ペテロと会われた時も、「お前はそれでもわたしの一番弟子なのか?わたしを裏切って、呪ったじゃないか!」と叱りつけるのではなく、かえって励まされました。ヨハネの福音書21:15、「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか」とお尋ねになり、ペテロが「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えると、「わたしの羊を飼いなさい」と継続的に励ましの言葉を語られました。多血質の人は自分の弱さをよく知っています。そのため、誰かが「よくやっているね」と励ましてあげると、気分が良くなってバリバリ働くようになります。多血質の人の場合は積極的に励まし、すべてのことがうまくいくようにしてあげることが大切です。

ペテロは何でも一番でした。一番立派にやったという意味ではなく、一番初めにやったという意味です。ペンテコステの日に120名の信徒たちの上に聖霊が臨んだとき、ペテロは真っ先に進み出ました(使徒2章)。誰かが決めたわけではありません。ただ、自ら進み出たのです。聖霊が下ると徹底的に悔い改めて、力を受けると即座に従うのが、ペテロの特徴でした。

イエス様が復活された後、その噂を聞いて、最初に駆けつけたのはヨハネでした。ペテロは、ヨハネよりも少し遅れて墓にやって来ました。しかしペテロは、ヨハネが怖がって外からのぞき込んでいる間に、墓の中に一番初めに飛び込んで行ったのです。これがペテロの長所です。ヨハネだけでは、事は起きません。ペテロがいなければならないのです。どこであっても、このペテロのように先頭に立って進んで行く人が必要です。主はこういう者を尊く用いられます。

イエス様を否認したのもユダ以外にペテロだけでしたが、ペテロほど大きく用いられた器もいません。このような人が神様のもとに来るなら、いつも神様から励ましを受けて働く、信仰の人となります。そのためには、やはり礼拝が重要です。礼拝を通して神様から励ましをいただき、御言葉によって慰めを受ければ、誰でも力を発揮することができます。主は今日も御言葉を通して私たちを導き、礼拝を通して私たちを励ましてくださいます。

三番目に、イエス様はペテロを聖霊に満たすことによって癒されました。聖霊は私たちの弱さを取り除いてくださり、長所をより大きくしてくださいます。聖霊の満たしは、空き瓶に水を満たすのと同じです。「聖霊に満たされる」とは、聖霊が私たちを支配するということです。聖霊に満たされ、聖霊の手にとらえられさえすれば、この短気の多血質の人ほど、神様に用いられやすい人もいないと思います。主が御業をなされるとき、無条件に従って進み出て行くからです。従順の速度がとても速く、力があります。ペテロは聖霊に満たされ、自分の長所を活用し、力いっぱい用いられました。

皆さん、聖霊の満たしの第一の特徴は、従順です。従順に歩んでいく所にこそ、聖霊の御業が現されます。宣教師たちが中国で福音を伝えた時、中国人たちに「イエス様の働きの中で、最も印象に残ったことは何でしたか?」と尋ねてみたそうです。すると、儒教の影響を強く受けた中国人たちは「イエス様が弟子たちの足を洗ったことが一番印象的だ。」と言ったそうです。イエス様がなされた、ものすごい奇跡よりも、恩師でありながら弟子たちの足を洗われた、そのことに最も感銘を受けたと言うのです。

世の中には癒しの賜物のある人や、悪霊を追い出す人がいます。ヨシュアは太陽が止まる(実は地球が止まった)という奇跡を体験しました。しかし私たちはそんな賜物はありませんが、私たちにもできることがあります。イエス様が弟子たちの足を洗われたように、他の人の足を洗うということです。私たちにない、力ばかりを見て、他の人をうらやましがることは、やめましょう。イエス様がなさったことの中で、私たちにできることをしてみては、いかがでしょうか。他の人のために、とりなしの祈りをすること、愛すること、足を洗うことなどをやってみること。それだけでも、ものすごい力が現れると思います。

主が私たちに聖霊の油を注がれるのは、奇跡を行なってほしいからではありません。主は私たちに、自分にできる小さなことに従ってほしいと願っておられます。旧約聖書の中で、最も大きな比重を占めている人物はダビデです。しかしダビデの人生を通して奇跡は一度もありません。エリヤの時代のように、小麦がなくならず、油がなくならないというような奇跡は一回もなかったのです。ダビデは誠実に神様と共に歩む人生を生き、その時に彼の人生に神の栄光が現れました。

皆さん、イエス様の弟子になるとは、どういうことでしょうか?聖霊の油注ぎを通して、小さなことに従う姿、謙遜に他の人々の足を洗う姿へと、変えられていくことです。ペテロは聖霊の満たしを受けました。その後、彼がどのように変えられたのか、聖書を調べて見ると、ペテロ第一5:5、「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」ここで、「みな互いに謙遜を身に着けなさい。」という言葉はイエス様が行なわれた洗足式の場面を連想させます。イエス様によって、ペテロは従う者へと変えられていったのです。ペテロ第一5:7-8、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

ゲッセマネの園でイエス様が「祈っていなさい」とおっしゃった時に、眠りこけていたペテロが、今は「目覚めていなさい」と強調しています。自分もできなかった祈りを、自分が行なっているばかりではなく、他の人々にも勧めています。ペテロ第一5:10、「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」彼は、主が完全にしてくださるという事実を信じました。同じように、主は私たちを必ず変えてくださいます。

私たちが他の人々のことを「ああだ、こうだ」と評価してしまう理由は何でしょうか?人は変えられる過程であるということを知らないからです。人は誰であれ、今は工事中です。

ペテロは、自分が変えられるのに時間がかかったことを知っていました。そのため、他の人たちのことも余裕をもって待てるようになったのです。彼は「主が完全にしてくださる」と言いました。今、完全なのではありません。やがて完全にされ、堅くされ、強くされるということです。神様の約束を信じてゆだね、人格が変えられることを信じました。短気の多血質の人は計画性が足りず、物事をいいかげんに行なう傾向があります。

しかしペテロ第一3:15を読みますと、「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」私はこの御言葉を読んで、笑いました。他でもない、自分こそ備えることが苦手だったペテロが「いつでも用意していなさい」と語っているからです。ペテロはこんなことを言うまでに変えられたのです。彼はいいかげんに生きる人生ではなく、備えられ準備された人生を生きる人になりました。聖霊が私たちをもこのように取り扱われます。

愛する皆さん、この世に完全な人がいるでしょうか?ペテロも神様が長い時間をかけて整え、用いた人でした。だから私たちも自分の弱さに失望してはなりません。また他の人を罪に定めることもしてはなりません。ペテロのように変えられるためには、弱さをもったまま主の御前に進み出て、主の励ましを受けて回復し、聖霊に満たされて主に従い、主の力と御業が現れる人生を生きなければなりません。ぜひ皆さん、自分にできる小さなことから従っていく信仰の人になることを切に願います。

結論、神様に用いられるための原則。

1.主の御前に仮面を外す(脱ぎ捨てる)ことです。ペテロは自分自身の弱さを隠さず、主の御前に進み出て行きました。私たちが癒される秘訣は、ペテロと同じように弱い自分のありのままの姿で主のもとに進み出て行くことです。

2.励まされる時に癒されます。イエス様はペテロを励ますことによって癒されました。イエス様はペテロを愛のまなざしをもって、ご覧になりました。御言葉によって励ましを受ける時、私たちは変えられ、癒されるのです。

3.聖霊に満たされる時に変えられます。イエス様はペテロを、聖霊に満たすことによって癒されました。聖霊は私たちの弱さを取り除いてくださり、長所をより大きくしてくださいます。聖霊に満たされるとは、聖霊が私たちを支配するということです。聖霊に満たされるためには御言葉と祈りに専念し、主を礼拝しなければなりません。

・聖霊に満たされた経験があれば、分かち合いましょう。
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