メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ヨハネの福音書14:5-6(道は一つしかない)

投稿者
tbic
投稿日
2023-04-16 22:10
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ヨハネの福音書14:5-6『トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」』

日本には八百万の神々と言われるほど、神々がいっぱいいて、どの神様を選んでいいのか、分からないのが現実です。その中で、イエス様の道さえ選んだら天国に続くわけですが、下手な道を選ぶと、全く違った場所にたどり着きます。イエス様は『わたしが道であり、真理であり、いのちです。』と断言されました。

いつも話すのですが、この言葉って、普通の人では絶対に語れない言葉です。私が語ったら、絶対にいかれていると思われます。しかしイエス様はこの事を全世界に告げて、二千年の歴史の中で、イエス様に従う人たちは絶えないわけです。この言葉は人類にとって、本当に重要な言葉です。今日の本文の14:6、『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

普通の人の考え方は「富士山に登るとき、いろんなルートがあるように、どの道でも、やがて頂上に着く。どの宗教だって同じだ。」と考えています。しかし、違うのです。天国に行くためには、イエス・キリスト道しか、道はないのです。それで『わたしを通してでなければ』と語っています。私たちの神は三位一体の神様です。神は、天地万物を支配しておられます。とんでもなく大きなお方です。そんな方を、知ろうと思っても、知れるわけがありません。その方が地上に人となって来てくださったわけです。だからイエス様は神様です。しかしイエス様が地球に来ている間は、宇宙はコントロールを失った、神様がいなくなったかと言うと、そうではありません。依然として宇宙は保たれていたということは、神様はしっかりとおられたわけです。

やがてイエス様は十字架にかかり、よみがえられて、天に帰られました。そうしたら地球は神様を失ったのかといったら、そうではありません。神の霊である聖霊様が支配してくださっています。これは父なる神様も、子なるイエス様も、聖霊様も、同じ神様で三つにして一つの神様であられる証拠です。人間の脳みそではなかなか理解できないのですが、この偉大なる神様に接近するためには、「イエス・キリストという道」以外にありません。イエス様という道を歩んだら、私たちは偉大なる神の元に到達できるわけです。その道以外は神の所に到達できません。使徒の働き4:12に、こんな言葉があります。『この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。

皆さん、イエス様の名前以外は、神の所に到達することができないばかりか、悪魔の所に到達してしまいます。悪魔は名前の法則をよく知っていて、イエス様以外の神々の名前で祈りを捧げさせるのです。祈る人は気持ち的には「神様に祈りを聞いてほしい」と願っています。しかし名前が違えば、受け取る存在も変わるのです。電話も、同じじゃないですか。一桁違っても通じないし、他の所にかかってしまいます。

同じです。祈りは純粋で、神様に祈りたいと願っていても、番号が一桁違いでも他の所にかかるのと同じように、イエス様以外の名前を使ったら、他の存在にかかってしまうのです。ということは、イエス・キリストという名前は重要です。教会はこの一つの道を伝えるために存在しています。この道は一本道です。イエス様の道だけを伝えるために、私たちは働いています。この名前以外は、決して救われる名はありません。

皆さん、私たちは不思議なことにイエス様と実際に会ったことがないのに、イエス様の存在を信じています。これは、すごいと思いませんか?イエス様が目の前に現れた体験をする人は特殊です。普通は見えません。イエス様の声だって、別に聞こえるわけではありません。しかし私たちはイエス様を愛しているし、イエス様に従っているのは聖霊様の働きです。

ペテロはイエス様の側で話をしたり、交わりをして過ごした弟子です。しかし最終的には、イエス様を裏切ってしまうことまでしたわけです。彼はイエス様の一部始終を見届けた人物でした。しかし彼はイエス様と実際に出会ったことがないのにイエス様を愛し、イエス様に従っているクリスチャンたちを見て、感動したのです。そのことをペテロ第一1:8-9で記しています。『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。

今日ここにいらっしゃる皆さん、イエス様と実際に出会ったことはないかもしれませんが、イエス様を愛しているし、イエス様に従う気持ちがあるのは、救われている証拠です。時々、私たちは、本当に救われているのかと考える時があります。しかし見た事がないイエス様を現実に愛する気持ちがあるとしたら、救われている証拠です。『栄えに満ちた喜びにおどっています』とあります。クリスチャンになると、なんか知らないけど、心の中に喜びが湧いてきます。これは救いを得ている証拠です。

それでペテロは感動しています。「自分は目の前でイエス様を見て、また一緒に話をした。しかし最終的に、イエス様を裏切ってしまった。けれども、イエス様を実際に見たことがないクリスチャンたちが見たこともないのに、イエス様を愛しているじゃないか。従っているじゃないか。喜びに満たされているじゃないか。これは救われている証拠だ。」と感動したと思います。今日皆さんのうちに、喜びはありますか?イエス様を愛する愛がありますか?それがあれば、聖霊によって、「皆さんは救われている」と主が語っておられます。

イエス様は目には見えませんが、今の時代、どこで出会うことができるのかというと、基本的には「聖書」です。みことばの中で主に出会うことができます。ヨハネの福音書1:1-5に、このように記されています。『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。』『初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』とありますが、創世記1:1-3にも、神が天と地をことばで創造された様子が記されています。

はじめに神が天と地を創造された。地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。』宇宙と地球は、神様のことばによって造られました。聖書は、神のことばが記されている書物です。私たちは教会に来て、神のみことばを聞き、自分でも聖書を読んでいるうちに、みことばの中で、神様はご自分を現されます。すると知らないうちに、見たこともない方を愛するようになるわけです。本当に不思議な現象です。

皆さん、言葉はすごい支配力があります。私たちは何気なく言葉を使っていますが、言葉は私たちを支配する原動力です。言葉を持っている生物は人間しかいません。他の生物は言葉を持っているようには思えません。でも、ペットを愛している方々は「ペットの言葉も分かる」と言われます。よくわかりませんが、なんかペットも言葉を持っているようです。

ヨナ書を読みますと、ニネベという町がどうして助かったのかと言うと、12万以上の右も左もわきまえない人々と、多くの家畜がいたからでした。それで神様はニネベを助けたのです。神様は家畜やペットにまで愛の目を注いでおられる、やさしいお方です。そして神がペットを助けるというのは、ある意味、神の究極的な憐れみの姿ではないかと思います。主は、ペットにさえも目を留めておられるお方です。ということは、私たちに目を留めておられないはずがありません。その神様が言葉の中で出会ってくださるというのです。言葉とは神様が使っていたものを、人類に貸して下さったわけですから、何気なく使っていますが、支配力はたいへん強いのです。

皆さん、刺身好きですか?私はあまり好きではありませんが、「刺身」という言葉を聞いただけで、よだれが出る人がいます。しかし刺身をこの言葉に置き換えたらどうでしょうか?「死んだ魚の生の肉」実際はこの言葉の方が正確です。刺身とは「死んだ魚の生の肉」です。でも「死んだ魚の生の肉ほしいですか?」と聞かれたら、「いらない」と言いたくなります。しかし「刺身を食べたいですか?」と聞かれたら、「食べたい」と答える人が多いと思います。ということは、私たちは魚の肉を食べる以前に、言葉を食べています。もう一つは牛乳です。「牛乳、大好き」という人、いますか?牛乳をたくさん飲むと背が伸びると言われるのですが、私は生臭くてあまり飲めないのです。でも牛乳が白いのは神様の配慮だと思います。もし赤かったら、私のような人は一切、口にしないはずです。牛乳の色が、白いのも神様の恵みです。しかし牛乳って、実際は何かご存じですか?「牛のリンパ液」だそうです。牛のリンパ液、リンパ管内を流れて毛細血管を通り、牛の組織内に入っていく液体を、皆さんは飲みたいですか?それを聞いて「飲みたい」と答える人は少ないと思います。ということは、白い液体というより、私たちは言葉を飲んでいるわけです。ステーキだってそうです。ステーキとは何かというと「殺された牛の肉を焼いて食べる」ということです。殺された牛の肉とは、現実です。案外、私たちは知らずに、言葉に支配されています。ということは、神様のことばを蓄えると、神様のことばで支配され、知らないうちに変えられます。神様がご自分をことばの中で紹介されているのはとても重要です。

私たちは毎日、聖書を読んで、神の前に自分の言葉で祈るのですが、祈る時にはイエス様の名前を通さなければいけません。先ほども言ったように、『わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。』とあるからです。私たちの祈りは、イエス様の名前を通すと、父なる神様の所に届きます。「イエス様」と祈ったら、正確には「父なる神様の所に通じますように」という意味です。基本的に正しい祈りは、「イエス様の名前を通して、父なる神様に祈りをささげる」ということです。イエス様が言われたように『わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。』ということですから、「父なる神様に願いを届けたかったら、イエス様の名前だけを使って祈れ」ということです。私たちが「イエス様」と呼びかけても、父なる神との会話であり、答えはみことばから、聖霊によって告げられるのです。本当にイエス様の名前で祈ると、聖霊様が来られます。TBIC教会にこの聖霊が注がれ、新しい道が私たちの前に開かれるよう、切に祈りましょう。

そして旧約聖書には「二つの道」について記されています。申命記11:26-28、『見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福とのろいを置く。祝福とは、私が今日あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従った場合であり、のろいとは、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が今日あなたがたに命じる道から外れて、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行った場合である。』モーセは神様から来たことばを民に告げたのですが、「あなたの前には二つの道がある。それは祝福とのろいの道だ。」と告げました。祝福の道とは、神に従う道、すなわちイエス・キリストの道です。しかしもう一つ、のろいの道もあります。のろいの道とは、『あなたがたに命じる道から外れて、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行った場合である。』というのです。

人生とは、どちらかの道を選択することです。イエス様を信じた人たちは、すでに祝福の道を選んでいるわけです。しかしもう一方はのろいの道だというのです。「のろいの道」は具体的には、「他の神々に従うこと」です。偶像礼拝です。偶像礼拝は手で作った神々を拝む事です。神社や寺に行って、手を合わせるのは偶像礼拝です。しかしそこで祈る人たちの祈りは、結構、純粋です。

神社に奉納されている絵馬を見るのは、結構、興味深いです。絵馬には願い事が記してあるのですが、そこは個人情報の宝庫です。住所・名前も書いてあり、願い事や必要も書いてありますから、あそこで情報収集して、DM(Direct Message)を送ったら絶対に商売になると思います。そこに書いてある内容は教会の祈りの課題と、ほとんど同じです。病気が治りますようにとか、受験がうまくいきますようにとか、結婚ができますようにとか、問題が解決しますようにとか、全て内容は同じです。では、何が違うのかといったら、どの神様の名前で祈るかの違いです。イエス・キリストの名前で祈れば、祝福の道に行きます。祈りの電話は真の神にかかります。しかし他の神々の名前を選んでしまうと、悪魔が神のふりをして祈りを受け取ってしまうのです。だから結果が悪いのです。

皆さん、このような言葉があります。誰の言葉だと思います?「私には神(光)が見えない。五十年間、私は虚しい暗闇を生きてきた。虚しい。孤独だ。私は神の存在を確信できなかった。私の信仰はどこへ消えたのか?心の奥底には何もなく、虚しさと闇しか見えない。この得体の知れない痛みがどれだけ辛いか。神が存在しないのなら、魂の存在はありえない。魂が真実でないとすれば、イエス、あなたも真実ではない。

この言葉、誰が語った言葉なのか、知っていますか?これは、皆さんがよく知っている人物が残した言葉です。マザー・テレサです。ノーベル平和賞を受賞した人物です。インドのカルカッタで、「死を待つ者たちの家」を作って大勢の人たちを世話し、聖人だと言われている人物です。ローマカトリックでは、彼女を聖人にするというのです。世界中の人に、「あなたの尊敬する人は誰ですか?」と聞くと、「マザー・テレサだ。」と答える人が最も多いそうです。しかし、彼女が晩年に語った言葉がこの言葉です。

彼女が死んでから、カトリック教会から、「Come Be My Light」という本が出版されました。「来て、私の光となれ。」という意味ですが、その本を読むと、彼女の内側の真実が分かります。彼女には「神の愛宣教会」を始める前から、死ぬ間際まで数人の相談相手がいたのですが、彼女は自分の内面を彼らに明かしていたのです。手紙に書いていました。

若い時から死ぬ間際まで、彼女が一貫していたのが「光が見えない。孤独だ。喜びがない。私には二つの顔がある。一つはみんなの前の演じている顔。もう一つは、どうにもならない闇を抱えている自分。」と彼女はメンターである大司教たちに告げていました。彼女はその手紙を破棄してくださいと頼んでいたのですが、それが保存され彼女の死後、カトリック側から出版されました。その本では「マザーは、ここまで深い闇と戦いながら、神に仕えた」と美化しています。しかしこれは美化されるものではなく、彼女の現実であり、本心です。「私は孤独だ。神が分からない。」

彼女の働きは誰にも、まねできない働きだったかもしれません。死を待つ者たちの家は貧しすぎて路上で倒れ、死にかけている人たちを施設に連れて来て、ベッドの上で死なせてあげたいという働きでした。しかし彼女はその人達に一度も伝道していないのです。ヒンズーの人ならば、ヒンズー教。仏教の人ならば、仏教。イスラムの人なら、イスラム教。自分の宗教で死んで行くことが、人にとって最も幸せだと考えていたからです。なぜなら、自分が救われた実感がなかったからです。自分の信仰に確信がなかったから、「イエス様だけが道ですよ」と自信を持って言えなかったと思います。しかし人は行いによっては救われません。私たちはイエス様の道だけをしっかりと握っておかなければいけません。どんなに偉大な働きをしたと人々から評価されても、イエス様の道を歩んでいなかったら、何にもなりません。なぜ、彼女がこのようになってしまったのかというと、それは彼女の生まれ故郷の環境や家系など、様々な要素が関わっています。その研究本がカトリック関連から出版されています。

皆さん旧約聖書には、私たちが信じるモーセの十戒があります。一から十までを読んでみますと、
  • わたしのほかに神があってはならない。
  • あなたはいかなる像も造ってはならない。仕えてはならない。拝んではならない。
  • あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
  • 安息日を心にとめ、これを聖別せよ。
  • あなたの父と母を敬え。
  • 殺してはならない。
  • 姦淫してはならない。
  • 盗んではならない。
  • 隣人に関して偽証してはならない。
  • 隣人の物をほしがってはならない。
これがモーセが神から受け取った十戒です。カトリック教会もキリスト教だと言いますから、十戒を語ります。では、カトリック教会の十戒はどうでしょうか?これです。
  • わたしのほかに神があってはならない。
  • あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
  • 主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。‥‥
あれ?さっきのと始めから、ちょっと違うじゃないか?と気づきませんか。一番目は同じですが、二番目の「偶像を拝んではならない。」という戒めをカトリック教会は省いて、十番目を二つに分け「隣人の物をほしがってはならない。」「隣人の妻をほしがってはならない。」とします。

なぜかと言うと、マリアや聖人、キリスト像を拝んだりしますから、具合が悪いわけです。これは救いの道どころか、人々にのろいの道を用意するようなものです。いくら、人のために役立った、ノーベル平和賞に値するというような働きをしても、自分の中には「光がない。虚しい。」と死ぬまで言い続けなければならない理由はここにあります。ある意味で彼女はかわいそうだったと思います。イエス・キリストの道さえ、はっきり分かれば変わったはずです。

彼女の祈りについてのレポートがありました。彼女はどういう祈りをしていたかというと、彼女が出した手紙には、必ず、一つのマークがついていました。「+LDM」と記しました。+LDMとは、「マリアの取り次ぎによってイエスへ」という意味です。彼女の祈りは、すべてマリアの取り次ぎ、すなわち、マリアの名前を通してイエスに祈るという祈りでした。十字架マークとLDMは、それを現しています。彼女はそれ以外の祈りをしなかったそうです。マリアの名前を通し、イエスに取り次いでもらい、父なる神へという祈りでした。結局、彼女の祈りは、マリアへの祈りでした。その事がマザー・テレサに関する研究本に記されていました。イエス様も、父なる神様も、近くにおられたはずなのに、一文字違うだけで、こうも違うのかと愕然としました。

イエス様の名前を通して祈ることができる、イエス・キリストの道を知っていることは、何にも比べることのできない、大きな祝福です。私たちはイエス様の道を、一人でも多くの人たちに教えなくてはいけません。決して行いで救われるのではなく、ただ神の恵みによって救われるからです。

・自分が救われたと確信できる証拠があれば、分かち合いましょう。

最後に一言、お祈りさせていただきます。

愛する天の父様。御名をあがめて、心から感謝します。私たちはイエス様、あなたの名前で父なる神様のところに到達できることを、心から感謝します。今日私たちはイエス様の名前で父なる神様の前に出て祈ります。言葉が人となってくださったイエス様、十字架で死んで、よみがえってくださったことによって、今私たちは救われていることを心から感謝します。この道を一人でも多くの人たちに伝えることができますように。今日この中に、イエス様を知らない方がおられるならば、今日からイエス様の道を歩んでいくことができますように。イエス様が天国への道を造ってくださいました。そのために私たちも働いていきます。一刻も早く、この地上に帰って来てくださって、地球の王様となってくださる事を切に祈ります。イエス・キリストの御名によって、父なる神様に祈りをおささげします。アーメン。
合計 144
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
144
ヨハネの黙示録14:14-20(愚かな人生を生きてはならない)
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143
ヨハネの黙示録12:10-12(終末の時は悪魔がもっと賢い)
tbic | 2024.05.06 | 推薦 2 | 閲覧数 22
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ヨハネの黙示録7:9-14(神様から祝福より、認められよう)
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マタイの福音書8:5-13(百人隊長の信仰)
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ルカの福音書5:27-32(天の御国にゴミ箱はない)
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創世記22:1-8「苦しみ(十字架)を受け入れれば、素晴らしい逆転(復活)がある。」
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ヨブ記6:21-27(慰めの秘訣)
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ヨハネの福音書16:25-33(わたしはすでに世に勝ちました)
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ヨハネの福音書 14:1-5(変えられた言葉が新しい人生を造る)
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