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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ヨハネの福音書17:15(悪い者から守ってくださる神様)

投稿者
tbic
投稿日
2023-04-30 14:20
閲覧数
165
ヨハネの福音書17:15「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」

マタイの福音書6:13で、イエス様は私たちに祈りを教えてくださいました。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」 主の祈りです。

皆さん、真の聖さ(清さ)は戦いの結果です。私たちクリスチャンの聖さは、楽なソファーに座っている状態ではやってきません。花の道を散歩する時では得られないのが聖さです。つまり聖さはクリスチャンが情欲に対抗してサタンと戦う時に、その激しい戦いの後、勝利から得られるものです。

そうしたら、私たちは 「悪魔サタンが私たちの聖さに邪魔するものであれば、なぜ神様は彼らを滅ぼさないのか。」という質問をすることができます。その答えは、悪魔が私たちの聖さ、つまり霊的成長に必要だからです。ふいごの火が金を鍛錬するために絶対に必要であることと同じ原理です。

私たちの筋肉が抵抗を受ける時だけ、強くなるように、私たちの体はそうしないと弱くなります。それは霊的領域にも正確に同じです。私たちが霊的に強くなるためには、つまり聖くなるためには悪魔の抵抗が必ず必要です。まさに、これがサタンの誘惑を私たちに、そのまま許される神様のご計画です。

エデンの園でアダムが、まだ罪を犯してない時に彼には罪はないのですが、しかしまだ聖くはなりませんでした。(Adam was innocent - but innocence is not holiness.)もしアダムが試みに会わなかったのであれば、彼は一生涯、無罪( innocent罪のない者)として残っていたかもしれません。しかし決して聖くはなかったと思います。なぜかというと、聖さ(holiness)は誘惑と試みに打ち勝った者にだけ、与えられるからです。

純粋さ( innocent)は中立的な状態であり、そこで聖くなるためには、アダムは試みに打ち勝つ必要がありました。だから試みは良いことですが、それには危険の負担が伴います。むしろ試みに負けて、聖い者の反対である罪人になってしまうからです。不幸なことにアダムは試みに負けて、罪人になってしまいました。

イエス様は へブル4:15に、「私たちと同じように、試みに会われたのです。」しかしイエス様はアダムと違って、すべての試みに打ち勝ちました。だからイエス様は私たちすべてのクリスチャンの模範、モデルとなっておられます。神様はそれを、切に願っておられます。

へブル5:8-9に、「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、」と出てきます。イエス様の聖さ、イエス様のみこころへの従順は、ご自分が受けられた苦難、お受けになった試みを通して証明されました。その苦難の試みに打ち勝ったということです。

だからイエス様は祈られる時、 今日の本文のヨハネの福音書17:15に、「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世(苦難)から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」と祈られたわけです。悪と苦難と試み、試練に打ち勝った人だけが聖くなり、神のみこころに従ってイエス様に似た真のクリスチャンになるからです。

イエス様はご存知でした。弟子たちが今、この世から受ける試練や誘惑、圧力が全部消え去ったら、彼らは決して聖くなれないことを、もうご存知でした。なぜかというと、聖さは無罪の状態ではなく、罪と苦難、誘惑と戦って勝利した後、得られるものだからです。

私たちは誘惑と罪を区別しなければなりません。私たちが偶然に会うものによって誘惑されれば、それは罪ではありません。しかし私たちが誘惑されるものを続けて見たり、それをずっと考えれば、私たちは罪を犯してしまいます。

私たちが誘惑を受けることは避けられません。しかし私たちは確かに私たちの目と心を誘惑するものから守ることは選択できます。神様は私たちを罪に陥れる方ではありません。罪というのは私たちが誘惑に陥って、自分の意志で自ら罪を選択することです。

宗教改革者ルターは言いました。「私は鳥が私の頭の上を飛んでいくのを防ぐことはできないが、私の頭の上に巣を作るのを防ぐことはできる。」と。

こういうふうに私たちは、誘惑がやって来るのを防ぐことはできません。しかしそれが私たちの心の中に定着することを防ぐことはできます。その心の戦いをして、その心の戦いで勝利した後、初めて私たちは聖い者になります。

ここで一つ考えなければならないことは、私たちがもっと聖くなるために、もっとたくさんの誘惑に近づく必要はありません。鳥が頭の上を飛んでいくのは防げませんが、わざと鳥を探しに行く必要はないということです。

神のみことばは、私たちがどれほど聖くなったのかを証明するために、たくさんの誘惑に遭遇しなければならないとは教えません。むしろその反対です。私たちは誘惑から逃れなければなりません。パウロはテモテに自分自身を誘惑から守り、そこから逃げなさいと言っています。

テモテ第二2:22に、「あなたは、若い時の情欲を避け、」ここで「避ける。」という言葉は、「逃げなさい。」という意味です。それがどの種類の誘惑であれ、私たちは鳥が飛んでくるのを、できる限り避けなければなりません。いや、逃げなければなりません。

若者たちはたまに、いたずらをするのですが、山のてっぺんの崖の所で、落ちずにどうやってもっと危ない所まで行けるか、試してみるのです。物心がついていない子どもたちも、鉄道のプラットフォームで列車にはねられず、どれほど近くまで行けるのかを試してみよとします。

しかし正常な親は、それを勧めません。むしろそういう危険から遠く離れなさいと言うわけです。まさにそれが、神様が私たちにおっしゃるみことばです。「誘惑から、試みから遠く離れなさい。」と。「試みに会わせず、(Lead us not into temptation)」主の祈りに出るように、神様は私たちを試みに(誘惑に)導く方ではありません。ただ私たちのそれぞれは、自分の欲に引っ張られて、自分が試みに、誘惑の崖の所に近づくことだけです。

だから私たちは心の段階、感情の段階で、その試みを遠ざける必要があります。続けて近くに行って、続けて見つめるのであれば、試みに打ち勝って聖くなれるのではなく、むしろ試みに負けて、罪のどん底に落ちる惨めな人生となります。だから私たちの祈りは、コリント第一10:13、「あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。」というみことばのように「愛する天のお父様、私をあまりにも強い誘惑と苦しみ、試練に会わせることはなさいませんように。」と祈らなければなりません。

だからこそ、イエス様も主の祈りで、「私たちを試みに会わせず、」これが「誘惑と罪に引っ張られないように。」という意味であれば、「悪より救いいだし給え。」は反対に、「神様にもっと引っ張られるように。」という意味でもあります。

この「救いいだし給え。」は、私たちが悪とサタンから救われる道は、主にもっと近くに行くしかないからです。 まるで時計の振り子が左右に動くように、私たちが誘惑と悪に引っ張られないためには、主にもっと近づいて行くしかありません。

重力(下に引っ張る力)と揚力(上に浮かべる力)の対決で、重力に勝つ道は揚力を強くするしかありません。今日も神様と悪魔の真ん中に立っている私たちを、神様と悪魔が両方向から引っ張り出しています。そうしたら、皆さんの意志はどの方向へもっと近くに引っ張られて行くのでしょうか?

こういう戦いと葛藤が全然なければいいのですが、私たちが成熟して聖くなり、主に似て行く救いの完成を成し遂げるためには、この戦いは私たちが必ず、通って勝利しなければならないプロセスでもあります。だから、神様が私たちにそういう誘惑と試練、苦難と葛藤を許すわけです。

ローマ6:14に、「罪はあなたがたを支配することがないからです。(Sin shall not be master over you)」と出てきます。しかしこのみことばは多くのクリスチャンの生活の中では、なかなか成就しない みことばでもあります。なぜかというと、彼らの心の深い所では「罪からの自由」を切に願ってないからです。わずか1%だけでも、罪を楽しみたいという心があるからです。

彼らは、「神様、どんな犠牲を払ってもいいです。この罪から私を救い出してください。」と叫びません。もし重病にかかった人が、自分の病気が癒されるよう、切に求めるように、私たちが魂の病気から癒されるように、罪から自由になれるように、切に求めるのであれば、私たちは必ず、変えられると思います。

しかし、ほとんどの人々はそうしません。その結果、いつも罪に屈服して奴隷のように生きるわけです。聖く生きられません。それで、奴隷だったイスラエルの民は、こう叫びました。

出エジプト記2:23-25、「それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。

叫び求める人は、必ず救われます。エレミヤ書29:12-13、「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。

これが聖書の原理です。私たちが神様から尊いものを受け取るためには、まず私たちは飢え渇きを感じなければなりません。切に願わなければならないのです。

神様も同じです。何か尊いものを与える前に、神様は私たちに飢え渇きが起きる時まで待っておられます。だから私たちが叫び求める時に、その後、神様は私たちが本当に願い求めることを与えてくださいます。

皆さん、私たちクリスチャンの人生はサタンとの戦いです。そしてこの戦いでサタンは、私たちの内側で自分の味方を一つ作って引っ張り出しますが、まさにそれが、私たちの肉体です。

私たちの肉体が敵の味方になっているから、私たちはサタンとの戦いで効果的に戦えません。だから私たちは悪魔サタンと戦う前に、まず自分の肉体をコントロールして、それに打ち勝たなければなりません。そのために切に祈らなければならないし、それを常に慕い求めながら、霊的勝利を収めなければなりません。多くの信者は祈ります。「神様、 悪魔と他の人々の、私に対する悪い行為から私を守ってください。」と。

しかし、こういうふうに祈る間にも、自分の肉体に餌を与えています。悪魔と戦う前に、自分の肉体と戦って勝利しなければならないのに、敵の味方である肉体に餌をたっぷり与えています。愛する皆さん、私たちが悪(罪)と悪魔に打ち勝つためには、まず私たちの肉体から救出(deliver)を待たなければなりません。

この体の救い、まずこの肉体が救い出されて自由になれば、私たちが悪魔サタンに打ち勝つことは、とても簡単なことになります。その時は、悪者や悪魔さえ、私たちを恐れ、私たちに手を出すことができなくなります。だから、まず自分との戦い、つまり霊的戦いで勝利したいと思います。

・自分の罪との戦い、悪魔との戦いで勝利した経験があれば、分かち合いましょう。
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