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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ローマ人への手紙8:28-29(神様が人間を創造した目的)

投稿者
tbic
投稿日
2023-08-27 15:26
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236
ローマ人への手紙8:28-29「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。」

人に向けられた神の目的は神のかたちの回復だということをぜひ覚えて下さい。しかしもし私たちの信仰生活の方向が間違っているのであれば、正しく修正しなければなりません。神様が人間を創造したのは使いとして利用するために造られたのではありません。もし人間を仕事させるのが神の目的であれば、もう既に数千万の天使が存在するので、人間はいらないと思います。神様が人間を創造した目的は神の品性と属性を表す、ある存在が必要だったから、人間を創造したのです。もし私たちがこの真理を逃してしまえば、ある過ちを犯してしまい、何か神様のために熱心に奉仕することが私たちの救われた根本的な目的だと勘違いをしてしまいます。

神様はある仕事をさせる目的で人間を創造し、救われたのではありません。しかし多くの信者は、たまにこういう間違った方向へそれてしまいます。神様が自分を創造し、救われた根本的な目的を忘れ、何か奉仕をたくさんすれば、神様が自分を喜ばれると錯覚をするのです。もちろん奉仕しないでほしいということではありません。奉仕はたくさんしてほしいのです。しかしそれよりもっと大切なこと、根本的な目的を忘れた奉仕は、あまりいらないということです。

神様がアダムを創造なさるとき、創世記1:26です。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」と言われました。もちろんこれはアダムが罪を犯すことも既にご存知の中での計画です。だから神様はアダムが創造される前に、イエス・キリストをこの地に送り、十字架の死を通して堕落した人間を、その罪の泥沼から救い出す計画を既に立てたわけです。こういう風に創造の前に既に計画されたキリストを通した救いの働きの主な目的も、本来人間を創造した目的、つまり神のかたちの回復でした。それは罪によって堕落した神のかたちの信者たちを再びキリストの中で神のかたちとして回復させる働きでした。これは創世記と共にローマ人への手紙でも、その事実を強調するわけです。本文のローマ人への手紙8:28-29、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

キリストが罪人である私たちを救われた理由が何ですか?アダムの罪によって破壊された「神のかたち」を再び回復させることです。創世記1:26の回復です。だから救いは他にありません。神のかたちの回復です。この救いは信仰によって与えられますが、しかし私たちが誤解しやすいのは、信仰をただ「知識的信仰、教理的信仰」に間違って考えることです。私たちはイエス・キリストのかたちが私たちの中で回復する所まで行かなければなりません。そこまで目が開かれなければ、私たちは聖霊によって救われ、真のクリスチャンになった証拠はどこにもありません。つまり救いは自分の決断でもないし、自分が知らなかったことを学んで得ることでもありません。

救いは本当に神秘的な働きです。このみことばを知識的に信じるのではなく、みことばを通して私たちの内側に聖霊の働き、つまり聖霊の感動が起こされる超自然的な働きが救いです。だから真の救いが起こされると、その人は神のかたちを回復する道へ進むわけです。しかし救われたと言いながら、救いの本来の目的である「神のかたちの回復」の方向へ進まない救いは、本当に救われたかどうか分かりません。

皆さん、イエス様は二番目のアダムであることを忘れてはなりません。つまり、イエス様は人間のモデルとなられました。二番目のアダムというのは、一番目の失敗したアダムの代わりに、今度は成功するモデルとなられたということです。

アダム」という言葉に注意しましょう。これは私たち人類の模範となるという意味です。イエス様は二番目の神ではなく、二番目のアダムです。その意味は完全に成熟した、救われた形で完全に回復した人間アダムとして、私たちに模範となられたという意味です。つまり「あなたがたもわたしのように生きられる」という意味です。もちろんこれは完璧主義を意味するのではありません。キリストの中で変えられた品性、もっと成熟していく品性を意味します。だから二番目のアダムは、そのアダムの子孫である私たちに、ご自分に従うように回復した神のかたちとして模範を示してくださいました。ヤコブの手紙1:13、「神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。」と。イエス様もマタイの福音書4章で、悪魔から試みを受けられましたが、そこに屈服なさいませんでした。

私たちはイエス・キリストを神として、同時に人間としても信じます。キリストを神様として受け入れない者は異端であり、キリストを人間として受け入れない者も異端です。イエス・キリストは私たちと同じ人間ですが、罪は犯さず、罪の誘惑に打ち勝ったお方です。これは回復した神のかたちとして模範を示してくださったということです。神様としてそうなさったのではなく、人間としてそうなさいました。

だからキリスト教の信仰というのは、つまり信仰生活というのは、キリストを神様として礼拝するのですが、そこにとどまらず、キリストを二番目のアダム、つまり人間としてのキリストの模範に私たちが従うことでもあります。キリストは十字架を通して私たちを罪の中から救われただけでなく、3年間の公生涯を通して私たちに生きる模範を示してくださいました。神様が私たちに回復を願っておられる「神のかたち(救い)」が何であるかをイエス様ご自身が自ら直接見せてくださったということです。だからイエス様は私たちの救い主だけでなく、私たちの先に進んでいった先輩でもあります。へブル人への手紙6:20に、「イエスは私たちの先駆けとしてそこに入り、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。」ここでイエス様が私たちの先駆けだと言われたのは、その方に従っていく私たちがどういう風に生きるべきかを、その模範を示してくださったということです。神様は私たちの罪を赦し、聖霊を注いでくださって、すべての「恵みの手段(祈りとみことば)」を通して、私たちを一貫してある目標に向かって導かれます。それはまさに私たちがイエス・キリストのかたちの模範通りに生きることです。

皆さん、もしイエス様がこの世に来られた目的が、ただ私たちを罪から救い出すこと、もしそれが全部であれば、イエス様の公生涯は3年半要らなかったと思います。ただイエス様の十字架は、そこにつけられて1週間だけでも充分でした。しかしイエス様は公生涯3年半を過ごしながら、神のかたちとして生きることがどういうことなのか、模範を示して下さったのです。

そしてまた、ただ十字架を負い、私たちを救われるのが神の目的だったのであれば、新・旧約聖書を通して与えられた、たくさんの教えは必要ではないと思います。神の救いの根本的な目的が神のかたちの回復だから、新・旧約聖書にたくさんの教えが出てくるわけです。新約聖書の代表的な教えがイエス様の山上の説教です。それは神の国、天の御国での生き方の原理です。

また聖霊の働きも私たちを「聖化(聖い生き方)」へ導かれます。多くの人々は私たちがイエス様に似た生き方をするのは不可能だと前もってあきらめてしまいます。もちろん、そういう生き方は簡単ではないことは事実です。しかし聖霊様は私たちの弱さを助けてくださいます。聖霊様ご自身が直接私たちの聖い生き方を導かれるお方です。コリント第二3:18に、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

私たちが救われた後、私たちの内側におられる聖霊様は、続けて私たちにイエス様の栄光を見せてくださいます。それを鏡のように見せてくださるのです。それによって私たちが神の品性と似た生き方を過ごせるように働きかけてくださいます。神様はその主権によって私たちのすべての状況、環境を同じ目的で摂理して行かれるお方です。

今日の本文のローマ人への手紙8:28-29をもう一度読みます。「 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

私たちの人生の中で起きるすべての出来事と環境は神様の摂理的観点から見れば、私たちを導き、キリストのかたちに似た姿に変えられて行かれるのが見えます。つまり、救いを完成して行かれるわけです。もっと詳しく説明すれば、イエス様を信じ救われた人は、その人の中で聖霊様が働き始めます。そしてその聖霊の働きがどういう目標に向かって現れますか?救われた聖徒がキリストのかたちに似せて生きるように、その目的で導かれます。さらに、私たちが成熟してキリストのかたちにもっと似せて生きると、私たちは救いの豊かさ、御国の祝福、神様との交わりの幸せをもっと楽しむようになります。これがまさに、救いであり、聖霊充満の生き方です。

そうしたら、神の国が実際に私たちの中に臨むのは、どういう風に臨むのでしょうか?「人類の歴史は王様とか将軍ではなく、聖者によって変えられて来た。」という話があります。歴史を動かす力はある政治的な力ではなく、ある経済的な力でもありません。実際に人はみんなそこそこです。あまり変わりありません。政権が変わり、国が変わっても、大きく変わったのは、ほとんどありません。

しかし聖者は違います。「13世紀の聖フランシスコが当時の堕落した中世教会を救った。」という話があります。これは単純に考えて、私たちのそれぞれの家庭を見ても正しい話だと思います。私たちの家庭の中に神の国が臨み、主から与えられる平安と喜び、恵みと力が臨むためには、家長の力強い指導力ではないし、両親の経済力でもありません。親自らが神のかたちに似た生き方をするとき、そこに神の国が臨み、御国の平安と喜び、幸せが与えられるわけです。その役割を親ができなければ、イエス様に似た祖父、祖母でもいいです。家庭の中にそういう人が一人だけでもいるのであれば、もし誰もいなければ、叔父、叔母でもいいです。イエス様に似た人が家の中に一人でもいるのであれば、その家庭は必ず御国に似た姿に変わると思います。家の中での喧嘩もなくなり、特に祝日や休みの日には家の中が平安と喜びで満たされるはずです。

家庭の話をしましたが、職場も同じだし、教会も同じです。真の救いは、今の現実の中でも神の国を生きることです。それは地獄のような人生、死にたい気持ちで無理やり生きる人生ではありません。天の御国は100坪のマンションに住むことで与えられるものではないし、父親が力強い権力者だから与えられるものでもありません。その中に神のかたちに似たクリスチャンが混ざっている時天の御国はそこに臨むわけです。

アラムの王の将軍ナアマンはイスラエルの地から連れて来た一人の女によって救われ、天の御国へ導かれました。今日多くの信者たちは自分の家庭の中で、自分の教会や職場の中で、天の御国を味わうことを切に願っています。しかしそれは家が大きくなり、給料が上がることによって与えられるものではありません。もちろんそれも必要ですが、決定的要因ではありません。決定的要因は、その中に神のかたちが混ざっていることです。そうすれば、そこに天の御国が臨みます。

皆さん、皆さんは今自分がいる環境の中で天の御国を味わっていますか?もしそうであれば、それは皆さんが神のかたちに変えられたという証拠です。そこが牢屋の中でもそうです。しかし、もしそうではなく、皆さんがいる環境が地獄のような所であれば、皆さんはまだ神のかたちに変えられなかったということです。たとえ、そこが高価なマンションであってもです。

皆さん、天使が人間に泳ぐ方法を教えることはできません。天使と人間は、次元が違うからです。しかし、イエス様は私たちに人間の生き方を教えることができます。なぜでしょうか?イエス様は私たちと同じ人間だったからです。だからコリント第一11:1でパウロはこう勧めています。「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。

ある人は、キリストの生涯はただ私たち人間の尊敬の対象となるだけで、キリストのようには生きられないと言っているのです。しかしそうではありません。イエス様があえて肉体を持って来られた理由は、まさに肉体となった私たち人間が神のかたちを回復し、そのように生きられる模範を示すためでした。だからヨハネ第一2:6では、こう言われます。「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。

皆さん、もう一度言います。もし私たちの信仰生活の方向が間違っていれば、今正しく修正しなければなりません。神のかたちの回復、聖い生き方は、イエス様のように、私たちも可能であることを、ぜひ覚えてください。へブル人への手紙4:15-16、「私たちの大祭司(イエス様)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪を犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

皆さん、ぜひこういう風に聖い生き方を今週も全うし、一生涯イエス様が歩まれたその道を大胆に歩みたいと思います。
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