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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ルカの福音書9:23-25(十字架の道がいのちの道です)

投稿者
tbic
投稿日
2023-09-10 20:54
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ルカの福音書9:23-25『イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。』

今日の本文のルカの福音書9:23を、もう一度読みます。『イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。』イエス様はご自分が先に十字架を負い、その十字架の道を歩まれ、私たちも十字架の道を歩み、主に従って来なさいと言われました。それも日々です。毎日自分の十字架を負い、イエス様に従って来なさいと言われたのです。だから、

.私たちは「日々、毎日 自分の十字架を負わなければなりません。

イエス様は、「毎日」 聖書を読みなさいとか、「毎日」祈りなさいとか、そういう風には言われませんでした。もちろん聖書を読み、祈るのは、とてもいいことです。たくさんの有益があります。しかしイエス様は他のことには、「毎日、日々」やりなさいと言われなかったのに、ただ「自分の十字架」を負うことについては、「毎日」やりなさいと言われたのです。

だから実際に使徒パウロは、その御言葉に従って、自分の十字架を毎日負いました。コリント第一15:31、「兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。

本文で「自分の十字架を負いなさい」という御言葉は福音書の中で一番頻繁に繰り返して登場する御言葉です。本文のルカの福音書9:23以外にもマタイの福音書10:38、16:24、マルコの福音書8:34、ルカの福音書14:27など、合わせて 5回出てきます。多分新約聖書の中で同じ表現が繰り返して5回出る御言葉は、この御言葉以外にはないと思います。つまり一番大切な御言葉だということです。

私は今まで信仰生活をしながら、「毎日祈りなさい。毎日聖書を読みなさい。毎日兄弟姉妹と信仰の交わりをしなさい。毎日伝道しなさい。」こういう話はたくさん聞きました。もちろんこれらはとても大切なクリスチャンの習慣であり、素晴らしい実践であることは間違いありません。しかし私に、「毎日自分の十字架を負い、主に従いなさい。」と勧めた人はあまりいなかったのです。イエス様は「毎日自分の十字架を負い、わたしに従って来なさい。」と言われたのに、私たちは本当に「毎日」やるべきことを完全に忘れて、「毎日やりなさい」という命令ではない戒め、もちろんそれらも素晴らしいことですが、それらばかり勧めていたのです。

皆さん、今日のメッセージのタイトルは「十字架の道がいのちの道です」ですが、十字架を負うことは死ぬことです。しかし死んだら復活するのです。つまり、「毎日死ねば、毎日復活のいのちにあずかる者となる。」ということです。だから今日のテーマを先に言いますと、今日クリスチャンの中でイエス・キリストのいのちを見ることはとても難しいことです。「クリスチャンだ、教会だ。」と言っているのに、その中でいのちの働きはとても珍しいことになっています。その理由は毎日十字架を負って死なないからだと思います。信者が毎日十字架を負って死なない理由は、その生き方が簡単ではないからだと思いますが、それよりも私たちの人生の中で「十字架を負って死ぬ」という概念自体が消え去ったからです。

多くのクリスチャンが聖書、祈り、交わりなどを、他にたくさんの戒めを強調しながらも、「十字架で死ぬこと、それも毎日です。」それはあまり強調しません。だから、私たちの中でいのちの働きが珍しいことになっています。

実際に、今日多くのクリスチャンの中には、「毎日自分の十字架を負い、主に従う。」という概念自体がなくなった気がします。それが私たちの人生の中に満足がなく、不満足で満たされている理由でもあります。イエス様はご自分に従う者たちにいのちを約束してくださり、その「いのちは自分の十字架を負い、死ぬことによって与えられる復活のいのち」です。しかし、多くのクリスチャンがその原理についての概念さえ分からないから、いのちがなく、重苦しい信仰生活を繰り返しているわけです。

. いのちの働きは、 十字架の後に必ず現れます。

皆さん、今日私たちがこの概念をちゃんと理解することは簡単ではありません。とても難しいことです。しかし2千年前にイエス様がこの御言葉を語られた時、それを聞いていた弟子たちや聴衆たちはその意味を正確に理解していました。なぜかというと、彼らはたまに道端でローマ兵士たちの監視の中、自分の十字架を負って行く、囚人たちを見かけることが出来たからです。そして十字架を負って行く彼らは、結局は死にます。そして死んだら、その人は家族とこの世、すべてのものと、完全に別れを告げました。

イエス様が「自分の十字架を負い、わたしに従って来なさい」と言われた意味は、「あなたの野望、あなたの未来(計画)、あなたの家族、あなたのすべてのものに死を宣告しなさい。」という意味です。そうすれば、以前自分が関わった、この世のすべてのものと決別することになります。もちろん、これは「世の中で失敗者のように生きなさい」ということではありません。十字架を負う人生には必ず実が現れます。私たちが十字架を負って死んだら、必ず私たちによって生き返る人々が現れます。そしてイエス様がその力と栄光、いのちとして私たちの中でよみがえられます。

主のため、自分の未来の計画、傷ついた感情、自分の名声、これらのすべてについて死んだら、自分の中でも、また周りの人々にも、必ず「いのちの働き」が現れるはずです。だから、今日私たちが十字架を負い、主に従っているかどうか、ちゃんと分かる物差し(基準)があります。それは自分の中に、また自分の周りに「いのちの働き」が現れているかどうかによって判断できると思います。もちろん、それは生みの苦しみのように苦しいことですが、自分がちゃんと十字架を負い、主に従っている証拠でもあります。そうでなければ、十字架を負っていないことです。

私は14歳の時、イエス様に出会い、生まれ変わって、20歳ごろからは信仰の急成長を遂げていました。聖霊の力によって、主に仕え、主に従っていました。その時、ある日のこと、私は悟ったのです。「あ、 ぼくは今、クリスチャンの人生の中でとても大切な一つを忘れていたのだ!」と。

もちろん、その時、私は生まれ変わって洗礼を受け、教会にちゃんと出席していました。そして当時、自分の中で罪だと思われるすべてのこと、外的罪を全部断ち切り、悔い改めました。でも何か大切なことを一つ、忘れていたのです。聖書を読みますと、イエス様が水のバプテスマを受けられ、水から上がられる時、聖霊が鳩のように臨みました。

皆さん、水のバプテスマ、特に川とか海での全身礼を考えて見てください。洗礼は肉体の死を意味します。バプテスマのヨハネがイエス様の身体を水から起き上がらせました。これは神様がイエス様を死から再びよみがえらせたという象徴です。つまり、「イエス様のバプテスマ(洗礼)の出来事は、イエス様の十字架の死と復活を象徴すること」でした。

イエス様はヨルダン川で洗礼を受けられることによって、これから歩まれる十字架と復活の道を、前もって受け入れられたということです。ローマ人への手紙6:11、「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

皆さん、水のバプテスマ(洗礼)を授ける時、受洗者は水の中で自ら起き上がりません。必ず洗礼を授ける者(牧師)が彼を起き上がらせます。これは、彼が自ら復活出来ないという意味です。復活は必ず誰かによって復活されるという意味で、自ら復活するという意味ではありません。

では、実際に皆さん、それぞれが本当に死んだと考えて見ましょう。皆さんが毎日十字架にかけられ死んで、再び生き返ると考えた時、今日誰かが皆さんに悪口をしながら攻撃したとしましょう。そうしたら、毎日十字架で死んだ皆さんはどう反応すべきですか?ローマ人への手紙6:11では、「あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者だと思いなさい。」と言われます。

私たちは自分が攻撃される時、肉体的(血肉)に反応しやすいのです。それは罪です。しかし「罪に対しては死んだ者」はそういう風に反応しません。いいえ、反応できません。だから、十字架で自我が完全に死んだ人は、攻撃され非難されても、自ら反応を表しません。無理やりに自分の反応を抑えて我慢する人は初歩の人です。高段者は何ともない感じで、何気なくその状況を通り過ぎます。だから自分の中から反応は出ないはずです。成熟した人は高段者だから誰かから攻撃され非難されても、直ちに反応しません。何の反応もしない時もあります。なぜでしょうか?

.私たちが喜んで十字架で死ねる理由は、復活を信じるからです。

私がこういう風にメッセージをすると、ある人はこう言います。「そういう生き方は良いことですが、そうしたら、人々から完全に利用されます。」と。多くのクリスチャンが現実の中では、自分が自ら低くなって謙遜になれば、人々が自分を認めるのではなく、むしろ自分を見下して無視すると言っています。だから実際の生活の中では十字架で自分を殺す人生を生きようとしません。自分がバカにされたり、無視されたり、人々から利用されたくないからです。

しかし神様はすべての状況を全部見ておられます。そしてこう言われます。コリント第一10:13、「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」私たちは「人々が自分を利用しています。自分は利用価値だけなのです。」と言っていますが、神様は私たちに「耐えられないほどの試練に会わせることはない、みんな耐えられる。」と言われます。そしてそういう風に私たちが利用されながらキリストと共に死ねば、必ずキリストと共に復活します。だからイエス様も喜んで自発的に十字架の道に進まれたわけです。死ねば、栄光の中で再び復活することを前もってご存じだったからです。

皆さん、復活を本当に信じますか?そうしたら、キリストと共に十字架で死ぬことを、恐れないでください。もう一度、洗礼を通して説明しましょう。皆さん、洗礼を受ければその水の中で、ただ水葬し、死んでしまうのでしょうか?いいえ、必ず水の中から起き上がらせ、再び生き返るようになります。「自分が死んだら、自分だけがバカになる」と考える人は、洗礼を受けるとき、自分が水葬され、死ぬと考える人です。

しかし皆さんが洗礼を受け、水の中に入って行くことは、誰かが自分を再び起き上がらせることを信じるからです。実際に洗礼を受ける時、全身礼の場合、牧師が自分を起こしてくれるのです。自分はただ、じっとしていればいいのです。同じことが言えます。「私たちが毎日十字架を負い、死ぬ人生を生きるとき、私たちを復活させ、再び生き返らせる方がおられます。」自分が自ら起き上がらなくても、じっとしていても、私たちは必ず生き返るようになります。

皆さん、私たちがどうして、十字架で自分を殺す人生を生きられるのでしょうか?私たちが喜んで死ねば、主が再び生き返らせることを信じるからです。その信仰があるからこそ、十字架の道を喜んで、自発的に歩むことができます。ガラテヤ人への手紙2:20、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」だから私たちの中で、「キリストのいのち」が現れるわけです。

しかし私たちは弱い肉体を持っているので、また聖霊の働きが弱くなっている時、十字架で自分を殺す道に進むことがとても難しくなります。だから死ぬより、むしろ生きようとバタバタするのです。そうしたら、パウロが体験した「復活の力」は、ずっと体験できないまま、人生を終えてしまいます。

皆さん、神のみこころは私たちが「日々(毎日)」死んで、神様が死んだ私たちを復活させる体験を「毎日」することです。無理やりにその道を歩むのではなく、私たちが自ら進んで、その十字架の道を歩む時、神様は毎日私たちに、「復活のいのち」を与えてくださり、自分だけ生きるのではなく、他人まで生かせる、そういう人生を生きられるようになります。なぜですか?自分の中で起きる「復活のいのち」を他の人々にも分け与えるようになるからです。

もう一度読みます。ローマ人への手紙6:11、「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

私はこの「十字架の道」の真理を悟ってから、自分の人生の中でたくさんの自由を得ました。そしてその時、主は私に、こう言われたのです。私の内側での主の声でした。「ジョン、残りの人生の中で、あなたがこの道を続けて選択すれば、わたしの力はあなたと共にある。しかし、あなたがこの十字架の道から離れる間は、わたしの力もあなたから離れるであろう。

私は今日、多くのクリスチャンがキリストの力もなく、いのちもない人生を生きていく、もどかしい現実を見ています。そして過去に犯した罪から自由を得られず、罪の奴隷となって、同じ罪を繰り返して犯しながら生きていく、クリスチャンたちを見ています。

その理由は彼らがイエス様を頭だけ信じて、主からの一番大切な教え、繰り返して命令されている、この「十字架の道」を歩まないからです。死なないから、復活のいのちがありません。とても単純です。

今日のメッセージはテモテ第二2:11に全部含まれています。「次のことばは信頼すべきことばです。もし私たちが彼(イエス様)とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。」しかし続く御言葉の12節も、ちゃんと覚えてください。「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。

ガラテヤ人への手紙6:14を読んで終わりたいと思います。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。
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