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詩篇 119:105

ガラテヤ人への手紙6:9-18(キリスト教の本質)

投稿者
tbic
投稿日
2023-12-10 15:46
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286
ガラテヤ人への手紙6:9-18「9.失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。10.ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。11.ご覧なさい。こんなに大きな字で、私はあなたがたに自分の手で書いています。12.肉において外見を良くしたい者たちが、ただ、キリストの十字架のゆえに自分たちが迫害されないようにと、あなたがたに割礼を強いています。13.割礼を受けている者たちは、自分自身では律法を守っていないのに、あなたがたの肉を誇るために、あなたがたに割礼を受けさせたいのです。14.しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。15.割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。16.この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。17.これからは、だれも私を煩わせないようにしてください。私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから。18.兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。」

パウロはガラテヤ書を書いた重要な動機があります。ガラテヤ教会に新しく加わった新しい信者たちに、次のように言っている偽預言者(教師)たちがいたからです。「真のクリスチャンになるためにはユダヤ人にならなければならない」と。そして「ユダヤ人になるためには割礼を受けるべきだ」と。もちろん、当時この割礼の問題は氷山の一角に過ぎませんでした。問題は、「宗教になるか、キリスト教になるか」だったのです。これは今日の問題でもあります。割礼の形で現われないだけで、過去の問題ではありません。

だから私たちの実際の戦いは宗教とキリスト教の戦いです。キリスト教と非宗教との戦いではありません。宗教は今もなお、真のキリスト教の一番悪い敵です。それがユダヤ教であれ、カトリック教会であれ、日本の一番レギュラー的なプロテスタント教会であれ、救われてない状態で教会の儀式だけを守っている宗教は真のキリスト教の一番悪い敵です。だから宗教になるのか、キリスト教になるのか、割礼なのか、十字架なのか、このテーマはキリスト教の本質にかかわる一番大切な問題です。

まず割礼を通して宗教を考えたいと思います。パウロはユダヤ教の宗教的背景で育ちました。そして生まれ変わったパウロは宗教が価値のないゴミだと悟ったのです。宗教はどこにもちゃんと導くことはできません。しかし残念ながら私たちは宗教がいつも私たちを導いてくれると考え込んでいます。今この世の宗教は教会自体が偶像になっています。まさに、「教会教」になっているのです。数多くの信者たちが「教会教」を信じています。「教会教」は彼らをどこにも導くことはできません。では具体的に宗教が係わっていることは何でしょう。

パウロは本文で偽教師たちの宗教から間違ったところを明確に表しています。つまり、彼ら(偽教師たち)が主に関心を持っていたのは三つでした。社会的名誉と外見、そして人間的功績、すべての宗教からこの三つの特徴を見ることができます。

まず一番目、社会的名誉は「今までやり続けたこと」、この言葉で要約することができます。神様を知らないし、イエス様を愛することもしないのに、多くの人々がなぜ教会(チャペル)で結婚式を挙げるのか。ただ今みんながやっているからです。日本では人が死んだ後、99%の葬儀が仏教式で行われます。今までそういう風にやり続けたからです。つまり社会的に認められ、受け入れられたいからです。

しかしパウロはイエス様の十字架が社会的に受け入れられないものであることを、本文の14節で明確に言っています。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。」この真理はこれからも永遠に変わりありません。

皆さん、今の社会で教会について言っていれば、問題ないと思います。しかし十字架について言っていれば問題が生じるのです。十字架とこの世は混ぜることのできない大きな隔たりがあります。絶対に妥協できません。パウロはこれを宗教の一番目の特徴だと言っているのです。宗教は社会的名誉に関心を持っています。だから宗教的な人々は迫害が一番嫌です。対立も嫌です。だからもし、クリスチャンが迫害を受けるのであれば、宗教的な人々は教会から離れるのです。それによって、誰が宗教的なのか、十字架の下にいるのか、明確に区別できるようになります。

人間の宗教二番目の特徴は「外見に関心を持つこと」です。神様は心の中心を見られるから、「神様が自分をどう見られるか」ではなく、「人々が自分をどう見るか」に関心を持ちます。つまり主日の礼拝に出て来る時、自分の心の状態ではなく、自分の服装にもっと関心を持っているのです。それは宗教です。宗教がある所には外見と形、儀式が発展します。パウロはそれをはっきり表しているのです。彼は偽教師たちが割礼が律法の要求だと言っても、その要求を気にしませんでした。本文の13節、「割礼を受けている者たちは、自分自身では律法を守っていないのに、あなたがたの肉を誇るために、あなたがたに割礼を受けさせたいのです。」彼ら(偽教師たち)は割礼を受ければ、他の律法は気にしません。それは外見的面目です。割礼を受ければ、すべてがオーケーです。残念ながら、今日多くのクリスチャンがこの宗教的儀式に参加しています。外見的には敬虔で、結婚式や葬儀をキリスト教式に行っています。しかし、彼らは救い主イエス・キリストを知りません。それは宗教です。

パウロは宗教の三番目の特徴をこう言っています。それは人間の業績(功績)に基づいていることだと。これは最悪の特徴です。人間の功績はいつも最終的にこう言います。「私がこれをやった。たくさんの人々(救われるべきたましい)を得た。多くの人々に洗礼を授けた」と。神の御前で人間的業績を立てて行きます。パウロはそれを言っているのです。「割礼を主張する人々は成功した働きを自慢するために割礼(洗礼)を行わせる」と。完全に間違っています。新約聖書は決して成功した教会について言っていません。初代教会の人々は十字架を伝えるのにあまりにも忙しかったので、宗教的な成功を気にしませんでした。もちろん興味もまったくありませんでした。

では、人間の宗教を三つ位考えたいと思います。大体日本の教会は青年グループがほとんどありません。青年たちは宗教である教会に興味がありませんから。しかし皆さん、はっきり覚えてください。キリスト教は宗教ではありません。真理そのもの、事実を受け入れるだけなのです。彼らはそのキリスト教をちゃんと見られる、見る目がないのです。だから教会を否定するわけです。これから私たちは宗教ではなく、真理そのものであるイエス・キリストを正しく伝える方法を学ばなければなりません。再びイエス・キリストの十字架が教会の中で正しく働くように努力しなければなりません。壁にかけるシンボルとしての十字架ではなく、礼拝する人々の心に十字架が働かなければなりません。人々が教会の中で宗教ではなく、真のキリスト教を見る時、彼らは教会に集まって来ると私は信じています。人間の背景、収入、歳など、それらは大事ではありません。真のキリスト教、真理がある所に人々は集まって来ます。真理が必要を満たしてくれるからです。それができないから、宗教を求めるわけです。本当にもどかしいことは偽善と呼ぶ宗教を拒絶するこの世代に、それを取り替えるものがないということです。

私たちが宗教を拒絶し、宗教が価値のないゴミだと言うのであれば、何が宗教を取り替えるべきでしょうか。その答えはとても単純で根本的です。十字架を取り替えるものは何もありません。それは宗教的シンボル、飾るためのもの、ネックレスやいろんなアクセサリーとしてではありません。実際に霊的体験として十字架を心の中に飾ることです。十字架は宗教ではなく、再創造、新しいいのちを意味するからです。

パウロは言っています。「私は誰にも、何も自慢しません。自分が伝道した人々に対しても、どれほど多くの教会を立ち上げたのか、また自分の宣教がどれほど成功的だったのかも自慢しません。ただ一つを自慢します。私が十字架と関連したものを自慢します。」それが本文の14節の御言葉です。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。

皆さん、その衝撃が想像できるのでしょうか。パウロは宗教ではなく、十字架に基づいたキリスト教の特徴、つまり三つの特徴を言っています。一番目、それはこの世と分離を意味します。「私は十字架によって分離され、この世は私によって分離された。」とパウロは言っています。「私が十字架に出たとき、十字架の壁が自分とこの世の間に立ちはだかっているから、私はこの世と断絶しました。」と。

宗教は社会的人気と、受け入れられることに関心を持っています。しかし十字架は、私が世に対して釘づけられ、この世が私に対して釘づけられることに関心を持っています。

一人の10代の少女がチャールズ・スポールジョン先生に来て、言いました。「私は悔い改めてクリスチャンになりました。この世をどのぐらい多くあきらめなければなりませんか。」そのとき、先生は言いました。「それは心配しないでほしい。この世があなたをあきらめると思うから。

皆さん、この世が私たちに対して死んだだけでなく、私たちがこの世に対して死にました。私たちがクリスチャンになったとき、この世は私たちをあきらめます。だから社会的野望をゴミ箱に捨ててください。もうこれ以上この世は、私たちに対して魅力を感じません。私たちも以前、楽しかったことが、もう楽しくありません。十字架が私たちを断絶に導きました。だからこれからは神様を喜ばせることを求めてください。そのとき、真の喜びが湧いてくると思います。

二番目、外見の反対に、十字架のキリスト教は人の内側に、内面の義に関心をもっています。神の御前で外見は何もありません。神様が願っておられることは内面です。パウロは言っています。本文15節、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」と。つまり外見的儀式に参加したのかが大事ではなく、内側の変化が大事だということです。

皆さん、自分の内側は変化しましたか。心の中に主の油注ぎがありましたか。これが十字架のキリスト教の本質です。キリストは私たちから尊敬されるために死なれたのではありません。私たちの内側の変化のために死なれました。人の心を変化させるために、人の中に新しい人を創造するためにキリストは死なれたわけです。これが大切です。

三番目、十字架のキリスト教は人の業績の上に立てられたのではなく、神の憐れみの上に立てられたのです。人の業績、人間の功績は神の御前で銀行口座にお金を貯めることを追求します。しかし神の尊い憐れみは永遠に払えない大きな負債を負っている人々のためです。つまり神の憐れみは十字架の前に出る人々のためです。

十字架は私たちを神の憐れみに導き、それを通して神の平安に導きます。平安と憐れみ、この二つはいつも一緒に行きます。だから宗教を通しては平安がありません。つまり人間の功績では平安を得ることができません。なぜなら、私たちが充分な功績を積み上げたのか、充分に正しいのか、分からないからです。その不安定なところには平安がありません。しかし、神様の驚くべき憐れみは私たちに平安を与えます。本文16節、「この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」どんな基準ですか。それは十字架の下で内側が変わったのかが大事です。

パウロはもう最後の言葉をもって、手紙を締めくくります。17節、「これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから。」まさに私たちが持つべき焼き印です。これは割礼を受けることでできるものではありません。イエス様の真のしもべを表わす痕跡が焼き印でした。つまり、「私はイエス様に仕えることによって、いろいろな傷(焼き印)をもっています。しかし偽教師たちは十字架の迫害を避けるために割礼を与えようとします。私は十字架の迫害を受けました。石で打たれ、船は破船し、むちで何度も打たれました。」とパウロは言っています。パウロの体は頭のてっぺんから足のつま先まで傷だらけでした。だから堂々と「私はイエスの焼き印を帯びています」と。つまりイエス様に仕えることによって得た痕跡(傷)はパウロが願う唯一の傷だということです。

このパウロの告白(十字架の意味)を深く黙想しながら、キリスト教の本質を悟る真のクリスチャンになってください。

お祈り、

恵み溢れる神様、私たちを宗教の偶像から救い出し、罪から救われますように。そして十字架の下に住まわれますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
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