メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
エレミヤ書2:21-25(欲情に打ち勝つ力)
投稿者
tbic
投稿日
2024-01-28 17:45
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428
エレミヤ書2:21-25『21.わたしは、あなたをみな、純種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わってしまったのか。22.たとえ、あなたが重曹で身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎は、わたしの前に汚れたままだ。──神である主のことば──23.どうしてあなたは、「私は汚れていない。バアルの神々に従わなかった」と言えるのか。谷の中でのあなたの行いを省み、自分が何をしたかを知れ。あなたは、あちらこちら道を走り回るすばやい雌のらくだ。24.また、欲情に息あえぐ荒野に慣れた野ろばだ。さかりのとき、だれがこれを制し得るだろう。これを探す者は苦労しない。発情の月に見つけることができる。25.裸足にならないように、喉が渇かないようにせよ。しかし、あなたは言う。「あきらめられません。他国の男たちが好きなので、私は彼らについて行きます」と。』
欲情に打ち勝つ力は耐えられない習慣的な罪に打ち勝つ力です。実は多くのクリスチャンたちさえ、持続的に迫ってくる欲情の罪の習慣に打ち勝つことができず、奴隷になっているのが現実です。彼らは継続的に、罪との戦いの中で負けてきたわけです。ある牧師によれば、自分の教会にエイズ(AIDS)患者がいたのですが、彼は死ぬ直前に教会に来たそうです。彼は教会に来て救われたのですが、続けて同性愛の欲情に引っ張られ、関係を持つたびに汚い注射を自分の血管に打ち続けたそうです。エイズにかかって、死んでいきながらも、なおその罪に打ち勝つことができませんでした。欲情の罪と習慣にとらわれ、最後の最後まで罪を犯し続けたそうです。ある麻薬中毒者は絶望の中で注射器を自分の血管に差し込み、自分の血を取り出して、その血で天井に「誰か、私を助けてください。」と書いたそうです。彼は中毒になった麻薬の習慣に絶望したのです。
しかし皆さん、数百数千万のクリスチャンたちがイエス・キリストの十字架を通して、その罪に打ち勝って勝利を経験したということを是非覚えてください。彼らは欲情に打ち勝ち、その習慣を乗り越え、神様の助けによって勝利を経験しました。彼らは同性愛、ゲイ、レズ、酒や麻薬の中毒など、あらゆる罪の習慣に打ち勝ち、勝利したのです。
そうしたら、彼らは特別な神の恵みと愛を他の人々よりもっと受けたのでしょうか。いいえ、そうではありません。この問題は私たちにとって生死の問題がかかっているので、神様は明確にして下さいました。誰もが分かるように、この問題を明らかにして下さったのです。これは単純な真理ですが、むしろ知性を持って自分の頭だけに頼っている自称賢い人々には理解できない問題です。
神様はこの問題について、生死がかかっている大切な問題の答えとして、単純な真理で謙遜な心と聞く耳を持っていれば、すぐ分かると言われます。イザヤ書35:8、『そこに大路があり、その道は「聖なる道」と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、その道を行く者たちのもの。そこを愚か者がさまようことはない。』キング・ジェイムズ訳(原文に一番近い翻訳と言われる。)-「その道は単純な者も失敗せず、歩める道。」となっています。つまりその道は単純であり、分かりやすいのです。
皆さん、中毒から立ち直り、完全に勝利するクリスチャンには三つのことが起きます。彼らはこの三つのことを、いつも自分の人生に適用しながら勝利する人生です。
一番目、本文24節に出る「野ろばの霊」、つまり「淫乱の霊」から救われなければなりません。今日の本文のエレミヤ書2:21-24、『わたしは、あなたをみな、純種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わってしまったのか。たとえ、あなたが重曹で身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎は、わたしの前に汚れたままだ。──神である主のことば──どうしてあなたは、「私は汚れていない。バアルの神々に従わなかった」と言えるのか。谷の中でのあなたの行いを省み、自分が何をしたかを知れ。あなたは、あちらこちら道を走り回るすばやい雌のらくだ。また、欲情に息あえぐ荒野に慣れた野ろばだ。さかりのとき、だれがこれを制し得るだろう。これを探す者は苦労しない。発情の月に見つけることができる。』神様はとても真剣に深い質問をなさいます。神様は今、エレミヤを通して言われます。「あなたがたは心を尽くし、精神を尽くしてわたしを求め、慕い求めながら始めたことは素晴らしい。しかしどうして、そんなに堕落してしまうのか。簡単に欲情に敗れ、罪を犯すのか。」と。
皆さん、その民が最初は主を愛したと言われます。その愛があまりにも良かったので、まるで恋愛のようなものだったと。それが神の御民だそうです。彼らは指導者、牧師、伝道者と神を愛したクリスチャンたちです。有名であれ、無名であれ、彼らは素晴らしい始まりが与えられた恵みの人々でした。神様は彼らを素晴らしく用いられ、荒野へ導きました。エレミヤ書2:17「あなたの神、主があなたに道を進ませたとき、あなたが主を捨てたために、このことがあなたに起こったのではないか。」主が彼らを導かれたのですが、彼らは主の道を捨て、エレミヤ書2:11-12、「かつて、自分の神々を、神々でないものと取り替えた国民があっただろうか。ところが、わたしの民は自分たちの栄光を役に立たないものと取り替えた。天よ、このことに呆れ果てよ。おぞ気立て。涸れ果てよ。──主のことば──」これは御民の信じられないことに、主がびっくりして驚きおののく様子を描いていて、主が天から民たちを見ながら天の御使いたちにも驚かすような表現です。
御民が信じられないことを行っているから、天の御使いたちに、「わたしと共に驚きおののきなさい」と主が叫ばれるわけです。聖い主の新婦たちが姦淫を行っています。一時、主に心を尽くして従っていた者たちがもう今は主を捨て、命の泉で生ける水を飲んだ者たちが汚いナイル川の水を飲み、大河の水を飲んでいると。エレミヤ書2:18、「今、ナイル川の水を飲みにエジプトの道に向かうとは、いったいどうしたことか。大河の水を飲みにアッシリアへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。」神様が聖霊を通して言われます。「あなたがたは最後まで忠実に従うと本当にわたしを愛したのに、今はどうしたのか。どうしてエジプトへ戻ろうとしているのか。なぜナイル川の汚い水を飲んでいるのか。なぜこういう災いを招くのか。どうして裏切ったのか。」と。エレミヤ書2:20『実に、遠い昔にあなたは自分のくびきを砕き、自分のかせを打ち砕いて、「私は仕えない」と言った。まさしく、あなたはすべての高い丘の上や、青々と茂るあらゆる木の下で、寝そべって淫行を行っている。』
神様は主と共に歩む者たちに主の命令、つまり主の戒めのくびきを与えられました。それは、実は神の約束だったのです。主のくびきは約束です。だから軽いのです。主と共に歩む者には欲情を抑える戒めを与え、永遠に生きる約束のために欲情と悪い欲求を捨てなさいと言われるわけです。すべての肉なるものは十字架につけなさいと。それが主のみこころであり、みことばです。他の人々が何と言っても、それは関係ありません。これが主の戒め、主の命令です。
しかし私たちはこういう風に救われながらも主だけに仕えることはできないと。そうしながら自分のくびきを砕き、自分のかせを打ち砕いたのです。主の戒めを捨てました。もうこれからは野ろばになって、主の戒めのくびき、かせは要らないと言っています。一時、主のくびきを負ってぶどう畑を耕し、たくさんの実を結びました。しかしある日突然、そのくびきを捨て、自由を話しながら、「自由になりたい」と野ろばのように野原へ走って行ったわけです。
皆さん、今日多くの人々がクリスチャンの自由について話しています。日本だけでなく、アメリカや韓国でもお酒を飲んでタバコを吸う、それを自由だと言っている人がいます。自由の霊だと言いながら、何の拘束も要らないと言っている野ろばの霊(淫乱の霊)を持っている人がいます。彼らは言い続けます。「こんなくびきは要らない」と少しづつ妥協して、世の中に流されていくクリスチャンたちを見ます。5年、10年前までも恥ずかしくて顔を上げることができないことを、今は堂々と行っています。それは野ろばの霊の中で行っていることです。
そして彼らが持っている二番目の妄想は、主を長い間忘れていても、自分が願う時にいつでも主に戻れると思い込んでいることです。主はいつも自分を待っていてくださると錯覚しながら自分が願う道に進み、自分が願うことをやり続けます。そして彼らは言っています。「主はいつも私を待っているし、いつもそこにいて私は自分が願う時にいつでも戻れる。後で帰る。」と。大間違いです。
彼らの三番目の妄想は、ただそれが自分にできたものだと錯覚します。同性愛は自分が子どもの時からずっと、この気質ができていたと欺いているのです。私は以前仕えた教会で同性愛者の二人の青年にかかわったことがあります。もちろん、TBIC教会でも同性愛者の息子を持った人がいたのですが、彼らはこう言ったのです。「自分は2歳の時に、もうその欲情を感じた」と。詐欺です。それは完全にサタンのささやきであり、愚かな言い訳とつぶやきにすぎません。しかし問題はクリスチャンが泣きながら、そんな言い訳をするのです。そうしたら、みんなだまされて、それを認めようとするのです。しかしそれは明らかに罪であり、霊的問題がかかわっている精神障害です。サディストやメゾキスト、小児性愛者と同じように、悔い改めと治療が必要です。
マラキ預言者は言います。2:13から、「あなたがたは涙と悲鳴と嘆きで、主の祭壇をおおっている。しかしあなたがたの若い時の妻を裏切って快楽を求めた。」と。これは野ろばの霊で、必ず切り倒さなければなりません。今日の本文のエレミヤ書2:24、「また、欲情に息あえぐ荒野に慣れた野ろばだ。さかりのとき、だれがこれを制し得るだろう。これを探す者は苦労しない。発情の月に見つけることができる。」
聖書は欲情によって息あえぐ野ろばを通して、隠れた所で自分の欲情に燃え、息あえぐクリスチャンたちを生々しく描いています。その発情の月(さかりのとき)に誰がそれを止められるのか。もう一度読んでみますと、後半のところ、「これを探す者は苦労しない。」と。これはその欲情が生じると、欲情によって走り回り、簡単に自分を欲情に明け渡すという意味です。そして彼らは私たちが欲情を引き起こす、その瞬間を待っているのです。
ある牧師の話ですが、彼にこの野ろばの霊が下りました。彼は有名な牧師ですが、泣きながらこういう風に告白したのです。彼は神学校の在学中に同性愛を始めたそうです。もちろん神学校に通いながら続けてその欲情と戦ったそうです。そしてそれを乗り越え、勝利したと思って結婚もしました。しかしその2年後に、急に欲情にとらわれ、もちろん戦いはしたのですが、耐えられず、欲情が起きるたびに町の駅の近くに行って、相手を探し出し、関係を持ってから日曜日に説教をしたそうです。ある日彼は、自分が担任として勤めていた教会の講壇に立ったそうです。とても大きい教会ですが、その時、急に野ろばの霊(淫乱の霊)があまりにも強く降りて来て、「早くこの説教を終えて、この礼拝が終わったら、教会の一番近い駅のほうへ走り出そう。」と。それで礼拝が終わってから、その繁華街にある店に行って、汚い男の娼婦と関係を持ったそうです。
皆さん、クリスチャンでも、こういう秘密の関係を持っている人々に野ろばの霊が降りてきます。そしてそんな罪を犯したら、恥と絶望感に襲われます。今日の本文のエレミヤ書2:25、『 裸足にならないように、喉が渇かないようにせよ。しかし、あなたは言う。「あきらめられません。他国の男たちが好きなので、私は彼らについて行きます」と。』
私はこんな話をたくさん聞きました。「先生、あらゆる方法を全部使ってみましたが、あきらめられません。あまりにも長い間、中毒になってやめられません。希望がありません。」と。自分は希望もないし、だからこの世に流されるまま世の人々について行くと話します。まさにエレミヤ書3:25のみことば通りです。「私たちは恥の中に伏し、恥辱が私たちの覆いとなっています。私たちの神、主に対し、私たちも先祖も、若いころから今日まで罪の中にいて、私たちの神、主の御声に聞き従わなかったからです。」
皆さん、これがターニングポイントです。よく注目してください。罪に負けて、野ろばの霊が再び皆さんを欲情へ引っ張っていくとき、それが何であれ、二つの中で一つを選ぶことができます。まず一つは、心のまま頑なになって、そのまま流される人生です。その時、エレミヤ書3:3はこう言われます。「それで大雨はとどめられ、後の雨はなかった。それでも、あなたは遊女の額をして、恥じることを拒んでいる。」「遊女の額をして」は頑なな心を表わす表現です。これをローマ人への手紙では、「罪に自分を明け渡した」という表現で表わしています。その罪に自分を明け渡したら、もうこれからは恥ずかしくありません。「同性愛もゲイもレズも全部オープン」にします。「Coming outする」ということです。ある牧師は言いました。幼い子ども二人が泣いているのに、彼の妻は教会で出会ったある男性とそのまま出て行ったと。彼女は欲情にとらわれ、自分の子どもたちも見えなかったということです。これがターニングポイントです。
そういう風に「罪によって心が頑なになるか、そうでなければ神様に助けを求めるか」です。私たちは常に「主よ!私から、この野ろばの霊を永遠に断ち切らせてください。」と祈る必要があります。
「野ろばの霊(淫乱の霊)」は、「神を恐れる心」がないから存在し、生じるわけです。そうしたら、なぜ人々は自由になれない束縛に縛られているのかを確認して見ましょう。エレミヤ書2:19、「 あなたの悪があなたを懲らしめ、あなたの背信があなたを責める。だから、知り、見極めよ。あなたがあなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、いかに悪く苦いことかを。──万軍の神、主のことば。」私たちの罪が私たちを懲らしめ、私たちの信仰の裏切りが私たちを責めると言われます。
そうです。これは姦淫の問題ではなく、霊的問題です。主が私たちから聖霊の油そそぎを取り除かれれば、私たちも同じ惨めな人生を歩むしかない弱い存在です。だから人生の中で、この問題を必ず勝利に導かなければなりません。そうしなければ、主は私たちからも離れて行かれると思います。もうこれ以上、神様は私たちと共に歩まれることはありません。
しかし主に感謝しましょう。私たちの中には「神を恐れる心」が、すでに与えられています。エレミヤ書32:40、「わたしが彼らから離れず、彼らを幸せにするために、彼らと永遠の契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないように、わたしへの恐れを彼らの心に与える。」主を恐れるとき、主から離れないと。その約束の中で主を恐れるとき、私たちは罪を犯さず、主から離れないと主は言われます。
最後にイザヤ書8:13-14を読んで終わりたいと思います。「万軍の主、主を聖なる者とせよ。主こそ、あなたがたの恐れ。主こそ、あなたがたのおののき。そうすれば、主が聖所となる。」
欲情に打ち勝つ力は耐えられない習慣的な罪に打ち勝つ力です。実は多くのクリスチャンたちさえ、持続的に迫ってくる欲情の罪の習慣に打ち勝つことができず、奴隷になっているのが現実です。彼らは継続的に、罪との戦いの中で負けてきたわけです。ある牧師によれば、自分の教会にエイズ(AIDS)患者がいたのですが、彼は死ぬ直前に教会に来たそうです。彼は教会に来て救われたのですが、続けて同性愛の欲情に引っ張られ、関係を持つたびに汚い注射を自分の血管に打ち続けたそうです。エイズにかかって、死んでいきながらも、なおその罪に打ち勝つことができませんでした。欲情の罪と習慣にとらわれ、最後の最後まで罪を犯し続けたそうです。ある麻薬中毒者は絶望の中で注射器を自分の血管に差し込み、自分の血を取り出して、その血で天井に「誰か、私を助けてください。」と書いたそうです。彼は中毒になった麻薬の習慣に絶望したのです。
しかし皆さん、数百数千万のクリスチャンたちがイエス・キリストの十字架を通して、その罪に打ち勝って勝利を経験したということを是非覚えてください。彼らは欲情に打ち勝ち、その習慣を乗り越え、神様の助けによって勝利を経験しました。彼らは同性愛、ゲイ、レズ、酒や麻薬の中毒など、あらゆる罪の習慣に打ち勝ち、勝利したのです。
そうしたら、彼らは特別な神の恵みと愛を他の人々よりもっと受けたのでしょうか。いいえ、そうではありません。この問題は私たちにとって生死の問題がかかっているので、神様は明確にして下さいました。誰もが分かるように、この問題を明らかにして下さったのです。これは単純な真理ですが、むしろ知性を持って自分の頭だけに頼っている自称賢い人々には理解できない問題です。
神様はこの問題について、生死がかかっている大切な問題の答えとして、単純な真理で謙遜な心と聞く耳を持っていれば、すぐ分かると言われます。イザヤ書35:8、『そこに大路があり、その道は「聖なる道」と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、その道を行く者たちのもの。そこを愚か者がさまようことはない。』キング・ジェイムズ訳(原文に一番近い翻訳と言われる。)-「その道は単純な者も失敗せず、歩める道。」となっています。つまりその道は単純であり、分かりやすいのです。
皆さん、中毒から立ち直り、完全に勝利するクリスチャンには三つのことが起きます。彼らはこの三つのことを、いつも自分の人生に適用しながら勝利する人生です。
一番目、本文24節に出る「野ろばの霊」、つまり「淫乱の霊」から救われなければなりません。今日の本文のエレミヤ書2:21-24、『わたしは、あなたをみな、純種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わってしまったのか。たとえ、あなたが重曹で身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎は、わたしの前に汚れたままだ。──神である主のことば──どうしてあなたは、「私は汚れていない。バアルの神々に従わなかった」と言えるのか。谷の中でのあなたの行いを省み、自分が何をしたかを知れ。あなたは、あちらこちら道を走り回るすばやい雌のらくだ。また、欲情に息あえぐ荒野に慣れた野ろばだ。さかりのとき、だれがこれを制し得るだろう。これを探す者は苦労しない。発情の月に見つけることができる。』神様はとても真剣に深い質問をなさいます。神様は今、エレミヤを通して言われます。「あなたがたは心を尽くし、精神を尽くしてわたしを求め、慕い求めながら始めたことは素晴らしい。しかしどうして、そんなに堕落してしまうのか。簡単に欲情に敗れ、罪を犯すのか。」と。
皆さん、その民が最初は主を愛したと言われます。その愛があまりにも良かったので、まるで恋愛のようなものだったと。それが神の御民だそうです。彼らは指導者、牧師、伝道者と神を愛したクリスチャンたちです。有名であれ、無名であれ、彼らは素晴らしい始まりが与えられた恵みの人々でした。神様は彼らを素晴らしく用いられ、荒野へ導きました。エレミヤ書2:17「あなたの神、主があなたに道を進ませたとき、あなたが主を捨てたために、このことがあなたに起こったのではないか。」主が彼らを導かれたのですが、彼らは主の道を捨て、エレミヤ書2:11-12、「かつて、自分の神々を、神々でないものと取り替えた国民があっただろうか。ところが、わたしの民は自分たちの栄光を役に立たないものと取り替えた。天よ、このことに呆れ果てよ。おぞ気立て。涸れ果てよ。──主のことば──」これは御民の信じられないことに、主がびっくりして驚きおののく様子を描いていて、主が天から民たちを見ながら天の御使いたちにも驚かすような表現です。
御民が信じられないことを行っているから、天の御使いたちに、「わたしと共に驚きおののきなさい」と主が叫ばれるわけです。聖い主の新婦たちが姦淫を行っています。一時、主に心を尽くして従っていた者たちがもう今は主を捨て、命の泉で生ける水を飲んだ者たちが汚いナイル川の水を飲み、大河の水を飲んでいると。エレミヤ書2:18、「今、ナイル川の水を飲みにエジプトの道に向かうとは、いったいどうしたことか。大河の水を飲みにアッシリアへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。」神様が聖霊を通して言われます。「あなたがたは最後まで忠実に従うと本当にわたしを愛したのに、今はどうしたのか。どうしてエジプトへ戻ろうとしているのか。なぜナイル川の汚い水を飲んでいるのか。なぜこういう災いを招くのか。どうして裏切ったのか。」と。エレミヤ書2:20『実に、遠い昔にあなたは自分のくびきを砕き、自分のかせを打ち砕いて、「私は仕えない」と言った。まさしく、あなたはすべての高い丘の上や、青々と茂るあらゆる木の下で、寝そべって淫行を行っている。』
神様は主と共に歩む者たちに主の命令、つまり主の戒めのくびきを与えられました。それは、実は神の約束だったのです。主のくびきは約束です。だから軽いのです。主と共に歩む者には欲情を抑える戒めを与え、永遠に生きる約束のために欲情と悪い欲求を捨てなさいと言われるわけです。すべての肉なるものは十字架につけなさいと。それが主のみこころであり、みことばです。他の人々が何と言っても、それは関係ありません。これが主の戒め、主の命令です。
しかし私たちはこういう風に救われながらも主だけに仕えることはできないと。そうしながら自分のくびきを砕き、自分のかせを打ち砕いたのです。主の戒めを捨てました。もうこれからは野ろばになって、主の戒めのくびき、かせは要らないと言っています。一時、主のくびきを負ってぶどう畑を耕し、たくさんの実を結びました。しかしある日突然、そのくびきを捨て、自由を話しながら、「自由になりたい」と野ろばのように野原へ走って行ったわけです。
皆さん、今日多くの人々がクリスチャンの自由について話しています。日本だけでなく、アメリカや韓国でもお酒を飲んでタバコを吸う、それを自由だと言っている人がいます。自由の霊だと言いながら、何の拘束も要らないと言っている野ろばの霊(淫乱の霊)を持っている人がいます。彼らは言い続けます。「こんなくびきは要らない」と少しづつ妥協して、世の中に流されていくクリスチャンたちを見ます。5年、10年前までも恥ずかしくて顔を上げることができないことを、今は堂々と行っています。それは野ろばの霊の中で行っていることです。
そして彼らが持っている二番目の妄想は、主を長い間忘れていても、自分が願う時にいつでも主に戻れると思い込んでいることです。主はいつも自分を待っていてくださると錯覚しながら自分が願う道に進み、自分が願うことをやり続けます。そして彼らは言っています。「主はいつも私を待っているし、いつもそこにいて私は自分が願う時にいつでも戻れる。後で帰る。」と。大間違いです。
彼らの三番目の妄想は、ただそれが自分にできたものだと錯覚します。同性愛は自分が子どもの時からずっと、この気質ができていたと欺いているのです。私は以前仕えた教会で同性愛者の二人の青年にかかわったことがあります。もちろん、TBIC教会でも同性愛者の息子を持った人がいたのですが、彼らはこう言ったのです。「自分は2歳の時に、もうその欲情を感じた」と。詐欺です。それは完全にサタンのささやきであり、愚かな言い訳とつぶやきにすぎません。しかし問題はクリスチャンが泣きながら、そんな言い訳をするのです。そうしたら、みんなだまされて、それを認めようとするのです。しかしそれは明らかに罪であり、霊的問題がかかわっている精神障害です。サディストやメゾキスト、小児性愛者と同じように、悔い改めと治療が必要です。
マラキ預言者は言います。2:13から、「あなたがたは涙と悲鳴と嘆きで、主の祭壇をおおっている。しかしあなたがたの若い時の妻を裏切って快楽を求めた。」と。これは野ろばの霊で、必ず切り倒さなければなりません。今日の本文のエレミヤ書2:24、「また、欲情に息あえぐ荒野に慣れた野ろばだ。さかりのとき、だれがこれを制し得るだろう。これを探す者は苦労しない。発情の月に見つけることができる。」
聖書は欲情によって息あえぐ野ろばを通して、隠れた所で自分の欲情に燃え、息あえぐクリスチャンたちを生々しく描いています。その発情の月(さかりのとき)に誰がそれを止められるのか。もう一度読んでみますと、後半のところ、「これを探す者は苦労しない。」と。これはその欲情が生じると、欲情によって走り回り、簡単に自分を欲情に明け渡すという意味です。そして彼らは私たちが欲情を引き起こす、その瞬間を待っているのです。
ある牧師の話ですが、彼にこの野ろばの霊が下りました。彼は有名な牧師ですが、泣きながらこういう風に告白したのです。彼は神学校の在学中に同性愛を始めたそうです。もちろん神学校に通いながら続けてその欲情と戦ったそうです。そしてそれを乗り越え、勝利したと思って結婚もしました。しかしその2年後に、急に欲情にとらわれ、もちろん戦いはしたのですが、耐えられず、欲情が起きるたびに町の駅の近くに行って、相手を探し出し、関係を持ってから日曜日に説教をしたそうです。ある日彼は、自分が担任として勤めていた教会の講壇に立ったそうです。とても大きい教会ですが、その時、急に野ろばの霊(淫乱の霊)があまりにも強く降りて来て、「早くこの説教を終えて、この礼拝が終わったら、教会の一番近い駅のほうへ走り出そう。」と。それで礼拝が終わってから、その繁華街にある店に行って、汚い男の娼婦と関係を持ったそうです。
皆さん、クリスチャンでも、こういう秘密の関係を持っている人々に野ろばの霊が降りてきます。そしてそんな罪を犯したら、恥と絶望感に襲われます。今日の本文のエレミヤ書2:25、『 裸足にならないように、喉が渇かないようにせよ。しかし、あなたは言う。「あきらめられません。他国の男たちが好きなので、私は彼らについて行きます」と。』
私はこんな話をたくさん聞きました。「先生、あらゆる方法を全部使ってみましたが、あきらめられません。あまりにも長い間、中毒になってやめられません。希望がありません。」と。自分は希望もないし、だからこの世に流されるまま世の人々について行くと話します。まさにエレミヤ書3:25のみことば通りです。「私たちは恥の中に伏し、恥辱が私たちの覆いとなっています。私たちの神、主に対し、私たちも先祖も、若いころから今日まで罪の中にいて、私たちの神、主の御声に聞き従わなかったからです。」
皆さん、これがターニングポイントです。よく注目してください。罪に負けて、野ろばの霊が再び皆さんを欲情へ引っ張っていくとき、それが何であれ、二つの中で一つを選ぶことができます。まず一つは、心のまま頑なになって、そのまま流される人生です。その時、エレミヤ書3:3はこう言われます。「それで大雨はとどめられ、後の雨はなかった。それでも、あなたは遊女の額をして、恥じることを拒んでいる。」「遊女の額をして」は頑なな心を表わす表現です。これをローマ人への手紙では、「罪に自分を明け渡した」という表現で表わしています。その罪に自分を明け渡したら、もうこれからは恥ずかしくありません。「同性愛もゲイもレズも全部オープン」にします。「Coming outする」ということです。ある牧師は言いました。幼い子ども二人が泣いているのに、彼の妻は教会で出会ったある男性とそのまま出て行ったと。彼女は欲情にとらわれ、自分の子どもたちも見えなかったということです。これがターニングポイントです。
そういう風に「罪によって心が頑なになるか、そうでなければ神様に助けを求めるか」です。私たちは常に「主よ!私から、この野ろばの霊を永遠に断ち切らせてください。」と祈る必要があります。
「野ろばの霊(淫乱の霊)」は、「神を恐れる心」がないから存在し、生じるわけです。そうしたら、なぜ人々は自由になれない束縛に縛られているのかを確認して見ましょう。エレミヤ書2:19、「 あなたの悪があなたを懲らしめ、あなたの背信があなたを責める。だから、知り、見極めよ。あなたがあなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、いかに悪く苦いことかを。──万軍の神、主のことば。」私たちの罪が私たちを懲らしめ、私たちの信仰の裏切りが私たちを責めると言われます。
そうです。これは姦淫の問題ではなく、霊的問題です。主が私たちから聖霊の油そそぎを取り除かれれば、私たちも同じ惨めな人生を歩むしかない弱い存在です。だから人生の中で、この問題を必ず勝利に導かなければなりません。そうしなければ、主は私たちからも離れて行かれると思います。もうこれ以上、神様は私たちと共に歩まれることはありません。
しかし主に感謝しましょう。私たちの中には「神を恐れる心」が、すでに与えられています。エレミヤ書32:40、「わたしが彼らから離れず、彼らを幸せにするために、彼らと永遠の契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないように、わたしへの恐れを彼らの心に与える。」主を恐れるとき、主から離れないと。その約束の中で主を恐れるとき、私たちは罪を犯さず、主から離れないと主は言われます。
最後にイザヤ書8:13-14を読んで終わりたいと思います。「万軍の主、主を聖なる者とせよ。主こそ、あなたがたの恐れ。主こそ、あなたがたのおののき。そうすれば、主が聖所となる。」
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マタイの福音書6:20-24(自分のために、天に宝をたくわえなさい)
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創世記14:17-24(聖書から学ぶ金銭管理)
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主の御名によって 歓迎いたします。
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東京ベイ国際教会
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