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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ヨハネの福音書1:43-46(美しいウソより、ありのままの真実が強い)

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tbic
投稿日
2024-02-11 18:08
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ヨハネの福音書1:43-46『43.その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい」と言われた。44.ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。45.彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」46.ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」』

皆さん、誰にも言えないような問題を持っているのでしょうか?問題があっても大丈夫です。イエス様のもとに進み出て御前に問題を差し出すなら、その真実な態度によって救いを受け取ることができます。

今日はイエス様の弟子の一人、「ピリポ」について、皆さんと分かち合いたいと思います。ピリポはペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネと同じように、ベツサイダの人でした。今日の本文、ヨハネの福音書1:44、「ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。」と出ます。ベツサイダの主な産業は漁業だったので、ピリポも漁師だった可能性が高いです。

しかし「ピリポ」という名前から一つ分かることは、他の弟子たちの名前はユダヤ風ですが、ピリポだけはギリシャ風の名前がつけられています。このことから、ピリポのお父さんは恐らくギリシャのユダヤ人だったと思われます。少なくとも、国際感覚のあるエリートか、外国の文化に明るい人だったと思います。そのせいでしょうか。ピリポは分析的で、非常に注意深く、計算の得意な人でした。見方を変えると、優柔不断に見える部分もあります。ピリポのような人は、大きな失敗をすることは、ほとんどありません。しかし簡単に信仰を持つことができないという致命的な弱点があります。

ヨハネの福音書14:8-9で、ピリポはイエス様に「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」と言いました。すると、イエス様はピリポに、こう叱られました。「イエスは彼に言われた。ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、私たちに父を見せてくださいと言うのですか。

ピリポは霊的な洞察力が弱かったのです。ピリポのような人は、中々心に火がつきません。今日の信者たちの中にも、ピリポのような人がいます。こういう人は分析的で頭も良く、知的能力も優れています。しかし不思議なことに、優柔不断で中々行動しないのです。このような人が、すべての思考と行動において、主に正しく用いられるためには、どうすれば良いのでしょうか?

一番目、このような人は必ず生きておられるイエス様に出会わなければなりません。今日の本文、ヨハネの福音書1:43-46、もう一度読みます。『その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい」と言われた。ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」

ピリポはイエス様に出会った後、すぐにナタナエルに伝道しました。ピリポとナタナエル、そしてトマスとマタイも同じですが、彼らはよく考える人だったので、イスラエルの救いについて非常に深く考えていたようです。『彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」

ペテロのような人であれば、ただそのまま「主に出会った」と。簡単に言ったと思います。しかし分析的なピリポは説明が具体的です。ピリポから「自分たちがいつも待ち望んでいたメシヤがこの地上に来られた」と聞いたナタナエルの最初の反応は何ですか?46節『ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」

ナザレのような僻地から、どうやってメシヤが生まれるのか」と言ったナタナエルに、ピリポは最初にどうしましたか?ピリポはナタナエルと口論とか、喧嘩をしませんでした。ただ一言、「来て、そして、見なさい。」これはとても大切なことです。

皆さん、あるものを最もよく理解するためには実物と出会わなければなりません。「百聞は一見に如かず」ということわざのように、説明しないで実物を見せればいいのです。見ることのできない人にどんなに説明しても不十分です。ピリポがいつもこういう姿勢で生きたのであれば、とても素敵な人生を送ったと思います。ピリポのような人に必要なのは、「来て、見ること」、つまり実物にじっくり触れることです。それさえ握っていれば、輝く人生を生きることができます。

皆さん、教会の第一の使命は何ですか?失われた者を救い出すことです。神様の第一の関心は常に失われた人に向けられています。イエス様は罪人を救うために、この地上に来られました。ローマ人への手紙5:8、「神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」神様の愛はどのように明らかにされているのでしょうか?イエス様がこの地上に来られて、私たちのために十字架にかかり、死んでくださったことによって、明らかにされているのです。イエス様はこのように、言われました。ルカの福音書19:10、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

それでは、教会はこの使命をどのように果たせば良いのでしょうか?議論したり弁明したりしないで、ただその人をイエス様に出会わせてあげればいいのです。そうすれば、イエス様が彼らを変えてくださいます。

皆さん、もし有名な俳優が舞台挨拶に来ると聞いたら、誰もが期待して詰めかけて来ると思います。そのとき、司会者が長くその俳優について説明したら、どうですか?その場はしらけてしまうばかりでなく、「おい、早く俳優を出せ!」と怒ると思います。紹介する人の話は必要ではありません。本人が舞台に出れば、それでいいのです。司会者は簡単に紹介を終えたら、さっさと退場しなければなりません。

人々が教会に来る理由は何ですか?イエス様に会うためです。教会の使命とは教会に来た人をイエス様に出会わせることです。伝道を難しく考えないでください。ただイエス様を紹介することだけでいいのです。信者たちは日曜日ごとに牧師の話を聞くために集まって来るのではありません。楽しく歌って交わるためでもないのです。ただイエス様に会いに来ています。それなら、教会がやるべきことは何ですか?ただイエス様を賛美し、ほめたたえ、イエス様の御言葉を伝えればいいのです。聖霊の臨在の中で主に出会えば、人々は自然に変えられていきます。

しかし残念なことに、時々礼拝の中で、イエス様の姿が見えない時があります。本当に残念です。皆さん、良い教会とは、イエス様が大きく見える教会です。イエス様の御言葉が力強く伝えられ、イエス様を賛美する声が高らかに響く教会です。

来て、見なさい。」と言った時、教会はイエス様を見せてあげなければなりません。私たちが誇る名前は「イエス」しかありません。教会はただイエス・キリストだけを証しすればいいのです。この世の文化からイエス様を探す必要はありません。私たちが伝えるべき核心はただ一つ、イエス・キリストです。もちろん、文化を利用することはできます。しかしそれは、あくまでも道具に過ぎないことを忘れてはなりません。

イエス様と出会えば、誰でも情熱が生まれます。モーセが力強い情熱に溢れた人となった理由は、どこにあるのでしょうか?彼の力と情熱の源は、彼が主と出会い、主を知ったからです。申命記34:10、「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。

神様に出会えば、誰でも熱くなります。私たちは福音書に出てくる弟子たちと、使徒の働きに出てくる弟子たちの姿があまりにも違うことに驚きます。彼らが大胆に福音を伝えるようになった理由は何ですか?ペンテコステのときに聖霊を体験したからです。いのちの実態に出会ったからです。使徒の働き2:1-4、「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

福音を大胆に伝えた彼らの動機は何だったのでしょうか?イエス様、聖霊様に出会ったことです。この出会い以上に人々を熱く、力強くするものは、この世にはありません。だから「来て、イエス様ご自身に出会ってみなさい。」と言わなければなりません。そうすれば、みんな変えられます。

来て、見なさい。」と言われて、イエス様のもとに連れられた人が実際にイエス様と出会えば、私たちの役割はほとんど果たしたと言うことができます。人は生きておられるイエス様に出会えば、必ず変わります。

ある人々は、「交際をする」と言って映画を観に行ったり、食事をしに出かけたりします。しかしそこにイエス様がおられなければ、それは本当の交わりではありません。イエス様に出会ってこそ真の交わりがあるのです。イエス様と本当に出会えば、人は自分の賜物を用いて積極的に働くようになり、献身するようになります。ザアカイはイエス様に出会ったとき、ためらうことなく財産の半分を貧しい人たちのためにささげると誓いました。知識として知っただけでは、そのように変わることはありません。

だから教会がなすべきことは、無条件にイエス様に出会わせることです。それが私たちの伝道の80%、いや90%を占めなければなりません。こういう風にイエス様に出会い、恵みを受け取ることができるのであれば、すべてが解決します。それほどイエス様に出会う恵みが重要です。

人生には難しい問題がたくさんあります。しかしそんなとき、自分で説明したり、解決しようとせず、とりあえず「来て、見なさい。」だけでいいのです。私は立派に牧会しているわけでもなく、たくさんの経験を積んだわけでもありません。だから本当に難しく、どうしたら良いのか分からない問題にぶつかることがしばしばあります。もちろん難問にぶつかったとき、頭を使って、問題を解決するための理論を作り上げることもできます。

しかしそれでは、やはり完全に問題を解決することはできません。時には、ありのままの真実が、私たちを力強く引き上げることがあります。

皆さん、皆さんの人生に問題があるのでしょうか?解決の糸口をどこに探せば良いかさえ、分からなくなってしまったのでしょうか?そのままの姿でイエス様のもとに進み出てください。イエス様の元に、自分の人生の問題を差し出すなら、そのありのままの姿が私たちを救い出してくれます。

イエス様の弟子となったばかりのピリポはまだ未熟で、人々に認められるような理論もありませんでした。ただ「来て、見なさい。」この一言は本当につまらない一言でした。しかしその一言が、ナタナエルという一人の魂を生かし、一つの時代を変化させたのです。私たちもこのような心で、主の御前に進み出ることを、主は切に願っておられます。

二番目に、ピリポのような人は、すべての思考にイエス様を入れ込んでおかなければなりません。分析的で考え込んでしまうピリポは行動をもってイエス様の前に進み出なければなりません。また考える時にも、必ずイエス様を計算の中に入れることです。イエス様の存在を忘れて考えるのであれば、このような人は祝福を受けることができません。

ヨハネの福音書6章には、「五つのパンと二匹の魚」の奇跡の話が出てきます。大麦のパン五個と魚二匹で五千人が食べ、残りが十二のかごに溢れたという出来事です。ヨハネの福音書6:5-7、「イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。ピリポはイエスに答えた。めいめいが少しづつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。

一デナリが一日の賃金だった当時、二百デナリは大金です。しかしそれでも、こんなに多くの人々に食べさせることはできないというのが、ピリポの考えでした。彼はとても現実的に考え、必要な金額を正確に計算しました。しかしピリポにとって、その計算こそが信仰の成長の妨げとなっていたのです。こういう人は、考えることをやめなければなりません。もちろん無計画に生きていくという意味ではありません。しかしピリポのようなタイプの人は少し考えることを抑える必要があります。もっと単純に「信じます」と進み出る必要があります。その時、信仰は成長します。

皆さん、ピリポの決定的な弱点は何だったのでしょうか?そのすべての判断と計算に、イエス様が全く入っていなかったということです。皆さん、機会があれば、聖書の中から「しかし神は」と書いてある個所を探して読んでみてください。私は時々、こんな個所を読んで涙が出るときがあります。創世記31:7、「それなのに、あなたがたの父は、私を欺き、私の報酬を幾度も変えた。しかし神は、彼が私に害を加えるようにされなかった。

この御言葉を読んでも、感動を受けます。ヤコブは義理の父ラバンに十回もだまされました。その結果、ヤコブは滅びたのでしょうか?いえ、ヤコブにはいつも神様が共におられました。「しかし神は」ヤコブが害を受けないようになさったということが重要です。私たちの計算の中に、神様がおられるのであれば、周りにいるどんな人々の攻撃からも、私たちは守られます。

詩篇64:7、「しかし神は、矢を彼らに射掛けられるので、彼らは、不意に傷つきましょう。

多くの人々が自分に向かって火の矢を放って来て、耐えることができないとき、ダビデは「ああ、終わりだ。この迫害と困難の中で私が生きる道はない。」と叫びました。でも彼は「しかし神は、私を守ってくださる。」と賛美しました。自分が自ら敵を攻撃するのではありません。神様が直接お立ちになって、自分を守ってくださると賛美しています。使徒の働き3:15、「いのちの君を殺しました。しかし神は、このイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。

皆さん、イエス様が十字架で死なれたとき、誰が介入しましたか?復活の力の核心は何ですか?「しかし神は」です。私たちは復活の力を求める者だということを忘れてはなりません。私たちの人生に、どんな苦難や困難が襲って来ても、私たちは「しかし神は、この私を生かしてくださる」と叫ばなければなりません。

ピリポの計算に、「しかし神は」という考えが入っていたのであれば、彼の人生は常に逆転の人生だったと思います。今、皆さんの頭の中にあるものをもう一度点検してみてください。大したことではない、この世のことで、頭の中が溢れてはいないでしょうか?私たちは必ずイエス様を計算に入れなければなりません。「しかし神は」という事実をちゃんと握るのであれば、人生は逆転し、主の御業が現れることを確信します。

皆さん、考え過ぎてしまう人は自分自身の力の限界に閉じこもってしまいます。自分の計算の限界に縛られてしまうのです。それがピリポの姿でした。イエス様が、彼に願われたことは何ですか?「イエス様は彼の信仰を試された」とあります。イエス様は、ピリポがその限界の鎖を絶つことを願われました。イエス様が共におられるのであれば、すべての限界を乗り越えられると。それを信じてほしいと主は願われたわけです。

ピリピ人への手紙4:13、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」これは使徒パウロの告白です。彼はすべての考えにイエス様を入れ込む人生を歩みました。皆さん、悲観主義はどこから発生するのでしょうか?自分は現在の状況を治めることができるという、信仰が消えていったときに悲観主義がやってきます。現状を変えることができないと信じることが悲観主義です。しかし私たちの考えの中にイエス様が入って来られると、すべてのことは可能になります。

皆さん、信仰とは何でしょうか?私たちの思考の中にイエス様が入って来られることです。環境や状況、現実がどうであれ、それは何の問題もありません。本当の問題は、自分の内側にあります。もし神様とつながっているのであれば、そのとき私たちは楽観的になります。

ウインストン・チャーチルは、こう言いました。「勝利とは失敗の中でも情熱を維持することができる力だ。」普通の人は失敗したら、挫折します。しかしある人は失敗の中にあっても情熱を維持します。生きておられる神様につながっているためです。「しかし神は」この御言葉の神が御業をなさるのであれば、すべては変わります。私たちはそれを信じて進み出なければなりません。

ピリポのように、分析ばかりして石橋をたたいても渡らないような性格の人は、まずイエス様の元に進み出なければなりません。イエス様の実体に出会えば、必ず変わります。またすべての思考にイエス様を入れ込まなければなりません。そうすれば、情熱が生まれ、人生全体が変わります。イエス様こそが真の答えです。

結論、今日ピリポを通して学んだ、神様に用いられるための原則。

1.イエス様に出会えば、必ず変わります。

ピリポはナタナエルに伝道するときに、ただ一言、「来て、見なさい。」と言いました。イエス様に出会えば、必ず変わるからです。教会の真の役割は人々をイエス様に出会わせることです。

2.美しいウソより、つまらない真実がもっと強いです。

イエス様の弟子になったばかりのピリポは、「来て、見なさい。」という、とても単純な言葉によって伝道しました。しかしこの一言の真実が、一人の魂を生かしたのです。表面だけを立派に飾る時代の中で、私たちは下手な口でも真実な言葉をもって、人々の心に近づかなければなりません。

3.考えの中にイエス様が入っていれば、状況は変わります。

私たちの計算の中に、イエス様がおられるのであれば、どんな敵の攻撃の前でも私たちは崩れません。信仰とは、自分の思考の中にイエス様が入っていることです。自分の内面が主と交わり、主につながっているのであれば、すべてが良い方向へ変わります。
合計 141
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
141
マタイの福音書8:5-13(百人隊長の信仰)
tbic | 2024.04.21 | 推薦 1 | 閲覧数 15
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140
ルカの福音書5:27-32(天の御国にゴミ箱はない)
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139
創世記22:1-8「苦しみ(十字架)を受け入れれば、素晴らしい逆転(復活)がある。」
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テモテへの手紙第二1:7(無力からの解放)
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137
ヨブ記6:21-27(慰めの秘訣)
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136
ヨハネの福音書16:25-33(わたしはすでに世に勝ちました)
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135
ヨハネの福音書 14:1-5(変えられた言葉が新しい人生を造る)
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134
ヨハネの福音書6:1-13(頭ではなく、ハートで働く)
tbic | 2024.03.03 | 推薦 1 | 閲覧数 41
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133
ヨハネの福音書1:47-51(正直なら、天が開く)
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ヨハネの福音書15:15(最後の瞬間まで主を求めなさい)
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