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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ルカの福音書5:27-32(天の御国にゴミ箱はない)

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tbic
投稿日
2024-04-15 00:58
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ルカの福音書5:27-32『その後、イエスは出て行き、収税所に座っているレビという取税人に目を留められた。そして「わたしについて来なさい」と言われた。するとレビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。それからレビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした。取税人たちやほかの人たちが大勢、ともに食卓に着いていた。すると、パリサイ人たちや彼らのうちの律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって小声で文句を言った。「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか。」そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」』

天の御国にゴミ箱はありません。神様は私たちのすべてを用いて、栄光をお受けになることを願っておられます。イエス様の下さる使命に燃えるとき、私たちの実力も驚くほど用いられます。

今日はマタイを見ていきたいと思います。マタイの元々の名前はレビでした。恐らく取税人としてローマのために働いていたレビがマタイというローマ風の名前に変えたのではないかと思います。もしくは、イエス様が直接「主の贈り物」という意味を持った「マタイ」という名前を下さったかもしれません。とにかく、イエス様の弟子の中で、マタイは最も独特な立場にいます。彼の職業が取税人だったためです。その当時、取税人は最も卑しいと見下され、非難されていました。イエス様が弟子として選ぶことは絶対にないだろうと思われた人が取税人でした。

人の目ばかりを気にして、良い評価だけを聞こうとする人がいます。それとは反対に、人の評価に振り回されず、神のみこころを行うために非難も恐れない人がいます。イエス様もまた、人の目を気にしませんでした。必要だったからこそ、マタイを弟子とされたのです。イエス様は決して、「人気主義」ではありませんでした。人気や世論に流されて動く人は、自分の身を滅ぼしてしまいます。しかしイエス様はそのようなことに執着しません。だからこそ、多くの人の先入観や非難にもかかわらず、取税人マタイを弟子として選ばれたわけです。

人事が万事」という言葉があります。人をどのように用いるかが、すべてのことを左右します。イエス様が人々の予想を裏切ってマタイを選ばれたところには、深い意味があると思います。今日はイエス様が取税人マタイを弟子として選ばれた理由を分かち合いたいと思います。

イエス様がマタイを弟子とされた第一の理由は、低い者を受け入れるなら、私たちの人生が広がっていくことを知らせるためでした。取税人は当時、罪人扱いされており、ローマの手先と言われていました。そして税金を決められた金額より多く取り、財産を増やす人がとても多かったのです。

取税人と罪人」という言葉があります。これは日常的に使われていた蔑称です。取税人は当時、娼婦たちと同じように非難の対象となっていました。そして本当に悪い人々を指す時に、「取税人と罪人のようなやつら」と呼ぶほど、さげすまれていたのです。

また取税人には社会的な制約がありました。裁判の時に証言する資格がありませんでした。そして法的な資格はすべて剝奪されていて、会堂に入ることも禁止されていたのです。礼拝への参加も禁止、献金も「汚いお金だから」という理由で受け入れられませんでした。取税人たちは社会的にも精神的にも隔離され、差別を受けていたのです。イエス様はそういうマタイを弟子とされました。

マタイの登場はイエス様の弟子たちの間でも、波紋を呼んだと思います。これまでイエス様が弟子として選ばれたペテロやヤコブ、アンデレ、ヨハネ、ピリポは、おもに魚をとる漁師でした。また熱心党のシモンは愛国者でした。社会的に非難される人々ではなかったのです。彼らは貧しくて、教養もなかったかもしれませんが、しかしこれだという問題もなかったのです。そんな中にマタイが入って来ました。カぺナウム出身の憎たらしい取税人の登場です。他の弟子たちはマタイと相当な距離を置いたと思います。

イエス様はどんな人でも弟子になることができることを知らせるために、マタイを弟子とされました。イエス様が救えない人など一人もいません。弟子の中に取税人出身者がいるほどだからです。これによって、どんな人でもイエス様のみ元に進み出たら、救われることがはっきり分かりました。

イエス様はマタイの家で食事をなさった時、こう言われました。今日の本文、ルカの福音書5:30-32、『すると、パリサイ人たちや彼らのうちの律法学者たちがイエスの弟子たちに向かって小声で文句を言った。「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか。」そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」

どん底の人生でも救われ、神のしもべになれることを、イエス様は口先だけでなく、マタイという一人の人を通して証明しました。私たちも、こういうふうにどんな人でも受け入れる時、幅が広がり、器が大きくなります。イエス様が「新しいぶどう酒と新しい皮袋」の例えを話されたのも同じ場面でした。

今日の本文の次に、ルカの福音書5:36-38、『イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。」

新しい皮袋」とは、どんなものでしょうか。イエス様がマタイを選ばれたという面から見ると、「低い人さえも受け入れることのできる皮袋」と言えるのです。これまでは、特定の聖なる人しか受け入れることができない、古い皮袋だったのです。しかしもっと多くの人を受け入れる新しい皮袋が現れました。だから「新しいぶどう酒」とは、「私たちが考えていなかった意外な人」という意味もあります。

教会は特定の人だけを受け入れる所ではありません。どんな罪人でも受け入れ、背負わなければなりません。教会が前進するのは、どんな時でしょうか。これまで考えもしなかった人々を受け入れ、背負う時に、教会の働きは広がっていきます。

慣れ親しんでいる人だけに、こだわっていては何も変わりません。しかしそれを捨て、自分も少しだけ低くなってみれば、驚くような御業が現れるはずです。自分の考えでは到底受け入れることの出来ない者も受け入れてみれば、想像も出来なかった大きな祝福を受けるようになり、自分の人生の幅も広がります。

イエス様が悪魔から受けられた試みを思い出してみて下さい。二つ目の試みはどんなものだったのでしょうか。イエス様を神殿の頂に立たせて、そこから飛び降りるようにと誘惑しました。悪魔はイエス様を高い所に立たせたのです。多くの人は高い所に立てば、それを祝福と考えます。しかし聖書は高い所が試みの場所だと語っています。もし皆さんが高い所に立っているのであれば、それは試みの場所だと心構えなければなりません。

その時、私たちはどうするべきでしょうか。確かに神様が皆さんを高い所に引き上げて下さったのかもしれません。しかしそこから低い所へと下って行くことです。多くの人は、高い所にとどまろうとして試みに会っています。イエス様を見てください。イエス様は全世界を創造され、治められているお方なのに、人間の体をまとって低くなられました。そして取税人マタイのような低い者を選ばれたのです。

私たちがもっと大きな器の人になりたいのであれば、今与えられている力を手にして、仕える所に下って行くことです。周りにいるマタイを受け入れましょう。そうすれば、私たちの働きはもっと大きくなっていくはずです。

二番目、イエス様はキリスト教こそ喜びであり、宴会であり、仕える者であることを知らせるためにマタイを弟子とされました。韓国は儒教の影響が色濃く残っています。そのためか、教会では、きちんとした身なりをして、静かにしなければならないと考えがちです。

しかしキリスト教で言う敬虔とは、そういうものではありません。敬虔とは神への畏れです。英語では「敬虔」を「フィアー、fear」という単語で表現しています。神様の御前に立つ恐れ、それが敬虔です。敬虔な人は、聖なるイエス様の御前で、罪人として恐れ震えます。しかし同時に、主が受け入れて下さったことに感激し、喜びに溢れます。これがクリスチャンの姿です。

今日の本文、ルカの福音書5:29で、マタイがイエス様と食事をする場面が出てきます。ここでは、パリサイ人と取税人マタイの態度に決定的な違いがあります。「それからレビは自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした。取税人たちやほかの人たちが大勢、ともに食卓に着いていた。

皆さん、想像してみてください。人々が集まって食べたり、騒いだり、楽しんだりしています。しかしパリサイ人や律法学者たちは、30節に、「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか。」と言いました。宴会をしている所で、批判をしている人々がいたのです。今も教会の中で同じことが起きています。ある人は救いの喜びに感激して神様に感謝しているのに、ある人々は苦虫を嚙み潰したような顔をして、何とか批判してやろうとしています。私たちの霊性は日ごとに取り扱われなければなりません。パリサイ人の霊性ではなく、真の弟子の霊性を持ち続けたいと思います。

マタイは宴会を開きました。これには三つの意味があります。一番目は「祝う」ということです。「不幸な過去よ去れ。俺には新しい人生が待っている。」というように、イエス様に出会い、新しい人になったことを祝っているのです。二番目は「決別」の意味です。マタイは暗かった過去と決別する意味で宴会を開きました。これからは、「もう今までのようには生きない。」という決心の現れです。三番目は「」の意味です。マタイは自分の救いだけでは満足しませんでした。自分の同僚たちにイエス様を紹介したかったのです。聖霊が働く時には、伝道の霊が働きます。自分が信じているだけでは満足できず、友達をイエス様に出会わせようとするのです。イエス様に出会ったアンデレがペテロを連れて来たように、ピリポがナタナエルにイエス様を紹介したように、マタイもイエス様に出会った後、取税人の仲間たちをたくさん呼んで来て宴会を開き、彼らにイエス様を紹介しました。

皆さん、アメリカのバージニア州のマウントバーノンに行くと、ポトマック川がくねくね曲がって流れる絶壁の上に、初代大統領のジョージ・ワシントンの生家があります。当時その生家の三分の一が晩餐をするための食堂だったそうです。ワシントンはここに、多くの政治家たちや哲学者たちを呼びました。そして一緒に食事をしながら話し合い、独立運動の基礎を築きました。ワシントンはここで礼拝をささげ、御言葉を聞き、独立戦争を進めたのです。

食事とは、ご飯を食べることだけでなく、霊や精神、思想を分かち合うことです。マタイもまた、食べ物と魂を一緒に分かち合う食卓で伝道しました。もちろん伝道用のトラクトを持って歩き回り、「イエス様を信じてください」と叫ぶことも重要です。しかし同時に、食べ物を用意し、友達を呼んで一緒に食べて、祈ることも、非常に重要です。一緒に食事を分かち合いながら祈って賛美し、イエス様を紹介して、証をしたら、そこに神の栄光が臨むのを感じます。人は食べる時に心を開きます。そして証をする機会も与えられます。イエス・キリストの喜びを証することは、非常に重要です。

日本の牧会者たちの中には、いろいろな人がいます。アーサー・ホーランド先生はバイクを乗り回して伝道する方として有名です。この先生は金属性のアクセサリーやチェーインをぶら下げ、皮のジャケットをまとい、暴走族のような格好で伝道します。先生のもとにはバイカーやヤクザたちが集まり、「俺もイエス様を信じる。」と悔い改めます。その格好を見たら、「あれでも牧師か」と言いたくなるかもしれません。しかし誰もその牧師先生を非難できないと思います。その方はその方法で伝道をしているのです。

そして聖書キリスト教会の尾山令仁先生(去年昇天)は百冊ほどの本を書かれた学者であり、アジアへの謝罪運動を進めておられ、いわば日本のピューリタン運動を導いたリーダーでした。この先生を通しても、たくさんの人々に福音が伝えられたのです。神様はこのように、それぞれ異なった方法で用いられます。すべての人を同じ方法で用いられるのではありません。

伝道について、長い間論争になっていることがあります。アメリカのリバイバルに用いられたジョナサン・エドワーズは「神様の恵みが臨んでこそ、私たちは変わる」と語って、「神の主権」だけを信じました。しかし19世紀のリバイバルでは、チャールズ・フィニーが「神の主権だけでなく、人間の努力も必要だ。」と言って、方法も重視しました。

アメリカのビリーグラハム牧師も生前、やはり方法を重視しました。礼拝を導く時に、照明を暗くしてメッセージを伝え、イエス様の復活のメッセージでは照明を明るく照らしたり、未信者たちを悔い改めに導く時には心を重くする音楽をかけ、集会が終わると歓喜の音楽をかけるのです。もちろんこれは、集会に参加した人々の心を開くための手段です。しかし非難する人々は「キリストの福音を伝えることはショーではない。」と言い、それは間違っていると主張します。

皆さん、神の主権が大事でしょうか、人間の努力が大事でしょうか。神様はジョナサン・エドワーズを用いられたのでしょうか、それともチャールズ・フィニーを用いられたのでしょうか。私は、このような論争自体が正しくないと思います。神様は両方とも用いられたのです。神様が二人とも用いられたのに、なぜ私たちが、「こちらは間違っている。」と言うことができるのでしょうか。間違っているのではなく、方法が違うだけです。

アーサー・ホーランド先生が用いられたり、尾山令仁先生が用いられたのも、その方法が違うということです。大切なのは方法論ではなく、福音を伝えるか、伝えないかです。自分に合った方法で福音を伝えることが大切です。私たちは、同じイエス・キリストを信じる者です。それを忘れてはなりません。なじみがないものだからと言って、責めることはダメです。

三番目、神様はそれぞれの潜在能力を引き出して用いられるお方です。イエス様はそのために取税人マタイを弟子とされました。神様は、私たちの隠れた力と使命とを結び合わせてくださるお方です。マタイには取税人としての特性がありました。分析能力に優れ、それを体系的にまとめ、整理することを知っていたのです。

四つの福音書の中で最も註解書が多く出ているのはマタイの福音書です。なぜでしょうか。マタイの福音書は、構成がとても体系的にまとまっていて、註解するにも、説教するにも用いやすいからです。例えば、山上の説教についても、マタイが書いたものと、ペテロの弟子マルコが書いたものが大きく異なっています。マルコはペテロの影響をたくさん受けたせいか、イエス様の説教を大まかにまとめ、簡単に書いています。ところが、マタイは体系的に豊かなイエス様の御言葉をちゃんと整理して、私たちに残しています。もしマタイがいなかったら、私たちは山上の説教をこのように美しく整理した形で読むことはできなかったかもしれません。

またマタイの福音書13章には、神の御国の例えが出てきます。マタイはイエス様がいろいろな所で語られた七つの例えを整理して、一目で分かるようにまとめています。私たちはここを読めば、天の御国についてよく理解することができます。またイエス様の系図も、マタイは14代ずつ区分して書いています。これによって系図が簡単に整理され、まとまって頭に入るように書かれています。マタイは読む人の心に迫ってくるように、分かりやすく書きました。

もちろん聖書のすべての言葉は神の霊感によって記されています。しかし神様は聖書の記録者たちがそれぞれの個性を存分に生かして記録するようにされたのです。私たちはマタイの個性のお陰でこういうふうに整えられたメッセージを受け取ることができます。だからこそ、天の御国にゴミ箱はありません。神様は私たちのすべてを引き出して、ご自分の栄光のために用いてくださいます。私たちにはそれぞれ異なった力が与えられています。イエス様に出会い、与えられた使命に燃える時、その力は驚くような方法で用いられます。力と使命が出会うことによって、神の栄光が現れます。

ミケランジェロの師匠である彫刻家ジョバンニは、14歳のミケランジェロに出会った時、彼の中にある才能を見ました。ジョバンニは幼いミケランジェロにこのように語りました。「実力だけではダメだ。何のためにその実力を用いるべきか、知らなければならない。力は使命と手を取り合わなければならない。」そしてジョバンニはミケランジェロを高級居酒屋に連れて行きました。そこには素敵な彫刻品が飾ってありました。ジョバンニはそれをミケランジェロに見せながら、こう言いました。「この作品は美しいだろう。しかしこの彫刻家はその立派な力を酒屋のために用いた。」続いて彼は、ミケランジェロの手を握って教会に行きました。教会の前にも美しい彫刻がありました。それを見せながら、師であるジョバンニはこう強調したそうです。「この人は自分の才能を神の栄光のために用いた。お前が巨匠になろうとするなら、お前の才能と使命が手を結ばなければならない。

この教えがあったからこそ、ミケランジェロは生涯「神様の栄光のために」というモットーを持つことができたのです。私たちの中にある力も、使命と結び合わされて初めて、栄光ある本物の力となります。ぜひ神の御前に、栄光溢れる用いられ方をする信仰の人になってください。

神様は私たちに使命を与えて下さいました。私たちはその使命の大きさに、自分の力の無さを痛感するかもしれません。その時には、私たちは心を尽くして、その実力を育てなければなりません。

本当に実力のある人になるために、必要なことが二つあります。まず自分が実力を伸ばそうとする分野において、先人に会うことです。どんな分野であっても、自分より先を行く人がいます。その人に出会って教えを受けるなら、同じ失敗を繰り返さずに済みます。10年間試行錯誤して悟ることを半月で自分のものにすることができます。ある段階に達するまでは、すでにそこまで達成した人と会うことが大切です。そうすれば、何を準備しなければならないのか、何が必要なのかが分かります。自分がしようとすることをすでに成し遂げた人に、今すぐ会ってみることです。そこに時間を投資するのです。豊かに実を実らせる秘訣がそこにあります。

また実力者になるためには自分の専門分野に関する道具に投資することです。高価であっても自分の専門分野では良い物を購入してください。道具の重要性を知っているからです。何かをしようとするなら、必ず良い道具が必要です。プロのカメラマンはカメラに投資しますし、バイオリニストはバイオリンに投資します。私たちも自分の分野に必要な道具を備え、そこに投資することを知らなければなりません。

アメリカの雑誌の中で、こんな文章を読んだことがあります。アメリカの自動車修理工は、仕事を続けるために1万ドル(日本円でおよそ150万円)の機械を買うと言います。またアメリカの医師は医師としての使命をしっかり担うために、平均20万ドルの医療機器を購入します。立派な病院を立て上げるためには立派な医師だけでなく、立派な医療機器も必要です。道具にも投資しなければなりません。使命を正しく担うためには、道具に投資をする覚悟が必要です。

私たちは、その人が持っている道具によって、その使命を悟ることができます。同じ山に登ろうとする人たちがいたとしましょう。もしその一人が肉の塊を手に持っていれば「きっと山のどこかでバーベキューをする」と思うはずです。ギターを持っていれば「景色のいい所でギターを弾いて歌うつもりだろう」と思います。ヘルメットをかぶり、リュックサックを背負い、ザイルを手にしているなら「絶壁に登ろうとしている」と分かります。それほど道具は重要です。道具をしっかりと準備し、その道具を扱うことに慣れる力が私たちに与えられるよう、切に祈ります。

私は牧師ですから、聖書を扱います。だから、聖書に慣れるために、聖書を読んで、また読んで、自分なりにまとめて、また整理しなければなりません。聖書だけは自由自在に扱うことができるように努力しなければなりません。そうしてこそ、用いられるからです。

マタイは自分の中にある潜在能力を主から与えられた使命と結び合わせて、大いに用いられる弟子となりました。私たちもマタイのように、実力と使命が結び合わされ、力にあふれた者になりたいと思います。

結論、マタイを通して学んだ神様に用いられるための原則。

1.低い者を受け入れることです。

低い者を受け入れるなら、人生が広がっていきます。イエス様はユダヤ人たちに指されていた取税人マタイを弟子とされました。社会から差別され、疎外されている人たちを受け入れるとき、私たちのスケールは大きくなります。

2.喜びと祝宴(食卓の交わり)によって、福音を伝えることです。

マタイは、イエス様を受け入れたしるしとして、自分の家に仲間を招いて祝宴を開きました。神様の恵みに感激して、喜んで祝宴を開き、伝道するなら、伝道は苦労ではなく、喜びとなります。

3.使命が潜在能力に火をつけます。

マタイは自分の潜在能力を使命と結び合わせ、マタイの福音書を書きました。主は私たちの内にあるものもすべて用いられ、ご自分の栄光を現わされます。
合計 142
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
142
New 黙示録7:9-14(神様から祝福より、認められよう)
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141
マタイの福音書8:5-13(百人隊長の信仰)
tbic | 2024.04.21 | 推薦 1 | 閲覧数 17
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140
ルカの福音書5:27-32(天の御国にゴミ箱はない)
tbic | 2024.04.15 | 推薦 1 | 閲覧数 20
tbic 2024.04.15 1 20
139
創世記22:1-8「苦しみ(十字架)を受け入れれば、素晴らしい逆転(復活)がある。」
tbic | 2024.04.07 | 推薦 1 | 閲覧数 29
tbic 2024.04.07 1 29
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テモテへの手紙第二1:7(無力からの解放)
tbic | 2024.03.31 | 推薦 1 | 閲覧数 36
tbic 2024.03.31 1 36
137
ヨブ記6:21-27(慰めの秘訣)
tbic | 2024.03.24 | 推薦 1 | 閲覧数 46
tbic 2024.03.24 1 46
136
ヨハネの福音書16:25-33(わたしはすでに世に勝ちました)
tbic | 2024.03.17 | 推薦 1 | 閲覧数 42
tbic 2024.03.17 1 42
135
ヨハネの福音書 14:1-5(変えられた言葉が新しい人生を造る)
tbic | 2024.03.10 | 推薦 1 | 閲覧数 44
tbic 2024.03.10 1 44
134
ヨハネの福音書6:1-13(頭ではなく、ハートで働く)
tbic | 2024.03.03 | 推薦 1 | 閲覧数 45
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133
ヨハネの福音書1:47-51(正直なら、天が開く)
tbic | 2024.02.25 | 推薦 1 | 閲覧数 48
tbic 2024.02.25 1 48

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