メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ヨハネの福音書12:24( 死ぬなら、生きる)

投稿者
tbic
投稿日
2024-07-22 09:36
閲覧数
365
ヨハネの福音書12:24「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」

力は本質から出てくるものです。つまりキリスト教の本質は十字架だから、十字架から力が出るわけです。普通、信仰を表す時に奇跡や祝福、恵みを強調するのですが、実は十字架という方式で信仰を表す時がもっと多いのです。もちろんイエス様はたくさんの奇跡を起こされましたが、しかしこれは本質ではありません。イエス様がこういう奇跡を起こされた理由は、その後の変化、つまり十字架へ向かうための前段階の道が奇跡、あるいは祝福、恵みであったことを私たちは忘れてはなりません。結局、奇跡は本質を説明するための道具であって、その奇跡自体が本質ではありません。

私たちの信仰、つまりキリスト教はいのち、そのものです。そしてそのいのちの道は十字架の道です。今日の本文で、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」まさに、これが十字架の本質であり、実を結ぶ唯一の道は十字架の道であることを、はっきり教えてくださる内容です。

だから信仰生活の中で実がないのは、その本質である十字架がないからです。それは大きな問題になります。つまり実がないのであれば、それは十字架と死がないことを意味し、もし十字架と死があれば、必ず実を結びます。

1.私たちは十字架の人生をまなければなりません。いつでもどこでも十字架によってかなければならないということです。

十字架の人生というのは自己証明ではなく、自己否認の人生を意味します。多くの人々は信仰を自己否認ではなく、自己証明の道具として用いています。自分を自慢しながら、自分の信仰を証明するわけです。しかしそうすれば格好良く見えるかもしれませんが、本当の実はありません。ただ自己否認するとき、表面的には何もないように見えますが、実はそこでたくさんの実を結びます。だから実を結ぶためには、いつでもどこでも十字架の生き方に戻らなければなりません。

ただいのちを生み出す道は十字架しかありません。私たちに十字架という苦しみの向こう側にいのちがあれば、その苦しみは苦しみではなく、夢となります。つまり十字架の後にいのちがあるから、イエス様は十字架自体を楽しんだのではなく、十字架の後のいのち(復活)を見て、十字架の苦しみを我慢できたということです。

使徒パウロの生き方も同じでした。自己証明の道ではなく、十字架の道を歩みました。だからガラテヤ人への手紙6:14で、こう告白しています。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

神様は十字架の道を歩む私たちの心の中に、いのちの火を与えてくださいます。

1950年代に、アメリカに衝撃を与えた人物がいます。Wheaton大学のJim Elliotという人です。彼は本当に賢い青年でしたが、当時彼と共に5人の友達がエクアドルに宣教の旅を出ました。しかしそこに着いたとたん、原住民たちによってみんな殺されたわけです。まさに殉教です。だからアメリカでは大きな論争が起きました。「彼らの死は無駄ではないか?」と激しい論争が起きたわけです。しかしJim Elliotの妻であるElizabeth Elliotは「主のために殉教したことを愚かなことだと言わないでほしい」と言いながら、Jim Elliotが19歳の時に書いた日記帳を見せたわけです。そこには、こう書いてあったそうです。「主よ、私はたきぎのような存在です。私に火をつけてください。主が火をつけてくださらなければ、私は用いられません。そして永遠のものを得るために、永遠でないものをあきらめることは決して愚かなことではありません。」結局、後にElizabeth Elliotは夫のJim Elliotが殉教した地、エクアドルに行って、その部族を変化させ、Jim Elliotを殺した青年が後に牧師になるわけです。その出来事は全世界的に福音を宣べ伝えるのに、大きく影響を与えました。

韓国に入って来た一番最初の宣教師はイギリスのThomas宣教師ですが、彼は1866年Scotlandから中国の宣教師として中国に派遣され、中国の内陸地方で宣教活動を始めました。しかしそこで同僚の宣教師の妻が流産する衝撃的な場面を目撃します。そのショックが消え去る前に、今度は自分の妻も流産しながら、一人で寂しく亡くなるわけです。これを経験し、泣きながら宣教本部に辞任を表明して、もちろん信仰はあきらめなかったのですが、宣教師を辞めたわけです。そして税関で通訳の仕事をしながら、朝鮮(韓国)の商人に出会います。その朝鮮の商人は、「朝鮮にはキリスト教を知っている人が一人もいないので、宣教師を送ってください」と要請をしたわけです。その要請を受けたThomas宣教師の心の中に、再び福音の火がつきました。それで熱い心をもって朝鮮の宣教を準備し、たくさんの聖書を用意して、ゼネラルシャーマン号の船に乗って、平壌に上陸したわけです。しかし上陸したとたん、船が攻撃を受け、その場でThomas宣教師は首が切られて (斬首) 殉教してしまいます。しかしその時、Thomas宣教師は自分の首を切る朴スンゴンという人に一冊の聖書を渡しました。その聖書が朴ヨンシクという官吏(役人)に渡され、彼はそれを処分するのがもったいなく、自分の部屋の壁に張ったり、トイレットペーパーとして使ったわけです。しかし部屋の壁あちこちが聖書で覆われていたので、朴ヨンシクは自然に聖書を読まざるを得なかったのです。結局彼は変えられ、クリスチャンになり、彼の家が教会になりました。その教会が後に(1907年)、平壌で初、大リバイバルを起こしたチャンデヨン教会です。

一人の死は無駄に見えますが、いいえ、たくさんの実を結ぶきっかけとなります。人々は肉の死に対しては哀悼をするのですが、霊的な死についてはあまり関心がありません。しかし霊的な死は永遠の死だから、私たちは霊的な死に対して関心を持ち、祈って、たましいの救いのために立ち上がらなければなりません。ただ過ぎて行きながら、投げ出した一言、それが変化の始まりでした。その一言で火がついたのがThomas宣教師の人生だったし、私たちの人生も変わりありません。クリスチャンの人生は絶対に無駄ではないことを、ぜひ覚えてください。

2.死ぬとき、ちゃんと死ななければならないということです。

教会はいのちを伝えることに集中しなければなりません。つまり礼拝と祈り、またみことばを聞いて実践することに集中しなければなりません。神様は私たちに「いのちを伝えなさい」とたくさんの恵みと力を与えてくださいました。しかし問題はいのちをつなげることなく、自分のところにいのちをとどめてしまうのが私たちの問題です。いのちを伝える方法は落ちて死ぬことです。落ちて死ななければ、一つのままです。だから落ちて死んで、埋められ、踏まれなければなりません。そうしなければ、絶対にいのちは伝えられません。

マルコの福音書15:30には、イエス様に対する罪人たちのあざける姿が出ます。彼らはイエス様に、「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」とあざけるのです。しかしイエス様はそれに反応しません。私たちの人生も同じです。自己証明ではなく、反応せず、何も言わずに、ただ死ななければなりません。現代のKey Wordは弁明、解明、口実(理屈)です。みんな自己証明の道具となります。しかしイエス様は自己証明をせず、ただ黙って死んでくださったことを忘れてはなりません。私たちも黙って死ぬこと、これがクリスチャンの生き方です。

信仰の力はまさにこの十字架の人生であり、結局は後で神様がすべてを解明してくださることを、私たちは信じなければなりません。

次はイエス様の謙遜な姿です。ピリピ人への手紙2:5-8、「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

だからイエス様に従う弟子として、私たちも低くなり、死ぬことが私たちのやるべきことです。ただし、そこでとどまることではありません。引き続き、ピリピ人への手紙2:9-11、「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

だから皆さん、私たちの使命はただ死ぬことです。落ちて、埋められ、踏まれながら、いのちをつなげる(伝える)人生、その十字架の人生が、まさに私たちの人生です。そうすれば必ずたくさんの実を結び、復活を体験するはずです。
合計 205
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
205
New ヘブル10:37-11:7(信仰とは何か?) 
tbic | 2025.06.29 | 推薦 1 | 閲覧数 10
tbic 2025.06.29 1 10
204
箴言3:5-6(自分の悟りに頼るな)
tbic | 2025.06.22 | 推薦 1 | 閲覧数 30
tbic 2025.06.22 1 30
203
エペソ人への手紙5:22-33(夫と妻に対するお勧め)
tbic | 2025.06.15 | 推薦 1 | 閲覧数 29
tbic 2025.06.15 1 29
202
ローマ人への手紙8:1-2(失敗する自由を与えなさい)
tbic | 2025.06.08 | 推薦 1 | 閲覧数 39
tbic 2025.06.08 1 39
201
ローマ人への手紙8:28(あらゆる問題は益となる)
tbic | 2025.06.02 | 推薦 1 | 閲覧数 41
tbic 2025.06.02 1 41
200
ヨハネの手紙 第一4:16(助演がロングランする)
tbic | 2025.05.25 | 推薦 1 | 閲覧数 48
tbic 2025.05.25 1 48
199
ガラテヤ人への手紙2:20(不信と疑いは私たちを疲れさせる)
tbic | 2025.05.18 | 推薦 1 | 閲覧数 54
tbic 2025.05.18 1 54
198
使徒の働き27:20-26(危機を突破する信仰)
tbic | 2025.05.12 | 推薦 1 | 閲覧数 71
tbic 2025.05.12 1 71
197
イザヤ書40:28-31(鷲のように、翼を広げて上る)
tbic | 2025.05.04 | 推薦 1 | 閲覧数 81
tbic 2025.05.04 1 81
196
創世記12:1-9 (主が示す所へ行きなさい)
tbic | 2025.04.27 | 推薦 1 | 閲覧数 75
tbic 2025.04.27 1 75