メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
ルカの福音書10:38-42(必要なことは一つだけです)
投稿者
tbic
投稿日
2025-01-06 11:04
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ルカの福音書10:38-42『さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」』
ハレルヤ!新年あけましておめでとうございます。今年からは新しい環境に出て行かれる方もおられると思いますが、どんな年度になるのか、学校が変わったり、職場が変わったり、持ち場が代わったりして、色々と不安が多いかもしれません。私たちはこの世において、沢山のことをしなければならないのですが、しかし今日は「必要なことは一つだけだ」ということについて、聖書から、皆さんと一緒に学んでいきたいと思います。
今日、読んでいただいた聖書の箇所は、イエス様がある村に入られたときの出来事です。そこで、マルタという女性がイエス様を喜んでお迎えしたと書かれています。このマルタはもてなしの賜物がある方で、イエス様を手厚く接待しました。私が韓国に行くと、本当によくもてなして下さいます。韓国の人々は、もてなしの賜物があると思います。
皆さん、「どうしても必要なことはわずかだ、いや、一つだけだ、マリヤはその良い方を選んだ」とありますが、それが何かというと、イエス様の足下に座って、みことばを聞くこと、つまり「主を愛する、主に対するひたむきさ」が一番重要なことだということです。その点、韓国の人々は、実に熱く主を求めます。だから礼拝ごとに、いつも恵まれます。
今日の本文に出るマルタという女性はもてなすこと、イエス様に仕えることに使命を感じていた女性でした。しかし妹のマリアはお姉さんに仕事を任せて、自分はイエス様の足下に座って、イエス様の話を聞いていました。その姿を見て、マルタは頭に来て、「イエス様、何とかなりませんか、うちの妹は‥」と文句を言ったのです。そこでイエス様が言われたことは何であったかというと、今日の本文41-42、『主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」』
私たちも色々なことに気を使います。特に今の季節は新年度を迎える時期ですので、やらなければならないことも沢山あり、忙しい時期です。このときにこそ、一度立ち止まり、聖書のみことばに耳を傾けることが重要です。私たちは何にフォーカスを当てて生きていくべきでしょうか。それは多くはない、むしろ一つだというのです。マリヤはその良い方を選んだと言われましたが、それは「主の足下に座ってみことばに聞き入ることだ」というのです。
皆さんは今日も、世界が大騒ぎになっている災難の中でも、礼拝を捧げています。本当に感謝します。もちろん今は私がメッセージを語っていて、イエス様の足下で直接聞いているわけではありませんが、基本的には聖書から語っていますので、主の足下でみことばを聞いていると言えると思います。これは私たちにとって一番重要な事であり、みなさんは今最も大切なことを行っているのです。神様が人間を造られたとき、同時に霊的法則を造られたわけです。だから、どうしても必要な条件を満たすなら、他の必要も満たされるはずです。
幸せを得るためには、条件は多くありません。それも、一般的な条件とは違っているのです。これからの皆さんの生活の中で、何を大事にしていけば、うまくいくのでしょうか。ひと言で言うと、「主を愛する」ということです。マタイの福音書の22:34-40に、関連したことが書かれています。
「しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
聖書はしっかりとした目的を持って記されているわけですから、一連の流れ、「文脈」が大切です。だからルカの福音書10章全体の中で、神様が私たちに語りたいテーマがあるはずです。それが何かというと、「神を愛する」ということが、一番大切であるということです。神を第一に追い求め、生活で最優先にすると、私たちは幸せになります。また永遠のいのちを得ることができるとイエス様は語っておられます。
しかし神様を愛すると言いますが、目に見えたら簡単なわけですが、見えないわけです。マルタやマリヤはイエス様を目の前に見ていたのですから、愛情も感じたと思いますが、私達はイエス様を見ることができないのに、どうやって愛することができるのかと思われるかも知れません。ルカの福音書10章には「神を愛する」とは、具体的にどういうことかが述べられています。それに関連して、ヨハネの手紙第一4:20-21、「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」
私たちは「神様を愛します」と言いますし、賛美でもそのように歌います。しかし実際、「神を愛する」とは、どういうことかと言うと「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいたら、その人は偽り者であり、目に見える兄弟を愛していないのに、見えない神を愛することはできません。」とあります。本物のクリスチャンと偽物との違いは、神を愛しているかどうかであり、それは「目に見える兄弟を愛することが神様を愛することだ」というのです。「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令を、キリストから受けています。」とあります。
ここで言う「兄弟」とは、ルカの福音書10章では、「隣人」を指しています。実は神を愛することと、隣人を愛することは、切っても切れない関係なのです。ちょうど、コインの表・裏のように、神を愛することは、ひっくり返せば、兄弟を愛することです。この二つがそろって、初めて「神を愛する」と表現されるわけです。だから良きサマリヤ人の例えがあるのです。
ルカの福音書10:30-37、『イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』
一人の倒れていた旅人とは、ユダヤ人だと思われます。この旅人を助けたのはサマリヤ人でした。イスラエルはかつては一つの国でしたが、二つの国に分断してしまいました。北イスラエルと南ユダに分かれてしまいました。北イスラエルはアッシリアに侵略され、多くの人が姿を消し、残った人たちはアッシリアの植民地政策によって混血が起こりました。一方、南ユダもバビロニア帝国に捕らえられましたが、70年後、もう一度帰ることができました。南ユダの人々は自分たちは民族性を保つことができたという自負心があったのです。だから彼らは、北イスラエルを軽蔑していました。もともとは同じ民族だったのに、大国の狭間で揺れ動かされ、国が分断されたのです。そしてイエス様の時代は、北イスラエルの子孫がサマリヤ地方に住み、南ユダの子孫はイスラエルの南に住んでいました。
エルサレムからエリコに下る道は急な坂道でした。標高700メートルの高台にあるエルサレムから、地中海から300メートルも低い地下にあるようなエリコへ至る道は、険しい道が続いていました。直線距離は40キロメートルくらいの間に、急激に下るカーブの多い道だったのです。この道はユダヤ人もサマリヤ人も使っていました。そんな中で問題が起こっていました。それは街道沿いにたびたび強盗が出没していたからです。倒れていたのはユダヤ人、そして助けたのはサマリヤ人だったのです。イエス様がお話しされたこの状況は民族意識の強いユダヤ人にとっては受け入れがたいストーリーでした。彼らはサマリヤの人を見下して、差別していたからです。
私たちも人生の中で敵視している人が失敗したり倒れたりすると、「良かった」と悪い心を持ってしまうことがあります。しかしそんな状況を超えて、サマリヤ人は旅人を助けたところに、この物語のポイントがあります。隣人を助けるとは、単なる隣の人ということだけでなく、「ユダヤ人とサマリヤ人」の関係のように、もともとは兄弟同士だったのに、対立関係にある「民族集団」を指すのです。しかしそれを超えて、愛を現すというところに、隣人を愛する重要性があります。
皆さん、日本と韓国とは歴史を見ると、まさに兄弟のような関係です。人類はもともとバベルの塔の付近に住んでいました。バベルの塔の事件以来、世界に散らされていきました。その中で東に移っていった人が多くいました。もしかすると、その人たちが一番多かったのかもしれません。バベルの塔は現代でいうと、イランとかイラクの地域にあったと思われます。そこから東に移っていきますと、インドがあります。そこで文明が栄えました。またもっと東に行ったら、広い草原に出ました。そこが中国です。しかしもっと東に出て、半島に南下し、北の方に住み着いたのが北朝鮮の人々です。さらに下って南の方に住み着いたのが韓国人です。そこから海を渡って来たのが日本人です。元々同じ民族なのです。昔、新羅という国が朝鮮半島にありましたが、当時使っていた言葉は日本語とほぼ同じで、普通に会話できたのではないかと言われています。だから今でも、新羅があった慶尚北道、慶尚南道地方のアクセントは日本語に似ています。文章の区切りや長さはだいたい同じです。
日本と韓国は本当に兄弟のような国です。しかしそこに対立があるのです。ちょうど良きサマリヤ人の例えと、そっくりな状況です。そんな民族性を超えて助け合うことが、神を愛することです。私たちは日本のリバイバルを長い間祈っていますが、なかなか結果が出ません。しかし神の法則は私たちの思いとは違うのです。それは日本の祝福のためにも、お隣の朝鮮半島に住む人々を愛することが大切です。もっとも大切な条件が満たされ、結果として、日本にリバイバルが起きるのではないでしょうか。神様の祝福の条件は私たちが日頃考えているものとは違うのです。私たちはその原則を聖書から学んでいかなければなりません。
エルサレムからエリコに下る道は、サマリヤ人も使うし、ユダヤ人も使う共通の道でした。そこに大きな問題がありました。それは常に強盗が出るというものでした。言い伝えによると、あまりにも多くの旅人が襲われ、道路が赤く染まったと言われるほど、頻繁に強盗が出たそうです。
この物語の根本的な解決法は、倒れている人を助けることも重要ですが、それ以上に「そこに出没する強盗どもを一掃する」ことです。そうしないと、犠牲者は絶えることがありません。強盗どもはユダヤ人でもサマリヤ人でも、襲っていたのです。ユダヤ人とサマリヤ人は互いに対立していましたが、実はこの道には共通の敵がいたのです。だから日本人が韓国人を助けることも重要ですが、やはり目に見えない共通の敵をやっつけることが、最も重要だと思います。ルカの福音書10章の始めを見ますと、10:1-3、『その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです。」』
ルカの福音書10章の書き始めはイエス様が70人を定め、先に使わされたと記されています。そこには「宣教」というテーマがあります。70人を二人ずつ組みにして町々、村々へイエス様より先に遣わされたのです。私たちクリスチャンは言い換えれば、「イエス様の弟子」です。弟子はどのようなことをしなければならないのかと言えば、イエス様の命令に従うことです。そしてイエス様の命令は70人を定めて遣わされたように、私たちも色々な場所へ遣わされるのです。
これからは、ある方は新しい学校に入ったり、新しい職場に就職したり、色々、環境が変わるかもしれません。それはたまたま偶然に、そこに行くようになったのではなく、神のご計画のなかで、私たちはそこに遣わされたのです。そのことを覚えなければなりません。「私はここに遣わされてきた。それも主によって」と。「イエス様の弟子として、イエス様の命令によって遣わされた」と信じていただきたいと思います。
皆さんが今いる環境は、神様が皆さんを遣わした場所です。でも遣わす時にイエス様は、ちょっと怖い言葉を語られました。何を語られたかというと、「さあ、行きなさい。いいですか、わたしがあなた方を遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです。」
私たちクリスチャンが世の中に出ることは、ちょうどこのような状況です。狼の中に子羊が行けば、狼は獲物が向こうからわざわざやって来たと言って喜ぶと思います。私たちが遣わされる現実はこういう場所だと教えているのです。心を引き締めていただきたいと思います。私たちが遣わされていく環境は、「狼の中に遣わされる子羊のようだ」というのです。目に見えない敵が沢山いるのです。そんな中に私たちは遣わされていく、「それが宣教ですよ」と教えているのです。
皆さん、特に悪魔に機会を与えるものとして、「憎しみ」があります。聖書は「怒っても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはなりません。悪魔に機会を与えてはいけません。」とありますから、「誰かを憎む」というのは、悪魔が侵入するポイントになります。そして兄弟を愛せないという事は、神を愛せないのと同じです。
しかしある意味、見える世界でも見えない世界でも、なかなか大変なことがあります。聖書が語っている「あなた方を遣わすのは、狼の中に子羊を送り込むようなものだ」というのと同じような環境が私たちの周りには沢山あるからです。だから私たちはどんな環境でも油断してはいけません。そこには目に見えない敵がいるのです。しかし新しい環境に踏み出していかなければなりません。
イエス様は弟子たちに対して、「あなた方を遣わすのは、狼の中に子羊を遣わすようなものだ」と語られましたが、いざ弟子たちが出て行って見ると、何が起こったのでしょうか。その事が、ルカの福音書10:17-20に記されています。
『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」』
イエス様が最初弟子たちに語った事とは、まったく正反対のことが起こったわけです。最初は、「狼の群れに遣わされる子羊だ」といいましたが、実際に行ってみたら、何が起こったかというと、70人は喜んで帰って来て、「あなたのみ名を使うと、悪霊どもでさえ私達に服従します。」と報告したのです。何と、悪霊どもでさえも服従するような、華々しい働きができたというのです。すると、イエス様はこう言われました。「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」それなら、そうと送り出す前に、そのことを早く言ってくれればいいのに、という感じです。狼の中に子羊を送るようなものだと言われたはずなのに、実際は「蛇やさそりを踏みつける、あなた方に害を与える者は何一つない」というのです。「何だ、イエス様、先に言って下さいよ」と言いたくなるかもしれません。
皆さん、「狼の中に子羊を送る」ということから、私たちが連想するのは「弱い子羊が、恐ろしい狼の中に遣わされる」ように思いますが、しかし実はこの「子羊」とは何かというと、ヨハネの福音書1:29、『その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」』
実は子羊は弱いものではなく、「神の子羊」なのです。それは弟子たちを先に遣わしたようですが、実はイエス様が共に行って下さる、すなわち、狼の中の子羊とは、「神の子羊、イエス様」を表わしているのです。だからこれから私たちが色々な所に遣わされるのは、神の子羊(イエス様)という立場で、狼の中に入ることができるとイエス様は私たちに語っておられます。それで「あなたに害を加える者は何一つない」というのです。だからこそ、私たちは絶対に負けることのない、神の子羊であるということを、是非知っていただきたいのです。
70人の弟子たちの羊に対する最初のイメージは「弱い子羊」だったと思いますが、実際は「勇士」として送られたのです。しかしイエス様が語られたのは、どんなに勝利があったとしてもその勝利を喜ぶのではなく、「あなたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と語られたのです。私たちは神に愛されており、私たちも神を愛するポジションにあるなら、そのような権威を使うことができるのです。そのようなポジションの故に、「神の子羊としての素晴らしい権威ある働きができる」ということをイエス様は語っておられるのです。
だから私たちにとって一番重要なことは、神の子羊と共にいること、イエス様を愛すること、主を熱く求めていくこと、あのマリヤと同じように、イエス様の足もとに座り、神の御言葉を聞くことが一番重要であり、そこに集約されるのです。
皆さん、今皆さんが一番愛しているもの以上に、イエス様を愛する事が重要です。イエス様の愛をいただくなら、隣人をも愛することができるようになります。そして最も大切な条件が満たされますから、私たちは素晴らしい人生を歩むことができると主は語っておられます。私たちは常にリバイバルを求めていますが、一番求めなければいけないのは、主ご自身です。
ホセア書6:3、「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」
この、「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」の後に、「そうすれば」という言葉を挿入したら、よく分かります。「そうすれば主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」
私たちが切に主を愛し、主を求めるとき、その結果として聖霊様が訪れて、地は潤されるのです。「リバイバルにつながりますよ」と、教えているのです。
私たちが主を愛することは大変重要です。今年もマリヤのように、主のみ声に聞き従い、主を愛する一年でありますように。しかしそれはコインの裏・表であり、隣人を愛することが、くっついていることをよく知って、ぜひ皆さん、遣わされた者として、主から与えられた神の子羊として、イエス様と共に敵をやっつける働きをしたいと思います。
最後に一言お祈りして、終りにしたいと思います。
ハレルヤ、天の父なる神様、み名をあがめて心から感謝します。あなたが私たちと共にいて下さる事を心から感謝します。どうぞ主よ、私たちを強め、私たちを神の愛で満たし、また隣人を愛する愛で満たして下さいますように。今日のこの時を心から感謝します。すべての栄光を主にお返しして、イエス様の御名によって、お祈りいたします。アーメン!
ハレルヤ!新年あけましておめでとうございます。今年からは新しい環境に出て行かれる方もおられると思いますが、どんな年度になるのか、学校が変わったり、職場が変わったり、持ち場が代わったりして、色々と不安が多いかもしれません。私たちはこの世において、沢山のことをしなければならないのですが、しかし今日は「必要なことは一つだけだ」ということについて、聖書から、皆さんと一緒に学んでいきたいと思います。
今日、読んでいただいた聖書の箇所は、イエス様がある村に入られたときの出来事です。そこで、マルタという女性がイエス様を喜んでお迎えしたと書かれています。このマルタはもてなしの賜物がある方で、イエス様を手厚く接待しました。私が韓国に行くと、本当によくもてなして下さいます。韓国の人々は、もてなしの賜物があると思います。
皆さん、「どうしても必要なことはわずかだ、いや、一つだけだ、マリヤはその良い方を選んだ」とありますが、それが何かというと、イエス様の足下に座って、みことばを聞くこと、つまり「主を愛する、主に対するひたむきさ」が一番重要なことだということです。その点、韓国の人々は、実に熱く主を求めます。だから礼拝ごとに、いつも恵まれます。
今日の本文に出るマルタという女性はもてなすこと、イエス様に仕えることに使命を感じていた女性でした。しかし妹のマリアはお姉さんに仕事を任せて、自分はイエス様の足下に座って、イエス様の話を聞いていました。その姿を見て、マルタは頭に来て、「イエス様、何とかなりませんか、うちの妹は‥」と文句を言ったのです。そこでイエス様が言われたことは何であったかというと、今日の本文41-42、『主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」』
私たちも色々なことに気を使います。特に今の季節は新年度を迎える時期ですので、やらなければならないことも沢山あり、忙しい時期です。このときにこそ、一度立ち止まり、聖書のみことばに耳を傾けることが重要です。私たちは何にフォーカスを当てて生きていくべきでしょうか。それは多くはない、むしろ一つだというのです。マリヤはその良い方を選んだと言われましたが、それは「主の足下に座ってみことばに聞き入ることだ」というのです。
皆さんは今日も、世界が大騒ぎになっている災難の中でも、礼拝を捧げています。本当に感謝します。もちろん今は私がメッセージを語っていて、イエス様の足下で直接聞いているわけではありませんが、基本的には聖書から語っていますので、主の足下でみことばを聞いていると言えると思います。これは私たちにとって一番重要な事であり、みなさんは今最も大切なことを行っているのです。神様が人間を造られたとき、同時に霊的法則を造られたわけです。だから、どうしても必要な条件を満たすなら、他の必要も満たされるはずです。
幸せを得るためには、条件は多くありません。それも、一般的な条件とは違っているのです。これからの皆さんの生活の中で、何を大事にしていけば、うまくいくのでしょうか。ひと言で言うと、「主を愛する」ということです。マタイの福音書の22:34-40に、関連したことが書かれています。
「しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
聖書はしっかりとした目的を持って記されているわけですから、一連の流れ、「文脈」が大切です。だからルカの福音書10章全体の中で、神様が私たちに語りたいテーマがあるはずです。それが何かというと、「神を愛する」ということが、一番大切であるということです。神を第一に追い求め、生活で最優先にすると、私たちは幸せになります。また永遠のいのちを得ることができるとイエス様は語っておられます。
しかし神様を愛すると言いますが、目に見えたら簡単なわけですが、見えないわけです。マルタやマリヤはイエス様を目の前に見ていたのですから、愛情も感じたと思いますが、私達はイエス様を見ることができないのに、どうやって愛することができるのかと思われるかも知れません。ルカの福音書10章には「神を愛する」とは、具体的にどういうことかが述べられています。それに関連して、ヨハネの手紙第一4:20-21、「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」
私たちは「神様を愛します」と言いますし、賛美でもそのように歌います。しかし実際、「神を愛する」とは、どういうことかと言うと「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいたら、その人は偽り者であり、目に見える兄弟を愛していないのに、見えない神を愛することはできません。」とあります。本物のクリスチャンと偽物との違いは、神を愛しているかどうかであり、それは「目に見える兄弟を愛することが神様を愛することだ」というのです。「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令を、キリストから受けています。」とあります。
ここで言う「兄弟」とは、ルカの福音書10章では、「隣人」を指しています。実は神を愛することと、隣人を愛することは、切っても切れない関係なのです。ちょうど、コインの表・裏のように、神を愛することは、ひっくり返せば、兄弟を愛することです。この二つがそろって、初めて「神を愛する」と表現されるわけです。だから良きサマリヤ人の例えがあるのです。
ルカの福音書10:30-37、『イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』
一人の倒れていた旅人とは、ユダヤ人だと思われます。この旅人を助けたのはサマリヤ人でした。イスラエルはかつては一つの国でしたが、二つの国に分断してしまいました。北イスラエルと南ユダに分かれてしまいました。北イスラエルはアッシリアに侵略され、多くの人が姿を消し、残った人たちはアッシリアの植民地政策によって混血が起こりました。一方、南ユダもバビロニア帝国に捕らえられましたが、70年後、もう一度帰ることができました。南ユダの人々は自分たちは民族性を保つことができたという自負心があったのです。だから彼らは、北イスラエルを軽蔑していました。もともとは同じ民族だったのに、大国の狭間で揺れ動かされ、国が分断されたのです。そしてイエス様の時代は、北イスラエルの子孫がサマリヤ地方に住み、南ユダの子孫はイスラエルの南に住んでいました。
エルサレムからエリコに下る道は急な坂道でした。標高700メートルの高台にあるエルサレムから、地中海から300メートルも低い地下にあるようなエリコへ至る道は、険しい道が続いていました。直線距離は40キロメートルくらいの間に、急激に下るカーブの多い道だったのです。この道はユダヤ人もサマリヤ人も使っていました。そんな中で問題が起こっていました。それは街道沿いにたびたび強盗が出没していたからです。倒れていたのはユダヤ人、そして助けたのはサマリヤ人だったのです。イエス様がお話しされたこの状況は民族意識の強いユダヤ人にとっては受け入れがたいストーリーでした。彼らはサマリヤの人を見下して、差別していたからです。
私たちも人生の中で敵視している人が失敗したり倒れたりすると、「良かった」と悪い心を持ってしまうことがあります。しかしそんな状況を超えて、サマリヤ人は旅人を助けたところに、この物語のポイントがあります。隣人を助けるとは、単なる隣の人ということだけでなく、「ユダヤ人とサマリヤ人」の関係のように、もともとは兄弟同士だったのに、対立関係にある「民族集団」を指すのです。しかしそれを超えて、愛を現すというところに、隣人を愛する重要性があります。
皆さん、日本と韓国とは歴史を見ると、まさに兄弟のような関係です。人類はもともとバベルの塔の付近に住んでいました。バベルの塔の事件以来、世界に散らされていきました。その中で東に移っていった人が多くいました。もしかすると、その人たちが一番多かったのかもしれません。バベルの塔は現代でいうと、イランとかイラクの地域にあったと思われます。そこから東に移っていきますと、インドがあります。そこで文明が栄えました。またもっと東に行ったら、広い草原に出ました。そこが中国です。しかしもっと東に出て、半島に南下し、北の方に住み着いたのが北朝鮮の人々です。さらに下って南の方に住み着いたのが韓国人です。そこから海を渡って来たのが日本人です。元々同じ民族なのです。昔、新羅という国が朝鮮半島にありましたが、当時使っていた言葉は日本語とほぼ同じで、普通に会話できたのではないかと言われています。だから今でも、新羅があった慶尚北道、慶尚南道地方のアクセントは日本語に似ています。文章の区切りや長さはだいたい同じです。
日本と韓国は本当に兄弟のような国です。しかしそこに対立があるのです。ちょうど良きサマリヤ人の例えと、そっくりな状況です。そんな民族性を超えて助け合うことが、神を愛することです。私たちは日本のリバイバルを長い間祈っていますが、なかなか結果が出ません。しかし神の法則は私たちの思いとは違うのです。それは日本の祝福のためにも、お隣の朝鮮半島に住む人々を愛することが大切です。もっとも大切な条件が満たされ、結果として、日本にリバイバルが起きるのではないでしょうか。神様の祝福の条件は私たちが日頃考えているものとは違うのです。私たちはその原則を聖書から学んでいかなければなりません。
エルサレムからエリコに下る道は、サマリヤ人も使うし、ユダヤ人も使う共通の道でした。そこに大きな問題がありました。それは常に強盗が出るというものでした。言い伝えによると、あまりにも多くの旅人が襲われ、道路が赤く染まったと言われるほど、頻繁に強盗が出たそうです。
この物語の根本的な解決法は、倒れている人を助けることも重要ですが、それ以上に「そこに出没する強盗どもを一掃する」ことです。そうしないと、犠牲者は絶えることがありません。強盗どもはユダヤ人でもサマリヤ人でも、襲っていたのです。ユダヤ人とサマリヤ人は互いに対立していましたが、実はこの道には共通の敵がいたのです。だから日本人が韓国人を助けることも重要ですが、やはり目に見えない共通の敵をやっつけることが、最も重要だと思います。ルカの福音書10章の始めを見ますと、10:1-3、『その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです。」』
ルカの福音書10章の書き始めはイエス様が70人を定め、先に使わされたと記されています。そこには「宣教」というテーマがあります。70人を二人ずつ組みにして町々、村々へイエス様より先に遣わされたのです。私たちクリスチャンは言い換えれば、「イエス様の弟子」です。弟子はどのようなことをしなければならないのかと言えば、イエス様の命令に従うことです。そしてイエス様の命令は70人を定めて遣わされたように、私たちも色々な場所へ遣わされるのです。
これからは、ある方は新しい学校に入ったり、新しい職場に就職したり、色々、環境が変わるかもしれません。それはたまたま偶然に、そこに行くようになったのではなく、神のご計画のなかで、私たちはそこに遣わされたのです。そのことを覚えなければなりません。「私はここに遣わされてきた。それも主によって」と。「イエス様の弟子として、イエス様の命令によって遣わされた」と信じていただきたいと思います。
皆さんが今いる環境は、神様が皆さんを遣わした場所です。でも遣わす時にイエス様は、ちょっと怖い言葉を語られました。何を語られたかというと、「さあ、行きなさい。いいですか、わたしがあなた方を遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです。」
私たちクリスチャンが世の中に出ることは、ちょうどこのような状況です。狼の中に子羊が行けば、狼は獲物が向こうからわざわざやって来たと言って喜ぶと思います。私たちが遣わされる現実はこういう場所だと教えているのです。心を引き締めていただきたいと思います。私たちが遣わされていく環境は、「狼の中に遣わされる子羊のようだ」というのです。目に見えない敵が沢山いるのです。そんな中に私たちは遣わされていく、「それが宣教ですよ」と教えているのです。
皆さん、特に悪魔に機会を与えるものとして、「憎しみ」があります。聖書は「怒っても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはなりません。悪魔に機会を与えてはいけません。」とありますから、「誰かを憎む」というのは、悪魔が侵入するポイントになります。そして兄弟を愛せないという事は、神を愛せないのと同じです。
しかしある意味、見える世界でも見えない世界でも、なかなか大変なことがあります。聖書が語っている「あなた方を遣わすのは、狼の中に子羊を送り込むようなものだ」というのと同じような環境が私たちの周りには沢山あるからです。だから私たちはどんな環境でも油断してはいけません。そこには目に見えない敵がいるのです。しかし新しい環境に踏み出していかなければなりません。
イエス様は弟子たちに対して、「あなた方を遣わすのは、狼の中に子羊を遣わすようなものだ」と語られましたが、いざ弟子たちが出て行って見ると、何が起こったのでしょうか。その事が、ルカの福音書10:17-20に記されています。
『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」』
イエス様が最初弟子たちに語った事とは、まったく正反対のことが起こったわけです。最初は、「狼の群れに遣わされる子羊だ」といいましたが、実際に行ってみたら、何が起こったかというと、70人は喜んで帰って来て、「あなたのみ名を使うと、悪霊どもでさえ私達に服従します。」と報告したのです。何と、悪霊どもでさえも服従するような、華々しい働きができたというのです。すると、イエス様はこう言われました。「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」それなら、そうと送り出す前に、そのことを早く言ってくれればいいのに、という感じです。狼の中に子羊を送るようなものだと言われたはずなのに、実際は「蛇やさそりを踏みつける、あなた方に害を与える者は何一つない」というのです。「何だ、イエス様、先に言って下さいよ」と言いたくなるかもしれません。
皆さん、「狼の中に子羊を送る」ということから、私たちが連想するのは「弱い子羊が、恐ろしい狼の中に遣わされる」ように思いますが、しかし実はこの「子羊」とは何かというと、ヨハネの福音書1:29、『その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」』
実は子羊は弱いものではなく、「神の子羊」なのです。それは弟子たちを先に遣わしたようですが、実はイエス様が共に行って下さる、すなわち、狼の中の子羊とは、「神の子羊、イエス様」を表わしているのです。だからこれから私たちが色々な所に遣わされるのは、神の子羊(イエス様)という立場で、狼の中に入ることができるとイエス様は私たちに語っておられます。それで「あなたに害を加える者は何一つない」というのです。だからこそ、私たちは絶対に負けることのない、神の子羊であるということを、是非知っていただきたいのです。
70人の弟子たちの羊に対する最初のイメージは「弱い子羊」だったと思いますが、実際は「勇士」として送られたのです。しかしイエス様が語られたのは、どんなに勝利があったとしてもその勝利を喜ぶのではなく、「あなたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と語られたのです。私たちは神に愛されており、私たちも神を愛するポジションにあるなら、そのような権威を使うことができるのです。そのようなポジションの故に、「神の子羊としての素晴らしい権威ある働きができる」ということをイエス様は語っておられるのです。
だから私たちにとって一番重要なことは、神の子羊と共にいること、イエス様を愛すること、主を熱く求めていくこと、あのマリヤと同じように、イエス様の足もとに座り、神の御言葉を聞くことが一番重要であり、そこに集約されるのです。
皆さん、今皆さんが一番愛しているもの以上に、イエス様を愛する事が重要です。イエス様の愛をいただくなら、隣人をも愛することができるようになります。そして最も大切な条件が満たされますから、私たちは素晴らしい人生を歩むことができると主は語っておられます。私たちは常にリバイバルを求めていますが、一番求めなければいけないのは、主ご自身です。
ホセア書6:3、「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」
この、「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」の後に、「そうすれば」という言葉を挿入したら、よく分かります。「そうすれば主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」
私たちが切に主を愛し、主を求めるとき、その結果として聖霊様が訪れて、地は潤されるのです。「リバイバルにつながりますよ」と、教えているのです。
私たちが主を愛することは大変重要です。今年もマリヤのように、主のみ声に聞き従い、主を愛する一年でありますように。しかしそれはコインの裏・表であり、隣人を愛することが、くっついていることをよく知って、ぜひ皆さん、遣わされた者として、主から与えられた神の子羊として、イエス様と共に敵をやっつける働きをしたいと思います。
最後に一言お祈りして、終りにしたいと思います。
ハレルヤ、天の父なる神様、み名をあがめて心から感謝します。あなたが私たちと共にいて下さる事を心から感謝します。どうぞ主よ、私たちを強め、私たちを神の愛で満たし、また隣人を愛する愛で満たして下さいますように。今日のこの時を心から感謝します。すべての栄光を主にお返しして、イエス様の御名によって、お祈りいたします。アーメン!
合計 182
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New サムエル記第二15:1-37、(アブサロムとダビデ)
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ローマ人への手紙8:18-23(今の時のいろいろの苦しみは)
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ルカの福音書10:38-42(必要なことは一つだけです)
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へブル人への手紙4:10(神の安息に入った者)
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マタイの福音書22:35-40(イエス様の誕生、十字架の愛)
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