メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
ローマ人への手紙8:18-23(今の時のいろいろの苦しみは)
投稿者
tbic
投稿日
2025-01-12 22:56
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ローマ人への手紙8:18-23『今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。』
今、世界中が同じ産みの苦しみを共にしています。このような中にこそ、主が恵みを与えて下さると信じます。今の時の様々な苦しみは、それだけで終わらず、将来と希望につながります。クリスチャンにとっての苦しみはただの我慢大会ではなく、産みの苦しみです。母親が子どもを産む時、ただ単に苦しんでいるわけではありません。ローマ人への手紙8章では、『共にうめき、共に産みの苦しみをする。』と表現されています。
私もお産に立ち会ったことがあります。妻が苦しんでいる姿を側で見ながら、共にうめきました。それはただ、「痛い、痛い!」と苦しむのではなく、その後に大きな望みがありました。苦しみの後に、新しい命が生まれるのです。だから苦しみにも価値があるわけです。現在、人類は様々な出来事によって苦しんでいます。これは新しいものを生み出すためのうめきです。神様は人類に共通の苦しみを与えて、メッセージを送っておられるのではないかと思います。使徒の働き2:46-47、『そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。』
聖霊が注がれた後、人々は宮に集まって礼拝するだけでなく、家に帰ってからパンを裂いていたと記録されています。それは、ただの食事ではないのです。聖餐式を意味します。聖餐式とは、主の再臨を待たずして、主が来てくださるという神の宮を象徴しています。家が神の宮となるのです。私たちは様々な苦しみを経験していますが、この苦しみは決して無駄になることはないのです。これが終わったら、どのような素晴らしい計画を主は実行してくださるのか、大きな期待を持って、祈り続けたいと思います。しかしそのためには、うめきが伴うわけです。今も祈りの勇士たちが毎日、世界各地で起きている様々な問題に関して祈ってくださっています。もちろん私も妻も、毎日祈っています。しかし祈りには結構、エネルギーが要ります。
皆さん、今インフルエンザが普段よりも二倍以上に流行っていますが、実はインフルエンザって、本当に怖いです。死亡率は低いようなことを言われますが、日本でインフルエンザで亡くなっている方、どのくらいおられるのか、発表があります。感染者の中での死亡率は4%近いです。4%ってすごいじゃないですか。百人いたら四人死ぬことです。高いです。世界の死亡率は5%です。だから見下してはいけないわけです。どういうものかをよく知らないといけないと思います。風邪を引くくらいに思っていたら、たいへんなことになります。真剣に祈り続けるなら、祈りによって結果が出ると信じます。
私たちは管理人として、毎日「インフルエンザよ、よく聞け!人類に関わってはならない!」と。祈り続けたいと思います。インフルエンザが蔓延することで、私たちはうめき苦しんでいますが、普通では絶対にありえない事を主が今、行ってくださっていることも知らないといけません。日本の歴史は言い換えれば偶像礼拝の歴史です。歴史が分かる二千年くらい前の縄文時代から今に至るまで、偶像礼拝は途絶えたことはありません。特に日本の偶像礼拝は、一言で言うと、自然崇拝です。
自然とは「自ら然り」で、進化論的な言葉です。本来は被造物です。日本では被造物を神として拝んでいるわけです。太陽を拝んだり、木やわらじをも拝んだりするわけです。神社の祭りも、全て自然崇拝に行き着きます。しかし今、日本ではコロナ時代を経て、インフルエンザでもこの偶像礼拝を中止しているわけです。その結果として、霊的空気も澄んでいます。悪しき覆いが取りのけられているがゆえに、被造物世界も明るくなっています。鳥なども元気にさえずっています。これはなぜかと言うと、被造物全体が悪しき力の圧迫から解放されているからです。
現在私たちはインフルエンザをはじめ、いろいろな病気でうめいていますが、このうめきには価値があるのです。今、霊的世界の風通しがよくなっています。今こそ私たちクリスチャンが聖霊の風を吹かせる絶好のチャンスだと思います。「風よ吹け!息よ四方から吹いて来い!」と聖霊を叫ぶ時、殺されたものたちを立ちあがらせる神の働きはもっと強くなると信じます。
私は最近教会を見ながら、心が痛かったのです。私がTBICに来て14年ちょっと欠けますが、最初のごろから今までの働きをずっと見ると、教会に私の家族を除けば、あと10人も残っていないなと感じです。みんな、どこへ行っちゃったのかなと。様々な理由で教会を去ったり、信仰を捨ててしまったり、教会に様々なことが起こったのです。
実際、日本の教会って、クリスチャンの平均信仰寿命は、だいたい2、3年だと言うのです。2、3年は教会に来るけど、3年くらい経つと、教会に来なくなってしまうというのです。教会には人の流れはあるけど、定着しないというわけです。14年間、私はうめきにうめきながら働いてきたわけですが、14年間に殺された者たちに息が吹いて来て、彼らを霊的に立ちあがらせよと主は語られています。一度救われたけど、悪魔に倒された人たちの骨々が満ちていますが、それらがくっついて、立ちあがるように、この時にこそ、真剣に祈りなさいと、最近語られています。
だから霊的に軽くなった今、管理人たちには使命があります。そもそも管理は痛みを伴い、苦しみを共にするものですが、この苦しみは決してただの苦しみに終わることなく、将来の栄光につながります。今日も、皆さんと一緒に、ローマ人への手紙8章18節を読みました。『今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。』
パウロは相当苦しんだ人物ですが、「将来啓示されようとしている栄光に比べれば、今の苦しみなんか取るに足りない。」と語っています。私たちもゴールを目指して、歩み続けなければなりません。うめきとは、人類だけがうめいているのではなく『被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいる。』と。人だけでなく、被造物のうめきに気づかないと、将来啓示されている栄光にはつながらないのです。
福音とは何か、それは人だけでなく、被造物全体の救いです。N.T.ライトという神学者が、「良い知らせとは、魔法の合い言葉で窮地を脱して天国に入る少数の人間のためのものではなく、被造物世界の全体についての知らせであり、被造物世界全体のための良い知らせなのです。」と指摘しました。聖書は人だけの救いを語っているのではありません。人とは管理人であり、人が正しい立場に立ったら、それに伴い、他の被造物も回復します。福音とは、「被造世界全体の良い知らせ」なのです。しかし悪魔は福音を人だけのものかのように矮小化させたのです。またイギリスの有名な神学者がこう語っています。『御子は人となられ、人々を罪からきよめ、また悪魔の支配から解放してくださった。人間がこのような大きな祝福に与ったのは、その本来の召命、「地を治める」という召命を果たすためだ。地を治めるためには私たち人間には「からだ」が必要なのである。死んで霊の状態になってしまえば、その召しを果たすことができない。』
イエス様がこの地上に来られて、人のために十字架にかかって死に、よみがえってくださったことは、人間にとっては相当ありがたいことです。死刑にならないで済んだわけですから。しかしそれは人間のためだけではないというのです。なぜ、ここまでイエス様は人にしてくれたのか、それは「人が本来の召命、地を治めるという召命を果たすためだ」というのです。地を治めるためには何が必要か、それは「からだが必要である」というのです。
今全人類は「からだをこの地上に残す」ことを最優先順位にして生活しています。以前は一円でも多く儲けたいという経済活動が前面に出ていたのですが、今はもう経済活動なんかどうでもいい、からだを地上に残せるか否かです。インフルエンザでも致死率4%近いですから本当に恐ろしい時代です。有名人たちも次ぎ次ぎと死んでいるくらいですから、相当な脅威です。では「からだを地上に残して何をするの?」ということが最も重要です。それは「地を治める」ためだというのです。しかし悪魔は「この地上から去って、死後の世界に行くことが最も幸せですよ。死後の世界が天国、ゴールですよ!」とクリスチャンたちに思い違いをさせています。しかし本来は、この地を治めるために生きて真剣に戦い、働かなければなりません。死んで霊の状態になってしまえば、その召しを果たすことができないのです。
皆さん、ただ単に癒やしを求めたり、問題解決を求めたりするのではなく、ゴールは何かをしっかりと捉える事が大切です。「ともに」うめき「ともに」苦しみをしているとは、人は被造物と共にうめいているのです。つまり人の癒やしや問題解決はイコール、被造物の回復につながるという事です。今私たちがうめき苦しみながら生活に耐えている中で被造物世界は回復しています。私たち人間のうめきと、被造物のうめきがシンクロしている証拠です。それを見える形で、主は私たちに見せてくださっています。産みの苦しみのゴールは赤ん坊が生まれることです。私たちクリスチャンのゴールは何か、それが「新しい天と新しい地の訪れ」です。
ヨハネの黙示録22:1-4、『御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。』
これがどこに実現するのかというと、決して死後の世界ではありません。これは地上に実現するのです。死後の世界、第三の天までは神の国になっています。しかし第二の天と、第一の天、我々が住んでいる天は、悪魔が支配しているのです。ということは、このまま終わったら、神様の敗北です。「いや、悪魔が強かったものだから、第二と第一は取られました。」となったら、神様の負けです。第一の天まで貫いて諸天が神の国にならなかったら、敗北です。水晶のように透き通る流れの川はどこに現れるべきかと言えば、地上です。新天新地はこの地上に下りて来るのです。かつてのエデンの園と同じように、神が人と共に住む楽園が再び、地上に現れるのです。そのためにイエス様は再臨されます。
皆さん、終末についての話題が再臨前後のことばかりにフォーカスされています。そのことに興味を持ちすぎると、最も大切なイエス様の再臨フォーカスが、ぼけてしまいます。終末論にはいろいろ理解があるので、一つに決めたら他が否定されます。だから私はあまりしっかりと決めないほうがいいと思っています。「主は帰って来られる」ことだけを抑えておいたら良いと思います。その前後に様々な苦しみがある事はさておき、やがてイエス様はこの地上に帰って来られ、地上を天国として下さるのです。
ということは、「水晶のように透き通る流れの川」とは、どこの川になるのでしょうか。イスラエルに出現するのでしょうか。私はそれだけでなく、世界中が新しくなるわけですから、日本を流れる川も、支流になれたら最高だと思っています。江戸川が水晶のように透き通る流れに変わるように祈っています。私はこの日本に早く新しい天と新しい地が訪れてほしいといつも思っています。イエス様が帰って来られたら、日本は変えられるはずです。皆さんが住んでいる街々も変えられるはずです。天国とは決して死後の世界ではありません。死後の世界にゴールを設定してはいけないのです。この地上が聖書のゴールです。これから水晶より透き通る流れの川で、TBIC全員が集まってバーベキューパーティーをやりたいです。
今までは総合公園でバーベキューパーティーをしました。あれは新天新地(天国)を象徴的に表しています。被造物のうめきとは、新天新地に生きる、あがなわれた被造物になりたいといううめきです。だから病んでいる状態で回復してきた被造物世界を目にしたら、「新天新地に生息する被造物になれ!」と宣言して下さい。私たちは被造物世界の管理人です。
今日、皆さんともう一度、分かち合いたいことがあるのですが、神が天と地を創造した時に、何が起こったのか、ということです。ヨブ記38:7、『そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。』と書かれています。
初め、天と地が創造された時、人はまだ創造されていませんでした。その時に神様と一緒に、創造の業を喜んだ存在がいるのです。それが誰かといったら、「み使いたち」です。皆さん、天と地は誰のために造られたのかについて、パウロはこう語っています。
コロサイ人への手紙1:16、『なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。』
この理解はたいへん重要です。すべての物質、すべての生き物、すべての被造物は、父、子、聖霊の三位一体の神の中で、み子イエス様が造られたのです。その目的も、「イエス様のためだ」という事です。すべての物質、金属も何もかも、光も闇も何もかも、これはイエス様が造られました。そして「み子のために」造られたという理解は重要です。それらができあがった時、それを見て、み使いたちが喜んで創造の業を賛美したのです。「神の子たち」という表現は、み使いを表しています。み使いは、コロサイ人への手紙1:13-17節を読んでいただきますと、イエス様が造られたのです。
そして神は、み使いたちに管理を任せたのです。黙示録16:5には「水をつかさどるみ使いたち」という、不思議な表現が出てきます。また14:18には「火をつかさどるみ使いたち」、「風をつかさどるみ使いたち」という表現が出てきます。「光のみ使い」も出てきます。光も物質です。神学者たちが言うのにはイエス様が万物を造られた時に、最初み使いたちに被造世界を治めるように管理を任せたというのです。
しかしその後、何が起こったのかというと、み使いたちの三分の一が神に反逆し、地に落とされてしまったのです。み使いたちにこの地を管理させようと割り当てたけど、その中の三分の一は、神から委託された管理権を自分のために使おうとしたのです。そんな反乱が発生してしまったわけです。み使いたちの自由意思の結果です。神様はそのままにしたら、ダメだと、どうされたかというと、人を創造したのです。
三分の一が堕落してしまったがゆえに光のみ使いたちの上に、管理人を設けなければならなくなったのです。み使いたちの直属ボスは、それまで神様だったのが、人類が創造された結果、み使いたちの直属ボスは人となりました。しかしアダムとエバはこの働きをすることなく悪魔に騙されて、同じく堕落してしまったわけです。その結果、悪魔・悪霊どもが管理権を横取りしてしまったのです。しかし私たちがイエス様を救い主として信じるなら、悪魔・悪霊どもをやっつける権限が回復するのです。
もちろん堕落しなかったみ使いたちには、うめきがあるはずです。なぜなら、仲間たち三分の一が悪魔・悪霊になり、直属のボスが神様だと思っていたら、人がボスになり、そのボスもまた、失敗をして地に落ちたからです。み使いたちにも結構、大きなうめきがあると思います。しかし贖われた人類の存在は、み使いの働きを回復するのです。み使いたちと一緒に管理していく時に、様々な領域が息づいてくると信じます。皆さんの所にも、強い天の軍勢が来て、皆さんを励まし、支えていることを是非とも知って下さい。
ヘブル人への手紙1:14、『御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。』とあります。あくまでボスはあがなわれた者たちなんです。遣わされたみ使いと共に、被造物を管理する時、すばらしいことが起きると信じます。
皆さん、薬を飲む時には、必ず水が必要です。水は「水晶より透き通る流れの水になりたい。」と願っているだろうなと、ある時思いました。それで我々管理人が「いのちの水の川の水となれ。」と宣言し、祈り、薬を飲んだら、もっと効果があるはずです。
薬も人間のために造られたわけですから「人間に仕えたい」と願っているはずです。いのちの木の葉からできる薬は万病に効く、人々を癒やす薬です。薬にうめきがあるとしたら「私の機能を使って、人々の病を癒やしてあげたい」と願っているはずです。私たちは薬にも「薬よ、万病に効く、いのちの木から生まれた薬となれ」と宣言し、祈る必要があります。そして水にも、管理のみ使いたちが遣わされるように祈ることです。人と一緒に、み使いたちが管理を任されているからです。だから薬を飲む時に、水をつかさどるみ使いが一緒に加わってくれれば、もっと効果的な薬の服用ができるはずです。
私たちが聖書に記されていることを、そのまま実行してみると、いろいろな奇跡が起きるのではないでしょうか。まだまだ閉ざされている領域が多くあると思い、何とも言えませんが、人が被造物の管理人であり、管理が人だけでなく、み使いも一緒に管理し、すべての被造物は新しい天と新しい地を目指していることを意識して祈る時に、様々な問題や苦しみに打ち勝つことができると、今希望を持っています。
もちろんコロナが出て、インフルエンザもあるし、本当にこれからどうなるのかなという所があります。しかしこの苦しみこそ、明日に向かって将来と希望、栄光への戦いそのものだと信じています。苦しみがあることによって、我々は真剣に神に近づいて、祈りをささげます。また目に見えない敵とも真剣に戦います。そんな中、神様はみことばの真理を一つ一つ明らかにして、より真理に導いてくださるのです。お一人お一人、様々な戦いがあると思いますが、この苦しみは決してこのまま終わるものではなく、栄光への序曲となっていきます。
今、世界中が共通のテーマで苦しんでいます。これは決して無駄ではありません。人間の命をこの地上に残して、人が苦しむことによって、被造世界は変わってきています。それを実体験させて、やがて来たるべき新しい天と新しい地のために、今最悪に見えるこの地が天国になるために、我々は働いていることを深く理解したいと願っております。
やがてイエス様がこの地上に帰って来られる時、死後の世界に入って行った兄弟姉妹全員も、この地上に帰って来るはずです。その時は、水晶より透き通る水のほとりで、イエス様と一緒に食事をする日がやって来ると信じます。その日を夢見て、私たちは戦い続けていきたいと思います。
皆さん、教会のためにも是非とも祈っていただき、皆が喜びを共にする神の奇跡を体験できるよう切にお祈りをよろしくお願いします。今、教会の兄弟姉妹たちがいろいろな苦しみの中におられます。その方々も覚えて、皆が祝福を受けることができるように、この戦いを戦い抜いていきたいと願います。
今、世界中が同じ産みの苦しみを共にしています。このような中にこそ、主が恵みを与えて下さると信じます。今の時の様々な苦しみは、それだけで終わらず、将来と希望につながります。クリスチャンにとっての苦しみはただの我慢大会ではなく、産みの苦しみです。母親が子どもを産む時、ただ単に苦しんでいるわけではありません。ローマ人への手紙8章では、『共にうめき、共に産みの苦しみをする。』と表現されています。
私もお産に立ち会ったことがあります。妻が苦しんでいる姿を側で見ながら、共にうめきました。それはただ、「痛い、痛い!」と苦しむのではなく、その後に大きな望みがありました。苦しみの後に、新しい命が生まれるのです。だから苦しみにも価値があるわけです。現在、人類は様々な出来事によって苦しんでいます。これは新しいものを生み出すためのうめきです。神様は人類に共通の苦しみを与えて、メッセージを送っておられるのではないかと思います。使徒の働き2:46-47、『そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。』
聖霊が注がれた後、人々は宮に集まって礼拝するだけでなく、家に帰ってからパンを裂いていたと記録されています。それは、ただの食事ではないのです。聖餐式を意味します。聖餐式とは、主の再臨を待たずして、主が来てくださるという神の宮を象徴しています。家が神の宮となるのです。私たちは様々な苦しみを経験していますが、この苦しみは決して無駄になることはないのです。これが終わったら、どのような素晴らしい計画を主は実行してくださるのか、大きな期待を持って、祈り続けたいと思います。しかしそのためには、うめきが伴うわけです。今も祈りの勇士たちが毎日、世界各地で起きている様々な問題に関して祈ってくださっています。もちろん私も妻も、毎日祈っています。しかし祈りには結構、エネルギーが要ります。
皆さん、今インフルエンザが普段よりも二倍以上に流行っていますが、実はインフルエンザって、本当に怖いです。死亡率は低いようなことを言われますが、日本でインフルエンザで亡くなっている方、どのくらいおられるのか、発表があります。感染者の中での死亡率は4%近いです。4%ってすごいじゃないですか。百人いたら四人死ぬことです。高いです。世界の死亡率は5%です。だから見下してはいけないわけです。どういうものかをよく知らないといけないと思います。風邪を引くくらいに思っていたら、たいへんなことになります。真剣に祈り続けるなら、祈りによって結果が出ると信じます。
私たちは管理人として、毎日「インフルエンザよ、よく聞け!人類に関わってはならない!」と。祈り続けたいと思います。インフルエンザが蔓延することで、私たちはうめき苦しんでいますが、普通では絶対にありえない事を主が今、行ってくださっていることも知らないといけません。日本の歴史は言い換えれば偶像礼拝の歴史です。歴史が分かる二千年くらい前の縄文時代から今に至るまで、偶像礼拝は途絶えたことはありません。特に日本の偶像礼拝は、一言で言うと、自然崇拝です。
自然とは「自ら然り」で、進化論的な言葉です。本来は被造物です。日本では被造物を神として拝んでいるわけです。太陽を拝んだり、木やわらじをも拝んだりするわけです。神社の祭りも、全て自然崇拝に行き着きます。しかし今、日本ではコロナ時代を経て、インフルエンザでもこの偶像礼拝を中止しているわけです。その結果として、霊的空気も澄んでいます。悪しき覆いが取りのけられているがゆえに、被造物世界も明るくなっています。鳥なども元気にさえずっています。これはなぜかと言うと、被造物全体が悪しき力の圧迫から解放されているからです。
現在私たちはインフルエンザをはじめ、いろいろな病気でうめいていますが、このうめきには価値があるのです。今、霊的世界の風通しがよくなっています。今こそ私たちクリスチャンが聖霊の風を吹かせる絶好のチャンスだと思います。「風よ吹け!息よ四方から吹いて来い!」と聖霊を叫ぶ時、殺されたものたちを立ちあがらせる神の働きはもっと強くなると信じます。
私は最近教会を見ながら、心が痛かったのです。私がTBICに来て14年ちょっと欠けますが、最初のごろから今までの働きをずっと見ると、教会に私の家族を除けば、あと10人も残っていないなと感じです。みんな、どこへ行っちゃったのかなと。様々な理由で教会を去ったり、信仰を捨ててしまったり、教会に様々なことが起こったのです。
実際、日本の教会って、クリスチャンの平均信仰寿命は、だいたい2、3年だと言うのです。2、3年は教会に来るけど、3年くらい経つと、教会に来なくなってしまうというのです。教会には人の流れはあるけど、定着しないというわけです。14年間、私はうめきにうめきながら働いてきたわけですが、14年間に殺された者たちに息が吹いて来て、彼らを霊的に立ちあがらせよと主は語られています。一度救われたけど、悪魔に倒された人たちの骨々が満ちていますが、それらがくっついて、立ちあがるように、この時にこそ、真剣に祈りなさいと、最近語られています。
だから霊的に軽くなった今、管理人たちには使命があります。そもそも管理は痛みを伴い、苦しみを共にするものですが、この苦しみは決してただの苦しみに終わることなく、将来の栄光につながります。今日も、皆さんと一緒に、ローマ人への手紙8章18節を読みました。『今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。』
パウロは相当苦しんだ人物ですが、「将来啓示されようとしている栄光に比べれば、今の苦しみなんか取るに足りない。」と語っています。私たちもゴールを目指して、歩み続けなければなりません。うめきとは、人類だけがうめいているのではなく『被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいる。』と。人だけでなく、被造物のうめきに気づかないと、将来啓示されている栄光にはつながらないのです。
福音とは何か、それは人だけでなく、被造物全体の救いです。N.T.ライトという神学者が、「良い知らせとは、魔法の合い言葉で窮地を脱して天国に入る少数の人間のためのものではなく、被造物世界の全体についての知らせであり、被造物世界全体のための良い知らせなのです。」と指摘しました。聖書は人だけの救いを語っているのではありません。人とは管理人であり、人が正しい立場に立ったら、それに伴い、他の被造物も回復します。福音とは、「被造世界全体の良い知らせ」なのです。しかし悪魔は福音を人だけのものかのように矮小化させたのです。またイギリスの有名な神学者がこう語っています。『御子は人となられ、人々を罪からきよめ、また悪魔の支配から解放してくださった。人間がこのような大きな祝福に与ったのは、その本来の召命、「地を治める」という召命を果たすためだ。地を治めるためには私たち人間には「からだ」が必要なのである。死んで霊の状態になってしまえば、その召しを果たすことができない。』
イエス様がこの地上に来られて、人のために十字架にかかって死に、よみがえってくださったことは、人間にとっては相当ありがたいことです。死刑にならないで済んだわけですから。しかしそれは人間のためだけではないというのです。なぜ、ここまでイエス様は人にしてくれたのか、それは「人が本来の召命、地を治めるという召命を果たすためだ」というのです。地を治めるためには何が必要か、それは「からだが必要である」というのです。
今全人類は「からだをこの地上に残す」ことを最優先順位にして生活しています。以前は一円でも多く儲けたいという経済活動が前面に出ていたのですが、今はもう経済活動なんかどうでもいい、からだを地上に残せるか否かです。インフルエンザでも致死率4%近いですから本当に恐ろしい時代です。有名人たちも次ぎ次ぎと死んでいるくらいですから、相当な脅威です。では「からだを地上に残して何をするの?」ということが最も重要です。それは「地を治める」ためだというのです。しかし悪魔は「この地上から去って、死後の世界に行くことが最も幸せですよ。死後の世界が天国、ゴールですよ!」とクリスチャンたちに思い違いをさせています。しかし本来は、この地を治めるために生きて真剣に戦い、働かなければなりません。死んで霊の状態になってしまえば、その召しを果たすことができないのです。
皆さん、ただ単に癒やしを求めたり、問題解決を求めたりするのではなく、ゴールは何かをしっかりと捉える事が大切です。「ともに」うめき「ともに」苦しみをしているとは、人は被造物と共にうめいているのです。つまり人の癒やしや問題解決はイコール、被造物の回復につながるという事です。今私たちがうめき苦しみながら生活に耐えている中で被造物世界は回復しています。私たち人間のうめきと、被造物のうめきがシンクロしている証拠です。それを見える形で、主は私たちに見せてくださっています。産みの苦しみのゴールは赤ん坊が生まれることです。私たちクリスチャンのゴールは何か、それが「新しい天と新しい地の訪れ」です。
ヨハネの黙示録22:1-4、『御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。』
これがどこに実現するのかというと、決して死後の世界ではありません。これは地上に実現するのです。死後の世界、第三の天までは神の国になっています。しかし第二の天と、第一の天、我々が住んでいる天は、悪魔が支配しているのです。ということは、このまま終わったら、神様の敗北です。「いや、悪魔が強かったものだから、第二と第一は取られました。」となったら、神様の負けです。第一の天まで貫いて諸天が神の国にならなかったら、敗北です。水晶のように透き通る流れの川はどこに現れるべきかと言えば、地上です。新天新地はこの地上に下りて来るのです。かつてのエデンの園と同じように、神が人と共に住む楽園が再び、地上に現れるのです。そのためにイエス様は再臨されます。
皆さん、終末についての話題が再臨前後のことばかりにフォーカスされています。そのことに興味を持ちすぎると、最も大切なイエス様の再臨フォーカスが、ぼけてしまいます。終末論にはいろいろ理解があるので、一つに決めたら他が否定されます。だから私はあまりしっかりと決めないほうがいいと思っています。「主は帰って来られる」ことだけを抑えておいたら良いと思います。その前後に様々な苦しみがある事はさておき、やがてイエス様はこの地上に帰って来られ、地上を天国として下さるのです。
ということは、「水晶のように透き通る流れの川」とは、どこの川になるのでしょうか。イスラエルに出現するのでしょうか。私はそれだけでなく、世界中が新しくなるわけですから、日本を流れる川も、支流になれたら最高だと思っています。江戸川が水晶のように透き通る流れに変わるように祈っています。私はこの日本に早く新しい天と新しい地が訪れてほしいといつも思っています。イエス様が帰って来られたら、日本は変えられるはずです。皆さんが住んでいる街々も変えられるはずです。天国とは決して死後の世界ではありません。死後の世界にゴールを設定してはいけないのです。この地上が聖書のゴールです。これから水晶より透き通る流れの川で、TBIC全員が集まってバーベキューパーティーをやりたいです。
今までは総合公園でバーベキューパーティーをしました。あれは新天新地(天国)を象徴的に表しています。被造物のうめきとは、新天新地に生きる、あがなわれた被造物になりたいといううめきです。だから病んでいる状態で回復してきた被造物世界を目にしたら、「新天新地に生息する被造物になれ!」と宣言して下さい。私たちは被造物世界の管理人です。
今日、皆さんともう一度、分かち合いたいことがあるのですが、神が天と地を創造した時に、何が起こったのか、ということです。ヨブ記38:7、『そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。』と書かれています。
初め、天と地が創造された時、人はまだ創造されていませんでした。その時に神様と一緒に、創造の業を喜んだ存在がいるのです。それが誰かといったら、「み使いたち」です。皆さん、天と地は誰のために造られたのかについて、パウロはこう語っています。
コロサイ人への手紙1:16、『なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。』
この理解はたいへん重要です。すべての物質、すべての生き物、すべての被造物は、父、子、聖霊の三位一体の神の中で、み子イエス様が造られたのです。その目的も、「イエス様のためだ」という事です。すべての物質、金属も何もかも、光も闇も何もかも、これはイエス様が造られました。そして「み子のために」造られたという理解は重要です。それらができあがった時、それを見て、み使いたちが喜んで創造の業を賛美したのです。「神の子たち」という表現は、み使いを表しています。み使いは、コロサイ人への手紙1:13-17節を読んでいただきますと、イエス様が造られたのです。
そして神は、み使いたちに管理を任せたのです。黙示録16:5には「水をつかさどるみ使いたち」という、不思議な表現が出てきます。また14:18には「火をつかさどるみ使いたち」、「風をつかさどるみ使いたち」という表現が出てきます。「光のみ使い」も出てきます。光も物質です。神学者たちが言うのにはイエス様が万物を造られた時に、最初み使いたちに被造世界を治めるように管理を任せたというのです。
しかしその後、何が起こったのかというと、み使いたちの三分の一が神に反逆し、地に落とされてしまったのです。み使いたちにこの地を管理させようと割り当てたけど、その中の三分の一は、神から委託された管理権を自分のために使おうとしたのです。そんな反乱が発生してしまったわけです。み使いたちの自由意思の結果です。神様はそのままにしたら、ダメだと、どうされたかというと、人を創造したのです。
三分の一が堕落してしまったがゆえに光のみ使いたちの上に、管理人を設けなければならなくなったのです。み使いたちの直属ボスは、それまで神様だったのが、人類が創造された結果、み使いたちの直属ボスは人となりました。しかしアダムとエバはこの働きをすることなく悪魔に騙されて、同じく堕落してしまったわけです。その結果、悪魔・悪霊どもが管理権を横取りしてしまったのです。しかし私たちがイエス様を救い主として信じるなら、悪魔・悪霊どもをやっつける権限が回復するのです。
もちろん堕落しなかったみ使いたちには、うめきがあるはずです。なぜなら、仲間たち三分の一が悪魔・悪霊になり、直属のボスが神様だと思っていたら、人がボスになり、そのボスもまた、失敗をして地に落ちたからです。み使いたちにも結構、大きなうめきがあると思います。しかし贖われた人類の存在は、み使いの働きを回復するのです。み使いたちと一緒に管理していく時に、様々な領域が息づいてくると信じます。皆さんの所にも、強い天の軍勢が来て、皆さんを励まし、支えていることを是非とも知って下さい。
ヘブル人への手紙1:14、『御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。』とあります。あくまでボスはあがなわれた者たちなんです。遣わされたみ使いと共に、被造物を管理する時、すばらしいことが起きると信じます。
皆さん、薬を飲む時には、必ず水が必要です。水は「水晶より透き通る流れの水になりたい。」と願っているだろうなと、ある時思いました。それで我々管理人が「いのちの水の川の水となれ。」と宣言し、祈り、薬を飲んだら、もっと効果があるはずです。
薬も人間のために造られたわけですから「人間に仕えたい」と願っているはずです。いのちの木の葉からできる薬は万病に効く、人々を癒やす薬です。薬にうめきがあるとしたら「私の機能を使って、人々の病を癒やしてあげたい」と願っているはずです。私たちは薬にも「薬よ、万病に効く、いのちの木から生まれた薬となれ」と宣言し、祈る必要があります。そして水にも、管理のみ使いたちが遣わされるように祈ることです。人と一緒に、み使いたちが管理を任されているからです。だから薬を飲む時に、水をつかさどるみ使いが一緒に加わってくれれば、もっと効果的な薬の服用ができるはずです。
私たちが聖書に記されていることを、そのまま実行してみると、いろいろな奇跡が起きるのではないでしょうか。まだまだ閉ざされている領域が多くあると思い、何とも言えませんが、人が被造物の管理人であり、管理が人だけでなく、み使いも一緒に管理し、すべての被造物は新しい天と新しい地を目指していることを意識して祈る時に、様々な問題や苦しみに打ち勝つことができると、今希望を持っています。
もちろんコロナが出て、インフルエンザもあるし、本当にこれからどうなるのかなという所があります。しかしこの苦しみこそ、明日に向かって将来と希望、栄光への戦いそのものだと信じています。苦しみがあることによって、我々は真剣に神に近づいて、祈りをささげます。また目に見えない敵とも真剣に戦います。そんな中、神様はみことばの真理を一つ一つ明らかにして、より真理に導いてくださるのです。お一人お一人、様々な戦いがあると思いますが、この苦しみは決してこのまま終わるものではなく、栄光への序曲となっていきます。
今、世界中が共通のテーマで苦しんでいます。これは決して無駄ではありません。人間の命をこの地上に残して、人が苦しむことによって、被造世界は変わってきています。それを実体験させて、やがて来たるべき新しい天と新しい地のために、今最悪に見えるこの地が天国になるために、我々は働いていることを深く理解したいと願っております。
やがてイエス様がこの地上に帰って来られる時、死後の世界に入って行った兄弟姉妹全員も、この地上に帰って来るはずです。その時は、水晶より透き通る水のほとりで、イエス様と一緒に食事をする日がやって来ると信じます。その日を夢見て、私たちは戦い続けていきたいと思います。
皆さん、教会のためにも是非とも祈っていただき、皆が喜びを共にする神の奇跡を体験できるよう切にお祈りをよろしくお願いします。今、教会の兄弟姉妹たちがいろいろな苦しみの中におられます。その方々も覚えて、皆が祝福を受けることができるように、この戦いを戦い抜いていきたいと願います。
合計 184
手順 | タイトル | 投稿者 | 投稿日 | 推薦 | 閲覧数 |
184 |
ピりピ人への手紙4: 13 (天路歴程)
tbic
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2025.02.02
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推薦 1
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閲覧数 12
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tbic | 2025.02.02 | 1 | 12 |
183 |
ピリピ人への手紙4:6 (何も思い煩うな)
tbic
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2025.01.27
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推薦 2
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閲覧数 32
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tbic | 2025.01.27 | 2 | 32 |
182 |
サムエル記第二15:1-37、(アブサロムとダビデ)
tbic
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2025.01.20
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推薦 1
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閲覧数 39
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tbic | 2025.01.20 | 1 | 39 |
181 |
ローマ人への手紙8:18-23(今の時のいろいろの苦しみは)
tbic
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2025.01.12
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推薦 0
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閲覧数 45
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tbic | 2025.01.12 | 0 | 45 |
180 |
ルカの福音書10:38-42(必要なことは一つだけです)
tbic
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2025.01.06
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推薦 1
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閲覧数 72
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tbic | 2025.01.06 | 1 | 72 |
179 |
へブル人への手紙4:10(神の安息に入った者)
tbic
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2024.12.29
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推薦 1
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閲覧数 69
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tbic | 2024.12.29 | 1 | 69 |
178 |
マタイの福音書22:35-40(イエス様の誕生、十字架の愛)
tbic
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2024.12.24
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推薦 1
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閲覧数 84
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tbic | 2024.12.24 | 1 | 84 |
177 |
ルカの福音書6:20-21(貧しい人々のクリスマス)
tbic
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2024.12.24
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推薦 1
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閲覧数 85
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tbic | 2024.12.24 | 1 | 85 |
176 |
マラキ書4:1-3(義の太陽であるイエス様)
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2024.12.15
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推薦 2
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閲覧数 96
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tbic | 2024.12.15 | 2 | 96 |
175 |
ルカの福音書10:1-9 (さあ、リバイバルの町へ出よう)
tbic
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2024.12.08
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推薦 1
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閲覧数 106
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tbic | 2024.12.08 | 1 | 106 |