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詩篇 119:105

ヨハネの黙示録7:9-14(神様から祝福より、認められよう)

投稿者
tbic
投稿日
2024-04-28 19:54
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ヨハネの黙示録7:9-14『その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と子羊にある。」御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物の周りに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を礼拝して言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、私たちの神に世々限りなくあるように。アーメン。」すると、長老の一人が私に話しかけて、「この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。どこから来たのですか」と言った。そこで私が「私の主よ、あなたこそご存じです」と言うと、長老は私に言った。「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。』

二つの部類の信者がいます。神様からの祝福だけを熱心に求める信者がいるのであれば、神様から認められることを切に求める信者がいます。この二つの部類の間には大きな隔たりが、大きな差があります。

今日の本文の黙示録7:9-14には、 数え切れないほどの大ぜいの群衆、つまり天国の救われた御民が出てきます。彼らは誰ですか?14節の後半に、「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。 と出ます。

彼らは大金持ち、大きな祝福を受けた人々と言われませんでした。ただ子羊の血で洗って白くした人々、つまり神様から認められた人々と言われます。黙示録の他の所の表現では、汚れた淫乱な女たち、淫婦たちとまじりあわなかった聖い者たち、自分を守った人々です。これは神様からの祝福より、神様から認められることがもっと大切だということです。

最後の時には神様から「あなたは子羊の血で洗って白くした者」と認められることがとても大切ですが、今日多くのクリスチャンは本当に大切なこと、つまり主から認められることは疎かにして、そんなに大切ではないことばかりを求めています。つまり物質的な祝福、世の中での出世などを求めています。

もちろん物質的な祝福と健康、現実な必要も私たちの人生の中では大切ですが、聖書が全般的に強調していることは、「私たちにとって永遠の命と係わっていることを求めなさい」と言うことです。つまり私たちは何よりも、まず神様から認められる人生になることを切に求め、祈り、そういう方向へ行かなければなりません。

この祝福と認められることはお互いに関係しています。神様から認められた人は、当然世の祝福もついて来ます。しかしちゃんと覚えなければならないことは、世の中で祝福された人ですが、神様から認められなかった人もいるということです。例えば、必須科目と選択科目があるのですが、選択科目に集中したところ、必須項目がパスできなくて、天国に入れない人もいるということです。今日そういう人々がたくさんいると思います。

イエス様が私たちのために死なれた理由は、もうこれからは私たちが自分のために生きるのではなく、神様のために生きるためだと言われます。コリント第二5:15、「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

私たちが切に祝福を求める理由は何ですか?自分のために祝福されることです。つまり自己中心的な信仰を持っている人々が求めることがこの世の祝福です。しかしイエス様が死なれたのは、世の中で私たちをお金持ちにするためではありません。もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方(イエス様)のために生きるためだと言われます。つまり自己中心的な信仰ではなく、「もうこれからは神様中心的な信仰を持って生きなさい」ということです。

だから今日私たちは自分自身を点検しなければなりません。クリスチャンになって定期的に教会に通いながらも、世の祝福を得る目的で教会に通うのであれば、もしかしたらその人は生まれ変わった真のクリスチャンではないかもしれません。

本当に生まれ変わった真のクリスチャンは神様のために生きるはずです。そして神様の祝福より、神様から認められることを切に願いながら生きるのです。自分を喜ばせる人生ではなく、神様を喜ばせる人生を生きます。神様中心的な人生だからです。

まさにイエス様が死なれたのは、私たちを自己中心的人生から救い出し、神様中心的人生へと導くためでした。なぜでしょうか?そういうふうに生きなければ、天国に入れないからです。こういう観点から見ると、この世の祝福をたくさん受けたからといって、必ずしも神様から認められたということではありません。

私たちは自分も知らないうちに、一人の個人、あるいは一つの共同体がお金もたくさんあり、世の中で認められ、人々もたくさん集まれば、神様から認められたから、あいうふうにうまくいっていると考えるのです。しかしそれは半分は正しいのですが、半分は間違ったことです。もちろん神様から認められて、そういうふうにうまくいっている時もありますが、神様から認められなかったのに、世の中でうまくいっている時もあります。

実際に異端の中でも大きな規模で働きを起こす団体もたくさんあり、繁栄神学(御利益信仰)に基づいて間違ったメッセージをずっと伝えるのに、世界で一番大きい規模で教会を導くところもあります。しかし信者たちの正しい福音の理解がなければ、そういう現象を見ながら勘違いをしてしまいます。だから私たちは自分の方から、この世の祝福より、神様から認められることを、まず求めなければなりません。

誰かが海外で大きいサイズの教会を導くからといって、必ずしもそれが聖書的で福音的教会だとは限りません。もちろん本当に聖書的で福音的教会だから祝福されたかもしれませんが、私たちは誰よりも自分自身を見ながら、神様の祝福より、神様からの認めを、まず求めるべきだということです。そういう認識の変化がなければ、私たちは益々妥協しながら、聖書的原理から遠くなっても、自らは安心できると。自分は祝福されたから大丈夫だと思ってしまいます。

モーセは神の御言葉に逆らって、自分の杖で岩を叩きました。そのとき、神様から「岩に向かって言葉で命じなさい」と言われたのに、モーセはそれに従わず、自分の杖で叩きました。それで神様は、後にモーセだけ罰を与え、モーセはカナンに入れませんでした。民数記20:8-13の内容です。でもイスラエルの200万の民はみんなその岩から湧き出る水を飲みました。神様は罪を犯したモーセの働きを、直ちにやめさせたわけではありません。モーセは不従順の罪を犯しましたが、神様はご自分の民のために、その働きを続けて維持させたわけです。だからモーセが直ちに打たれなかった理由は、神様がモーセの不従順を赦した、認めて下さったという意味ではありません。

これは今日も同じです。働きが続いているからといって、神様がそのリーダーを認められたわけではありません。その意味は、そうかもしれませんが、反対にそうではないかもしれません。まるでエリ祭司のように、彼が言った通りに、ハンナはサムエルを産みました。しかし神様がエリ祭司を認めたわけではありません。後に、完全に彼と彼の息子たちは滅ぼされたからです。

今日、教会の中でも信者の病気が癒されたり、救いが起こされたりもしますが、だからといって、その教会のリーダーを神様が認められたという話は全然別の話です。その教会の信者たちがかわいそうで、憐れみをもって神様が癒したり、救ったりもしますが、そのリーダーを認めたかどうかは全然別の問題です。

とにかく、私たちは神様からの祝福より、神様から認められることを切に求めるべきです。自分の仕事がうまくいっているからといって、それが必ずしも神様から認められている証拠ではありません。そうしたら、働きはうまくいっているのですが、不従順のリーダーはどうなるのでしょうか?神様が定められたときになれば、神様の愛によって、彼を悔い改めさせ、回復への道に導かれると思います。

そういう神様の愛のむちを受ける前に、私たちは毎日神様から認められる人生を歩まなければなりません。自分は祝福を受け、こんなにうまくいっていると高ぶってはなりません。マタイの福音書5:45に、「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

物質的豊かさも同じです。私たちは、ただ物質的豊かさで自分の信仰の正当性を立証してはなりません。むしろその物質的豊かさが自分の信仰を正当化する口実となる可能性があることを悟り、そんな物質的祝福と関係なく、神様からの認めを毎日求める真のクリスチャンになってください。

またある人は、自分のある祈りが答えられたと証したり、大きな金額の契約を採決できたと。また子供が名門大学に入ったと言いながら、自分の祈りが答えられたことを、神様から認められた証拠として自慢するのですが、それが果して真実な信者だから答えられたかどうかは、分かりません。本当に真実な信者でも、反対にもっと大きな苦難が与えられる場合があります。また偽の信者でも苦難がある場合があるし、大きな祝福の答えがある場合もあります。つまりある世俗的祈りの答えが自分の信仰と関係がある場合もあるし、信仰と関係ない場合もあるということです。

私たちは他人、あるいは他教会の人がそういう答えをもらったと自慢しながら証するとき、それを認めず、それを無視して、その人を辱める必要はありません。ただその人の答えられた祈りの結果を祝って上げればいいのですが、少なくとも私たちが証するときは「自分がこういう祈りが答えられたから、神様が自分を認めてくださった。」と言ってはなりません。

イエス様がヨルダン川で水のバプテスマを受けられたとき、天からこう告げる声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」しかし今日私たちは「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを祝福する。」という声をもっと聞きたがるのです。主が自分を喜ぶかどうか、それは大切ではなく、主が自分を祝福するかどうか、それが一番大切だと思っているのです。

神様はイエス様を認めてくださいました。それはヨハネの福音書6:38の御言葉のように、イエス様が30年の間自分のこころではなく、神のみこころを徹底的に行ったという意味でもあります。ヨハネの福音書6:38、「わたしは天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。」今日も私たちは、こういう願いを持ったなければなりません。「主よ。私が主の喜びとなりますように。主が喜ばれる人にならせてください。」と。

私たちはほとんどの信者が求める、こういう子供のような信仰、つまり「主よ。私にたくさんの祝福を与えてください。」という幼稚な信仰から抜け出る必要があります。なぜかというと、祝福を受けて、後に間違った方向へ行く人がたくさんいるからです。代表的な人がソロモンです。だから神様の祝福より、神様から認められることを切に願う人にならなければなりません。

私たちはみんなアダムの子孫で、生まれつきから自己中心的な存在です。だから自分の周りにいるすべての人々、すべての状況(条件)がみんな自分のために存在し、自分のために働かなければなりません。こういう人がイエス様を信じ、クリスチャンになれば、神様までも自分のために存在し、自分のために働きながら助ける存在となってしまいます。

だから神様を自分勝手に、まるで秘書のように、しもべのように、取り扱うわけです。それぐらい人間は生まれつきから自己中心的な存在です。「神様、私を祝福してください。」という祈りが、まさにそういう流れです。神様までも自分が願う通りに、自分に合わせて動いてほしいということです。

クリスチャンになったばかりのときは、ある程度、理解できます。しかし何十年も信じて、教会の役員までもなっているのに、今もなお自己中心的になって、神様と相撲取りをやっていれば、神様は決して負けて下さいません。こういう人は自分の人生の中でたくさんの苦難を経験します。完全にへりくだってひれ伏す時まで、神様から相当殴られると思います。そしてもうこれ以上は自己中心的ではなく、ただ神様中心的に、神のみこころのままに生きる、成熟した信者になります。

結婚のときに自分のこころではなく、神のみこころのままに、就職のときに自分のこころではなく、神のみこころのままに、家を買うときに自分のこころではなく、神のみこころのままに、何をしても自分のこころではなく、神のみこころのままにして、それで神様から認められるリーダーとなるのです。だから私たちは信仰の最初のボタンである祈りから変わらなければなりません。「私を祝福してください」ではなく、「主よ。私が主に認められる弟子にならせてください。」と。

そうしたら、いいことは何でしょうか?世の祝福をもらわず、ただ主にだけ認められれば何の有益があるのでしょうか?お金にもならないのに。

皆さん、決してそうではありません。主に認められれば、自分の人生の中で考えられない喜びと興奮、感激があります。自分が主の働きをやっているという満足感、また主が同労者であり、自分と共におられる安心感、これよりもっといいことはないと思います。

主が教えて下さった主の祈りを見ますと、そこには「私、私のもの」という単語が一つもありません。ただ「我ら、私たち」が出てきます。つまり主の祈りは、まず「神様とそのみこころについて」の祈りであり、次に「共同体のため」に、つまり「私たちのため」の祈りでした。決して自分だけが祝福される祈りではありません。

またイエス様は「あなたがたは、まず神の国とその義を求めなさい。」と教えてくださいました。つまり祈りは神様のことを、まず求めることです。言い換えれば、私たちは祈るとき、自己中心的考えの座から退く必要があります。

祈るとき、その時間の8割以上を、自分と関係あることを祈ること、つまり自分と自分の子ども、自分の家庭を祝福してくださいという祈りは決して成熟したクリスチャンの祈りではありません。

ただ神様の祝福ではなく、神様から認められることを願うクリスチャンは、神様が続けて彼を昇進させ、神の御国で柱のような働き人として、彼をもっと尊く用いて下さると思います。もちろん、彼は大金持ちではないかもしれません。そして働きの規模がそんなに大きくないかもしれません。しかし彼は必ず神の教会を支える柱のような働き人として、尊い使命を全うする人として神様から認められると私は確信しています。

だから私たちがこの世を離れる時には、エノクのような評価をもらってほしいのです。へブル人への手紙11:5に「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。

彼は神様に喜ばれていたということです。この世を去る人にとって、これよりもっと強力な証はありません。たまに私たちは葬儀場で、「彼は神様からたくさんの祝福を受けた」という挨拶の言葉を聞きます。しかしこれから私たちは他の言葉、他の証を聞かなければなりません。

彼は神様を喜ぶ人生を生きた!彼は神様に喜ばれていた!」と。

今日も神様は祝福を求める人ではなく、神様から認められることを切に願う人々を探しておられます。この真理をしっかり握りしめて、残りの人生を歩み続けたいと思います。
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