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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

コリント人への手紙第一11:26(聖餐式の目的)

投稿者
tbic
投稿日
2023-11-20 15:16
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コリント人への手紙第一11:26、「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」

今日は「聖餐式の目的」について、メッセージさせていただきます。皆さん、人間の約束は口約束では不確定ですが、文書に残されると重くなります。更に署名捺印すると、動かすことのできない約束となり、法的領域に入ってしまうのです。この法則は元々、神様が定めた法則です。神様が人と約束を交わす時、このようなプロセスで取り交わす手順です。新約聖書、旧約聖書の「」とは、「約束」の「」、「契約」の「」です。神様は人と契約を結ばれます。

神様はアブラハムとどのようにして契約を結んだのでしょうか。アブラムは神の声を聞きました。「アブラムよ。あなたの家を出なさい。そうしたら、あなたを祝福します。」と神の声を聞いたわけです。どのように声が聞こえたのかは分かりませんが、その声を神の声として信じました。それで彼は行動に移したのです。すると、神様は彼を義と認め保証されて、次の段階に移されました。しかし口頭だけで約束は実現したのかというと、そうではなく、最終的には動物が生け贄として血が流された事により、神様とアブラハムとの間に契約が結ばれました。神様が私たちと結んでくださる契約は、ただの口約束ではなく、最終的には血の契約書が交わされるというのが聖書が示すところです。これが神と人との間の法則です。旧約聖書の時代、神様との契約は、なかなか大変でした。

神様と人との契約の典型は、モーセがシナイ山において神様と結んだ「シナイ山契約」です。シナイ山における契約は「血の契約の儀式」と共に、「神の前での食事」によって結ばれたと言うのです。出エジプト記29:32、『アロンとその子らは、会見の天幕の入口で、その雄羊の肉と、かごの中のパンとを食べる。』これは儀式に使った肉とか残ったパンを「もったいないから食べろ」みたいに現代人は考えるのですが、そうではないのです。神の前で食べるのが「契約」の一部でした。

同時にモーセが神様と結んだ契約は、口頭での契約だけでなく、神様は約束を文字化して文書に残されました。それが石板に刻まれた「モーセの十戒」です。神様はご自分が語られた言葉を書き残されたのです。しかし文書に残してくれただけでも、完全な契約締結には至りませんでした。その後、神の前での食事があり、最終的には「契約は血によって成立した」のです。神様との約束が確実に動かないものとなるためには、「血の契約書」が必要なのです。しかし現代教会はこの事をよく理解していません。キリスト教会が始まり、既に2000年以上が経ちました。その間に大切な領域を数多く落としていると言えます。

特に宗教改革以後、キリスト教会は神のことばと文書として残された御言葉を強調するようになりました。それは本当に大切なことです。しかし「神との契約は神の前での食事と血の契約が必要である」ことを見落としています。この忘れ去られた領域を奪回しなければいけないと指摘されています。主は私にも、もう一度、それらに目を向けるようにと告げて下さいました。旧約聖書の時代、血の契約書に至るためには多くの動物たちが犠牲になりました。また神の前での食事とはファーストフードを食べるようなものではなく、大宴会を催さないといけませんでした。それは大変な儀式だったことを旧約聖書は記録しています。

しかしイエス様が来られて、壮大な儀式を簡素化してくださったのです。古い契約ではなく、新しい契約に置き換えてくださいました。それも古い契約のプロセスをしっかりと押さえた上で、新しい契約に置き換えてくださいました。それが何であるかというと、「聖餐式」です。イエス様が十字架に付けられる前の晩でしたが、ちょうど過越の祭りの最終日でした。過越の祭りとはイスラエルがかつて経験したエジプトからの脱出を思い起こして感謝する、年に一度のお祝いでした。その食事会の中でイエス様が何と語られたのかというと、ルカの福音書22:19、『それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」

ユダヤ人たちが毎年行っている、お祝いの食事の席で、イエス様は突然、カップに満たされている「ぶどう酒」を取って「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約だ。」と語られました。「食事と血による契約」とは、かつてモーセによって、シナイ山で壮大な規模で行われた神との契約を思い起こさせます。なんと新しい契約下においては、お祝いの食事会の中で、新しい契約を結んでくださるのです。イエス様は旧約で行われた神様との血の契約を大きく変えてくださいました。

過越の祭りは、今でもユダヤ人たちに祝われています。過越とは原点において、一歳の雄の子羊が屠られ、その血をかもいと柱に塗りました。その夜、エジプトに神の裁きが臨んでいたのですが、血が塗られたヘブル人の家は「過ぎ越された」のです。そのことが、出エジプト記12:13にあります。『あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。』血が塗られた家には「滅びのわざわいは起こらない」と約束されたのです。

現在コロナよりインフルエンザのウイルスが蔓延して、いつ自分の所に来るのか分からないような今頃ですが、皆さん、血の契約書があったら、皆さんの家に滅びのわざわいは起こらないのです。そのためにはどうしたらいいのか。新しい契約下では食事のただ中で契約は結ばれる「聖餐式」です。過越の祭りは寝転んで食事をしたそうです。寝転んで食事なんかしたら、日本では怒られます。有名な「最後の晩餐」というダビンチの絵画は、普通のテーブルに弟子たちは着いています。あれはヨーロピアン的視点で描かれています。本来ユダヤ人たちの食事は寝転んでリラックスして、飲んだり食べたりしたわけです。こんなに楽しい食事会のただ中で、イエス様を通して「新しい契約」が与えられ、結ばれたということは、すごいことです。それを原点として初代教会は聖餐を守るようになりました。どんなふうに守って行ったのか、その歴史を聖書辞典から引用すると、『キリストとの交わりを求めつつ、彼ら(初代教会の人たち)は、イエスの定めが聖餐のことばと所作に従ってパンとぶどう酒にあずかるようになり、かつて普通の食事をいわゆる「主の晩餐」をも含めたものに変えていった。』普通の食事を主の晩餐へ変えていったというのです。

私たちは日に三度、食事をします。普通の食事です。それを初代教会は「主の晩餐」へと変えたのです。しかし間もなく聖餐と愛餐が分離し始め、二世紀半ば頃までには礼典としての聖餐と親睦の食事としての愛餐は別々に持たれるようになりました。

このあたりから、聖餐式がちょっと変わり始めました。普通の食事が聖餐式そのものだったのが、聖餐と愛餐が別々になったのです。今はいろいろな教会で「愛餐会」として食事をしていますが、本来は一つです。

4世紀になって、ローマ・カトリック教会が台頭しました。ローマ・カトリックは本来のイエス様の教えをめちゃくちゃにし、跡形もなく変えてしまい、現在に至っています。『聖餐のパンとぶどう酒は司祭の聖別によって「実体的に」キリストのからだと血に変化する。』この理解を「化体説」と呼びます。これはギリシャ哲学やギリシャ神話の世界観が混じり、オカルト的要素が入り込んで出来上がった説です。それもローマ法王や司祭がパンとぶどう酒を祝福すると、イエス様の体と血に変身するというのですから驚きです。

カトリック教会に行きますと、パンとぶどう酒の前に信者たちはひれ伏して拝むのです。これは偶像礼拝です。彼らが行っている聖餐式を見ますと、手に持っている丸いのはパンですが、太陽神を現しています。聖書とは、全く違った異教の習慣を聖餐式の中に取り入れています。イエス様が始められた聖餐式とは、全く違った方向へ変化しました。

そんな歴史が長く続き、16世紀にマルチン・ルターがきっかけを作り、宗教改革が起こったわけです。それは長いカトリック支配に対する戦いでした。その結果、「化体説」の理解に立つ聖餐は宗教改革においては当然、きっぱりと退けられることになりました。

宗教改革者たちは聖餐式の深い意味をよく理解していました。だから彼らは、「神の御言葉を説き明かすメッセージと、聖餐」を「礼拝の主要な柱」としました。しかしそれから数百年経った現在、プロテスタント教会はどうなったのか、説教に重点を置くあまり、聖餐は軽視される傾向にあるまま、今日に至っていると指摘されています。「我が国のプロテスタント教会も同様であって、信徒の実際の意識においては、説教だけで十分といった思いの中で聖餐が礼拝の単なる付録のようになっている。」と日本のプロテスタント教会の告白です。

どうでしょうか。TBIC教会でも、「聖餐式はなくてもいいかな」みたいな雰囲気があります。礼拝はメッセージ中心です。しかし本来、礼拝とは神様と新しい契約を結ぶことです。ゆえに聖餐式は重要な位置を占めているわけです。なぜなら、血の契約によって神様との約束が実現するからです。十字架と復活によって新しい契約が発行されたわけですから、聖餐式は重要な真理を含んでいます。

同時に聖餐式には「ゴールと目的」があります。目的について述べているのが、先ほど読ませていただいた、コリント人への手紙第一11:26です。『ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

聖餐式の目的は何かというと、「宣教」と「主の再臨を待ち望む」ことにあります。ここに、『主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。』という言葉があります。「告げ知らせる」とは、英語では「proclaim、宣言する」という言葉が使われています。「宣言する」とは、「福音宣教」そのものです。「イエス様が私たちの罪の身代わりとなって、十字架にかかって死に、三日目に復活してくださったことを宣言すること」、それが目的です。「すべての被造物のために、血を流してくださったことを宣言する聖餐式は宣教そのもの」です。

使徒の働きの2:46-47、『そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

ペンテコステの時に聖霊が注がれて多くの人が救われ、主の弟子に加えられて家に帰ってパンを裂き、聖餐式を行っていたのです。そうしたら、すべての民に好意を持たれるようになって、「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」というのです。まさに聖餐式は沈黙の宣教です。

現在、日本の教会はなかなか宣教活動が難しい状況です。しかしなんと沈黙の宣教法があるのです。最高です。何ですか?聖餐式をしていると、すべての民に好意を持たれて、毎日救われる人々が仲間に加えられます。皆さん、是非とも家でも普段の食事を聖餐式と位置付けて、主の前に新しい契約を結んでください。そうすれば、必ず救われる人々が現れるはずです。

そして二番目の目的としてあげられているのが「主の再臨を待ち望む」ということです。我々クリスチャンのゴールは、主がこの地にもう一度帰って来られる日です。イエス様が世界の王となってくださり、神様がすべてを支配してくださる事です。主の再臨が教会の掲げる最大の目標です。

聖書の最後は黙示録ですが、黙示録の最後の最後に、次のように書かれています。22:16-17に、『「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

最後の最後に聖書が述べているのは「主イエスよ、来てください。」という言葉です。聖餐式とは、どのような意味があるのかというと、「主が来られる日まで」とあります。聖餐式は「主よ、来てください。」と主の再臨を待ち望む契約でもあります。

イエス様は輝く明けの明星になぞらえています。「明けの明星」とは「金星」です。なぜ聖書はイエス様を金星になぞらえているのか、それはやがて再臨されるイエス様に象徴されます。金星のこと、ご存じかもしれませんが、冬の期間は、西の空に「(よい)の明星」として姿を現します。そして夏になると、東の空に「明けの明星」として姿を現すのです。

地球と太陽、そして金星の位置関係が影響して、そのような振る舞いをします。宵の明星は、夜がふける寸前に姿を消します。そして明けの明星は、夜明けの寸前に輝く星として、姿を現すのです。明けの明星は、「まもなく夜が明けますよ」というサインです。イエス様は明けの明星のようなお方です。「この地にやがて帰って来られますよ」と暗い人類の歴史が終わり、夜明けが来ると暗示しているわけです。

現在世界は暗闇の中に閉じ込められています。いつ夜明けが来るのか、と皆夜明けを待ち望んでいます。「今、世界各地での戦争が早く終結しますように」という祈りも大切ですが、最も大切な祈りは、夜明けとしてイエス様がもう一度、この地上に来られる「再臨」です。再臨を待ち望む、この祈りが最も重要です。そのためには聖餐式の中で毎日「主よ来てください」と祈らなければなりません。それが主のお帰りにつながることを聖書は告げています。

現在世界は様々な領域で行き詰まり、出口が見えません。大丈夫かなと心配になる事が多いです。しかしイエス様は「明けの明星」として紹介されています。ということは、必ず夜明けは来ます。主は「わたしは夜明け直前に強く輝きますよ」と語られます。そのようなメッセージを私たちに送ってくださっていると信じます。

皆さん、主の働きを具体化していくためには何が必要なのか、それは聖餐式です。旧約聖書が全体的に述べている神様との契約は壮大なものですが、それをイエス様は普段の食事の中で「新しい契約を結んであげます」と語られています。また「その中で宣教を進めてあげます。再臨にも結びつけてあげます。聖餐式にしっかり目を留めて、それを回復してください。」と語られている気がします。

聖餐式、本来はものすごく重要なものであったのが、悪魔に真理を奪われています。これを取り戻す時が来ています。その時、イエス様が明けの明星として、この地にお帰りになると堅く信じます。最後に一言お祈りさせていただきます。

ハレルヤ。天の父なる神様、み名をあがめて心から感謝します。イエス様、あなたは明けの明星です。今、真っ暗闇ですが、主が帰って来られる寸前であると信じます。そのために教会でも家でも聖餐式を行いなさい、と主は語ってくださっています。主よ聖餐式を祝福してください。お一人お一人の上に豊かな祝福がありますように。イエス様のみ名によってお祈りします。アーメン。
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