メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

マルコの福音書 5:1-5(孤独と絶望からの解放)

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tbic
投稿日
2023-07-17 11:40
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マルコの福音書 5:1-5「こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。」

今日も、聖書の御言葉を学んでいきたいと思いますが、今日の主題は「孤独と絶望からの解放」です。現代社会を見る時、人々は忙しく動き回り、とても華やかに見える一面もありますが、実はそこには多くの孤独と絶望が存在していることも確かです。そのような中で苦しんでいる人々が多くおられます。皆さん、人生とは分からないものです。しかしそんな分からない人生でも、イエス・キリストを信じ受け入れたら、どんな境遇にあっても希望を持って生き抜くことができます。私たちクリスチャンは「死んだ」という時、それは「永遠に生きる」ことを意味します。この地上において、人間は不自由な「肉体の幕屋」に入れられていますが、この幕屋を脱ぎ捨てた瞬間、永遠の体に宿り、死も苦しみも悲しみもない所で永遠に生きることが許されるのです。だから「孤独と絶望」はありえないことです。

今日お読みした聖書の箇所はゲラサという場所において、イエス様がなされた奇跡について記しています。ゲラサという地域にイエス様が入られた時、最初に出会った人は、どんな人だったのでしょうか。彼について聖書は「墓場に住み着いており、誰も彼を抑えるだけの力がなかった。」と記しています。イエス様は墓場を住処とする非常に凶暴な男と出会ったわけです。本文「こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。 イエスが舟から上がられると、すぐに汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。

人間は神によって創造されました。したがって神は人間の世界に起こる諸問題を、自ら解決する能力を人類に与えられたのです。その証拠に、いやしの機関である病院に行けば、最近では多くの病が治ります。昔は非常に恐れられていたガンという病も、最近では徐々に知識が進み、初期段階であれば、高い確率で治るようになりました。人間が人間の力で病気を治すことが可能となってきたわけです。このようにして私たちは日々の社会生活の中で、ある領域の問題解決のため、お互い仕えあっているのです。人生の様々な問題を誰かによって解決してもらう、お互いがお互いを修理し合うのが、私たちが生きている社会ではないかと思います。

しかしながら一方では、周囲を見回す時、聖書にあるように「誰にも彼を抑える力がなかった」というような問題や人が多く存在することも確かです。誰が関わっても、どうにもならない問題が多くあるのです。聖書で描かれているこのゲラサの男は、まさにそれでした。誰にも、どうすることも出来ない、手に負えない存在でした。そんな彼をイエス様が解放し、癒されたというのが、このマルコの福音書5章のストーリーです。ここで『イエスが舟から上がられると、すぐに汚れた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスを迎えた』とあります。何と彼は、汚れた霊に支配されていたのです。先ほども触れましたが、人間は自分たちの力で問題を解決できる機能を神様から与えられています。しかしながら私たちの手に負えない「誰にも抑えることが出来ない」といった類の問題が存在することも確かです。これについて聖書は、「他者の力が加わっている」と教えています。このゲラサの男を現代社会に置き換えるなら、一般的な言い方では、「精神的に問題を抱えた人」と言われます。おそらく今日なら、強い薬が投与され、むりやり収容されてしまうような人なのかもしれません。

しかしここで注目すべき点があります。それは、「誰にも手に負えない」という状況に関して、聖書は、「汚れた霊の影響があった」というのです。どうにもならない問題が数多くありますが、それらの諸問題について聖書は、背後に「汚れた霊」が働いていると語っているのです。もちろん全ての問題が「汚れた霊」によって引き起こされるのではありません。しかしながら人間が知恵を用いて、総力をあげて関わっても解決できない問題の背後には「汚れた霊」の力が働いている可能性が高いのです。では、この「誰の手にも負えない男」を解放するためにイエス様は何をなさったのでしょうか。それは「汚れた霊」を追い出し、その結果「彼が良くなった」という事実を見ることができます。今日の本文に続く、マルコの福音書5:6-10には、『彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」それは、イエスが「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからである。それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。

この悪霊には名前があったことが分かります。それは「レギオン」という名前でした。しかし、「レギオン」とは、本来、名前というより、「数の単位」でした。当時、このゲラサという地域には「レギオン」と呼ばれるローマ軍が駐屯しており、それはおよそ五千人から六千人の兵を要する「一個の部隊」を現す単位でした。現実にも軍団が地域に遣わされていたのです。しかし興味深いことは目に見えない世界においても、これと同じ単位と名称を用いた「レギオン」が関わっていたことです。その結果、男は誰にも手に負えない状況に陥っていたのです。ある注解書では、「レギオン」について「統率がとれていて、ひとつの意図の下、組織的に活動する恐るべき存在」と定義していました。したがって、この「レギオン」というのは単なる烏合の衆ではなく、「一つの意志によって、一つの目的のために動く恐るべき軍団」を意味します。彼らの存在によって、その男はどうにもならない状況に陥っていたのです。

教会に助けを求めて来られる方々の中には、どう対処して上げればいいのか、分からない大きな問題を抱えている方がおられます。社会のどこに持っていっても解決せず、政府が総力をあげて働いたとしても、どうにもならない大きな問題を抱え、教会のドアをノックするのです。以前、仕えていた教会に一人の女性が来られました。それは若い方でした。彼女は誰の手にも負えないとても大きな問題を抱えていました。両腕にはズタズタに切り込みが入り、まるでフランスパンのようでした。傷がふさがると、すぐにまた切り込みを入れるので、たいへんな状況でした。それは、まるで彼女の人生を現しているかのように、引き裂かれた傷跡は本当に痛々しいものでした。

私は彼女と話をしました。何度も自殺未遂を繰り返し、救急車のお世話になったことは数知れないというのです。ある地域の救急隊の間では、彼女は有名人だそうです。救急隊が彼女を発見すると、「あ、この子か」と。誰もが口にする状況でした。それと共に、彼女は解離性障害という意識障害を抱えていました。解離性障害とは、多重人格とも言われます。彼女という人物の中に複数の人格が存在していて、これまで確認された人格は少なくとも十二人はいるというのです。ある時は赤ちゃんのようになってしまったり、ある時は暴力的な男性の人格も出るというのです。またある時は「死に神」に取りつかれたような人格が現れ、その人格が現れると、極めて死に近い瀕死の状態に陥るような自殺未遂を繰り返すのです。

ある時は二階の窓から飛び降り、固いコンクリートに叩きつけられ、腰の骨を始め、体中の骨を骨折したそうです。気が付いたら病院のベッド上だったと話していました。家族は一生懸命になって彼女のために手を尽くしましたが、打つ手がなかったのです。病院に入れても効果はなく、逆に薬の依存症になり、本当に彼女は孤独と絶望の中にありました。

先ほどの、墓場に住んでいた男は皆から毛嫌いされていました。「あの墓場に近づかないほうがいい。あんな所に近づいたら、ひどい目に会うから」と。皆、その墓場を避けて通っていただろうと思われます。その男が住んでいるため、人々は墓を訪れることもできなくなっていました。男は地域の人々から除外され、非常に恐れられていたのです。しかし男の立場に立ってみれば、墓場でもがき苦しみ、孤独と絶望の中で苦しんでいたのではないかと思います。

実に、教会に来られた女性も孤独と絶望の中に苦しんでいました。彼女はそんなただ中で教会を訪れたのです。普通に考えたら、それらの問題を解決することは容易ではありません。一生解決できず、苦しみ通す人も少なくないのが現状です。しかし私たちは聖書の御言葉により、その原則に従い、彼女のために祈ってあげました。すると、本当に信じられない不思議な事が起きたのです。さて、その聖書の原則とは何でしょうか。先ほどの、墓場の男は人々に恐れられ、誰にも受け入れてもらえない暴力的な男でした。彼自身も孤独と絶望の中にありましたが、そんな彼に対して、イエス様は何をなされたのでしょうか。「レギオン」を打ち破り、その結果「彼が正常になった」のです。

現代社会において私たちは手に負えない問題を多く見ますが、私たちもイエス様がなさったように、「レギオン」という存在を発見し、同じように権威をもって立ち向かうなら、勝利できるはずです。聖書の原則に沿って、敵と戦う時、孤独と絶望のどん底にいる人をも、解放することができるはずです。そしてそれができるのは、聖書の御言葉を武器とする教会以外にはありません。してみると、教会には果たさなければならない大きな社会的役割があります。教会はその機能を働かせる義務があると思います。しかし日本においては、教会がそのような機能を十分に働かしていない現状があります。

ぜひ、内のTBIC教会はその役割を果たし、地域のため貢献できるようになりたいと心から願っています。内の周りで孤独と絶望の中に閉じ込められている人々が解放され、一度しかない人生を、幸せに生きて欲しいと心から願っています。人々を孤独と絶望の中に投げ入れる「レギオン」は、なぜ人に、地域に、関わることができたのでしょうか。もしも、その理由を解明できるなら、現代社会に溢れている悲しい問題もいくらかコントロールできるのではないかと思います。私はいつもそのような視点で、聖書を読んでいます。

神様が人間を造られた時、一つの権威、権限を人に与えられました。それは人が「地を支配する権威」でした。最初の人類として造られたアダムとエバに「地を支配しなさい」と命令を与えられました。私たち人類には、本来、地を支配する権限が神様から与えられています。しかし、地は、「レギオン」という目に見えない敵に侵入され、支配されていたのです。人類が地を支配することが出来ていないことを表しています。なぜでしょうか?それは、人類が誤って地を支配する権威を放棄し、敵をこの地に招くようなことをしてしまったからです。その結果、このような状況が起こっていたのです。

皆さん、ゲラサという地域は日本から遠く離れた、中近東に位置する場所であり、聖書の記述と私たちとは全く関わりはないと考えるのでしょうか。ここにはきっと、何か特殊な環境があったと私たちは考えます。しかしこの場所をよく調べますと、興味深いことが分かります。「レギオン」という存在は男から追い出されたのですが、その後も言葉を喋っています。先ほど読んだように、5:8で、イエス様が『汚れた霊よ、この人から出て行け』と言われた後、『お前の名は何か?』と尋ねると、『私の名前はレギオンです』と答えています。「出て行け」と命じられた後にも、彼らは喋っているのです。そして、この男(レギオン)には、一つのこだわりがありました。それは『自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した』という記述からも分かるように、レギオンは「地域」に執着していたのです。ゲラサはデカポリス地方という10の連合都市のうちの一つの街でしたが、レギオンはこの10の街連合にとても固執していたのです。

冷静に考えてみてください。レギオンは五千、六千の悪霊の集団ですから、それらがもしもすべて、人の中に入っていたとするなら、悪霊どもは蜂の巣状態で人の中に住処を設け、一人が犠牲になったら、他の人々は安全であるはずです。人々は一般的に「霊は体の中に住みつく」という考えを持っているのですが、実は霊とは、体に宿るような存在ではないのです。彼らは、人々の背後で働き、地域全体を支配する構造を持っているのです。

このゲラサの当時の環境を知るために、考古学的資料を調べてみたら、今まで見えなかったような領域が見えてきます。このゲラサという地域は先ほども言ったように、ローマ軍が駐屯していた街でした。イエス様が生まれる約400年前からヘレニズム時代が始まりました。ギリシャのアレクサンダーは、一つの事を熱心に行いました。それは「ギリシャ風の街々を全世界に作る」という運動でした。実はこのゲラサもヘレニズム文化の影響でできた街であり、ギリシャ風の街でした。ギリシャ風の街とは、どんな構造をしていたのでしょうか。それは町の真ん中に大きなギリシャ神話の神々を祀る神殿がそびえ立ち、地域の人々はこぞって偶像礼拝を行っていました。今でも、このゲラサ付近の街々を発掘すると、その状況を知ることができます。その地域の神殿に祀られていた神々は「アルテミス」と、もう一つ「デメテル」というギリシャの神でした。そしてこの地域は農耕地帯でした。

さてここで皆さん、日本でも同じような状況があることに気づかないでしょうか。街の真ん中に大きな神社が居座り、地域の人々がこぞって礼拝するという、ギリシャ神殿を中心とする街作りと似っている構図があります。街の神社には、その地域の特性に合わせた「」が祀られています。ゲラサも同様でした。農耕地帯ですので、中心的に祀られていたのは「農業の女神デメテル(ローマ神話名ではセレス)」でした。この神が神殿において最も多く崇敬をあつめ、拝まれていたのです。

レギオンは地域だけでなく、「」にもこだわっていました。さらに『墓と山で昼となく、夜となく叫んでいた。』との記述から「」とも何らかの関わりがあったと考えられます。最後にレギオンがイエス様に、あることを懇願しています。それは、『私たちを追い出さないでください』という内容でした。マルコの福音書5:11-13、『ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。

これを何気なく読むと、どうでしょう。六千匹ほどの悪霊が、男の中に入っていて、イエス様が「出て行け」と言われたので、体から抜け出て、仕方なく近くにいた豚に乗り移って、その豚は驚いて、崖から飛び降りて死んでしまったと理解するでしょう。しかしこのストーリーに、先ほどの街がギリシャ風の街で真ん中に神殿があり、そこに祀られていた神が「デメテル」であったと仮定すると、非常に興味深いことが見えてきます。

実はギリシャ神話によると、この「デメテル」と呼ばれる神は「聖獣」と呼ばれる獣を引き連れていました。それが何かというと、それこそが「」だったのです。豚は当時、礼拝の対象となっており、エジプト神「セト」をルーツに持ち、カナンの神アシュタロテなどとも同じ部類の存在でした。当時、豚が礼拝の対象の動物であったことが分かります。だからレギオンが『豚の中に入れてくれ』というのは、言い換えれば『俺たちを追い出さないでくれ』という願いともとれます。

さらに、「デメテル」とは、農耕神であり、自然界をつかさどり、「風や天候を支配する神」としても知られています。そうすると、イエス様がゲラサに行く途中で経験した、行く手を阻むかのような風が吹いたことや、また高波によって、もう少しでゲラサに行けなくなったのも、ひょっとすると、それら地域で拝まれていた「神々」の力が関わっていたのかもしれません。またレギオンが『豚に入れてくれ』と懇願できたのも、地域の人々が農業神デメテルを真剣に礼拝していた背景があったからかも知れません。当時の事を調査した研究書などを読むと、それらの事柄が浮かび上がってきます。現在、慶応大学をはじめ、世界の大学がこの地域の発掘調査を行っています。それらの論文などを読むと、そこから分かることは街の真ん中にあったギリシャ神話の神殿を拝む行為によって、レギオンに地を譲渡してしまったのではないかと思います。そうなると、人の手に負えない非常に困難な問題が、「地域の偶像礼拝と深く関わっていた」と推測されます。私たちは何気なく地域の偶像礼拝を見ていますが、それらは人の最も大事な権威を、「レギオン」に委ねてしまう危険な行為なのです。

男は夜となく昼となく「墓場と山で叫び続けていた」とありますが、「墓場と山」もレギオンと深い関係があることが分かります。このギリシャ神話の神々を見ると、それらはすべて「山の神」です。オリンポス山に住む「十二神」が中心となり「神々ファミリー」が形成されています。日本の神話を調べても、必ず山との関わりがあります。日本とあまり変わらない状況がゲラサにもあったわけです。そしてこの男が最も深く関わっていたのが「墓場」でした。「墓場」は親族や身内が葬られている場所なので、やはり心惹かれる場所です。実際、聖書を見ますと、墓場を否定しているわけではありません。しかし人間が一番心の拠り所としていた墓場に最も強い悪霊軍団、レギオンが関わり、危険な場所となっていたのです。だから悪いものは墓場に住んでいるものだと考えるわけです。しかしこの箇所も深く研究していきますと、そうではない事が分かります。

実は、このギリシャ風の街の人々はギリシャの文化と習慣に基づき生活していました。当時の人々が、どのような死後の世界観を持っていたかを調べると、「」がレギオンが集結する場所になった理由が分かります。古代のギリシャ、ローマはどのような性質を持った社会であったかというと、「祖先崇拝をベースとした祭祀的血縁集団」であったと言われます。そこでは家長が絶対的権威を持ち、集団の構成員を統率していた「父系社会」でした。

このことを聞くと、どこかの国とよく似ていると思いませんか。それは、日本や韓国と同じ社会構造があったのです。日本も韓国も、父方を中心とする祭祀的血縁集団です。「祭祀」というのは祭りごとです。誰かが家でクリスチャンになると、家族から反対されます。なぜ反対されるかといえば、「ご先祖に申し訳ない」という理由です。最近は大分そのシステムも壊れてきたところもありますが、やはり家では父が絶対的権威を持って祖先崇拝を仕切っているのです。韓国はそれが更に色濃いのですが、これは古代ローマやギリシャと全く変わらない状況が韓国にも日本にも、あることが分かります。当時の古代ローマやギリシャの社会的システムを研究した書物などを見ますと、まさしく韓国と日本の祖先崇拝と同じ状況があったことがわかります。彼らの死後の世界観と墓場をどのように考えていたかというと、墓場は死者の霊が住む場所だと信じていました。だから人々は墓に行き、食べ物を捧げ、死者礼拝を真剣に行っていました。ゲラサにおいても同じ事が行われていたはずです。そんなただ中で出来上がったのが「レギオン」という、最も強力な悪霊の軍団と、彼らに支配された誰にも手に負えない男でした。これは、よく考えなければならない事柄です。「教会というのは、葬式も結婚式も同じ場所で出来るので、生も死も超越している場所と言えます。」そこには境目がありません。しかし日本の方の死後の世界観は一貫していません。大体仏教の世界観ですが、仏教の基本原理は「輪廻思想」であり、それは「人は死んでも輪廻して地上に戻ってくる」という考え方です。本来仏教徒であれば、輪廻を信じきらなければいけないはずです。しかし日本の仏教は輪廻を語りますが、真剣には信じていません。

しかしもし、輪廻が事実であれば、寂しいと思います。それは人が死んだら、四十九日が勝負だそうです。閻魔大王の前に出て、生前犯した色々な罪を裁かれるらしいのです。「お前は悪い事ばかりしたので、人間には輪廻できない。犬になれ!」などと判決が出れば、犬になるわけです。だから四十九日には地上からの援助が必要だそうです。「うちの父ちゃんはちょっと酒飲みで、悪い人でしたが、閻魔様助けてあげて下さい」などと、一生懸命拝めば、「まあ、しかたないな。地上で拝んでいるから、人間にしてやるか」というわけで、どこかの人間に輪廻できるそうです。しかし輪廻には悲しいものがあります。ある人が「お前は虫になれ」と言われ、虫に輪廻したとします。だから仏教では殺生をしないわけです。自分の連れ合いが死んだら、夫は虫になっていた、そして妻は犬になってしまったら、いつまでたっても出会えないのです。以前にも話しましたが、四十九日と十月十日を合わせると365日だそうです。しかし一年もしたら皆、この地上に戻ってくるそうです。ということは、「祖先崇拝も墓場もいらない」わけです。墓場があり、古い体が残っていれば、うまく輪廻できないというのが仏教の教えです。本来仏教では「墓場もいらないし、先祖の霊もいない」のです。

しかし祖先崇拝というのは、「祖先の霊が一緒に住んでいる」というのが前提であり、それが、祖先崇拝の基本的考えです。輪廻では、皆、死人は地上に戻ってきていますから、そんな霊はいないことになります。ノンクリスチャンの方、特に仏教徒は、悲しい輪廻のサイクルで苦しむのか、それとも祖先崇拝なのか、全く彼らの死後の世界観は、はっきりしないのです。しかし聖書ははっきりしています。私たちは神から来たので、死後は「神の手に完全に戻る」のです。死後、行き先を失い、空中を風になって舞っているとか、輪廻して虫や犬になったりしないのです。神様は命をリサイクルなどされず、永遠に「個人」として扱って下さるのです。素晴らしいではないでしょうか。死後の世界はありますが、死者の霊は、決して、この地上には存在せず、神の100パーセント管理下に戻るのです。それが聖書の教えです。

ラザロと金持ちの話を読めば、よくわかります。ラザロと金持ちは死にました。金持ちは死後、何とか死後の世界の情報を地上に伝えたかったのです。しかしアブラハムから「生きている人から教えてもらえ」と。全く死後は地上に意志を伝えることができなかったのです。これは死後の世界と生ける者の世界には神の秩序の中「決して交流ができない」という前提に立っているわけです。ということは、地上には死者の霊はおらず、「100パーセント神の管理下にある」のです。

しかしギリシャ人もそうでしたが、日本では「死者は墓場に住んでいる」という考え、祖先崇拝と死者礼拝を墓場で行っているのです。死者の霊が墓場に住んでいるという考えは、神が人類に与えた情報ではなく、そもそも悪魔が教えた偽りです。それでその考えに従えば、騙されているわけですから、支配権は悪魔に奪われるわけです。しかし日本の多くの人は古代ギリシャ人と同じ世界観を持っていて、「人は死んでも、霊を呼び出すことができる」と考えています。日本のあちこちでは「死者の霊を呼び出す」場所がいっぱいあるのです。死者と交流を持ちたいという人々が全国からそこに集まってくるのです。特に子供を亡くした両親が多く来ているのですが、「亡くなった子供の霊を呼び出して下さい」と頼まれたら、それを受けた霊能者は何か呪文を唱えた後、霊が憑依しているように、「ああ、よく来てくれたね。ありがとう。」などと、子供のような声で答えるのです。そんな声を聞けば、家族はもっと真剣に拝むわけです。しかしそれは死んだ子供の霊などではなく、「死者のふりをした悪霊」です。だから多くの人が祖先崇拝をやっていますが、よく考えたら、とても怖い事です。祖先崇拝に向かわせる気持ちは分かります。それは愛する者に再び会いたいという気持ちがあるからです。それは誰にでもありますが、その気持ちを逆手にとって、悪霊どもは、まるで自分が先祖のような顔をして出現しているわけです。その結果、何が起こるのか、それはレギオンという最も強い悪霊軍団を呼ぶことになります。

実は、この男が墓場に住んでいたという情報に、当時の祖先崇拝という環境と重ね合わせる時、なぜこの男が誰にも抑えることができないほど凶暴化していたのかという、理由が浮かび上がってきます。それは街の真ん中にある神殿を街中で拝むという環境と共に、「墓場で行われていた祖先崇拝」が原因となっていた可能性が高いのです。それらが重なり、地域を支配する「レギオン」という恐ろしい存在が出来上がっていたわけです。この男は凶暴化し、誰にも手がつけられない存在と化し、地域住民を苦しめていたのです。今語っている事柄には、もちろん仮説の部分も含まれていますが、当時の状況を調査する時、それらが理由として浮かび上がるのです。神様が人間に与えられた能力による問題対処と共に、一方では霊的視点を持ち、地域を覆っているレギオンに立ち向わなければいけません。そうしない限り、中々手に負えない問題は解決できません。先ほどお話しした、内側に十二人もの人格を持つ女性ですが、普通では手に負えないはずです。しかし私たちはこの視点に立ち、この人が住んでいる街を支配するレギオンに立ち向かいました。なぜなら、ゲラサの男もマタイの福音書を見ると、『イエスが陸に上がられると、この町の者で悪霊につかれている男がイエスに出会った。』と記しています。「この町の者」、つまり「ゲラサの町で生まれ育った、町と関わりのある男」でした。私たちも彼女の住んでいる町を支配しているレギオンが破られるように、町の人々が熱心に拝んでいる偶像礼拝の拠点の背後に働くレギオンが破られるようにと祈りました。それと共に、もう一つは「墓場」です。墓自体は悪くはなくても、そこが祖先崇拝の拠点となっていますから、恐ろしい先祖のふりをした強力な悪しき力が関わるのです。そのつながりが打ち砕かれるようにと祈りました。すると、彼女はいきなり、変化してきました。

最初十二人も人格があると言うので、どうやって祈ればいいのかと思っていましたが、とにかく祈りました。そうしたら、祈った後、他の人格がほとんど出なくなったのです。そして完全に回復されました。実はその人がそんなにも、深い傷を負うようになったのは、親子関係が原因だったのです。ある時、父親からちょっとした言葉をかけられ、それが心に刺さってしまったそうです。お父さんは娘を励ますつもりで言ったのにも関わらず、娘は責められているように取ってしまったのです。以来「お父さん、大嫌い!」という状態になり、精神病院に入院しました。お父さんが病院に来て涙ながら、「そんなつもりで言ったんじゃない。ゆるしてくれ。」と謝ったそうですが、「うるさい、お前が私をこんなにしたんだ。お前なんか大嫌いだ」とお父さんに何年にもわたり、罵声を浴びせていたそうです。しかし教会に来て自分をそのような状況に仕立てられたのは、父親でも母親でもない、悪魔の力だということに気づきました。その時、彼女の心が解かれて、お父さんを受け入れることが出来るようになりました。なんと素晴らしいことでしょうか。本当に心から主に感謝しました。

皆さん、私たちがここで気づくことはゲラサの男もそうでしたが、彼女が孤独と絶望の中にあったということです。周りの人々は「こんな人とは関わりたくない」と思っていたのです。実はこのゲラサの男こそ、地域で最も重要な人でした。マルコの福音書5:17から見ていきますと『すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。しかしお許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」』と。彼が解放され、家に帰った時、皆はびっくりしました。何とゲラサの人々だけでなく、デカポリスという10の街にも、その事が評判になり、イエス様を受け入れ始めたのです。人手によらず、福音が伝わったのです。実はこの男こそ「この地域で最も重要な鍵となる人物」だったのです。鍵は使い方によれば、部屋を閉じることも、開くこともできるのです。まさに「誰にも抑えることのできないような問題を持っている人々は鍵です。」私たちはそういう人々を拒否しやすいのですが、そのような人たちこそ、最も重要な人です。その鍵が悪い方に使われるなら、家を閉じてしまい、人々を皆苦しみのどん底にたたき落とすのですが、鍵を開ける方に用いるなら、家の人は解放されるのです。また地域全体にまで大きな影響を与えることができるのです。その人の孤独と絶望からの解放は、「地域の孤独と絶望の中で苦しんでいる人々の解放」に用いられるわけです。もしも皆さんの家族の中にどうにも手に負えない問題があれば、その人を拒否せず、新しい視点をもって立ち向かって下さい。そうすれば、必ず勝利できます。そのような方々を重要な存在として、教会は愛の手を差し伸ばしていかなければなりません。

皆さん是非、この日本のために日本の地域を覆っている悪霊の力が打ち破られるように、祈って下さい。人々が最も思い入れのある場所を危険な場所と変えている悪霊の力が破られて、どうにも手に負えない孤独と絶望のどん底にある人々が救い出され、よい鍵として用いられるように祈らなければいけません。皆さん是非、どこに行っても手に負えないような方々が解放され、神の国が広がるように祈りましょう。そのためには、教会に属している全ての兄弟姉妹がその視点を持ち、祈ることに勝利の鍵があります。先に救われた人々は地域の番人ですから、その役割を果たしていかなければなりません。                                  信仰によって孤独と絶望から解放された経験があれば、分かち合いましょう。

最後に一言お祈りして、終りにしたいと思います。

ハレルヤ、天の父なる神様、心からみ名をあがめます。あなたこそ、孤独と絶望の中から救って下さるお方であると宣言し、心から感謝します。また、教会を通して、あなたは人々を孤独と絶望から救い出すために、イエス様と同じ働きをさせて下さることを、心から感謝します。主よ、どうか私達を強めて下さい。そして今日は、一人一人が、孤独と絶望から解放されますように。地域に働いている、暗闇の力が打ち砕かれ、祖先崇拝の中に働く悪霊が打ち砕かれ、人々が鍵として用いられますように。今日お一人一人の上に、特別な恵みと祝福を注いで下さい。この時を心から感謝します。イエス・キリストの御名によって、祝福して祈ります。アーメン
合計 143
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
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ルカの福音書21:27-36(今の時代をどう生きるべきか?)
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レビ記19:1-4(自分の母と父を恐れなければならない)
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ルカの福音書9:23-25(十字架の道がいのちの道です)
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ルカの福音書12:29-32(数は少ないが、力がある)
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ローマ人への手紙8:28-29(神様が人間を創造した目的)
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ローマ人への手紙1:20-25(偶像崇拝)
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マタイの福音書16:13-19(ペテロの信仰告白)
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ヨナ書1:1-3(ニネベに行け)
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エレミヤ書 1:1-8(私たちには重要な使命がある)
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