メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ルカの福音書12:29-32(数は少ないが、力がある)

投稿者
tbic
投稿日
2023-09-04 09:29
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ルカの福音書12:29-32「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、心配するのをやめ、気をもむのをやめなさい。これらのものはすべて、この世の異邦人が切に求めているものです。これらのものがあなたがたに必要であることは、あなたがたの父が知っておられます。むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。」

主に従う弟子であれば、主の御言葉をちゃんと聞いて歩まなければなりません。私たちも主に従う弟子です。だからちゃんと御言葉を聞いて歩んでほしいのです。特に、霊的戦いが激しい今の時代、御言葉を通して点検しなければならないことがいくつかあるのですが、この時代に私たちが使命の道を歩むとき、主からのメッセージをちゃんと握り締めなければなりません。その中で今日の本文の12:32に、「小さな群れよ、恐れることはありません。」この御言葉をちゃんと握り締めてほしいのです。

この簡単な二つの言葉を分析すれば、まず「小さな群れよ」というのは、文字通り「数が少ない」と言えるのですが、「弱い」という意味でも理解できます。もう一つは、「恐れることはありません。」これは「この世を恐れてはならない」という意味もあるし、「自ら自分を小さく思わないでほしい、自分を無視して見下ろしてはならない。」という意味でも理解できます。とにかく神様がこの二つの御言葉を私たちに与えてくださいました。「小さな群れよ、恐れることはありません。」この御言葉をちゃんと握り締めてください。

この御言葉を詳しく分析すれば、まず一番目、「小さな群れよ」です。小さな群れですが、恐れてはならないと言われます。理由は何ですか?私たちはいつも「いのち」に焦点を合わせて生きるからです。ここでクリスチャンの数字の概念が出てきます。一般的に私たちは1,000名といえば多いと、10,000名といえばもっと多いと言っています。しかし私たちクリスチャンはこういう風に大きさだけで見てはなりません。どんな数になっても、それが「いのち」にならなければなりません。つまり多いという概念でアプローチするのではなく、それが100になっても、1,000になっても、10,000になっても数ではなく、いのちとして見なければならないし、大きさではなく、いのちが大切だということです。

皆さん、いのちが何ですか?数+神様です。神様が共におられるかどうか、それによって変わって来ます。だから数ではなく、いのちということを教えるために聖書は比喩を通して説明するわけです。例えば、マタイの福音書5:13に、「あなたがたは、地の塩です。」と言われた時、塩が強調するのは何ですか?塩の量ではありません。「もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」と言われた時、塩の量ではなく、塩の塩けの大切さ、それがいのちなのです。あなたがたは塩けのある塩だということです。そうしたら塩の量をもって、たくさんの塩をもって行くことは愚かなことです。少ない量の塩であっても塩のいのち、つまり塩けがあれば全体を生かすことができます。

また、マタイの福音書5:14に、「あなたがたは、世界の光です。」と言われます。ここで光は大きさを意味するのではありません。光を放つ明るさ、光そのものを意味します。つまり暗闇を打ち破ることは何ですか?大きい光、小さい光があるのではなく、ちょっとだけの光でも、光が入っていけば暗闇は消え去ります。だから光は大きさではなく、光そのものが力であり、いのちなのです。

またパン種の喩えで、ほんのわずかのパン種がこなのかたまり全体をふくらませるという話が出るのですが、パン種も内容が何ですか?パン種(べキングパウダー)の特徴は何ですか?量の話ではありません。ほんのわずかのものが全体を変化させる、いのちそのものだということです。これが大切です。

だから私たちクリスチャン一人ひとりが塩、光、パン種だと言うとき、それはいのちそのものとしてアプローチしなければなりません。そしてこの神の御言葉はいのちです。だから御言葉を握り締め、歩むんで行けば、この世のどんなものが襲いかかっても必ず打ち勝つことができます。なぜですか?御言葉はいのちだからです。へブル人への手紙4:12、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」だから御言葉を握り締めて歩まなければなりません。この御言葉で武装された神の御民はいのちそのものだからいつも強いです。

また、祈りがいのちです。聖徒が祈りで武装すれば、それはいのちの数になりますから、数と関係なく、力強いです。ペンテコステの日にマルコのアッパルームで120名の聖徒たちが集まった時に、それは単なる120名ではありませんでした。聖霊に満たされ、祈りで武装した120名はこの世がすべて襲いかかっても、それに打ち勝つ力強い数となりました。だから私たちTBICも数にこだわってはなりません。私たちが祈りと御言葉によって聖霊に満たされれば、それは10名、20名ではなく、神の数、いのちの数となります。だから私たち一人ひとりがとても大切です。大きさで戦うのではなく、いのちで戦うのであれば、悪いサタンさえ私たちを恐れおののく力強い者になると思います。

この世の人々は目に見えるものに捕らわれます。「目に見える何名だ。」と見えるものだけを見るのです。しかし神様はその中にある、いのちを見られるお方です。

ヨシュア記8章にはアイの町を攻め取るのに失敗したイスラエルの民に、神様が再び攻め取るように命令し、勝利できる方法を見せた時、独特な概念を一つ見せてくださったのです。それは待ち伏せする「伏兵」の概念です。ヨシュア記8:2、「あなたは町のうしろに伏兵を置け。」8:7にも、「あなたがたは伏している所から立ち上がり、町を占領しなければならない。」待ち伏せする、伏兵、繰り返して伏兵を言われます。隠れた数はもっと強いのです。だから、ある人は5名を与えても500名の力を発揮し、反対に、ある人は500名を与えても5名の働きしかできない人がいます。つまり私たちにいのちが入ってくると、二人三人でも、それが1,000人2,000人の働きを可能にします。これが伏兵、待ち伏せの力です。

この待ち伏せというのは何ですか?世の人々は表面しか見ません。しかしその中にいのちが入れば、待ち伏せと同じ効果が現れます。似ている内容が列王記第二6章にエリシャとエリシャに仕えた若者ゲハジの話が出て来ます。その時、アラムの軍隊によって町が包囲され、どうすれば良いのか分からなかったゲハジは、もうみんな死んだと思ったとき、エリシャは祈るわけです。

列王記第二6:17、「そして、エリシャは祈って主に願った。目を開いて見えるようにしてください。主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。」これが待ち伏せです。待ち伏せは一般の人々の目には見えません。見えないから、たった二人しかいないと。エリシャと若者だけだと思ってしまうのです。しかし神の働きと聖霊の力の本質を見た時、火の馬と戦車が山に満ちていたということです。

私たちも表面を見た時は少人数で本当に弱く見えますが、小さな群れが小さな群れとして集まるのではなく、いのちの群れとなれば、それは力強い群れです。だからいつも祈りで武装し、聖霊が共に働く神の人にならなければなりません。

ピリピの牢屋でもパウロとシラスは二人でした。しかし聖霊が共におられるからどんなことが起こったのでしょうか?二人が牢屋の中で祈り、賛美したら牢屋に地震が起きました。二人がどうやって地震を起こしたのでしょうか?神様が共におられる二人だから、いのちの数となって獄舎の土台が揺れ動き、牢の扉が全部開いたと。この使徒の働き16章の出来事が、皆さんの人生の現場でも必ず起きますようにお祈り申し上げます。

皆さん、いのちそのものが共におられるのであれば、大きな地震が起きます。獄舎の土台が揺れ動き、悪魔の土台も揺れ動きます。そうしたら、ふさがっていたすべての門が全部開きます。このいのちの働きによって皆さんの心の門も開き、ふさがった人生の門も全部開かれ、更に御国の門も大きく開かれる祝福の人生となってください。これがまさに聖霊の力です。これらを見せるために、聖書の士師記ではギデオンの300勇士の話が紹介されています。

ミデヤンの13万5千人が攻めて来ました。それでイスラエルの兵士を全部集めたら3万2千人、三分の一もならなかったのです。しかし3万2千人も多いと言われ、1万人に減らし、後には更に300名に減らしました。なぜですか?数ではないことです。いのちをもって戦えば、300名で充分だということです。だから数を見て揺れるのではなく、また数が少ないと落胆せず、本当に力ある人はすべてをいのちに変える人だということをちゃんと覚えてください。そして皆さん一人ひとりがいのちそのものになって、現場で勝利を収める神の人になってください。だからこそ、祈る一人が祈らない一つの民族より強いのです。なぜですか?一人ですが、いのちの数だからです。このいのちの力によって、毎日毎日勝利する神の民となってください。

二番目、「恐れることはありません。」です。「小さな群れよ、恐れることはありません。」と言われるのですが、この「恐れることはありません」ということは、ただこの世を恐れてはならないという意味もありますが、もう一つ、自ら自分を小さく、見下ろして考えないでほしいということです。なぜですか?私たちはいのちある存在だから、小さな者ではなく、いのちそのものが出て行けば、一人でも偉大なことができるわけです。私たちの使命は今日の本文の31に、「むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。」マタイの福音書6:33では、「これらのものはすべて与えられます。」となっています。

主からの使命をもって歩む者にはすべてが与えられると主は言われます。もう簡単に言えば、神様がすべてを助けてくださいます。なのに皆さん、何が心配ですか?なぜ恐れていますか?神様がすべてを支えてくださいます。神の存在、それは助けそのものを意味します。詩篇121篇でも、「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」神様はどんな方ですか?助ける方です。だから私たちはいつも「私の助けは、天地を造られた主から来る。」と告白すべきです。これが私たちの唯一の希望です。だからこそ問題が起きた時、あちこち電話しないでください。神様に電話してください。「神様、助けてください。」と祈れば、必ず助け人が現れるし、神様の支えがあります。だから恐れてはなりません。テモテ第二1:7でも、「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎み(知恵)との霊です。」と言われます。なのに、私たちに恐れる心が生じるのは、それは神様からの心ではありません。そうしたら、誰が与えた恐れですか?自分が自ら作り出したか、悪魔の仕業です。だから恐れのまま、とどまってはなりません。そうしたら、どうすれば良いのでしょうか?神様の助けを求めることです。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは天地万物を造られた主から来る。」だから神様に助けを求めれば、力が与えられるはずです。

もうすでに、私たちは力をもっています。恐れてはなりません。火の馬と戦車が私たちを取り巻いています。安心してください。神の力によって武装すれば、恐れる必要もないし、愛が注がれているから大丈夫です。神様が私たちを愛しておられます。私たちは神の子供であって、良いすべてのものがすでに与えられています。だから、ローマ人への手紙8:35に、「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」どんなものもキリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできないとはっきり言われます。私たちにその愛の確信、父と子供の関係の確信があるのに、どうして恐れることができるのでしょうか?それはありえないことです。常に私たちは神の愛と力がある存在だから恐れないし、戸惑いません。いつも冷静になって祈る聖徒、これが真のクリスチャンの姿です。

そして神様の本心、つまり、みこころだけ分かれば大丈夫だと思います。今日の本文の32に、「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。」皆さん、私たちがこの世を生きながら、一番うまくできることは何ですか?神のみこころをちゃんと読めることです。そしてそのみこころのまま、神様が喜ばれることをやれば、必ず勝利します。そうしたら、神様が何を一番喜ばれるのでしょうか?聖書に全部出て来ます。だから聖書を読みながら、神様が喜ばれるところに線を引いて、それを実行すれば毎日祝福され、勝利します。

今日の本文も何と言われますか?32に、「あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。」私たちに御国を与えることを、神様は喜んでおられます。つまりたましいが救われることを神様が願っておられるのです。だからこそ、伝道はとても大切です。一人のたましいが主に立ち帰るのであれば、御国ではラッパを吹き鳴らし、大喜んで宴会が開かれます。こういう風に神様が喜ばれることを、ちゃんとやればいいのです。

そして神様が喜ばれないことがあれば、それをやらなければいいのです。とても簡単です。私たちは神様が喜ばれることをやっているのに、恐れる必要はまったくありません。

旧約聖書を読みますと、戦いの中で「主が彼らをあなたがたの手に渡した。」という御言葉がしょっちゅう出て来ます。この御言葉が与えられたら、必ず勝利しました。戦いが起きる時、環境が良い悪い、数が多い少ない、そんな話は一切ありません。ただ、「主が敵をあなたがたの手に渡した。」と言われたら、100%勝利でした。この御言葉を信じれば、私たちも必ず勝利します。

もちろん、勝利の過程では苦しみと大変さがあります。イエス様もヨハネの福音書16:33で、「あなたがたは、世にあっては患難があります。」と言われました。「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」「世に勝った」とは過去形です。「勝利はもう決まってある」ということです。むしろ難関を通過して勝利を与えてくださるから、本当にエキサイティングな勝利です。

もちろん、私たちの人生のすべてがうまく行けるということではありません。苦しみと患難、難関があります。しかし必ず勝利があるということです。勝利は私たちのものです。神様が私たちに与えてくださったこの勝利の確信をもって、恐れることなく、また自分を見下すことなく、ただ勝利を与えてくださる神様によって、毎日毎日勝利する尊い神の民となってください。「小さな群れよ、恐れることはありません。」この御声を聞いて今週も大胆に勝利の道へ進みましょう!

お祈り、

愛する天のお父様、大きさより大切なことは、いのちです。私たちのすべてがいのちの数となりますように。主よ、塩けのある塩になりたいです。暗闇に打ち勝つ光となりたいです。祈る一人が祈らない一つの民族より強いことを信じます。どうぞ主よ、私たちが祈る一人になりますように。私たちはこの世を恐れません。そして自ら自分を見下しません。神様が共におられるからです。私たちが勝つのも負けるのも、主の御手の中にあります。だから主だけをより頼みます。ただ主の力によって、勝利できますように。このTBICを祝福し、一人ひとりに勝利を与えてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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