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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ヨハネの福音書10:10(クリスチャンの家庭が幸せになる秘訣)

投稿者
tbic
投稿日
2023-09-17 23:12
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120
ヨハネの福音書10:10「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」

クリスチャンのファミリーが幸せになることは大変重要だと思います。今日読んでいただいた聖書の箇所、イエス様が来てくださったのは「羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」とあります。羊というのは私たちのことを指しています。私たちがいのちを得、それも豊かに得ることが、イエス様が来てくださった目的でもあります。今日はいのちを豊かに持つ「クリスチャンのファミリーが幸せになる秘訣」について考えていきたいと思います。

まずは超不幸なクリスチャン・ファミリーを二つほど紹介したいと思います。一つ目は列王記第二4章に出てくる、預言者の家族です。あの家族は現代ならば、クリスチャンホームに置き換えることができます。真剣に主に仕えていた家族でしたが、いい事なかったのです。列王記第二4:1、『預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」

ご主人は預言者で、主に真剣に仕えていたのです。しかし家族全体で主に仕えていたこの家庭に何が起こったのでしょうか。ご主人が死んでしまい、そればかりか借金は残るは、なんの罪もない二人の子どもたちが借金取りから追われて、奴隷になる寸前でした。こんな記事を読みますと、ちょっと不安になります。神に真剣に仕えていても、このような例もあると。しかしこの家族のところにエリシャが来て、油を増やす奇蹟を行いました。その結果、何が起こったのか。列王記第二4:7『彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」』その結果、油を売って負債がなくなりました。負債がなくなったということは、二度と借金取りは来ないのです。残った油で、その家族全員、子どもたちも含めて幸せに暮らしました。

油とは、新約聖書では聖霊ご自身に置き換えることができます。私たちが幸せに暮らす条件は家族全員が聖霊に満たされて生活することです。それが大事だということをここから学ぶことが出来ます。聖霊に満たされるとは聖霊の支配を表します。人間には自由意志があり、自分で生きることができるのですが、聖霊の支配が及ぶと、知らないうちに導かれます。そうすると結果がいいわけです。私たちが幸せに生きるためには、日々聖霊に満たされることです。聖霊の油注ぎを求めるとは、家族全員が幸せに生きる秘訣です。最も不幸な家族に最高の祝福が来たのが、油が増えた結果であることは重要なポイントだと思います。

もう一つ、不幸のどん底のクリスチャンのファミリーはヨブの家族です。ヨブの家族は初めは最高に祝福された家族でした。ヨブ記1:1-5『ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。

彼は神から祝福されていて、この地域で一番の富豪だったのです。お金の流通がなかった時代でしたから、財産というと動物でした。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、そして多くの使用人たち、当時は奴隷たちが周りに侍っていて、子どもたちは10人いました。毎日のように宴会をやっていたみたいです。特に、「それぞれ自分の日に祝宴を開いて」とありますが、誕生会です。誕生パーティーがすでに行われていました。日本では誕生日を祝う風習は、16世紀までなかったそうです。どこから入って来たかというと、スペインから入って来たそうです。織田信長が誕生日を祝う習慣を受け入れて祝うようになったのですが、ヨブ記は紀元前2000年位のアブラハムの時代です。その時代に、すでにヨブの家族ではどこもやっていないような、盛大な誕生会を催していたわけです。本当に幸せに毎日を暮らしていたのです。

しかしある日突然、すべてを失う結果となったわけです。本当に不条理なのは、ヨブは全焼の生け贄を子どもたちの分までも捧げていたのにも関わらず、事件が起こったことです。全焼の生け贄とは神との和解を意味します。「もしかしたら、うちの息子や娘たちは、心の中で神を呪ったかもしれない。」と。罪を犯したわけではないのですが、可能性をも含めて全焼の生け贄を捧げていたのです。ある意味、完璧です。相当、神の前には正しい人だったと言えます。「心の中のことまで、さらけ出せ。」と言われたら、誰も立つことは出来ません。心の中まで聖い人って、当時ヨブくらいのもんです。自分の息子たちの分まで真剣に神に取り組んでいたそんな家族に突如として大問題が起こり、一日のうちに財産も、使用人たちも、息子・娘たちも、全員死んだのですから、信じられないです。その上ヨブも病気になりました。こんな不幸なクリスチャンのファミリーってありますかという感じです。しかし聖書のすばらしいところは、それで終わっていないことです。長いプロセスを経て、ヨブが回復していくことが述べられているわけです。また災いの原因についても、ちゃんと教えている所に聖書の素晴らしさがあります。

皆さん、「なぜ私だけが苦しむのか」という本がありますが、「現代のヨブ記」とも言われます。クシュナーという人が書いて、かつてアメリカで大ベストセラーになりました。彼はアメリカ在住のユダヤ教のラビです。ラビとは旧約聖書の専門家です。人々に聖書を教える人でもあります。しかし彼の幼い息子がプロゲリアという、子どもなのに急速に老人になってしまう病気になりました。これは遺伝子の病気です。目の前でどんどん衰えて死んでいくわけです。神に仕えているのに、なぜこんな問題が起きるのかと彼は悩むわけです。普通ならどうでしょうか。一生懸命に神に仕えていて、こういう問題が起こったら、神なんか呪ってやるという心境になりかねません。当時ヨブの奧さんはそういう心境になったみたいです。「あんた、なんですか?このざまは。神を呪って死んでしまえ!」と言っています。

それゆえヨブの妻は、世界の悪妻の一人になったのですが、気持ちは分かります。クシュナーさんもヨブと同じような体験をしたわけです。でも彼が偉いところは、神を呪うのではなく、ユダヤ教の教師として、ヨブ記を今まで何度も研究していたというのですが、自分がヨブと同じような体験をして、もう一度詳しくヨブ記を学び直したというわけです。それで、その中に書かれている事を自分の体験も合わせながら、読み解いたのです。幼い息子は死んでしまったわけですが、その後、その体験と共に本を書いたら、多くの人々が読んで慰められ、ベストセラーになったわけです。

ヨブ記を読みますと、初めは不幸なことから始まります。しかしやがて神様が答えられます。それが38章から41章くらいにかけて神の答えが与えられるわけです。ヨブ記38:1-7(リビング・バイブル)『その時、神様はつむじ風の中からヨブに答えました。「なぜおまえは、わたしの摂理を否定しようとして、無知をさらけ出すのか。さあ遠慮なくかかってこい。これから幾つかの質問をするから、きっぱり答えてみろ。わたしが地の土台をすえた時、おまえはどこにいたか。わかるなら言ってみろ。おまえは地の寸法がどのようにして決められ、だれがその調査にあたったかを知っているか。その土台を支えるものが何か、だれが隅の親石をすえたかを知っているか。その時、明け方の星は声を合わせて歌い、御使いたちは歓声をあげた。

ヨブは最初、「私は正しく歩んできたじゃないか。神の前に全焼の生け贄を捧げ、正しく生きてきた。しかしこの不条理はなんだ!神の義はどこにあるんだ!」という文句でした。しかし神様は、ちょっと違った視点で答えられるわけです。まず言われたのは、「なぜおまえは、わたしの摂理を否定しようとしているのか。」と言っておられます。「わたしの摂理」とは自然界の法則について語られているのです。神様は自然界の法則も創造されたことを述べているのです。神の被造物とは、創造後そのまま放置されているように感じるのですが、全宇宙、生態系全ては自動運転しています。それは創造の原点に神は自然界の法則と呼ばれるものを最初に置かれたのです。ヨブにその自然界の摂理をよく知っているかと問いかけているわけです。

クシュナーさんが語っているのは、ヨブ記には三つの命題があるというのです。三つの命題とは、簡単に言うと「神は正しい。神は全能である。ヨブは正しい。」という三つだというのです。そして何もヨブに問題がない時には「神は正しい。神は全能である。ヨブは正しい。」という、三つがすべて連立するのですが、今回のようにヨブの家に大変な問題が起こると「神は正しい。神は全能である。ヨブは正しい。」という三つの命題のうち、一つを取り下げなければ、ヨブの状況は説明できないというのです。つまり神が正しくて全能ならば、苦しんでいるヨブは悪人で罰を受けていることになるわけです。

私たちにはこういう考えがあります。いろいろな問題が起こると、私の罪のゆえに罰を受けているのかなと考えやすいのです。また神は全能でヨブが正しいなら、神は悪だということになります。神は全能で、すべてを支配しています。しかしヨブも正しいとなると、神は悪いことをするのかとなるわけです。そしてもう一つは、神は正しくてヨブも正しいならば、神は全能ではないということになります。なかなか深い考察があるのですが、それでクシュナーさんはこの三つの命題の内、ヨブ記の著者は何を取り下げているのかというと、ちょっと驚きです。「神は全能である」という命題を取り下げているというのです。「神は正しい。ヨブは正しい。」とは、もちろん神は究極的には全能ですが、ヨブ記においては、神の全能さが取り下げられていると結論づけています。

それはどういう意味かというと、「世の苦しみは不完全な世の中にあっては避けられないものであると理解すれば、問いも変わってくると著者は述べる。聖書が述べる神の創造とは、混沌に秩序を与えることであり、今なおその作業は継続中で、世界に混沌が未だにある以上、混沌の部分の中にある不条理な苦しみが理由もなく、今存在しているのだ。」と述べています。

ある意味、これは当たりだと思います。先ほど神が自然界の法則を造られたと語りましたが、聖書のテーマは天地創造から新しい天と新しい地へのプロセスを述べていて、私たちは新しい天と新しい地に向かって、進んでいるわけです。しかし現在の世の中とは混沌、カオス、無秩序から始まり、秩序が訪れる主が帰って来られる日まで続くわけです。今私たちは混沌さの中に生きているのです。それは言い換えれば、自然界の法則みたいなものです。神がすべて一から十まで支配しているというのではなく、「混沌さの中、言い換えれば、自然界の法則の中で様々な不条理な問題は起きるんだ。だから問題は神が起こしているのではない。」と彼は主張しているのです。「世の苦しみは不完全な世の中にあっては避けられないものであると考えれば問いが変わる。」と彼は言います。ある意味、それは事実だと思います。

私たちはいろいろな問題に直面すると、「なぜ私は、こんな風になるの!神様にこんなに仕えているのに」という心境になりやすいのですが、様々な事が起きる原因に、やがて来たるべき「新しい天と新しい地の創造までは、様々な不条理も含まれている」という理解を持つ必要があります。だから神様は最初に、この宇宙と自然界の神秘について語られたと思います。だから私たちがすべてを神様のせいにしたり、すべてを悪魔のせいにすることは出来ません。原因がどちらかにあるとは言えないのです。今この世自体が混沌とした世であり、私たちが世界全体の中で自分をどの位置に置くかが重要な視点だと教えられました。

時々、人生の中には不条理な事も起こってくるのですが、やがて主が帰って来られるまでは、混沌さの中を生き抜いていかなければなりません。理解できないような事もあるという前提も押さえておかないといけない条件だと思います。

次に神が語られたのが動物の生態でした。ヨブは動物を多く持っていました。しかし彼にとって動物たちはどういう位置付けだったかというと、たぶん自分の財産としか、考えていなかったと思います。しかし神様が語りかけられたのは、動物一匹にも、神は目を注いでいるということをヨブに語ったわけです。この二つの話を神様から聞いた時、ヨブは口をつぐむんです。彼ははっとさせられたわけです。だから「私はもう、口答えできません。」と言うわけです。

ヨブ記40:1-8(リビング・バイブル)『神様はさらに続けました。「まだ全能者と口論したいのか。それとも降参するか。神のあらを捜す者よ、答えてみよ。」ヨブは神様に答えました。「私は少しの値打もない者です。どうして答えることができましょう。口に手をあてて黙り込むだけです。私はしゃべりすぎました。」神様は再びつむじ風の中から、ヨブに語りかけました。「さあ、男らしく立ち上がり、戦いに備えてかぶとの緒をしめろ。わたしの質問に、答えてみろ。おまえは自分の正しさを主張しようとして、わたしのさばきを無効にし、わたしを罪人呼ばわりするのか。」

こんな風に神様は語られたわけです。ヨブは神から自然界の法則について語られて、続いて、動物の世界にまで、神は目を注いでいることを語られました。「おまえはあまりにも人間中心的すぎる!」と指摘されるわけです。その時、彼は神の前に口をつぐむわけです。私たちも、地球、自然、宇宙の中に住んでいて、すべてが人間を中心に回っているような気分で生きていますが、そうではないと語っています。その後、ヨブは回復につながっていくわけです。

皆さん、イエス様はこんな事を語られました。マタイの福音書10:29-31『二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

イエス様は一羽の雀さえも、神の許しなしには、地に落ちないと言われました。ということは神様は、私たちにだけ目を留めているわけではなく、その辺に飛んでいる雀にも目を留めておられます。神の許しがないと、雀も落ちないというのです。時々、雨の日などに、雀が落ちて死んでいることがあります。それも神の許しの中にあるというのです。そして『あなたがたはたくさんの雀よりもすぐれた者です。』と言われました。雀よりも、人間のほうがすぐれているということです。でも「たくさん」って、どれだけの雀なのか分かりません。雀百羽なのか、一千羽なのか、一万羽くらいの雀を持ってくれば、人間とイコールになるかもしれません。ということは、神様にとっては「雀の生き死にも、神の体験の一つ」ということです。

しかしヨブは多くの動物を持っていたのですが、それらは自分の財産の一部としか、考えていなかったと思います。動物を殺して、全焼の生け贄にしていたけれど、自分の家族さえ、守られればそれでいいと、その一念しか持っていなかったのではないかと思います。しかし神様はすべての被造物を愛していて、最初に人間を救い、被造物全体を人の足下において管理させ、やがて被造物全体の救いにつなげたいと願っておられるのです。新しい天と新しい地が創造される時には、生けるものすべてが光輝く、そんな日がやって来ると教えているわけです。

ヨブに対する神の答えは、答えになっていないように見えますが、人間中心主義を取り下げると、まさにこれは完璧な答えになります。宇宙のこと、自然のこと、そして動物たちのことを語って、「神様はそんな所にも目を向けているんだぞ!おまえはあまりにも、自己中心的すぎる」と指摘されたわけです。皆さん、この世界に命あるものは1992年の統計なので、ちょっと古いのですが、バイ菌たちから植物、動物たち、全部合わせると、「1413千種類」だというのです。一番多いのは昆虫類みたいです。75万1千種類です。動物たちは28万1千種類、この中に人間も含まれているわけです。人間を一番大事に神は造られたように思いますが、神は昆虫に興味があり、一番たくさん造っているのです。「すべての生態系の中に人間もおかれているという、謙虚さを持て!」ということを教えているのです。

ヨブ記40章を先ほど読みましたが、ヨブが口をつぐんだ後、40:7、『さあ、男らしく立ち上がり、戦いに備えてかぶとの緒をしめろ。』と。神はヨブに告げています。「戦いに備えろ!」続いて41章に何が出てくるかと言ったら、「レビヤタン」という生物が出てきます。動物たちのカテゴリーの中で述べられているのですが、41章全体で、レビヤタンについて述べられていて、41:33-34節を読みますと、こんな風になっています。レビヤタンについて、ヨブ記41:33-34(リビング・バイブル)「これほど恐れを知らぬものは地上にいない。それは獣の帝王で、獣の中で一番いばっている。」普通では歯が立たない動物がいると告げているわけです。「その動物との戦いに備えろ!」とヨブに告げて、その後、回復が起こっているのです。

皆さん、ヨブ記の一番重要な点は、最初の一章、二章にあります。なぜならば、ヨブに災いを与えたのは他でもない、悪魔、サタンだったからです。サタンが神の前から出て行った時、全ての持ち物は奪われ、大変なことが起こったわけです。ヨブの最も大きな悲劇は災いをもたらした真犯人について気づかなかったことだと思いますが、実は神様は41章でレビヤタン(サタン)との戦いに備えるように、ヨブに告げているわけです。きっと彼は、そのことを意識したと思います。その後、何が起こったかというと、彼は失ったものを二倍にして、取り戻しています。ヨブ記42:10、「ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を元どおりにされた。主はヨブの所有物もすべて二倍に増された。

皆さん、私たちの人生の中に起こってくることは自然界の法則の中で、どうにもならないことも確実にあります。しかしそんな背後に、目に見えない敵(サタン)がいるということをしっかり理解する時に、不幸のどん底にあるような家族さえも回復するということをヨブ記はメッセージとして、私たちに投げかけているのです。

41章全体でレビヤタンという生物との戦いについて教えているわけですが、このレビヤタンというのはサタンです。この事を告げられて戦いに備えた時に、ヨブが回復したということは、見落とせない点ではないかと思います。「なぜ私だけ苦しむのか」という本にはその点(その原因)に関しては、全く取り扱われていないのですが、私たちはヨブ記の中から霊的戦いについて知らなければいけません。旧約時代の悲しさは神の前に一生懸命に仕えていたヨブのような正しい人でさえ、悪魔に訴えられて、それをキャンセルする方法が無かったことでした。地上では宴会三昧でしたが、目に見えない世界においては、同時刻に「ヨブを苦しめる法廷」が開かれていたのです。天で許可が出された結果、ヨブの幸せは絶頂からどん底に落ちました。天での法廷闘争に負けた事に不幸の原因があるわけです。

しかし今、私たちイエス様の十字架と復活以後のクリスチャンには、どのような立場が与えられているのかというと、エペソ人への手紙2:4-6『しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、─あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです─キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

ヨブの時代には天の法廷に出入りすることができなかったのが、今私たちはイエス様の十字架と復活の勝利によってポジションが回復され、天の法廷に出廷して、サタンの訴えに反論し、訴えを取り下げることができます。これが一番、私たちが人生の中で幸せに生きる秘訣です。

皆さん、目に見えない世界での戦いを知らないと、自然界の法則くらいで話は終わります。しかし霊的戦いがあることが分かったら、本当に勝利することができるわけです。

最後に覚えたい御言葉は出エジプト記22:7、『金銭あるいは物品を保管のために隣人に預け、それがその人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければならない。

出エジプト記の22章とは、盗んではならないという十戒の細則です。自分の持ち物を隣人に預けて、盗まれました。それで誰が盗んだかと盗人を特定したら、泥棒から二倍になって返ってくると。二倍返しなのです。ヨブ記と共通します。

出エジプト記の泥棒は、ただの泥棒です。しかし新約聖書になって、泥棒とは誰かというと、盗み、殺し、滅ぼすものとは「悪魔、サタン」のことです。私たちの人生の良いものを盗んでいたのは「おまえだったのか!」と。悪魔が真犯人だと特定して、天の法廷で「異議あり!」と、イエス様の十字架の勝利を掲げて宣言するならば、勝訴できます。そして奪われたものは二倍になって戻ってくるという法則を知るならば、家族全員が幸せに生きることができると思います。その姿を見て、多くの人々が主を知るようになると私は確信しています。

今日ここにおられる一人一人が聖霊に満たされ、もう一つ、天の法廷で勝利する者になることができたら、本当に幸せな家族が形成されると信じます。

一言、お祈りします。

ハレルヤ、天の父なる神様。心から感謝します。私たちは今、天の法廷に出入りして、「異議あり!」と唱えることができることを心から感謝いたします。被造物のただ中で、私たちは被造物の管理人として、福音をすべての造られたものに宣言することができますように。今日この時を心から感謝します。私たちの人生の中に新しい扉を開いてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
合計 143
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
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ルカの福音書21:27-36(今の時代をどう生きるべきか?)
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レビ記19:1-4(自分の母と父を恐れなければならない)
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ヨハネの福音書10:10(クリスチャンの家庭が幸せになる秘訣)
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ローマ人への手紙1:20-25(偶像崇拝)
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マタイの福音書16:13-19(ペテロの信仰告白)
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ヨナ書1:1-3(ニネベに行け)
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