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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ヨハネの福音書13:1-15(低い所が安全だ)

投稿者
tbic
投稿日
2023-06-18 18:36
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ヨハネの福音書13:1-15『さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。』

イエス様はたらいに水を注いで、弟子たちの足を洗い、「仕えることこそが一番大きなことであり、一番大きな者となる道だ。」と教えてくださいました。私たちが真実に神様の御前で低くなるのであれば、私たちは怒りではなく、従順の思いで満たされるようになります。

今日はヤコブについて皆さんと分かち合いたいと思いますが、ヤコブは一言でいうと、非常にせっかちな人でした。つまり爆発的な性格の男がヤコブでした。彼を動かす主な力は、いつも怒りでした。彼は怒りによって動いていたのです。

イエス様はヤコブとヨハネの兄弟に、せっかちな人だという意味で「ボアネルゲ」という別名を与えてくださいました。「ボアネルゲ」とは「雷の子」という意味です(マルコ3:17)。彼らは火のような男たちでした。イエス様と弟子たちがサマリヤ人のある村に入って行った時、その村の人々は彼らを受け入れようとしませんでした。

すると、ヤコブとヨハネは歯ぎしりして、こういう風に言ったのです。ルカの福音書9:5、「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と。彼らは徹底的な復讐心を持った人々でした。今なら、テロリストとなる可能性がとても高い人たちです。過激で怒りに燃えている兄弟だったのです。

聖書を読みますと、彼らはとても豊かに暮らしていたようです。マルコの福音書1:19-20、「また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも船の中で網を繕っていた。すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

ヤコブとヨハネの父ゼベダイは大きな船を所有しており、多くの雇い人たちを持つほどに豊かでした。船主と言えば相当なお金持ちです。船一隻の値段が、日本円でおよそ三億円位だそうです。船というものは、元々そのように高価なものです。非常に小さなヨットでも、一千万円以上はすると言います。だからヤコブとヨハネは金持ちの家の息子だったのです。

ヨハネの福音書18章に、イエス様が捕らえられた時、ペテロと、もう一人の弟子がイエス様について行く場面が出てきます。その御言葉にも、ヤコブとヨハネの家の社会的地位を見ることができます。ヨハネの福音書18:15、「シモン・ペテロともうひとりの弟子は、イエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いで、イエスといっしょに大祭司の中庭に入った。

この「もう一人の弟子」とはヨハネのことです。ヨハネが大祭司の庭園に入って行くことができたのは、彼が大祭司と知り合いだったからです。今なら、国会議長程度の人を知っているのですから、決して低い地位の人ではありません。彼らの父は相当な地位にいた人であり、彼らの家はやはり名門の家だったと思います。相当な影響力を持っている家で育ったヤコブとヨハネには、ある程度のエリート意識があったのかもしれません。

イエス様とその一行を受け入れなかったサマリヤの村に「火を放って滅ぼしてやろう」とヤコブが言った時、イエス様の反応はどうだったのでしょうか?

ルカの福音書9:55-56、「しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。そして一行は別の村に行った。」イエス様は、怒りを表わしたヤコブを叱責されました。怒りで働いてはダメだと。この世には、いくつかの力というものがあります。怒りもそのうちの一つです。怒りにはものすごい力があります。怒りがわき上がると、普段とは違う新しい力が湧いてきます。しかしそれでも、クリスチャンは怒りで働いてはいけません。クリスチャンの行動の根拠は、いつも愛でなければなりません。怒りではいけないのです。イエス様はこの怒りの人ヤコブが、そのままで良いとは思われませんでした。

イエス様は改革の必要性についても言われました。改革を叫ぶ人々は大体構造を改革しようと主張します。もちろん、そんな主張にも一理ありますが、果たして形や構造さえ変われば、神の力が働く教会に変わるのでしょうか?

イエス様の当時の社会も、構造と組織の変化を追求しました。パリサイ派の人々は伝統に戻ろうと言い、サドカイ派は祭司長制度を維持しようとしました。エッセネ派はその制度を変革しなければならないと主張ました。また、熱心党はローマを打ち倒すことを目標としました。名前が違うだけで、みんな構造改革を叫んでいたのです。

しかしイエス様は私たちに本当の改革は人から始まる、人の変化こそが本当の改革だということを示してくださいました。つまり変化の焦点をどこに合わせるかということです。私は1980年代の後半に大学に通いました。当時の学生たちが昼も夜も論争したテーマが、まさに「構造が変われば、人が変わるのか?人が変われば、構造が変わるのか?」という問題でした。

この論理を理解できるように助けてくれる、重要な本が二冊ありました。一冊はラインハルト・ニーバーの「道徳的人間と非道徳的社会」です。この本の中に、道徳性が高く、倫理的なある人が、非道徳的な社会に入って行くと、無力になって、何もできなくなるという話が出て来ます。社会の構造悪を悟らなければ、個人の倫理だけでは何もできないということがラインハルト・ニーバーの主張です。結局「構造が変わらなければならない。個人に何の力があるのか。」と言って、多くの人々がこの本に熱狂しました。

ほとんど同時代に正反対の本が出ました。ロバート・コールマンが書いた弟子訓練の古典である「伝道のマスタープラン」という本です。この本の中で著者は、イエス様の働きの中心は、三年半の間に12名の弟子を育てること、つまり人を育てることだったと主張しました。この本のキーポイントは、イエス様の関心事はプログラムでも構造でもなく、人であったという所にあります。この本に出てくる有名な言葉が、「イエス様の方法は人」だということです。

改革に対する論争は、「社会の構造が変わらなければならないのか、人が変わらなければならないのか」という点に集約されます。福音の論理はどちらでしょうか?まず人です。イエスを信じる人々は、まず人を変えることが世の中を変える原動力になるという、イエス様のアプローチを受け入れなければなりません。

そうしたら、人が変えられることに焦点を当てると、次の問題が生じます。誰から変えられるべきか、ということです。今までの人生を振り返ってみると、世の中で一番変えやすいのはやはり自分自身です。

私が皆さんに「毎日祈りなさい」と言うことは、決して簡単ではありません。説得しても、やはり難しいことです。当然、一番変えやすいのは自分だと思います。また皆さんに聖書を読ませることも大変なことです。しかし自分がまず聖書をたくさん読むことは簡単です。だから、まず自分がやればいいのです。私は世の中で一番簡単なことは、まず「自分が変わること」だと悟りました。自分の変化によって、他の人の変化に影響を与えれば良いからです。

だから、どんな改革が神様から来たものなのかを点検できる、三つのポイントを整理してみると、

1.怒りで働くか、愛で働くかを点検しなければなりません。つまり人を殺すか、生かすかの問題です。怒りで働くことは神の道ではありません。私たちは愛によって働かなければなりません。

2.改革の内容が構造の変化か、人の変化かを点検しなければなりません。外側(構造)よりも、人の変化を優先しなければなりません。

3.人の変化はどこから出発するかを点検しなければなりません。自分の変化なのか、他人の変化なのかに注目し、まず自分が変わるようにしなければなりません。

この三つのことを点検すれば、私たちクリスチャンは、わき道にそれることなく、真っ直ぐに成長し、変わっていくと思います。

本文に戻って、イエス様がエルサレムで苦難を受け、死ぬということを語られるようになった時、弟子たちは「誰が一番偉いのか」と議論していました。特にヤコブとヨハネの母が「私の二人の息子たちを、主の御国において、一人は主の右に、もう一人は主の左に置いてください。」と求めたことは、私たちもよく知っています。

皆さん、自分が立派になるためには、一般的にどうしたら良いでしょうか?他の人を低くするか、他の人が自分を高めてくれるか、です。そこで他の人を低くするために、批判したり、攻撃したりして、相手を打ち砕き、相対的に自分が立派になろうとします。しかしこれは非聖書的でネガティブな方法です。また認めてもらうために、自己アピールに熱を上げるようになります。そして誇ってしまうのです。

最近はブランド志向の人々がたくさんいます。では、なぜそこまで高価な服を着て、高価な物を身に着けようとするのでしょうか?ブランドの力を借りてでも、自分が少しでも高められたいからです。このようにして、誰もが自分を立派な者として見てくれることを願っています。

しかし皆さん、本当のブランドとは何でしょうか?自分自身がブランドになることです。自分がブランドになれば、自分が身につけている物が全てブランドになります。自分が本当に素敵な人生を生きるのであれば、自分がやることはみんな、素晴らしいものになります。百円の物を持って歩いていても、それがブランドになります。だから物が自分を高めるとは考えないでください。自分が価値ある人になれば、自分が持っている物も価値が高くなります。

ではイエス様は、自分を高めようとする人たちに向かって、何と言われましたか?ルカの福音書22:26、「だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。

皆さん、イエス様がこの論争の後に行われたことは何でしょうか?たらいに水を注いで、弟子たちの足を洗うことでした。その時、イエス様はこのように言われました。今日の本文の13:14-15に、「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。

弟子たちのどちらが偉いかと言い争っていた時、イエス様が語られた御言葉は、仕えることこそ、本当の大いなる者になる道だということです。天から力が臨んで、病人を癒したり、奇跡を行ったり、悪霊を追い出したりすること、或いは天から知恵が臨んで頭のいい学者になったり、世の中で出世するということは簡単なことではありません。しかし私たちが高められるために主が備えて下さった道は、今言ったように、一部の人間にしかできないような道ではありません。ただ仕える道です。決心さえすれば、たらいに水を汲んで足を洗うことは、誰にでもできることです。イエス様は、たらいに水をくんで、他人の足を洗って仕えることこそが、偉大な生き方だと言われました。

自分から変えられていくということは、実は簡単なことです。教会に早く来て、他人のために祈ること、奉仕をすることなどは、特別な天からの力が必要なわけではありません。このように仕える人生を生き始めると、いつの間にか怒りが消えていきます。自分の人生に変化が起こって来るのです。それがどんな状況であっても、怒りは高慢である証拠です。軍隊でも、階級が低ければ低いほど、怒ったりせず、命令通りに動きます。

私たちが本当に神の御前で低くなるのであれば、私たちには怒りではなく、従順だけが残ります。ルカの福音書17:10、『あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」と言いなさい。

怒りをもって歯ぎしりをし、名誉欲の強かったヤコブも、イエス様に従って変えられ、従順の弟子となりました。これは仕えて、すべての栄光を神様にささげ、自分自身を否定する人生です。私たちも怒りではなく、従順を通して神様に用いられるしもべになりたいと思います。

今日の教会が困難に直面している原因の一つは、分裂と争いにあります。争う教会には一つの特徴があります。熱心な信者たちが、怒りを原動力にして働いているのです。怒りによって働く教会には、明らかに問題があります。結局、分裂に分裂を繰り返し、憎しみと争いによって年月を過ごすようになります。

こういう風に教会が弱くなってしまう原因は悪魔の誘惑である怒りの力で働こうとするためです。怒りは確かに信者を一つにするかもしれません。それは多分、力強く働く原動力にもなると思います。しかしその力を利用してはいけません。教会は怒りによって働く所ではないからです。

私たちは、たまに理由も分からず、腹が立つ時があります。それは怒りを刺激して、人を動かそうとする悪魔の扇動に騙されていることです。怒りで働き始めるのであれば、結果は破滅しかありません。クリスチャンは決して怒りによって働くのではなく、愛によって働く者にならなければなりません。高圧電流が流れる電線に平行して、もう一本の電線を置くと、その電線にも電流が流れます。これを電磁誘導と言います。私は、この電磁誘導が人生の多くの場合に、そのまま適用されると思います。

皆さん、ヤコブの人生が変えられた理由は何でしょうか?ある瞬間からイエス様の御力が彼の人生に臨み、彼の品性や態度が変えられたからです。ヤコブはイエス様と共に歩んでいく中で、イエス様から伝わってくる御力を通して変えられていったのです。だから主と共に歩むということは、とても大切です。主と共に歩んでいくなら、私たちの性格や態度が変えられ、人生の目標も変えられていきます。

本当に人を愛するのであれば、相手の心がテレパシーのように通じることがあります。心から誰かを愛して寄り添うと、その人が痛い時に自分も痛みを感じます。離れていても、不思議にその考えを読むことができるのです。この神秘的な感覚に驚きます。同じように、私たちが愛を深く学ぶなら、神様の神秘をはっきり知ることができます。

祈りも、それと同じです。私たちが神の御前で深く深く祈るのであれば、いつの間にか私たちも神様の心を読むことができるようになります。「神の御声を聞いた。神様に出会った。」という体験が、まさにそれです。それを悟った人は日々主に祈る人生を生きるようになります。祈りの味を味わったからです。

物理学において言われる電磁誘導と全く同じ現象が、霊的世界においても、愛の世界においても起こります。その中心は「共に歩む原理」です。ヤコブは怒りと高慢によって働いていた人でした。しかしイエス様と共に歩む中で、彼はイエス様と全く同じ思いになり、献身する者へと変えられました。

ヤコブについての最後の記録が、使徒の働き12章に出てきます。使徒の働き12:1-2、「そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。

12弟子の中で、最初の殉教者はヤコブです。不思議ではないでしょうか?ヤコブは怒りで働く人で、高慢に走り回る人でした。しかし使徒の働きに紹介されているヤコブの姿はどうですか?怒る姿ではなく、犠牲する姿です。刀を振り回す姿ではなく、静かに死を受け入れる姿に変えられているのです。

彼は怒りではなく、愛で働くようになり、人を変えることに焦点を合わせて、そのため、まず自分が変わり、自ら殉教する者へと変えられました。これこそ、イエス・キリストに出会った人が変えられていく過程であり、真のクリスチャンの証拠です。

皆さん、ローマの銅貨の中には、鋤を引きながら祭壇を仰ぎ見る一匹の雌牛が刻まれたものがあります。その下にはラテン語で、「二つのものを皆持て」と刻まれています。雌牛はゆっくりと鋤を引きながら、忠実に働く家畜です。そして時が来ると、祭壇にささげられて犠牲の死を遂げるのです。

私はこの雌牛のように生きた人物がヤコブではないかと思います。普段は主を仰ぎ見ながら鋤を持って忠実に働きましたが、主がお呼びになると、殉教の祭壇に上って行きました。私たちも、この雌牛のようなヤコブの人生を生き、忠実な神のしもべになりたいと思います。では、ヤコブを通して学んだ、神様に用いられるための原則をまとめれば、
  1. 怒りでかないで、愛でくことです。怒りは大きな原動力となりますが、クリスチャンは怒りを原動力として働いてはいけません。私たちの行動の根拠は、いつも愛でなければなりません。
  2. イエスの方法は人です。イエス様を信じる私たちは形式や構造ではなく、人が変えられることが世を変えていく力となる、という真理をしっかり握ることです。
  3. 隣人の化を叫ぶのではなく、自分の変化に力を尽くすことです。最も変えることが簡単なのは自分自身です。聖書を人に読ませるより、自分で読む方が簡単です。まず、自分が模範を示せばいいのです。
・上記の三つの教訓を持って、分かち合いましょう。
合計 143
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
103
マルコの福音書 5:1-5(孤独と絶望からの解放)
tbic | 2023.07.17 | 推薦 1 | 閲覧数 174
tbic 2023.07.17 1 174
102
マルコの福音書1:9-13(主の戦いの勇士となりなさい)
tbic | 2023.07.09 | 推薦 1 | 閲覧数 150
tbic 2023.07.09 1 150
101
マタイの福音書7:24-27(岩の上に人生を建てよう)
tbic | 2023.07.02 | 推薦 1 | 閲覧数 192
tbic 2023.07.02 1 192
100
マルコの福音書5:25-34(あなたの信仰があなたを救った)
tbic | 2023.06.25 | 推薦 1 | 閲覧数 180
tbic 2023.06.25 1 180
99
ヨハネの福音書13:1-15(低い所が安全だ)
tbic | 2023.06.18 | 推薦 0 | 閲覧数 179
tbic 2023.06.18 0 179
98
ヨブ記19:23-29(私は私の肉から神を見る)
tbic | 2023.06.11 | 推薦 1 | 閲覧数 152
tbic 2023.06.11 1 152
97
マタイの福音書26:36-46(神の計画)
tbic | 2023.06.05 | 推薦 1 | 閲覧数 159
tbic 2023.06.05 1 159
96
サムエル記 第一19:9-18( 頼った全てのことが消え去った時 )
tbic | 2023.05.28 | 推薦 1 | 閲覧数 134
tbic 2023.05.28 1 134
95
マタイの福音書17:14-21(信仰と祈りが勝つ)
tbic | 2023.05.21 | 推薦 1 | 閲覧数 143
tbic 2023.05.21 1 143
94
ヨハネの福音書3:16(むなしさからの解放)
tbic | 2023.05.14 | 推薦 1 | 閲覧数 139
tbic 2023.05.14 1 139

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