メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

マタイの福音書7:24-27(岩の上に人生を建てよう)

投稿者
tbic
投稿日
2023-07-02 22:41
閲覧数
190
マタイの福音書7:24-27『だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。』

今日は、「岩の上に人生を建てよう」というタイトルで、メッセージを語らせていただきます。今読んでいただいた聖書の箇所は、大変有名な箇所です。イエス様は「山上の垂訓」という名でメッセージをなさいました。このメッセージの最後に語られたのが、今日の御言葉です。

この内容はルカの福音書にも同じことが記されていますが、ルカはまた違った視点でイエス様の言葉を記録しました。聖書はたいへんおもしろいもので多くの記録者がいて、記録者によって視点が違うからです。ルカの福音書6:47-49を読むと『わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家はいっぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。

皆さん、土木工事の最も重要なポイントは「土台」であり、「基礎」です。基礎がうまくできたら、その上に建てられる構造物も安定します。どんな建物を建てても、基礎が悪かったら倒れてしまいます。基礎をうまく作ることが一番大切です。どんな事でも、やはり基礎が一番重要です。私たちの人生についても、土台が大事だと聖書は教えています。ここでは、「岩の上に自分の家を建てた人が賢い人」と語られました。ルカは、「岩の上に建てた家」に関して、さらに細かい描写をしています。

そもそも、岩の上にちゃんと家を置いたらどうでしょうか?風が吹いたら滑って、余計に危ないです。でも、ルカが言うには、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えてから家を建てた」と記録しています。この「」とは何かと言うと、「イエス・キリスト」です。また「神の御言葉に根ざして生きる」ということが最も大切だと教えています。基礎が悪いと、建物も傾いてきます。傾いた建物で有名になったのがピサの斜塔ですが、基礎が悪いと、建物が傾いて倒れてしまいます。しかし基礎さえ、しっかりしていれば、揺るぐことはありません。

以前、ある方と話をしたら、近ごろ精神的に弱っていると言われました。どうしてかを尋ねてみたところ、「私は定年退職して、今はやることが何もありません。本来は余生を楽しまなければいけないのに、気力を失ってしまいました。」と言われました。それで、「土台をイエス・キリストにしましょう」と勧めて共に祈りました。「自分自身のアイデンティティー」、すなわち「自分は何者か」が最近問われています。仕事人間ならば、「仕事が私の全てだ。土台だ。」と言うかもしれません。しかし最近はコロナウイルスも経験し、仕事場という土台を失うことも多くあります。

皆さん、人間の在り方、基礎をどこに置くかということは、本当に重要です。聖書は「岩の上に自分の人生を建てあげなさい」と語っています。やがて、自分を証明するものが消えていきます。元々、私のように何もなければあまり失うものもないかもしれませんが、特に多くの肩書きがある方は寂しいかもしれません。しかし私たちがイエス・キリストという方、「」の上に家を建てておくならば、「雨が降って、洪水が押し寄せ、風が吹いて、その家に打ちつけても倒れない。」と聖書は告げています。

人間はやがて死んでこの世から去ります。ここにあるように、「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いて、その家に打ちつける」というのは、まさに「人間はやがて死ぬ運命だ」ということを、語っています。しかし、「岩の上に建てた人生は決して倒れることがありません」と聖書は告げています。「岩の上」とは、イエス様ご自身であり、同時に神の御言葉である聖書です。ここでは、御言葉をただ聞くだけでなく、「実行する」ことが、「岩の上に建てた人生である」と教えています。

私たちは毎週のように聖書の御言葉を学んでいますが、これは「人生を岩の上に置く」作業をしていることです。私たちの周りにあるものはすぐに形が変わってしまう砂のようなものです。しかし、私たちは毎週日曜日に教会に来て、とにかく毎週御言葉を持って、もう一度人生を岩の上に置きなおすのです。それは神の御言葉の上に立つということです。

ナポレオンという有名な人物がいますが、彼は世界を制覇したフランスの皇帝でした。しかし、彼は最後に「聖書は単なる書物ではない。それに反対する全ての物を征服する力を持つ生きた書物である。」と言い残しました。彼は世界を制覇しましたが、最後に気づいたことは「聖書は単なる書物ではない。」と言うことでした。神の言葉に従って歩んでいくならば、人生は揺ぎません。しかし他のものに土台を置いたら、全てを失ってしまうのです。

聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻の66冊の本が一冊になっている書物です。それは、神ご自身が編集したと聖書自ら語っています。

イザヤ書34:16、『主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。

私たちが持っている聖書は誰が書いたのでしょうか?もちろん聖書には40数人の記録者がいますが、これを集め、編集したのは神ご自身です。「神の御霊がこれを集めた。」と自ら証言しています。だから、聖書は人生に大きな祝福をもたらします。そして人生を岩の上に置くことができるのです。ここに「それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。」とありますが、聖書は人生のためのバランスのとれた教科書です。詩篇119:9に次のような言葉があります。『どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。

今の時代は清く歩むということが大変難しい時代です。どうやって歩んだらいいのか分からない時代です。毎日のように、道徳の規準が変わってしまう世界に私たちは住んでいます。特に若い人たちの世代は、なかなか大変な環境があります。しかし聖書の基準は、いつまでも変わらないものであり、神の言葉に従って歩んでいくならば、清く歩むことができるとはっきり教えています。

以前聞いた話ですが、今アメリカに住んでいる韓国人の中に、国籍はアメリカ国籍になっているが、子供たちを学校に入れず、ホームスクーリングをやっている人が多いそうです。「ホームスクールは、学校に行かなくてもいいからいいな」と思ったのですが、今アメリカでは、特にクリスチャンの中ではホームスクールが流行っています。勉強を家でやります。お父さんやお母さんが先生になったり、インターネットやユーチューブで授業を受けたりしているのです。私は学校が嫌いでしたので、「私の時代にあって欲しかったな」とも思いました。

しかしなぜホームスクールなのかと言うと、公立学校には危なくて行けないそうです。なぜ行けないかと言うと、みんなおかしくなると言うのです。公立学校ではみんな麻薬をやっているし、同性愛を勧めているので、公立学校なんかに行ったら、麻薬中毒患者になるし、同性愛者になって、人生がどんどん壊れていくというのです。だから恐ろしくて、親は子供を公立学校には送れない、というのです。それでクリスチャンが経営しているミッションスクールとかチャーチスクールに入れるのですが、経済的な都合があったりすると、自分の家でホームスクールをやるしかないと言うのです。アメリカの公立学校は大変荒れているそうです。

クリスチャンやそういう環境を心配している両親たちが、自分の子供たちを公立学校から引き上げてしまうならば、そこに残るのはもはや、悪いことをする子供たちばかりになってしまいます。それは悪循環です。しかし、どうしようもないのです。時々学校で銃の乱射事件があったり、なかなか大変な環境があります。日本もだいたい10年以内に、同じような環境になるかもしれません。いつからアメリカはそんなにおかしくなってしまったのでしょうか?もちろん、それには様々な理由があるかと思いますが、ケネディが大統領になるまでは、公立学校も「主の祈り」を唱えて、礼拝してから授業を始めていたそうです。聖書を読むことも自由で祈ることも自由だったそうです。しかしケネディは「主の祈り」や学校での公の祈りを全て禁止し、聖書の言葉を学校から取り去ったのです。それから、やはりおかしくなったと言われます。

アメリカは合衆国ですから、様々な国の人たちが移民して住んでいます。また、様々な文化・習慣・宗教があります。そんな中、宗教的対立もなかなか厳しいのです。それで特にクリスチャンに対して、いろいろ規制があるそうです。学校の中で他の宗教の人たちは祈っていいのですが、クリスチャンは祈ってはいけないそうです。イエス様の名前で祈ると違法になります。これはクリスチャンが多いから、クリスチャンが祈り始めると、他の宗教の人たちと対立して、いろいろ問題が起こるからということで規制があるのです。しかし学校や国から聖書の土台が取り去られると、必ず問題が起きます。私たちがあくまでも神の御言葉を中心にして生きるならば、人生は安定します。それは歴史が証明しているところです。

今日こうして神の御言葉を学び、御言葉に注目していますが、これは大変重要なことです。是非皆さん、毎日聖書を開き、よく読んでいただきたいと思います。御言葉をしっかりと読む習慣をつけなければなりません。毎日聖書を開いて御言葉に親しんでいく時に、人生は正しい方向に導かれていきます。聖書の不思議なところは聖書自らが私たちに語りかけてくることです。皆さんも聖書を読んでいて、これは歴史的な書物というよりも、自分自身に語りかけてくれたという経験はないでしょうか?クリスチャンならば、何度もあると思います。聖書を通して主が語ってくださったという経験を持っていると思います。

まだ皆さんの中で、そういう経験がないという方は、是非「どうか御言葉を通して、私に語りかけてください」と祈ってみてください。必ず聖書の御言葉を通して神様が語りかけるという経験をすることができます。なぜなら、聖書の言葉は神の霊と共にあるからです。そもそも天地創造の時も、暗闇の上を神の霊が覆っていた時、創造が起こりました。同様に神の霊によって集められた聖書の御言葉は神の霊と共にあり、聖書を通して神様の声が聞こえてきます。人間は神によって作られたので、神様の声をキャッチする受信機が誰にでも備わっています。神様は常に私たちに御言葉を通して声をかけてくださっています。しかし私たちが聞く耳を持っていないから、神の言葉を受け取ることができない悲しい現実があります。

ある商船会社が、外国航路の通信士を募集したそうです。外国航路の通信士というのは大変いいポジションなので、大勢の人が採用して欲しくて面接につめかけました。しかし大勢集まったのですが、なかなか面接が始まらなかったのです。それでみんな退屈して、近くの人たちとおしゃべりをして、会場はざわざわしていました。そんな騒音の中、ひとりの人がすっと立ち上がって、部屋の中に入って行ったそうです。そしてしばらくしたら、その人がにこにこして部屋から出て来ました。それに連れて、会社の人事担当者も出てきて、「皆さん、今日はごくろうさまでした。これで面接試験を終わります。」と終わってしまったそうです。面接に来ていた人たちは「何を言っているんだ。面接はやっていないじゃないか。冗談を言うな。」と怒ったそうです。しかし担当者は「もう面接は終わりました。採用されたのはこの人です。」と言いました。なぜかというと、皆さんはモールス信号をご存知でしょうか?今はあまり使っていないとは思いますが、昔は通信士と言ったらモールス信号でした。その信号がざわざわしている会場に流れていたそうです。その信号で一人ひとりの名前を呼んでいたというのです。しかしみんな隣近所の人と世間話をしていたので、モールス信号を聞き逃したのです。しかし一人の男はざわざわしている中でも、モールス信号が流れているのに気づき、自分の名前が呼ばれた時に部屋に入って行きました。それで採用されたのです。

外国航路の通信士は結局モールス信号をキャッチできなければ、仕事にならないのです。私たちも同じようなところがあると思います。聖書からはモールス信号ではありませんが、「神様信号」が発信されているのにも関わらず、それをキャッチできないと、人生は滑ってしまうわけです。常に神の御言葉に耳を傾けて歩んでいるならば、人生は砂の上ではなく、岩の上に建てられた家となるのです。

聖書の御言葉は、私たちに語りかける生きた言葉です。今週も聖書を読みながら、神様から発せられる信号を是非ともキャッチしてください。私も今までの人生の中で「この箇所は私のために記された御言葉ではないか」というような印象を持つ言葉に何度も遭遇しました。その言葉によって励まされ、助けられてきました。神様はどのようにして私たちに語りかけるのでしょうか?様々な方法がありますが、やはり御言葉から語りかけられる方法が中心にならなければなりません。

コリント第一3:10-11、『与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

私たちの土台がイエス・キリストならば、岩の上に建った家であり、人生にどんなことがあっても揺るぐことがない、というのが聖書の宣言です。土台は「イエス・キリスト以外にはない」と、ここで告げています。実は私たちの人生を見る時、土台がイエス・キリストになっておらず、まさしく砂の上に建てられた家というか、そういう人生が結構あると思います。岩の上にしっかりと人生を建てるためにも、まずは自分の土台がどんなものなのか、よく知らなければなりません。

皆さん、もしも私たちの中に罪があると、岩の土台ではなく、人生は砂の土台になってしまいます。しかしイエス様の十字架の血潮によって、土台に十字架の勝利が宣言される時、土台は勝ち取られ、岩の上に置かれます。そして「聖霊の注ぎ」というのは、ある意味で「雨が降って、洪水が押し寄せ、風が吹いてその上に打ちつける」のと同じです。その時、結果的に何が明らかにされるかと言うと、「私たちの土台」が明らかにされるわけです。今までは、「これでいいじゃないか。このままで十分だ。」と思っていたのが、「あなたたちは、岩の上ではなく、砂の上に建ってますよ。」と土台が明らかにされるわけです。

台風、大嵐、地震などの災害が来る時に、建物の真価が試されるわけですが、私たちの人生も同じではないかと思います。時に人生に大きな風が吹いてきたり、嵐が来たりする時、何が見えるのかと言うと、その人の土台が見えてしまいます。そしてその土台が岩ではなく、砂の土台ならば、倒れてしまいます。しかし岩ならば決して倒れることはない、というのが聖書の教えです。ということは、私たちが御言葉に根ざすと共に、私たちの土台がなんであるのかについても、しっかりと知らなければなりません。そしてもしも岩ではない、他のものが土台ならば、十字架の血潮を注いで、もう一度聖別し、土台を岩の上に置き換えることが必要です。

近年の3、4年は、大きな風がTBIC教会にも吹きました。その時に明らかにされたのは「教会の土台に、悪魔が巧みな仕掛けを設けていた。」ということでした。教会の基礎はすべて、神の土台だと思っていましたが、いろいろな不純物が混ざっていることが分かりました。主は、「もう一度教会の土台を作り替えなさい。」と命じられました。土台があらわにされてから、私たちは今教会の土台を岩の上に置くことを努力しています。まだまだ進行中ですが、昔と比べるならば、確かに主は教会の土台を変えてくださいました。本当に感謝しています。特に「砂の土台」とは、「霊的問題」であることが分かりました。悪しき力が私たちの土台を握っているならば、人生は揺り動かされ、倒されてしまいます。しかし岩なるイエス様に置くならば、倒されることはありません。

デンマークの哲学者で、「キェルケゴール」という人物がいますが、彼の書いた「不安の概念」という本の中で、彼はこんなことを語っています。「悪魔的なるものとは、自己を閉じこめようと意欲するところの、不自由性である」と。「悪魔的なもの」とは、「自己の中に閉じこめるものであり、沈黙が特徴である」というのです。悪霊の働きとは「確かにそこに何かが存在するが、それが隠されたまま」であり、「それが何か分からない」のです。悪魔、悪霊どもの働きのテーマは「沈黙」です。土台が岩なのか、砂なのか、それは沈黙しています。建物が岩の上なのか、砂の上なのか、土台は決して言葉を発しません。しかし、その土台が何かということが明らかにされたら、土台を変えることもできるのです。特に悪魔的なものは「沈黙」という言葉で表すことが出来るというのです。

私たちの人生の中でも、それが言えると思います。例えば、人間関係がいつも同じパターンで破壊したり、新興宗教に引っかかり「もう、うんざりだ。」と思うのにも関わらず、また違うタイプの新興宗教に引っかかったり、なぜか分からないけれど、同じ失敗を繰り返したり、何かに突き動かされて、やってはいけないことに手を出してしまったりする、「何か」があって引っ張られるのは確かだけれど、その「何か」が隠されたままということがあるのではないでしょうか。

実は、悪魔的なものは、何かに突き動かされているけれど、その「何か」が分からない沈黙なのです。だから悪魔、悪霊どもの束縛を解くには、沈黙として現れる、その「何か」を明るみに出す以外にありません。それは基礎が何であるかを暴くことです。私たちの中にも沈黙している何かがあると思います。意味は分からないけれど、なぜか突き動かされるのです。それが悪魔的な力であり、それこそ岩の土台ではなく、砂の土台なのです。それに関して明らかにすることが大切です。

イエス様がゲラサという地方に行かれた時、一人の男に出会いました。彼は誰ともコミュニケーションが出来ず、墓場に引きこもっていましたが、イエス様の目の前に現れました。その時に、イエス様は彼に向かって話したわけではなく、その背後の「今まで沈黙していた存在」を暴かれました。それまでは、男は誰の手にも負えない、どうにもならない男でした。「あの男はどうにもならない。あんな男はこの街には必要ない。」と全住民から拒否されていたようです。しかしイエス様がその「何か」を明らかにされました。それが何であったかと言うと、マルコの福音書5章を見ると分かります。イエス様が「おまえの名は何か?」と沈黙の存在に対して聞くと、その時初めて沈黙の存在が言葉を発しました。「私の名はレギオンです。大勢だから」と。今まで沈黙していた存在が現れたわけです。

イエス様はどの時点でこの戦いに勝利されたのでしょうか?それは「私の名はレギオン。私たちは大勢だから」と。今まで沈黙していた存在がコミュニケーション対象となった時、勝負があったというのです。今まで全く沈黙して、その男の土台が何であるのか分からなかったが、土台が明らかにされた時、その男は変えられ、回復し始めたというのです。人生が何かの力に突き動かされているということは、土台に何かがあるわけです。その土台を暴かなければなりません。実に霊的戦いとは、沈黙の中にしか現れない悪しき力を、目の前にさらす働きだと思います。敵を発見した時点で、岩の上に置くことができ、回復できると思います。

日本も、「何か」の力が働いていて、おかしな方向に行っていることは確かです。しかし、その「何か」が分からないけれど、聖書が語っているのは沈黙の力であり、閉ざされた力である悪魔だと言うことです。それが明るみに出された時点で勝利が来るのです。日本の土台に、このような砂の土台があることが分かります。それを明らかにし、今度は「イエス・キリストが土台である」と宣言し、置き換える祈りが必要です。そのように私たちの中にも、沈黙している砂の土台があるのですが、私たちは十字架の血潮を注ぎ、今度は岩の上に置き換えることです。その祈りがどうしても必要です。

私たちの土台を岩の上、つまりイエスキリストの上におくならば、決して間違いはありません。聖書には、「御霊の与える剣である神の言葉を受け取りなさい。」と勧めていますが、神の言葉を受け取って、沈黙の中に現われている敵の力をあらわにし、土台を取り返し、岩の上に置く時に、人生は決して揺るぐことがありません。

皆さん、人生の中に沈黙する何かがあったとしても、聖霊によってあらわにしていただくなら、勝利します。特に霊的戦いは沈黙していた敵をコミュニケーション対象にすることです。今までコミュニケーション対象となっていなかった敵と相対して、打ち破る働きです。イエス様の働きは、まさにその働きでした。私たちも、そのような働きをさせていただきたいと願っています。

最後にイエス様の十字架の血潮を、今日は心の中で、私たちの土台に注いでいただきましょう。私たちの人生がバビロンから持ち込まれた偶像を土台にして出来ているとしたら、土台を勝ち取らせていただきましょう。砂の土台を発見させてくださいと祈りましょう。今日は、土台を明らかにさせていただいて、主の前に出ていきたいと思います。

・自分の人生の中に砂の土台(沈黙している何か)を岩の土台(イエス・キリスト)に置き換えるべきところがあれば、分かち合いましょう。

一言、お祈りさせていただきます。

ハレルヤ、天の父なる神様。御名をあがめ、心から感謝します。私たちは岩の上に家を建てたいと願っています。主よ、私の人生を岩の上においてください。その岩はイエス様、あなたご自身であることを心から感謝します。人生の基礎はイエス様、あなた以外にないことを今、宣言します。もしも私たちの土台に、沈黙している何かがあるならば、今日はそれを明らかにしてください。土台に、十字架の血潮を注ぎますから、それらが全てはっきりと分かりますように。敵の力が分かりますように。そしてこの日本に最初に持ち込まれた悪しき土台が打ち砕かれますように。イエス様、あなたご自身を岩として、私の人生を、この日本を、立ち上げることができますように。今からの私たちの土台に十字架の血潮が注がれますように。イエス様の御名によって、勝利を宣言し、この祈りを神様にお捧げします。アーメン!
合計 143
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
103
マルコの福音書 5:1-5(孤独と絶望からの解放)
tbic | 2023.07.17 | 推薦 1 | 閲覧数 173
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102
マルコの福音書1:9-13(主の戦いの勇士となりなさい)
tbic | 2023.07.09 | 推薦 1 | 閲覧数 149
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101
マタイの福音書7:24-27(岩の上に人生を建てよう)
tbic | 2023.07.02 | 推薦 1 | 閲覧数 190
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100
マルコの福音書5:25-34(あなたの信仰があなたを救った)
tbic | 2023.06.25 | 推薦 1 | 閲覧数 178
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99
ヨハネの福音書13:1-15(低い所が安全だ)
tbic | 2023.06.18 | 推薦 0 | 閲覧数 178
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98
ヨブ記19:23-29(私は私の肉から神を見る)
tbic | 2023.06.11 | 推薦 1 | 閲覧数 151
tbic 2023.06.11 1 151
97
マタイの福音書26:36-46(神の計画)
tbic | 2023.06.05 | 推薦 1 | 閲覧数 158
tbic 2023.06.05 1 158
96
サムエル記 第一19:9-18( 頼った全てのことが消え去った時 )
tbic | 2023.05.28 | 推薦 1 | 閲覧数 132
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マタイの福音書17:14-21(信仰と祈りが勝つ)
tbic | 2023.05.21 | 推薦 1 | 閲覧数 142
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94
ヨハネの福音書3:16(むなしさからの解放)
tbic | 2023.05.14 | 推薦 1 | 閲覧数 138
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