メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
エレミヤ書2:32 (クリスチャンが祈らない理由)
投稿者
tbic
投稿日
2022-02-28 14:16
閲覧数
660
エレミヤ書2:32、「おとめが自分の飾り物を忘れ、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。それなのに、わたしの民がわたしを忘れた日数は数えきれない。」
なぜ、少人数のクリスチャンだけが毎日祈る生活をしているのでしょうか?祈りがすべての約束だけでなく、すべての答えであることを私たちは知っています。それにもかかわらず、私たちは祈りません。聖書は私たちが祈りを無視することについて警告しています。
皆さん、祈りについて、どのぐらい考えていますか?毎日祈りをもって、主と共に過ごす時間はありますでしょうか?
皆さんが主と共に時間を過ごすことを、つまり主の御声を聞き、主を知ることについて学ばなければ、祈りは絶対に無理です。だから、信仰によって祈ることを学び、実際に祈らなければなりません。多分、神様は祈らない私たちを見て、本当に悲しみ、深い傷を受けられていると思います。それはイスラエルの民のように、主と共に過ごす時間があまりにも少ないからです。今日の本文、エレミヤ書2:32のように「おとめが自分の飾り物を忘れ、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。それなのに、わたしの民がわたしを忘れた日数は数えきれない。」
今日はクリスチャンが祈らない理由について、四つ位を分かち合いたいと思います。この問題は何よりも私を深く傷つけ、苦しめる問題でもあります。
私たちはすでに真理を知り、心の深い所から信じています。それは何ですか?イエス・キリストの十字架の死によって、私たちが神の御座に大胆に行ける道が開かれたということです。まさに、それは全宇宙、天地万物を創られた真の神に行ける道なのです。
イエス様はおっしゃいます。「わたしの血潮によって、あなたがたは父なる神に直接行けるようになった」と、「あなたがたのすべての必要、すべての問題、すべての病と他のすべてのために道が開かれた。わたしに来なさい。」へブル4:16「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
天の父なる神様と私たちの間に入り込んで、妨げるものは何もありません。私たちが罪を悔い改め、イエス・キリストを本気で信じるのであれば、主の臨在の中に直接行けます。その方の臨在の中で喜びを味わい、祈りの課題を申し上げながら、主を礼拝し、賛美することができるのです。尊い神の至聖所に入れる全ての権利が、信じる者に与えられたということです。
今、この世を見ますと、難しい時代、苦難な時代がやって来て、主の再臨の日が、私たちの近くにいることに気づきます。主はおっしゃいます。「主の日が近づいた。今すぐわたしの顔を求めなければならない。わたしと奥まった部屋で共に交わり、共に過ごす時間がもう来ている。」皆さん、主と共に交わる祈りの恵みをいただかないと、私たちは聖霊様を悩ませる人生となります。それは神様の尊い恵みを侮辱することにつながるのです。
しかしなぜ、祈ることがこんなに難しいのでしょうか?これは、他人の話ではありません。私の話です。今、自分に言っているのです。
まず一番目、多くのクリスチャンが祈らない理由はイエス様に対する愛が冷めているからです。なまぬるい信仰をもっているから祈らないのだということです。祈らない人は少しの代価だけを払える愛、つまり大きな代価を払えるような愛はありません。しかし主はおっしゃいます。「わたしはあなたに会いたいのだ。あなたはわたしのために働いているし、わたしについて語っている。そして、すべての人々にわたしの愛を言っている。しかし、あなたはわたしを求めないし、会わないのだ。」
主に対する愛が、もし冷たいのであれば、私たちは祈りません。主は死んだクリスチャンが祈ることを期待しません。祈りは彼らの本性ではないからです。もし皆さんがイエス様を愛すると言っているのであれば、主と共に過ごす時間なしに、どこで、どうやって愛することができるのでしょうか?もし教会の中で大きな声で賛美すると言っても、それは関係ありません。町の隅々で主を語り、主を証しても、主と共に過ごす時間なしには、主を愛することではありません。私たちは決して普通の集まりの中で、主と親密な時間を持つことはできません。もちろん、集まりは良いことです。私たちがこういう風に集まって礼拝し、賛美することは神様に喜ばれることです。しかし、これは教会のプログラムの一つです。つまり主と共に過ごす時間、奥まった部屋での祈りの時間なしには、主を愛する方法がないんだということです。もちろん、皆さんはいつも主を愛しています。しかし、その愛を表すためには、主と共に過ごす時間、奥まった部屋での交わりが絶対に必要です。救われた私たちはイエス・キリストと結婚したと聖書は記しています。私たちはもう主の配偶者なのです。夫と妻は、二人だけの時間を持たなければなりません。もし二人だけの親密な時間がなければ、それは結婚生活ではありません。主と共に過ごす時間、その親密さがまさに祈りです。イエス様にとって、皆さんはすべてなのです。皆さん一人ひとり以外には、イエス様にとって誰もいません。イエス様は皆さん一人ひとりが大好きだし、全部なのです。
しかし私たちが祈らない理由は何ですか?もうこれ以上、イエス様と愛の関係ではないからです。聖書は語ります。黙示録2:4「あなたは初めの愛から離れてしまった。」何があったのか、あなたは前にもっていた初めの愛から離れた、わたしから離れてしまった、と語っています。
私は祈りについて、ずっと説教することができます。しかし、そうしても皆さんを変えることはできません。説教が、皆さんを祈りの勇士にすることはできません。主との親密さは、説教でできることではありません。イエス様と親密な関係を持つ唯一の方法は、祈りを通して、こう叫ぶことです。「愛する天のお父様、私に初めの愛を回復させてください。主よ、あなたとの初恋を回復させてください。」これは大きな代価が要求されるし、訓練が必要であることを悟らなければなりません。
二番目、私たちが祈らないもう一つの理由は間違った優先順位のためです。優先順位は、皆さんが決める大切さの表れです。多くの人々が祈らない理由は、祈りが実際に優先順位ではないからです。彼らの優先順位は家族です。私たちは祈りが自分の人生の中で最優先順位でなければ、決して祈ることはできません。
神様は今も言われます。「あなたが会いたいのだ。わたしを最優先に、一番最初に考えてほしい。あなたの家族、あなたの仕事、あなたのすべてのものの一番前に、わたしを考えてほしい。」優先順位が大切です。祈りを、生活の中で最優先順位として考えない限り、私たちは祈らないと思います。神様と単独で祈ることを、一番前に置きましょう。もし、そうしないのであれば、優先順位が間違っています。
皆さん、祈る時間がないのでしょうか?私はそれを絶対に信じません。皆さんは自分が優先順位として考えていることを最初にやっています。快くそのために時間を使います。友達から電話が来たら、喜んで時間を出します。他のすべてのためにも、時間を出します。だからこそ、祈る時間も出せると思います。
私は日本にやって来る前に韓国で一番大きな教会の中の一つの教会で奉仕をしました。その教会の主任牧師は韓国で一番有名で忙しい牧師の一人でした。彼はこう言ったのです。「ぼくは祈る時間がないんだ。」その教会は今まで私が経験した教会の中で、一番弱い教会でした。もう死んでいたかもしれません。いのちがなかったのです。
三番目、祈りなしに生きることを学んだから私たちは祈りません。祈る必要がない生き方、祈りなしに神様と歩む生き方に私たちは満足しています。ただ礼拝に参加することだけで満足しています。もちろん、みんなまじめです。しかし私は祈りなしに生きる方法を学んだクリスチャンたちに恐れを感じます。彼らは、こういうものをもっています。「私は道徳的に清い。私は誰にも傷を与えたことがない。だから主は私を喜ばれる。私は最善を尽くした。すべての人々を助けようとした。自分は罪から遠ざかっているし、これが自分のできる最善である。」と言っています。また「私は神を愛し、教会にちゃんと通っている。自分はもう大丈夫。」と彼らは言っています。それが自分に、神様が求められるすべてのことだと思い込んでいます。だから私は、今恐れています。
皆さん、神の御前に出て来る人々に、神はこう言われます。マタイ7:22,23「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」これが私の一番恐れていることです。
私はいつも主がこう言われるのを聞いています。詩篇69:8、「私は自分の兄弟からは、のけ者にされ、私の母の子らにはよそ者となりました。」祈らないクリスチャンたち、主の道に歩み、奥まった部屋で主と交わる時間がほとんどない人々、その時間がまったくない人々が、どうやって主が再び来られるとき、引き上げられることができるのでしょうか?いのちの書が開かれ、主と共に過ごした時間も、記録もまったくない人が、どうやって主の前に立つことができるのでしょうか?その人は主の前で、こう言うかもしれません。
「主よ、分かりました。しかし私が言い訳してもいいですか?私は主のための時間がありませんでした。もちろん、他のすべての時間、子どもたちや家族、仕事のための時間はありました。それを認めます。そして正直私はたくさんの時間、あなたと過ごせなかったことも認めます。しかし私には時間が足りなかったのです。それも私は祈る信者ではなかったし、、でも今、私は永遠に主と共に過ごす準備ができています。主ご自身を求める準備もできています。今まで私は、あまり主を知りませんでした。しかし、これからは永遠に主を知る時間があります。」
皆さん、この言い訳が通じるかどうか、私は分かりません。もちろん私たちは長い間、祈りなしに生きることもできます。しかし、祈らない人々は絶望に陥ったら、ますます自分の肉の思いに頼ってしまうのです。神の御腕ではなく、自分の手足に向かいます。そうしたら、あちこち問題が生じるのが私たちクリスチャンです。その時、自分の力でそれを止めようとしますが、もうできません。ますます悪化する一方です。これが祈らない信者の悪循環の人生です。
最後四番目、祈り自体が働くことを信じないから私たちは祈りません。
ある人から聞きました。「先生、私は祈りました。自分なりに努力もしたし、断食もしました。神様をちゃんと信じたのです。そして長い間、祈って来たのですが、何も起こりませんでした。」こういう風に失望してあきらめる人がいます。また「私のせいでそうなのか、信仰が足りないのか、はっきり分かりませんが、祈りは私の人生の中では働きません。」と言いました。しかし、自分の欲や快楽のために祈り求めるのであれば、神様はその祈りに答えられません。聖書は、はっきり語っています。ヤコブ4:3、「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」
皆さん、自分が願う何かを満足させるために祈っていますか?あるいは、自分の意図を主に服従させ、神のときを待ち、神の方法で祈っていますか?だいたい私たちは心の情欲を満足させるために、神様に命令しようとします。それは祈りではありません。だから、その祈りには答えがないのは当たり前です。しかし神様は今まで私の祈りにちゃんと答えてくださいました。多くの人々が祈りは効果がないのだと言っても、それは私にとって信じられないことです。そうしたら、彼らは私にとって、うそつきになります。神様は義人の祈りに必ず答えて下さいます。箴言15:29、「主は悪者から遠ざかり、正しい者の祈りを聞かれる。」主が語った、このみことばをちゃんと握りしめてください。
また、イエス様はこうおっしゃいました。マルコ11:24「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」実際に、私たちが信じるのであれば、必ず約束を待つはずです。答えを期待しながら、その約束を握りしめるのです。そして、どれほど長く信仰をもって待つべきかは大切ではありません。なぜなら、神様を信じるからです。もし長い間、祈って来たものが、自分の欲のため、あるいは自分の快楽のためではないのであれば、神は私たちの信仰を試す時があります。それは私たちの信仰が純金のようになることを願っておられるからです。そして、よりたくさんの祈りに答えられるためです。
だから自分だけでなく、家族や友人、教会と世の罪人たちのために、神はわざと祈りの答えを待たされるのです。神様は私たちが真のクリスチャンになることを切に願っておられます。だから時々答えを保留し、直ちに答えられません。信仰のテストの意味があります。つまり、「続けて信仰をもってわたしを信頼しなさい。わたしがあなたがたをちゃんと整えた後、必ず答える。あなたがたは純金のような信仰をもちなさい。人生のすべての上に真の信仰をもちなさい。そうすれば、わたしが直接働く。」と主はおっしゃいます。
皆さん、祈りの集まりは素晴らしいことです。しかし祈りの集まりが単なる自己満足の手段となってはなりません。祈りの集まり自体が祈る教会を意味するのではありません。たくさんの人々が集まって祈ったとしても、その一人ひとりが単独(奥まった部屋)で主と交わる親密な時間を持たない限り、そこで主の御顔を求め、自分の心を全部吐き出さない限り、その教会は祈る教会ではありません。しかし教会のすべての人が主の御前に出て来て、切に主を求め、最優先順位として主を求めるのであれば、その教会は主が認められる、祈る教会です。
だから、主の御名によって集められた人々が毎日祈り、主の御顔を求めるのであれば、私たちが集まるとき、神様の栄光が現れ、力強い神の働きが必ず起こされます。なぜでしょうか?本当に祈る教会だからです。私たちのTBICが、そういう教会になってほしいです。
祈り、
「愛する天のお父様、教会と私たち、私たちの家族が祝福されることを、主は切に願っておられます。しかし、私たちの心は世のもので汚染され、いっぱいになっています。哀れんでください。もし私たちが主の御顔を求めないのであれば、主からの祝福はありません。私たちはこの世の流れに流されたくありません。罪で溢れているこの世に巻き込まれたくもありません。私たちの目も汚染されたくありません。この罪の流れに流されないように。みんなが祈らなくても、私たちは祈り続けます。みんなが聖書を読まなくても、私たちは聖書を読み続けます。誰が何といっても、それをやり続けます。主よ、私たちはますますこの世代を失って行きます。子どもたちも失っています。教会の中でさえ、そうなっています。主よ、祈る声はどこにあるのでしょうか?祈る人はどこにいるのでしょうか?だからこそ、私たちは祈ります。主よ、どんな代価を払っても祈りを止めないように助けてください。」
「愛する天のお父様、私たちが今まで祈って来た祈りの生活より、もっと誠実に愛をもって祈ることができますように。主よ、この教会の一人の信者として、このみことばを受け取ります。私たちの心の奥底に与えられた、このみことばを受け取ります。私たちひとり一人が本当に変えられますように。主を愛することを最優先順位として、一番大切に思うように助けてください。主と共に過ごす親密な時間を毎日送り、それを最優先順位として、とって行けますように。そして多くの人々が一緒にいる所でも、端っこのどこかを選んだそこでも、主と交わる親密な時間を持たせてください。その時きっと、道が開かれることを信じます。主よ、今まで私たちはこれを無視し、祈りませんでした。主の御顔を求めませんでした。悔い改めます。」
なぜ、少人数のクリスチャンだけが毎日祈る生活をしているのでしょうか?祈りがすべての約束だけでなく、すべての答えであることを私たちは知っています。それにもかかわらず、私たちは祈りません。聖書は私たちが祈りを無視することについて警告しています。
皆さん、祈りについて、どのぐらい考えていますか?毎日祈りをもって、主と共に過ごす時間はありますでしょうか?
皆さんが主と共に時間を過ごすことを、つまり主の御声を聞き、主を知ることについて学ばなければ、祈りは絶対に無理です。だから、信仰によって祈ることを学び、実際に祈らなければなりません。多分、神様は祈らない私たちを見て、本当に悲しみ、深い傷を受けられていると思います。それはイスラエルの民のように、主と共に過ごす時間があまりにも少ないからです。今日の本文、エレミヤ書2:32のように「おとめが自分の飾り物を忘れ、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。それなのに、わたしの民がわたしを忘れた日数は数えきれない。」
今日はクリスチャンが祈らない理由について、四つ位を分かち合いたいと思います。この問題は何よりも私を深く傷つけ、苦しめる問題でもあります。
私たちはすでに真理を知り、心の深い所から信じています。それは何ですか?イエス・キリストの十字架の死によって、私たちが神の御座に大胆に行ける道が開かれたということです。まさに、それは全宇宙、天地万物を創られた真の神に行ける道なのです。
イエス様はおっしゃいます。「わたしの血潮によって、あなたがたは父なる神に直接行けるようになった」と、「あなたがたのすべての必要、すべての問題、すべての病と他のすべてのために道が開かれた。わたしに来なさい。」へブル4:16「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
天の父なる神様と私たちの間に入り込んで、妨げるものは何もありません。私たちが罪を悔い改め、イエス・キリストを本気で信じるのであれば、主の臨在の中に直接行けます。その方の臨在の中で喜びを味わい、祈りの課題を申し上げながら、主を礼拝し、賛美することができるのです。尊い神の至聖所に入れる全ての権利が、信じる者に与えられたということです。
今、この世を見ますと、難しい時代、苦難な時代がやって来て、主の再臨の日が、私たちの近くにいることに気づきます。主はおっしゃいます。「主の日が近づいた。今すぐわたしの顔を求めなければならない。わたしと奥まった部屋で共に交わり、共に過ごす時間がもう来ている。」皆さん、主と共に交わる祈りの恵みをいただかないと、私たちは聖霊様を悩ませる人生となります。それは神様の尊い恵みを侮辱することにつながるのです。
しかしなぜ、祈ることがこんなに難しいのでしょうか?これは、他人の話ではありません。私の話です。今、自分に言っているのです。
まず一番目、多くのクリスチャンが祈らない理由はイエス様に対する愛が冷めているからです。なまぬるい信仰をもっているから祈らないのだということです。祈らない人は少しの代価だけを払える愛、つまり大きな代価を払えるような愛はありません。しかし主はおっしゃいます。「わたしはあなたに会いたいのだ。あなたはわたしのために働いているし、わたしについて語っている。そして、すべての人々にわたしの愛を言っている。しかし、あなたはわたしを求めないし、会わないのだ。」
主に対する愛が、もし冷たいのであれば、私たちは祈りません。主は死んだクリスチャンが祈ることを期待しません。祈りは彼らの本性ではないからです。もし皆さんがイエス様を愛すると言っているのであれば、主と共に過ごす時間なしに、どこで、どうやって愛することができるのでしょうか?もし教会の中で大きな声で賛美すると言っても、それは関係ありません。町の隅々で主を語り、主を証しても、主と共に過ごす時間なしには、主を愛することではありません。私たちは決して普通の集まりの中で、主と親密な時間を持つことはできません。もちろん、集まりは良いことです。私たちがこういう風に集まって礼拝し、賛美することは神様に喜ばれることです。しかし、これは教会のプログラムの一つです。つまり主と共に過ごす時間、奥まった部屋での祈りの時間なしには、主を愛する方法がないんだということです。もちろん、皆さんはいつも主を愛しています。しかし、その愛を表すためには、主と共に過ごす時間、奥まった部屋での交わりが絶対に必要です。救われた私たちはイエス・キリストと結婚したと聖書は記しています。私たちはもう主の配偶者なのです。夫と妻は、二人だけの時間を持たなければなりません。もし二人だけの親密な時間がなければ、それは結婚生活ではありません。主と共に過ごす時間、その親密さがまさに祈りです。イエス様にとって、皆さんはすべてなのです。皆さん一人ひとり以外には、イエス様にとって誰もいません。イエス様は皆さん一人ひとりが大好きだし、全部なのです。
しかし私たちが祈らない理由は何ですか?もうこれ以上、イエス様と愛の関係ではないからです。聖書は語ります。黙示録2:4「あなたは初めの愛から離れてしまった。」何があったのか、あなたは前にもっていた初めの愛から離れた、わたしから離れてしまった、と語っています。
私は祈りについて、ずっと説教することができます。しかし、そうしても皆さんを変えることはできません。説教が、皆さんを祈りの勇士にすることはできません。主との親密さは、説教でできることではありません。イエス様と親密な関係を持つ唯一の方法は、祈りを通して、こう叫ぶことです。「愛する天のお父様、私に初めの愛を回復させてください。主よ、あなたとの初恋を回復させてください。」これは大きな代価が要求されるし、訓練が必要であることを悟らなければなりません。
二番目、私たちが祈らないもう一つの理由は間違った優先順位のためです。優先順位は、皆さんが決める大切さの表れです。多くの人々が祈らない理由は、祈りが実際に優先順位ではないからです。彼らの優先順位は家族です。私たちは祈りが自分の人生の中で最優先順位でなければ、決して祈ることはできません。
神様は今も言われます。「あなたが会いたいのだ。わたしを最優先に、一番最初に考えてほしい。あなたの家族、あなたの仕事、あなたのすべてのものの一番前に、わたしを考えてほしい。」優先順位が大切です。祈りを、生活の中で最優先順位として考えない限り、私たちは祈らないと思います。神様と単独で祈ることを、一番前に置きましょう。もし、そうしないのであれば、優先順位が間違っています。
皆さん、祈る時間がないのでしょうか?私はそれを絶対に信じません。皆さんは自分が優先順位として考えていることを最初にやっています。快くそのために時間を使います。友達から電話が来たら、喜んで時間を出します。他のすべてのためにも、時間を出します。だからこそ、祈る時間も出せると思います。
私は日本にやって来る前に韓国で一番大きな教会の中の一つの教会で奉仕をしました。その教会の主任牧師は韓国で一番有名で忙しい牧師の一人でした。彼はこう言ったのです。「ぼくは祈る時間がないんだ。」その教会は今まで私が経験した教会の中で、一番弱い教会でした。もう死んでいたかもしれません。いのちがなかったのです。
三番目、祈りなしに生きることを学んだから私たちは祈りません。祈る必要がない生き方、祈りなしに神様と歩む生き方に私たちは満足しています。ただ礼拝に参加することだけで満足しています。もちろん、みんなまじめです。しかし私は祈りなしに生きる方法を学んだクリスチャンたちに恐れを感じます。彼らは、こういうものをもっています。「私は道徳的に清い。私は誰にも傷を与えたことがない。だから主は私を喜ばれる。私は最善を尽くした。すべての人々を助けようとした。自分は罪から遠ざかっているし、これが自分のできる最善である。」と言っています。また「私は神を愛し、教会にちゃんと通っている。自分はもう大丈夫。」と彼らは言っています。それが自分に、神様が求められるすべてのことだと思い込んでいます。だから私は、今恐れています。
皆さん、神の御前に出て来る人々に、神はこう言われます。マタイ7:22,23「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」これが私の一番恐れていることです。
私はいつも主がこう言われるのを聞いています。詩篇69:8、「私は自分の兄弟からは、のけ者にされ、私の母の子らにはよそ者となりました。」祈らないクリスチャンたち、主の道に歩み、奥まった部屋で主と交わる時間がほとんどない人々、その時間がまったくない人々が、どうやって主が再び来られるとき、引き上げられることができるのでしょうか?いのちの書が開かれ、主と共に過ごした時間も、記録もまったくない人が、どうやって主の前に立つことができるのでしょうか?その人は主の前で、こう言うかもしれません。
「主よ、分かりました。しかし私が言い訳してもいいですか?私は主のための時間がありませんでした。もちろん、他のすべての時間、子どもたちや家族、仕事のための時間はありました。それを認めます。そして正直私はたくさんの時間、あなたと過ごせなかったことも認めます。しかし私には時間が足りなかったのです。それも私は祈る信者ではなかったし、、でも今、私は永遠に主と共に過ごす準備ができています。主ご自身を求める準備もできています。今まで私は、あまり主を知りませんでした。しかし、これからは永遠に主を知る時間があります。」
皆さん、この言い訳が通じるかどうか、私は分かりません。もちろん私たちは長い間、祈りなしに生きることもできます。しかし、祈らない人々は絶望に陥ったら、ますます自分の肉の思いに頼ってしまうのです。神の御腕ではなく、自分の手足に向かいます。そうしたら、あちこち問題が生じるのが私たちクリスチャンです。その時、自分の力でそれを止めようとしますが、もうできません。ますます悪化する一方です。これが祈らない信者の悪循環の人生です。
最後四番目、祈り自体が働くことを信じないから私たちは祈りません。
ある人から聞きました。「先生、私は祈りました。自分なりに努力もしたし、断食もしました。神様をちゃんと信じたのです。そして長い間、祈って来たのですが、何も起こりませんでした。」こういう風に失望してあきらめる人がいます。また「私のせいでそうなのか、信仰が足りないのか、はっきり分かりませんが、祈りは私の人生の中では働きません。」と言いました。しかし、自分の欲や快楽のために祈り求めるのであれば、神様はその祈りに答えられません。聖書は、はっきり語っています。ヤコブ4:3、「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」
皆さん、自分が願う何かを満足させるために祈っていますか?あるいは、自分の意図を主に服従させ、神のときを待ち、神の方法で祈っていますか?だいたい私たちは心の情欲を満足させるために、神様に命令しようとします。それは祈りではありません。だから、その祈りには答えがないのは当たり前です。しかし神様は今まで私の祈りにちゃんと答えてくださいました。多くの人々が祈りは効果がないのだと言っても、それは私にとって信じられないことです。そうしたら、彼らは私にとって、うそつきになります。神様は義人の祈りに必ず答えて下さいます。箴言15:29、「主は悪者から遠ざかり、正しい者の祈りを聞かれる。」主が語った、このみことばをちゃんと握りしめてください。
また、イエス様はこうおっしゃいました。マルコ11:24「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」実際に、私たちが信じるのであれば、必ず約束を待つはずです。答えを期待しながら、その約束を握りしめるのです。そして、どれほど長く信仰をもって待つべきかは大切ではありません。なぜなら、神様を信じるからです。もし長い間、祈って来たものが、自分の欲のため、あるいは自分の快楽のためではないのであれば、神は私たちの信仰を試す時があります。それは私たちの信仰が純金のようになることを願っておられるからです。そして、よりたくさんの祈りに答えられるためです。
だから自分だけでなく、家族や友人、教会と世の罪人たちのために、神はわざと祈りの答えを待たされるのです。神様は私たちが真のクリスチャンになることを切に願っておられます。だから時々答えを保留し、直ちに答えられません。信仰のテストの意味があります。つまり、「続けて信仰をもってわたしを信頼しなさい。わたしがあなたがたをちゃんと整えた後、必ず答える。あなたがたは純金のような信仰をもちなさい。人生のすべての上に真の信仰をもちなさい。そうすれば、わたしが直接働く。」と主はおっしゃいます。
皆さん、祈りの集まりは素晴らしいことです。しかし祈りの集まりが単なる自己満足の手段となってはなりません。祈りの集まり自体が祈る教会を意味するのではありません。たくさんの人々が集まって祈ったとしても、その一人ひとりが単独(奥まった部屋)で主と交わる親密な時間を持たない限り、そこで主の御顔を求め、自分の心を全部吐き出さない限り、その教会は祈る教会ではありません。しかし教会のすべての人が主の御前に出て来て、切に主を求め、最優先順位として主を求めるのであれば、その教会は主が認められる、祈る教会です。
だから、主の御名によって集められた人々が毎日祈り、主の御顔を求めるのであれば、私たちが集まるとき、神様の栄光が現れ、力強い神の働きが必ず起こされます。なぜでしょうか?本当に祈る教会だからです。私たちのTBICが、そういう教会になってほしいです。
祈り、
「愛する天のお父様、教会と私たち、私たちの家族が祝福されることを、主は切に願っておられます。しかし、私たちの心は世のもので汚染され、いっぱいになっています。哀れんでください。もし私たちが主の御顔を求めないのであれば、主からの祝福はありません。私たちはこの世の流れに流されたくありません。罪で溢れているこの世に巻き込まれたくもありません。私たちの目も汚染されたくありません。この罪の流れに流されないように。みんなが祈らなくても、私たちは祈り続けます。みんなが聖書を読まなくても、私たちは聖書を読み続けます。誰が何といっても、それをやり続けます。主よ、私たちはますますこの世代を失って行きます。子どもたちも失っています。教会の中でさえ、そうなっています。主よ、祈る声はどこにあるのでしょうか?祈る人はどこにいるのでしょうか?だからこそ、私たちは祈ります。主よ、どんな代価を払っても祈りを止めないように助けてください。」
「愛する天のお父様、私たちが今まで祈って来た祈りの生活より、もっと誠実に愛をもって祈ることができますように。主よ、この教会の一人の信者として、このみことばを受け取ります。私たちの心の奥底に与えられた、このみことばを受け取ります。私たちひとり一人が本当に変えられますように。主を愛することを最優先順位として、一番大切に思うように助けてください。主と共に過ごす親密な時間を毎日送り、それを最優先順位として、とって行けますように。そして多くの人々が一緒にいる所でも、端っこのどこかを選んだそこでも、主と交わる親密な時間を持たせてください。その時きっと、道が開かれることを信じます。主よ、今まで私たちはこれを無視し、祈りませんでした。主の御顔を求めませんでした。悔い改めます。」
合計 178
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New マタイの福音書22:35-40(イエス様の誕生、十字架の愛)
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New ルカの福音書6:20-21(貧しい人々のクリスマス)
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2024.12.08
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マタイの福音書6:20-24(自分のために、天に宝をたくわえなさい)
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ルカの福音書10:25-28(あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ)
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