メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

アモス書5:22-24 (騒がしい世の中を見なさい)

投稿者
tbic
投稿日
2022-07-24 21:59
閲覧数
507
アモス書5:22-24「たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。」

今、世の中はとても騒がしいです。新型コロナウイルスを始め、世界各地で戦争やデモが行われています。それぞれ今まで溜まっていた怒りやうっぷん、心配、無力感など様々な感情が一気に表面化されています。

同じ人間同士ですが、人間の考えは両極端です。 右翼と左翼、悪魔と天使、保守派とリベラル派、自由貿易と保護貿易など両極端を時計の振り子のように行ったり来たりしています。 そして、互いに激しくぶつかり合っています。 みんな自分の考えが正しいと思って、反対の意見に対しては激しく反発し、怒りをぶつけています。 これは今に始まったことではなく、昔からあることです。

それによって内戦が起こったり、戦争が起こったりします。 こうなると、人々は戦いながらも、すごく不安を感じます。 社会が不安定になり、秩序が壊れることは、人々にとって、とても怖いことです。 それを狙って悪を働く者や自分の欲望を満たそうとする者が必ず出て来るからです。

皆さん、わたしたちクリスチャンは、これらの状態をどのように見るべきでしょうか?クリスチャンは肉の思いと、肉の目だけで物事を判断してはいけません。もし、そうすると、真の神様の計画と、みこころを見ることが出来なくなります。私たちが肉の思いに流されることを一番期待し喜ぶのはサタンです。神様は、どんな状況の中でも私たちが「神の目」で見ることを期待しておられます。世の中がどんなに両極端に分かれていても、神様は右にも左にもそれることなく、真理の道を歩まれます。それが人間とはまったく違います。 人間は都合によって、感情によって、また他人の意見や惑わしによって、いつでも手のひらを返すように、心を変える、信頼出来ない存在です。

だから、人間がまともに生きようとするならば、 主を恐れ、主のことばに従って歩むことです。これ以外に道はありません。 歴史の審判者は、「神様」 であって、人間ではありません。みんなが、まるで裁判官のように裁き合っていますが、それが正しいかどうかの判断は誰がしますか?そこでも判断が分かれていきます。このような人間の姿を見て、神様が語るメッセージは何でしょうか?

今日の本文、アモス書5章24節、「公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。

皆さん、公義と正義は神のことばです。 真理を行えば、右にも左にもそれることなく、まっすぐに歩くことが出来ます。 まっすぐの道こそが、公義であり、正義です。

アモス書5章14-15節、「善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう。 悪を憎み、善を愛し、門で正しいさばきをせよ。もしや、ヨセフの残りの者をあわれまれるかもしれない。

人間は善人に見え、善を愛するように見えても、心の中を覗いてみると、神が語った次のような姿です。

創世記6章5節、「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」 エレミヤ書17章9-10節、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれの生き方により、行いの結ぶ実によって報いる。

みなさんはこの言葉に反論できますか?私の心には悪がないとか、そんなに悪くはない、と言う人がいるかもしれません。 しかし、私は反論できません。なぜなら、神が言われる通りの者だからです。 自分の中にいつも悪い思いがあることを知っています。環境が悪いとか、人が悪いとか言う前に、自分自身が腐敗していることに、まず気づかないといけません。そこで必要なのが、真理の道を歩まず脇道にそれて生きている自分の生き方を、まず悔い改めることです。曲がった道にいながら、いくら正義と公義を叫んでも、それはむなしい言葉であり、それ自体が悪です。

自分の思い、主張、生き方が神の言葉に沿っているかどうかを、まず調べるのが先だと思います。そして、自分が真理の中にいるならば、主張してもかまいません。また、公義と正義を行う生き方をするためには、次の御言葉から学ぶ必要があります。イエス様に対する預言の御言葉ですが、そこに私たちが学ぶべき姿があります。イザヤ書11章1-5節、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。 この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。 正義はその腰の帯となり、真実は胴の帯となる。

公義と真実を帯として身に着けて初めて、その力を発揮することが出来ます。 そういうものを持たない者が騒ぎ出すと、国々は滅びていきます。 特に政治家たちは、これを備えていないといけません。すべての権力は、神がそれを使って国と国民のために使うように与えているのに、それを自分の利益、また特定の人々の利益のために使うことは、とんでもないことです。 だから、その人たちも、そういう利益を捨てて主を恐れ、主のことばに従う時に、主の助けと恵みを受けるようになります。そして、一般市民に必要なものは、次の御言葉です。ローマ12章16節、「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ、知者だなどと思ってはいけません。」 このように主のことばに立ち返り、自分がいま何をすべきかをわきまえて行っていくならば、平和の主が共にいて下さいます。

皆さん、闇の力はどんどん人々の心に憎しみ、怒り、敵対心を入れて争うように仕向けますが、それに惑わされて悪の流れに流されてはいけません。ソドムとゴモラの町は、正しい者10人がいなかったために、主の裁きを受けて滅ぼされました。罪から立ち返り、公義と正義、真実の心をもって行い、世界のために、人々のために祈る人が主の目には正しい者に映ります。 こういう姿に、私たちがなることを、主は願っておられます。非難し傷つけ合うと 、ますます悪に陥るだけです。 このような時代を、主のことばの知恵によって、乗り越えていきたいと思います。そして聖書には、更に根本的なメッセージがあります。ヨハネの福音書の3:36節には、こんなことが記されています。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」イエス・キリストという神様は素晴らしい方で、信じたら、どんな罪でも赦されます。しかし、この御言葉にあるように、悔い改めなければ、神の怒りが留まるというのです。

聖書を見ると、こんなストーリーも記されています。姦淫をした女が捕えられて、人々は「この女は姦淫したから、石で打ち殺すべきだ」と言いました。しかし、イエス様は黙って何もおっしゃいませんでした。「どうしようか」と人々が騒ぐ中、イエス様は、静かに顔を上げて言いました。「あなた方の中で、罪のない者がまず最初に石を投げなさい」と。すると、一人去り、二人去り、その女性とイエス様の二人になった時、イエス様がこの女性に「あなたを罪に定める者はなかったのか」と聞かれました。すると、女性は「はい、誰もいません。」と答えました。そして、イエス様が次に言われたのは「私もあなたを罪に定めません」そして「二度と罪を犯してはいけません」と言われました。ここからも分かるように、許されるからといって「何度やってもいい」のではないのです。

また、38年間、病気で苦しんだ人をイエス様が癒された事が聖書に書かれていますが、癒された後にイエス様は、「二度と罪を犯してはいけません、もっと悪い事が起きますから」と言いました。神様は愛ですが、私たちは思い違いをしてはいけません。何をしてもかまわないというわけではないのです。神様は愛に溢れた方ですが、悔い改めなければ裁きがあります。だから、私たちは悔い改めなければいけません。罪を悔い改めて、いつでも神の前に出れるよう、準備しなければなりません。

ダニエル書5章の中に、こんなストーリーがあります。今から1500年くらい前、バビロニア帝国に、有名なネブカドネツァル王という王様がいましたが、その次の代はベルシャツァル王でした。彼が王様として即位したある時のことです。千人の人を招き大宴会をしました。夕方にロウソクをつけて、奥さんや、めかけたちを呼び、金の杯を持って飲んで歌って、どんちゃん騒ぎをしていると、突然、彼の目の前の壁に一本の指が現れて、壁に文字を書いたんです。べルシャツァル王はそれを見て怖くなり、腰がぬけて、がたがた震え「誰か、この字を読んだ者には、第三の権力を与える」という約束を出しました。

占い師をはじめ、色んな人を呼び、解き明かしをさせようとしましたが、誰一人解き明かすことが出来ませんでした。王が困っていると、ネブカドネツァル時代にいた人が来て、「王様、心配しなくてよいですよ。この国にはダニエルという神を信じている人がいます。この方に解き明かしてもらってください。」と、提案しました。それでダニエルが来て、解き明かしをしました。「王様、あなたはネブカドネツァルの子供で、神様を知っているはずです。でも、あなたの命を握っている神様を恐れないで、偶像を拝んで、こんな酒盛りをしているから、神様があなたにしようとしておられる事を、あのような形で表したんです。」とダニエルは言いました。

そして、その壁に書かれた文字の意味を説明しました。そこには「メネ、メネ、テケル・ウ・パルシン」(5:25)と書いてあり、「メネ」とは「神があなたの治世を数えて終わらせた」、「テケル」とは「あなたがはかりで量られ、目方の足りない事がわかった」、また「パルシン」とは、「あなたの国が分割され、メディアとペルシャに与えられる」という事でした。この解き明かしの末、べルシャツァル王はダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖を彼の首にかけさせ、彼はこの国の第三の権力者であると布告しました。そしてその夜、カルデヤ人の王ベルシャツァルは殺されたと記されています。(ダニエル書5:25-30)

このバビロン帝国があったのは、現在のイラクです。その国には、ユーフラテスがあります。バビロンはとても大きな街でした。24キロの城壁で囲まれ、その幅は27メートル、高さは99メートルあったと言います。難攻不落の街とされ、世界で一番大きな国でしたが、その王様がどんちゃん騒ぎをしていたのです。ちょうどその時、カルデヤ人達がユーフラテス川の下にトンネルを掘っていました。そして王様がダニエルに「第三の権力をあげる」と言ったその晩、カルデヤ人が入ってきて王は殺され、ダリヨスが王様になったと、記されています。(ダニエル書5:31)

皆さん、私達の人生も何が起こるか、分かりません。罪のまま死んだら裁かれます。そして罪が数えられ「あなたはもう終わりだ、あなたははかりにかけられたが目方が足りない」と言われてしまいます。私達は教会に来ていますが、「何をしてもかまわない」というわけではありません。聖書は「罪を悔い改めて、神様のもとに立ち返りなさい。」と語っています。聖書には、モーセの十戒というものがありますが、その中には掟が書かれています。それはひとつの計りですが、何と書いてあるでしょうか? まず「わたし以外に神はいない。」というのが、第一の戒めです。そして、「わたしの他に神があってはならない。」次に、「偶像を作ってはいけない、拝んでもいけない、仕えてもいけない。」と書いてあります。

私は名古屋で会ったある宣教師から聞いた話を、今でも忘れる事ができません。彼の教会に一人の60歳くらいの女性が来たそうです。そして彼女はいつも「私は罪から救われて本当に嬉しいです。」と語っているんだそうです。彼女の犯した罪とは、幼稚園くらいの小さい頃の話でした。お隣のおじさんが梨の木を育てていたそうです。その木を植えてから、初めての実が実りました。大きくなっていく梨を見て、彼女はそれがほしいと思ったんです。そしてある時、とうとうその誘惑に負けて、その見事に実った、たった一つの梨を取ってしまったんです。しかし、取った後、怖くなり、梨を草むらに捨てて、逃げて帰ったというのです。しばらくして、おじさんは、梨が盗まれたのを知って、「誰だ、梨を盗んだのは…」と泣いたんです。その記憶が、小さい頃から忘れる事ができず、その女性は、小学生になっても中学生になっても、大人になって結婚しても「私は梨を盗んだ」と罪の意識を抱え、生きていたというのです。しかしある時、教会に行きました。そして「イエス様が私の罪のために十字架にかかって死んでくれ、イエス様ご自身が、罪の身代わりとなって死んでよみがえって下さった。信じたら、どんな罪でも赦される」という、聖書の話を聞いたんです。そこで彼女は、「信じます。イエス様、梨を盗んだ事を赦して下さい。」と祈りました。そして、許され、勇気をもらい、おじさんの所に行き、「私は、小さい頃に、梨を盗みました。ごめんなさい。」と謝りました。すると、おじさんは、赦してくれました。彼女は「それ以来、本当に嬉しいです。」と言うんだそうです。私はそれを聞いて感動しました。

そして帰りに、その宣教師に、「先生、今日の話はすごくよかったですね」と言うと、その宣教師は返事をしませんでした。「何だ、この宣教師…」そう思うと、彼はこう言いました。「先生、梨を盗む事は、もちろん悪いことですし、罪です。だけど、日本の多くの人々は、大きな罪を小さくして悔い改めて、小さな罪を大きくして悔い改めているように思います。梨一つ盗むことは悪いことですが、本当はそんなに大きな事ではありません。それを大きな罪にして悔い改めていますが、しかし一番大きな罪は何だと思いますか?天と地を造られた神様を信じない事です。偶像礼拝することが一番の罪です。なぜ、人々はその大きな罪を悔い改めようとしないんでしょうか」と。それを聞いた時、私は本当にその通りだなと思いました。

皆さん、更に聖書の中には色んな掟が書かれています。「殺してはならない、親孝行をしなさい、姦淫してはいけない、盗んではいけない、むさぼってはいけない、等々、、」色々あります。だから、私達は今日、神の前に、へりくだって「神様、私は罪人です。」と告白し祈りましょう。そして今日、改めて本気で、イエス様を信じ、罪を悔い改めましょう。どんな罪でも、悔い改めたら赦されます。ある方はこう言います。「クリスチャンになったら仏壇を捨てなければいけないし、付き合いも自由にできなくなるからクリスチャンになれません」と。しかし皆さん、クリスチャンになったから束縛されたのではなく、むしろ偶像礼拝から解放されたことになります。本当の自由が与えられたということです。

人間として、偶像礼拝している事は、最大の罪であり、惨めな罪の奴隷の人生です。そして、それを悔い改めなければ、滅びがきます。今日は、しっかり悔い改めましょう。清さの中に、愛があります。悔い改める時に、赦しがあります。悔い改めた時には、必ず祝福があります。私たちが皆、イエス様によって罪が赦され、天国に行ける人になることを心からお祈り申し上げます。共にお祈りしましょう。
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