メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
エレミヤ書 1:1-8(私たちには重要な使命がある)
投稿者
tbic
投稿日
2023-07-23 23:02
閲覧数
503
エレミヤ書 1:1-8『ベニヤミンの地アナトテにいた祭司のひとり、ヒルキヤの子エレミヤのことば。「アモンの子、ユダの王ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、エレミヤに主のことばがあった。それはさらに、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代にもあり、ヨシヤの子、ユダの王ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月、エルサレムの民の捕囚の時まであった。次のような主のことばが私にあった。「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。―主の御告げ。―」』
皆さん、おはようございます。今日も、この場所で礼拝を捧げる事ができる恵みを心から感謝します。この季節は大変暑くて日本では休みの時期だと思いますが、この時こそTBICは喜びも共にし、悲しみも分け合い、共に助け合いながら、祈りあう時となりたいと思います。
今日、皆さんと一緒に学んでいきたいテーマは、「私たちには重要な使命がある」という事です。聖書の言葉は、ただ単に、歴史的記録や、ある一部の人だけに語られたのではなく、現代に生きる私たちへの適用があるから素晴らしいわけです。
この箇所はエレミヤという、イエス・キリストが誕生する600年前の預言者に対して語られた言葉ではありますが、それは主を信じる者たち全員に語られた言葉です。聖書を読む時に、歴史的理解と共に、もう一方では、聖書の中に自分をおいて理解することが大切だと思います。今日の本文、エレミヤ書1章4節からもう一度読みます。『次のような主のことばが私にあった。 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」 すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。―主の御告げ。―」』
時には、「私は間違って生まれてきた」とか言いますが、そうではないことがわかります。聖書を読むと、大きな励ましを受けます。それは私たちが偶然に生まれたのではなく、間違って生まれたわけでもなく、神のご計画の中で大きな「使命」と共に生まれた事に気づくからです。
皆さん、誰一人として無駄に命を受けた者はいないのです。エレミヤに語られた言葉は、彼だけに語られたのではなく、私たちにも語られている言葉です。5節に、「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」何と、「胎内に形作られる前から、あなたを知り、お母さんの腹から出る前から、あなたに使命を与えていた」と語られたのです。この事を知ると、人生に希望が湧いてきます。胎内に宿る前から、神に知られていたというのです。皆さんも私も、母の胎内に宿る前から、すでにこの地上に生まれる事が決定づけられていたのです。決して偶然ではありません。「人が生まれる」とは、父親と母親がいて偶然のように思うのですが、神の世界には偶然は何一つありません。全てが神の定めの中にあるのです。どんな背景で生まれたとしても、例え良くない環境で生まれたとしても、それを悲観する必要はありません。命を与えるのは神の仕事です。命を与え、命を引き取るのは神様にしか出来ません。だからどのように生まれたとしても、それは関係ないのです。命を与えたのは神様ですから、無駄に私たちを作ってはいないはずです。「あなたには重要な使命があるんですよ。」と語られます。
今日、皆さん一人一人に、もれなく重要な使命が課せられています。実は、エレミヤという人物が生まれた背景に、一つの出来事が関わっていました。彼の時代は何という王様が支配していたかというと、今日の本文、1章2節を見ると、「アモンの子、ユダの王ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、エレミヤに主のことばがあった。」と記されています。
イスラエルは南北に分断した歴史があり、北イスラエルと南ユダに分かれました。両国に色々な王様が出ましたが、その中でヨシヤは神に喜ばれた素晴らしい南ユダの王でした。彼により国が改革されました。実に、このヨシヤ王も、神からの使命を受けていた人でした。一人一人に与えられた使命を果たすと、更に大きな神のみ業につながっていくという原則を聖書の中から発見できます。
エレミヤに主の言葉があったその背景に、ユダの王ヨシヤが関わっていました。この人物がどのような人生を送ったのか、歴代史第二34章1節から読むとわかります。「ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった。」ヨシヤは、八歳で王になったと記されています。そんな子供に何が出来るのかと思いますが、彼の時代は三一年間も続いたのです。特に、この2節の言葉は大変素晴らしいです。なぜなら、この短い言葉の中に彼の人生のすべてが表わされているからです。「彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった。」
皆さん、やがては私たちもこの地上から出ていかなければなりません。去った時、その人がどのように評価されるかは、とても重要です。私もあと何年、何十年かしたら、この世を去るでしょう。だんだんと年をとって、徐々に衰えているな、この延長線でいくと、あのあたりで着陸かなと思います。私が一生を終えた時、主からどのように評価されるのか楽しみです。
このヨシヤはどのような評価だったかというと、「彼は主の目にかなうことを行って、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった」と評価されています。皆さん、人生は一度しかありません。ヨシヤと同じような人生を歩みたいものです。「彼は主の目にかなう事を行って、イエス・キリストの道に歩み、右にも左にもそれなかった」と評価されたら成功です。「田は主の目にかなうことをたまには行っていたが、時々、右と左に大きくそれた」と記されたら、まずいわけです。ヨシヤの人生は、この一行を読んだだけで、すべてがわかります。
最近は当たり前のように、車にカーナビがついています。それは便利なもので目的地さえ設定しておけば、カーナビの言うとおりに運転すれば、放っておいても目的地にたどり着くわけです。私も車にカーナビがついていて、カーナビを見ると、なかなか道を覚えなくなりますが、便利です。推奨ルートが提示され、効率よく目的地に行けるわけです。時々道を間違えて、変な方向に行くことがあっても、必ず元の道に戻されます。神様は私たちにゴールを備えておられます。一人一人に対する目的も備えられているのですが、時々私たちは神の定められた道から外れてしまう事があります。右や左にそれてしまいます。しかし神の霊である聖霊様は私たちをもとの道に戻すわけです。教会に来る時は悲しい事や苦しい事、問題が起きてから来るのが多いのですが、問題が起きるとは「元の道に戻そう」とする神の働きかけだと思います。色々な事を通して、神の道に立ち返るのです。神の御心を求めなければならない事に気づき、神の道に立ち返っていくわけです。問題を体験したくなければ、ヨシヤのように、常に神が定めた道の真ん中を歩けばいいのです。右や左にそれると、聖霊様は人生の道路に再検索をかけ、もう一度もとの道に戻されるのです。道を曲げられる時、痛みがあるわけです。だから、決して道を曲げられないように、まっすぐに歩んでいくことが必要です。
ヨシヤは右にも左にもそれず、人生を歩むことができたわけです。そして歴代誌第二の34章3節に、「彼の治世の第八年に、彼はまだ若かったが、その先祖ダビデの神に求め始め、第十二年に、ユダとエルサレムをきよめ始めて、高き所、アシェラ像、刻んだ像、および、鋳物の像を除いた。人々は彼の面前で、バアルの祭壇を取りこわした。彼は、その上にあった香の台を切り倒し、アシェラ像と刻んだ像と鋳物の像を打ちこわし、粉々に砕いて、これらのいけにえをささげた者たちの墓の上にまき散らした。」とあります。
イスラエルの歴史を見ますと、国が栄えた時代と問題があった時代とを交互に見る事が出来ます。問題があったのが、どのような時代かというと、実は国が偶像礼拝に傾いた時、必ず問題が生じました。しかし偶像礼拝から離れた時代は国に神の恵みが溢れたのです。偶像礼拝は本当に恐ろしいものです。
日本には偶像が溢れており、特に夏には各地で色々な偶像の祭りがあり、多くの人が祭りへ参加するために車を走らせます。皆さん、「偶像は手で作った物体」ですから、あんなものが神だとは普通は考えられません。石や木や金属で作った物体が、「自分の助けになる」など普通では考えられないことです。しかし日本ではこの偶像礼拝が二千年以上続けられているわけです。どうしてかというと、自分の助けにはならない事などは承知していますが、「拝むと、何らかの霊感を感じる」わけです。人間以上の崇高な霊が来たような感覚を覚えるのです。日本人を含め、東洋人は霊的な体験をする人が多いです。科学にも学問にもなりませんが、仏壇や石の地蔵や手で作ったものを拝むと、何らかの「感覚」を覚えるのです。それで「神様がここに来ているのでは。助けてくれるかもしれない。」と期待して拝むのです。何も感覚がなければ、拝む人はいなくなるはずです。しかしそこで感じる感覚は本物の神を感じているのではなく、神のふりをし、先祖のふりをし、実は人間を苦しめようとする、悪魔、悪霊を感じているのです。その結果、何が起こるかというと、目に見えない世界で扉が開いて、悪の力が人生に侵入するわけです。それで問題が生じるのです。
皆さん、日本はパラダイスと言われるほど、景色が美しい所がいっぱいですが、そこに住んでいる方々と話をすると、そこは「パラダイス」ではなく、むしろ「地獄ではないか」と思えるくらい問題を抱えた人々が多いのに驚かされます。人生に傷つき苦しみ、東京から逃げ出すようにして、そこに移り住んだ人々が多いのです。そのような方々とお話しさせて頂くと、「大変な人生だ。本当にお気の毒だ。」と言うしかないほど、悲惨な人生を送っている人たちが多くいます。それも、ちょっとした瞬間に人生の方向が悪く変わったのです。しかしそれは偶然ではなく、悪魔の綿密なプランがすでに組み込まれていて、まるで押し出されるかのように、不幸な出会いが重なるのです。
あるご婦人から聞いた話ですが、ご主人から「DV」、いわゆる家庭内暴力を受け、苦しんでおられました。彼女は立派な結婚をし、華やかな生活を始めたものの、やがて主人が麻薬を使うようになり、何度も刑務所に入り、多くの苦しみに出会ったそうです。しかし離婚せずに耐えておられました。本当に大変だと思いましたが、その方はご主人を憐み、愛しておられ、何とか救われて一緒に生活できるように祈っておられました。「あなたはどうして結婚されたのですか」と聞くと、ある日観光名所にどうしても行きたいと思い、無理にその場所を訪れた時、一人の男性と出会ったそうです。それが現在の主人であり、その観光名所が今住んでいる所だそうです。「もしもあの時、この場所に来なかったら、今はない。」と言われました。ほんのちょっとしたきっかけで大きな苦難を味わうことになったわけです。どうして、そんなに悪い出会いが起こるのでしょうか。一連の出来事は偶然ではないように感じます。悪霊に対して扉が開かれると、そのような事が起こりやすいのです。その最も大きな原因が偶像礼拝です。家族が偶像礼拝から離れない限り、勝利はやって来ません。
実に、見える偶像には見えない霊的な力が関わっています。ヨシヤ王の功績は国中にあった偶像を全て取り除いたことです。すると、国に平和が訪れたわけです。実に、敵は見えるものではなく、見えないところに存在していたわけです。
今、人類はウイルスに苦しめられているわけですが、なぜ、こんな事が起きるのか。それは、ある意味で預言的だと思います。「人類の敵は見える存在ではなく、見えない敵が真の敵なのです。」様々な医学的、疫学的な説明があるとは思いますが、実は霊的原因もあるわけです。人類が神に創造された時、神様は人にどのような権威を与えられたかというと、「海の魚、空の鳥、地を這う、全ての生き物を支配しなさい。」という、生き物を支配する権威を与えました。それは地上に生息するすべての生き物を指していますから、本来は、バイ菌やウイルスも含まれているはずです。人間はそれらの見えにくい生き物をも、支配出来るはずです。しかし実際は支配出来ていないのです。バイ菌やウイルスを支配できず、逆に支配されているのです。どうしてそんなものが強くなってしまうのか。私は偶像礼拝に理由があるような気がしてなりません。
日本の偶像礼拝を見ると、多くの場合、何を拝んでいるかというと「動物」です。動物を礼拝すれば、権威の逆転が起こるわけです。本来支配すべき生物を、自分の上に権威づけることになりますから、顕微鏡でしか見えないようなウイルスでさえも、支配できなくなってしまうのです。また、韓国にも多くの偶像がありますが、韓国では祖先崇拝が活発に行われています。特に豚を先祖の霊を呼ぶための道具として用いています。ムダンという霊能者は豚を祭壇に乗せ、悪霊を引き下ろす祈りをします。その豚肉を切り刻んで、霊のお告げどおりの場所に持って行って捧げ、残りの肉を食べるのです。悪魔は動物を礼拝させる事を通して、人類から権威を奪うのです。
ヨシヤ王は国中の偶像を破壊しました。その時期がいつであったかというと、彼の治世の第12年でした。「ユダとエルサレムをきよめ始め、高き所、アシェラ像、刻んだ像及び鋳物の像を除いた」と記されているように、彼は宗教改革を実行しました。これは彼の治世の12年目ですから、20歳の時です。彼はまだ若かったのですが、国を改革しました。そしてその翌年、何が起こったのかというと、先ほど読んだように「アモンの子、ユダの王、ヨシヤの時代、その治世の第十三年にエレミヤに主の言葉があった。」と記されているように、国を覆っている黒い雲が無くなったかのように、エレミヤに神の言葉が届くようになったのです。ヨシヤの功績を土台として、エレミヤが神からの言葉を受け、人々に告げるようになったのです。
ここで、一人一人神様からの重要な使命が与えられている事がわかります。教会はキリストの体であり、一人一人が各器官だと教えていますから、今日ここにおられる一人一人に使命を与えておられます。人間の体はさまざまな器官から構成されていて、一つも欠けてはならず、それぞれに役割があります。それぞれの器官が健康で役割を果たしていたら、生命が維持されます。同じように、私たちにもキリストの体の中での役割が与えられていて、それぞれに重要な使命があって、それを果たすように、と主は願っておられます。そして各自が使命を果たされる時、他の人たちの使命も動きだし、それが総合されて素晴らしい主のみ業につながっていきます。
ヨシヤは20歳でこの事を行いました。またエレミヤは「私は若く、まだ無理です」と言いました。エレミヤはこの時、23歳くらいだったと言われます。しかし「あなたを国々への預言者と定めていた」と神からの使命が与えられました。うちの教会も、わりと若いほうですが、神は言われます。「まだ若いと言うな」と。若くても使命があるのです。その使命に生きるべきです。年をとった方は「私は年寄りですから」と言いやすいですが、「年寄りだと言うな」と言われます。また「私は忙しいです」という人には、「忙しいと言うな。あなたには使命がある」と。それぞれに主は語られるのです。
ヨシヤが偶像礼拝から国を救いました。その時、その世代に注がれていた神の怒りが消え、災いが直前で止められたのです。偶像礼拝は三代、四代に呪いが引き継がれますから、ヨシヤの改革は、その祖父であるマナセ王の偶像礼拝によるものでした。マナセが行った不法のゆえに、何とヨシヤの世代に神の怒りが注がれようとしていました。しかし、ヨシヤが率いた改革により、何とそれが止められたのです。
今日の本文、エレミヤ書1章5節から読みますと、エレミヤに主の言葉が臨んだ時のことが記されています。次のように語られています。
『「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」 すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。―主の御告げ。―」』
そして引き続き、1章11節から、『次のような主のことばが私にあった。「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」 すると主は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」 再び、私に次のような主のことばがあった。「何を見ているのか。」そこで私は言った。「煮え立っているかまを見ています。それは北のほうからこちらに傾いています。」すると主は私に仰せられた。「わざわいが、北からこの地の全住民の上に、降りかかる。」』
エレミヤに主のことばが臨んだ後、神様が、「エレミヤ、あなたは今何を見ていますか」と問いかけられました。ちょうどその時、エレミヤは目の前にあったアーモンドの枝を見ていました。エレミヤは神様に答えて、「私は今、アーモンドの枝を見ています。」すると神様が言われました。「よく見たものだ。」ただアーモンドの枝を見ただけでも、神様は、「よく見たものだ」とエレミヤを褒められました。なぜなら、アーモンドの枝を見るとは、別の意味がありました。アーモンドは語源に、「見張る」という意味があります。神様はエレミヤに、「見張り人」としての使命を与えられたのです。彼は普段の生活の中で色々な物を見ていたのですが、神様との出会いにより、見張り人としての使命が与えられました。またエレミヤが煮え立っている釜が北の方から、こちらに傾いている光景を見ていた時、神様は言われました。「北から災いが来る。あなたはとりなしで祈りなさい。」と。
皆さん、「この時代に与えられている使命はアーモンドの枝を見る使命」ではないかと思います。すなわち、「見張り人」という使命を神様が一人一人に与えているのではないかと思います。今週一週間、私たちはその目で色々な物を見てほしいのです。その時、ただ表面的に見てはいけません。私たちは、それぞれ遣わされた場所で、見張り人として使命を果たさなければいけないのです。先ほども言ったように、今は本当に目に見えない敵に脅かされている時代です。テレビを見ても不安になるようなニュースでいっぱいです。私たちはそれをただ単に、テレビの中のニュースとして見てはいけません。この時代を霊的な目で見、アーモンドの枝を見る「見張り人」として神に用いられなければいけないのです。日本においても韓国においても、見張り人として働かなければなりません。日本側から韓国を見張らなければいけないし、韓国は日本を見張らなければいけない、それはただ単に表面を見るのではなく、霊的世界の見張り人にならなければならないのです。
そして、この見張り人にはどのような権威が与えられているのかというと、次のように述べられています。エレミヤ書1:9-10、『そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」』
エレミヤに与えられた権威は、ただ単に見張るだけでなく、ある時は引き抜くことが出来、ある時には引き倒すことが出来、ある時は滅ぼすことが出来、ある時は壊すことが出来る、しかしある時には建て直し、植え替えることが出来る権威でした。それも国々の上に立つ権威をエレミヤに与えられたのです。
今日、私たちはエレミヤと同じように、アーモンドの枝を見る見張り人であり、与えられた権威によって、北からの災いを引き抜き、引き倒し、滅ぼして、逆に、回復する使命が与えられているのです。今、日本にウイルスが広がっている時期ですが、まことの神だけに膝をかがめている者たちには、そのような問題は決して近づくことが出来ません。敵の力を引き抜き滅ぼし、逆に、立て直すために主は用いて下さるという事です。世界中に問題が起こっていますが、「主がクリスチャンに願っておられることは、アーモンドの枝を見る者になりなさい」ということです。上からの権威を受け取り、神の国を建てあげ、回復させる働きをさせようとしておられると信じます。
今、私たちの働きは、そのようなものです。過去に悪魔が韓国と日本の間に立てた壁を引き抜き、引き倒し、滅ぼして、今度はもう一度回復する使命を、うちの教会に与えておられると信じます。その事がなされる時に、日本と韓国が一つとなり、アジアと世界に向けてリバイバルが拡大していくと信じます。「私には関係ありません」とは言わないでください。やがて私たちが天国に行った時、私たちに与えられていた「使命」が何であったか、はっきりする時が来ます。意外に大きな使命が与えられていたことに気づき、唖然とするのではないかと思います。「神様、私はただ単に、あの店で働いていただけです。私は大した人間ではありません。」「いや、わたしはあなたをあの店に、見張り人として遣わしたのだ。あなたがエレミヤのように権威を使ったら、世界の歴史は変わったのよ。しかしあなたは、その権威を使わなかった。だから大きな問題が起きたのだ。」とは言われたくないと思います。私も、このTBIC教会の牧師として働かせて頂いておりますが、神様から与えられている使命を100パーセント実現する者になりたいと願っております。それは一人で実現できるものではなく、エレミヤとヨシヤが関連していたように、TBIC教会の兄弟姉妹との関連によって働きたいと願っています。
今もう一度、私たちが遣わされている現場に主が持っておられる使命について、考え、祈り、エレミヤと同じ油注ぎをもって、これから出て行きたいと思います。
・自分の使命が何か、分かち合いましょう。
最後に一言お祈りしてメッセージを終わらせて頂きます。
愛する天のお父様、み名をあがめ、心から感謝します。あなたが私たち一人一人に、重要な使命を与えられておられる事を心から感謝します。このヨシヤの時代に、エレミヤが使命を受けたように、主よ、私たち一人一人に与えられた使命を全うさせて下さい。今世界に危機が迫っています。私たちがアーモンドの枝を見る者となれますように。見張り人となることが出来ますように。そして与えられた権威を使う事が出来ますように。遣わされた現場において、エレミヤと同じように、使命を果たさせて下さい。イエスさまのみ名によってお祈りします。アーメン。
5分くらい皆さんとご一緒にお祈りしたいと思います。皆さんが一番長く時間を過ごしている現場について考えて下さい。ビジネスを行っている方ならば、会社が関心の中心だと思います。また主婦の方ならば、家庭が関心の中心であると思います。そこに必ず、神の重要な使命があります。エレミヤと同じように、アーモンドの枝を見張る使命があるのです。「置かれている場所で使命を果たさせて下さい」とお祈りしましょう。ご一緒にお祈りします。
皆さん、おはようございます。今日も、この場所で礼拝を捧げる事ができる恵みを心から感謝します。この季節は大変暑くて日本では休みの時期だと思いますが、この時こそTBICは喜びも共にし、悲しみも分け合い、共に助け合いながら、祈りあう時となりたいと思います。
今日、皆さんと一緒に学んでいきたいテーマは、「私たちには重要な使命がある」という事です。聖書の言葉は、ただ単に、歴史的記録や、ある一部の人だけに語られたのではなく、現代に生きる私たちへの適用があるから素晴らしいわけです。
この箇所はエレミヤという、イエス・キリストが誕生する600年前の預言者に対して語られた言葉ではありますが、それは主を信じる者たち全員に語られた言葉です。聖書を読む時に、歴史的理解と共に、もう一方では、聖書の中に自分をおいて理解することが大切だと思います。今日の本文、エレミヤ書1章4節からもう一度読みます。『次のような主のことばが私にあった。 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」 すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。―主の御告げ。―」』
時には、「私は間違って生まれてきた」とか言いますが、そうではないことがわかります。聖書を読むと、大きな励ましを受けます。それは私たちが偶然に生まれたのではなく、間違って生まれたわけでもなく、神のご計画の中で大きな「使命」と共に生まれた事に気づくからです。
皆さん、誰一人として無駄に命を受けた者はいないのです。エレミヤに語られた言葉は、彼だけに語られたのではなく、私たちにも語られている言葉です。5節に、「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」何と、「胎内に形作られる前から、あなたを知り、お母さんの腹から出る前から、あなたに使命を与えていた」と語られたのです。この事を知ると、人生に希望が湧いてきます。胎内に宿る前から、神に知られていたというのです。皆さんも私も、母の胎内に宿る前から、すでにこの地上に生まれる事が決定づけられていたのです。決して偶然ではありません。「人が生まれる」とは、父親と母親がいて偶然のように思うのですが、神の世界には偶然は何一つありません。全てが神の定めの中にあるのです。どんな背景で生まれたとしても、例え良くない環境で生まれたとしても、それを悲観する必要はありません。命を与えるのは神の仕事です。命を与え、命を引き取るのは神様にしか出来ません。だからどのように生まれたとしても、それは関係ないのです。命を与えたのは神様ですから、無駄に私たちを作ってはいないはずです。「あなたには重要な使命があるんですよ。」と語られます。
今日、皆さん一人一人に、もれなく重要な使命が課せられています。実は、エレミヤという人物が生まれた背景に、一つの出来事が関わっていました。彼の時代は何という王様が支配していたかというと、今日の本文、1章2節を見ると、「アモンの子、ユダの王ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、エレミヤに主のことばがあった。」と記されています。
イスラエルは南北に分断した歴史があり、北イスラエルと南ユダに分かれました。両国に色々な王様が出ましたが、その中でヨシヤは神に喜ばれた素晴らしい南ユダの王でした。彼により国が改革されました。実に、このヨシヤ王も、神からの使命を受けていた人でした。一人一人に与えられた使命を果たすと、更に大きな神のみ業につながっていくという原則を聖書の中から発見できます。
エレミヤに主の言葉があったその背景に、ユダの王ヨシヤが関わっていました。この人物がどのような人生を送ったのか、歴代史第二34章1節から読むとわかります。「ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった。」ヨシヤは、八歳で王になったと記されています。そんな子供に何が出来るのかと思いますが、彼の時代は三一年間も続いたのです。特に、この2節の言葉は大変素晴らしいです。なぜなら、この短い言葉の中に彼の人生のすべてが表わされているからです。「彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった。」
皆さん、やがては私たちもこの地上から出ていかなければなりません。去った時、その人がどのように評価されるかは、とても重要です。私もあと何年、何十年かしたら、この世を去るでしょう。だんだんと年をとって、徐々に衰えているな、この延長線でいくと、あのあたりで着陸かなと思います。私が一生を終えた時、主からどのように評価されるのか楽しみです。
このヨシヤはどのような評価だったかというと、「彼は主の目にかなうことを行って、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった」と評価されています。皆さん、人生は一度しかありません。ヨシヤと同じような人生を歩みたいものです。「彼は主の目にかなう事を行って、イエス・キリストの道に歩み、右にも左にもそれなかった」と評価されたら成功です。「田は主の目にかなうことをたまには行っていたが、時々、右と左に大きくそれた」と記されたら、まずいわけです。ヨシヤの人生は、この一行を読んだだけで、すべてがわかります。
最近は当たり前のように、車にカーナビがついています。それは便利なもので目的地さえ設定しておけば、カーナビの言うとおりに運転すれば、放っておいても目的地にたどり着くわけです。私も車にカーナビがついていて、カーナビを見ると、なかなか道を覚えなくなりますが、便利です。推奨ルートが提示され、効率よく目的地に行けるわけです。時々道を間違えて、変な方向に行くことがあっても、必ず元の道に戻されます。神様は私たちにゴールを備えておられます。一人一人に対する目的も備えられているのですが、時々私たちは神の定められた道から外れてしまう事があります。右や左にそれてしまいます。しかし神の霊である聖霊様は私たちをもとの道に戻すわけです。教会に来る時は悲しい事や苦しい事、問題が起きてから来るのが多いのですが、問題が起きるとは「元の道に戻そう」とする神の働きかけだと思います。色々な事を通して、神の道に立ち返るのです。神の御心を求めなければならない事に気づき、神の道に立ち返っていくわけです。問題を体験したくなければ、ヨシヤのように、常に神が定めた道の真ん中を歩けばいいのです。右や左にそれると、聖霊様は人生の道路に再検索をかけ、もう一度もとの道に戻されるのです。道を曲げられる時、痛みがあるわけです。だから、決して道を曲げられないように、まっすぐに歩んでいくことが必要です。
ヨシヤは右にも左にもそれず、人生を歩むことができたわけです。そして歴代誌第二の34章3節に、「彼の治世の第八年に、彼はまだ若かったが、その先祖ダビデの神に求め始め、第十二年に、ユダとエルサレムをきよめ始めて、高き所、アシェラ像、刻んだ像、および、鋳物の像を除いた。人々は彼の面前で、バアルの祭壇を取りこわした。彼は、その上にあった香の台を切り倒し、アシェラ像と刻んだ像と鋳物の像を打ちこわし、粉々に砕いて、これらのいけにえをささげた者たちの墓の上にまき散らした。」とあります。
イスラエルの歴史を見ますと、国が栄えた時代と問題があった時代とを交互に見る事が出来ます。問題があったのが、どのような時代かというと、実は国が偶像礼拝に傾いた時、必ず問題が生じました。しかし偶像礼拝から離れた時代は国に神の恵みが溢れたのです。偶像礼拝は本当に恐ろしいものです。
日本には偶像が溢れており、特に夏には各地で色々な偶像の祭りがあり、多くの人が祭りへ参加するために車を走らせます。皆さん、「偶像は手で作った物体」ですから、あんなものが神だとは普通は考えられません。石や木や金属で作った物体が、「自分の助けになる」など普通では考えられないことです。しかし日本ではこの偶像礼拝が二千年以上続けられているわけです。どうしてかというと、自分の助けにはならない事などは承知していますが、「拝むと、何らかの霊感を感じる」わけです。人間以上の崇高な霊が来たような感覚を覚えるのです。日本人を含め、東洋人は霊的な体験をする人が多いです。科学にも学問にもなりませんが、仏壇や石の地蔵や手で作ったものを拝むと、何らかの「感覚」を覚えるのです。それで「神様がここに来ているのでは。助けてくれるかもしれない。」と期待して拝むのです。何も感覚がなければ、拝む人はいなくなるはずです。しかしそこで感じる感覚は本物の神を感じているのではなく、神のふりをし、先祖のふりをし、実は人間を苦しめようとする、悪魔、悪霊を感じているのです。その結果、何が起こるかというと、目に見えない世界で扉が開いて、悪の力が人生に侵入するわけです。それで問題が生じるのです。
皆さん、日本はパラダイスと言われるほど、景色が美しい所がいっぱいですが、そこに住んでいる方々と話をすると、そこは「パラダイス」ではなく、むしろ「地獄ではないか」と思えるくらい問題を抱えた人々が多いのに驚かされます。人生に傷つき苦しみ、東京から逃げ出すようにして、そこに移り住んだ人々が多いのです。そのような方々とお話しさせて頂くと、「大変な人生だ。本当にお気の毒だ。」と言うしかないほど、悲惨な人生を送っている人たちが多くいます。それも、ちょっとした瞬間に人生の方向が悪く変わったのです。しかしそれは偶然ではなく、悪魔の綿密なプランがすでに組み込まれていて、まるで押し出されるかのように、不幸な出会いが重なるのです。
あるご婦人から聞いた話ですが、ご主人から「DV」、いわゆる家庭内暴力を受け、苦しんでおられました。彼女は立派な結婚をし、華やかな生活を始めたものの、やがて主人が麻薬を使うようになり、何度も刑務所に入り、多くの苦しみに出会ったそうです。しかし離婚せずに耐えておられました。本当に大変だと思いましたが、その方はご主人を憐み、愛しておられ、何とか救われて一緒に生活できるように祈っておられました。「あなたはどうして結婚されたのですか」と聞くと、ある日観光名所にどうしても行きたいと思い、無理にその場所を訪れた時、一人の男性と出会ったそうです。それが現在の主人であり、その観光名所が今住んでいる所だそうです。「もしもあの時、この場所に来なかったら、今はない。」と言われました。ほんのちょっとしたきっかけで大きな苦難を味わうことになったわけです。どうして、そんなに悪い出会いが起こるのでしょうか。一連の出来事は偶然ではないように感じます。悪霊に対して扉が開かれると、そのような事が起こりやすいのです。その最も大きな原因が偶像礼拝です。家族が偶像礼拝から離れない限り、勝利はやって来ません。
実に、見える偶像には見えない霊的な力が関わっています。ヨシヤ王の功績は国中にあった偶像を全て取り除いたことです。すると、国に平和が訪れたわけです。実に、敵は見えるものではなく、見えないところに存在していたわけです。
今、人類はウイルスに苦しめられているわけですが、なぜ、こんな事が起きるのか。それは、ある意味で預言的だと思います。「人類の敵は見える存在ではなく、見えない敵が真の敵なのです。」様々な医学的、疫学的な説明があるとは思いますが、実は霊的原因もあるわけです。人類が神に創造された時、神様は人にどのような権威を与えられたかというと、「海の魚、空の鳥、地を這う、全ての生き物を支配しなさい。」という、生き物を支配する権威を与えました。それは地上に生息するすべての生き物を指していますから、本来は、バイ菌やウイルスも含まれているはずです。人間はそれらの見えにくい生き物をも、支配出来るはずです。しかし実際は支配出来ていないのです。バイ菌やウイルスを支配できず、逆に支配されているのです。どうしてそんなものが強くなってしまうのか。私は偶像礼拝に理由があるような気がしてなりません。
日本の偶像礼拝を見ると、多くの場合、何を拝んでいるかというと「動物」です。動物を礼拝すれば、権威の逆転が起こるわけです。本来支配すべき生物を、自分の上に権威づけることになりますから、顕微鏡でしか見えないようなウイルスでさえも、支配できなくなってしまうのです。また、韓国にも多くの偶像がありますが、韓国では祖先崇拝が活発に行われています。特に豚を先祖の霊を呼ぶための道具として用いています。ムダンという霊能者は豚を祭壇に乗せ、悪霊を引き下ろす祈りをします。その豚肉を切り刻んで、霊のお告げどおりの場所に持って行って捧げ、残りの肉を食べるのです。悪魔は動物を礼拝させる事を通して、人類から権威を奪うのです。
ヨシヤ王は国中の偶像を破壊しました。その時期がいつであったかというと、彼の治世の第12年でした。「ユダとエルサレムをきよめ始め、高き所、アシェラ像、刻んだ像及び鋳物の像を除いた」と記されているように、彼は宗教改革を実行しました。これは彼の治世の12年目ですから、20歳の時です。彼はまだ若かったのですが、国を改革しました。そしてその翌年、何が起こったのかというと、先ほど読んだように「アモンの子、ユダの王、ヨシヤの時代、その治世の第十三年にエレミヤに主の言葉があった。」と記されているように、国を覆っている黒い雲が無くなったかのように、エレミヤに神の言葉が届くようになったのです。ヨシヤの功績を土台として、エレミヤが神からの言葉を受け、人々に告げるようになったのです。
ここで、一人一人神様からの重要な使命が与えられている事がわかります。教会はキリストの体であり、一人一人が各器官だと教えていますから、今日ここにおられる一人一人に使命を与えておられます。人間の体はさまざまな器官から構成されていて、一つも欠けてはならず、それぞれに役割があります。それぞれの器官が健康で役割を果たしていたら、生命が維持されます。同じように、私たちにもキリストの体の中での役割が与えられていて、それぞれに重要な使命があって、それを果たすように、と主は願っておられます。そして各自が使命を果たされる時、他の人たちの使命も動きだし、それが総合されて素晴らしい主のみ業につながっていきます。
ヨシヤは20歳でこの事を行いました。またエレミヤは「私は若く、まだ無理です」と言いました。エレミヤはこの時、23歳くらいだったと言われます。しかし「あなたを国々への預言者と定めていた」と神からの使命が与えられました。うちの教会も、わりと若いほうですが、神は言われます。「まだ若いと言うな」と。若くても使命があるのです。その使命に生きるべきです。年をとった方は「私は年寄りですから」と言いやすいですが、「年寄りだと言うな」と言われます。また「私は忙しいです」という人には、「忙しいと言うな。あなたには使命がある」と。それぞれに主は語られるのです。
ヨシヤが偶像礼拝から国を救いました。その時、その世代に注がれていた神の怒りが消え、災いが直前で止められたのです。偶像礼拝は三代、四代に呪いが引き継がれますから、ヨシヤの改革は、その祖父であるマナセ王の偶像礼拝によるものでした。マナセが行った不法のゆえに、何とヨシヤの世代に神の怒りが注がれようとしていました。しかし、ヨシヤが率いた改革により、何とそれが止められたのです。
今日の本文、エレミヤ書1章5節から読みますと、エレミヤに主の言葉が臨んだ時のことが記されています。次のように語られています。
『「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」 すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。―主の御告げ。―」』
そして引き続き、1章11節から、『次のような主のことばが私にあった。「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」 すると主は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」 再び、私に次のような主のことばがあった。「何を見ているのか。」そこで私は言った。「煮え立っているかまを見ています。それは北のほうからこちらに傾いています。」すると主は私に仰せられた。「わざわいが、北からこの地の全住民の上に、降りかかる。」』
エレミヤに主のことばが臨んだ後、神様が、「エレミヤ、あなたは今何を見ていますか」と問いかけられました。ちょうどその時、エレミヤは目の前にあったアーモンドの枝を見ていました。エレミヤは神様に答えて、「私は今、アーモンドの枝を見ています。」すると神様が言われました。「よく見たものだ。」ただアーモンドの枝を見ただけでも、神様は、「よく見たものだ」とエレミヤを褒められました。なぜなら、アーモンドの枝を見るとは、別の意味がありました。アーモンドは語源に、「見張る」という意味があります。神様はエレミヤに、「見張り人」としての使命を与えられたのです。彼は普段の生活の中で色々な物を見ていたのですが、神様との出会いにより、見張り人としての使命が与えられました。またエレミヤが煮え立っている釜が北の方から、こちらに傾いている光景を見ていた時、神様は言われました。「北から災いが来る。あなたはとりなしで祈りなさい。」と。
皆さん、「この時代に与えられている使命はアーモンドの枝を見る使命」ではないかと思います。すなわち、「見張り人」という使命を神様が一人一人に与えているのではないかと思います。今週一週間、私たちはその目で色々な物を見てほしいのです。その時、ただ表面的に見てはいけません。私たちは、それぞれ遣わされた場所で、見張り人として使命を果たさなければいけないのです。先ほども言ったように、今は本当に目に見えない敵に脅かされている時代です。テレビを見ても不安になるようなニュースでいっぱいです。私たちはそれをただ単に、テレビの中のニュースとして見てはいけません。この時代を霊的な目で見、アーモンドの枝を見る「見張り人」として神に用いられなければいけないのです。日本においても韓国においても、見張り人として働かなければなりません。日本側から韓国を見張らなければいけないし、韓国は日本を見張らなければいけない、それはただ単に表面を見るのではなく、霊的世界の見張り人にならなければならないのです。
そして、この見張り人にはどのような権威が与えられているのかというと、次のように述べられています。エレミヤ書1:9-10、『そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」』
エレミヤに与えられた権威は、ただ単に見張るだけでなく、ある時は引き抜くことが出来、ある時には引き倒すことが出来、ある時は滅ぼすことが出来、ある時は壊すことが出来る、しかしある時には建て直し、植え替えることが出来る権威でした。それも国々の上に立つ権威をエレミヤに与えられたのです。
今日、私たちはエレミヤと同じように、アーモンドの枝を見る見張り人であり、与えられた権威によって、北からの災いを引き抜き、引き倒し、滅ぼして、逆に、回復する使命が与えられているのです。今、日本にウイルスが広がっている時期ですが、まことの神だけに膝をかがめている者たちには、そのような問題は決して近づくことが出来ません。敵の力を引き抜き滅ぼし、逆に、立て直すために主は用いて下さるという事です。世界中に問題が起こっていますが、「主がクリスチャンに願っておられることは、アーモンドの枝を見る者になりなさい」ということです。上からの権威を受け取り、神の国を建てあげ、回復させる働きをさせようとしておられると信じます。
今、私たちの働きは、そのようなものです。過去に悪魔が韓国と日本の間に立てた壁を引き抜き、引き倒し、滅ぼして、今度はもう一度回復する使命を、うちの教会に与えておられると信じます。その事がなされる時に、日本と韓国が一つとなり、アジアと世界に向けてリバイバルが拡大していくと信じます。「私には関係ありません」とは言わないでください。やがて私たちが天国に行った時、私たちに与えられていた「使命」が何であったか、はっきりする時が来ます。意外に大きな使命が与えられていたことに気づき、唖然とするのではないかと思います。「神様、私はただ単に、あの店で働いていただけです。私は大した人間ではありません。」「いや、わたしはあなたをあの店に、見張り人として遣わしたのだ。あなたがエレミヤのように権威を使ったら、世界の歴史は変わったのよ。しかしあなたは、その権威を使わなかった。だから大きな問題が起きたのだ。」とは言われたくないと思います。私も、このTBIC教会の牧師として働かせて頂いておりますが、神様から与えられている使命を100パーセント実現する者になりたいと願っております。それは一人で実現できるものではなく、エレミヤとヨシヤが関連していたように、TBIC教会の兄弟姉妹との関連によって働きたいと願っています。
今もう一度、私たちが遣わされている現場に主が持っておられる使命について、考え、祈り、エレミヤと同じ油注ぎをもって、これから出て行きたいと思います。
・自分の使命が何か、分かち合いましょう。
最後に一言お祈りしてメッセージを終わらせて頂きます。
愛する天のお父様、み名をあがめ、心から感謝します。あなたが私たち一人一人に、重要な使命を与えられておられる事を心から感謝します。このヨシヤの時代に、エレミヤが使命を受けたように、主よ、私たち一人一人に与えられた使命を全うさせて下さい。今世界に危機が迫っています。私たちがアーモンドの枝を見る者となれますように。見張り人となることが出来ますように。そして与えられた権威を使う事が出来ますように。遣わされた現場において、エレミヤと同じように、使命を果たさせて下さい。イエスさまのみ名によってお祈りします。アーメン。
5分くらい皆さんとご一緒にお祈りしたいと思います。皆さんが一番長く時間を過ごしている現場について考えて下さい。ビジネスを行っている方ならば、会社が関心の中心だと思います。また主婦の方ならば、家庭が関心の中心であると思います。そこに必ず、神の重要な使命があります。エレミヤと同じように、アーモンドの枝を見張る使命があるのです。「置かれている場所で使命を果たさせて下さい」とお祈りしましょう。ご一緒にお祈りします。
合計 178
手順 | タイトル | 投稿者 | 投稿日 | 推薦 | 閲覧数 |
178 |
New マタイの福音書22:35-40(イエス様の誕生、十字架の愛)
tbic
|
2024.12.24
|
推薦 1
|
閲覧数 23
|
tbic | 2024.12.24 | 1 | 23 |
177 |
New ルカの福音書6:20-21(貧しい人々のクリスマス)
tbic
|
2024.12.24
|
推薦 1
|
閲覧数 24
|
tbic | 2024.12.24 | 1 | 24 |
176 |
マラキ書4:1-3(義の太陽であるイエス様)
tbic
|
2024.12.15
|
推薦 2
|
閲覧数 30
|
tbic | 2024.12.15 | 2 | 30 |
175 |
ルカの福音書10:1-9 (さあ、リバイバルの町へ出よう)
tbic
|
2024.12.08
|
推薦 1
|
閲覧数 52
|
tbic | 2024.12.08 | 1 | 52 |
174 |
マタイの福音書6:20-24(自分のために、天に宝をたくわえなさい)
tbic
|
2024.12.01
|
推薦 1
|
閲覧数 63
|
tbic | 2024.12.01 | 1 | 63 |
173 |
ルカの福音書10:25-28(あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ)
tbic
|
2024.11.24
|
推薦 2
|
閲覧数 69
|
tbic | 2024.11.24 | 2 | 69 |
172 |
詩篇32:1-11(私にとって一番大きな感謝とは)
tbic
|
2024.11.18
|
推薦 1
|
閲覧数 95
|
tbic | 2024.11.18 | 1 | 95 |
171 |
列王記第一19:13-18(うつ状態からの脱出)
tbic
|
2024.11.10
|
推薦 2
|
閲覧数 108
|
tbic | 2024.11.10 | 2 | 108 |
170 |
創世記14:17-24(聖書から学ぶ金銭管理)
tbic
|
2024.11.03
|
推薦 1
|
閲覧数 112
|
tbic | 2024.11.03 | 1 | 112 |
169 |
詩篇 121:1-2(ゆるがない平安を持つ秘訣)
tbic
|
2024.10.27
|
推薦 1
|
閲覧数 218
|
tbic | 2024.10.27 | 1 | 218 |