メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
テモテへの手紙第二1:7(無力からの解放)
投稿者
tbic
投稿日
2024-03-31 19:37
閲覧数
380
テモテへの手紙第二1:7「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」
私はイエス・キリストを信じて、「新しい生きがい」を発見しました。真のキリストを信じる前の私は、自分なりに大勢の人々の中で仲良く生きてきましたが、本質的には独りぼっちであることを知っていたのです。いわゆる「群衆の中の孤独」を知っていました。だから、最終的に頼れるのは自分しかいないと思っていました。しかし、同時に「自分ほど頼りにならない者はいない」ことも知っていたのです。
そのためにいつも3つの問題を抱えていました。それは不安とむなしさ、無力でした。ところが、イエス・キリストに出会ったことによって、この3つの問題から解放されたのです。それで今日は、「無力からの解放」というタイトルで皆さんと分かち合いたいと思います。
1.力の源泉はフォーカスを合わせることです。
私たちはそれぞれ、いろいろな能力が与えられています。この能力が十分に発揮されている時は、それなりに充実感があって、力が湧いてきて次から次へといろいろなことができます。私は一時期、風景画を描いたり、風景写真の撮影に凝ったことがあります。その時はいつも神の創られた美しい自然に魅かれ、感動する気持ちは人一倍あったように思います。だからあちこち、山を飛び回り、写真を撮ったり絵を描くようになりました。そのうちにだんだん「こんなに素晴らしく楽しい世界はない。よしプロの画家になろう。そしてたくさんの絵を描いて、そこに聖書の御言葉を付けて多くの人々に配ろう。」と思いました。だから牧師になるのを辞めて、まず美術の専門学校で美術を学ぼうと考えたりもしましたが、これは宣教師になってから、未だに実現していません。
皆さん、絵とか写真撮影で一番重要なのは、フォーカスを合わせることです。これで作品としての価値がほとんど定まると言っても良いほどです。「何に、どのように焦点を合わせるのか」ということです。それは逆に言えば、その人が「何に感動しているのか。どのようにその感動を表現するのか。」ということです。つまり「いかにフォーカスの対象を選んで、フォーカスをその対象に集中させるか。」ということです。本当に感動する場面を見つけて、それにフォーカスがぴったり合わされると、そこに無限の世界が見えてきます。そこに神の国が現れ、あるものすごい力に圧倒されそうになります。しかしプロの人でもなかなか感動する場面に出会えないのが現実です。たまに運良く出会っても、それにぴったりとフォーカスを合わせて絵を描いたり、シャッターを切ることがなかなかできません。「本当に感動し、心から納得できるような絵や写真が出来上がるのは、千枚に1枚あれば良い方だ。」と言われています。
2.無力の原因はフォーカスが合わないことです。
私たちの人生もこれと同じではないかと思います。根本的な救いと解決を求め、あれこれといろいろなことに手を出してやってみるのです。でもどれもこれも「これだ!」と言えるものがありません。一時的に「あっ、これだ!」と思っても、時がたてば「やっぱり、これではない。」とがっかりするのです。人生の焦点がボケていると、何をやってもだめなのです。いずれは疲れ果てて、無力になっていくわけです。
私も人生の根本的な救いと解決を求めて、実にいろいろなことをやってきました。大学生のときは授業にすぐに飽きてしまって、卓球部だ、読書研究会だ、子供の宣教会だ、五つを越えるクラブやサークルに所属しました。そして合宿だ、集会だ、デモだ、旅行だ、パーティーだと夢中になって動き回っていたのです。牧師になってからは宣教師として、韓国と日本のあちこちを飛び回って仕事をしました。私は映画製作に携わったこともあります。しかし仕事も勉強も遊びも、やればやるほど、やるべきことは増えてきます。責任も重くなってきます。
またやればやるほど、難しくなってきます。そうすると、自分の力の限界にぶつかってしまうのです。いろいろなことに手を出してやればやるほど、無力感に悩まされるようになります。「あれもやらなければ、これもやらなければ、あれもやりたい!これもやりたい!」と中毒患者のようにあせっても、もう力が出ません。
そして「いったいなんのために無力感に悩まされるほど、やっているのか。」と問われると、答えられません。「あれもやった。これもやった。」と思っても、「それがいったいどういう意味?」 「So What?」と聞かれたら、何の返事もできないのです。伝道者の書1:2-3、「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」私は聖書を読んだ時に、特に旧約聖書の伝道者の書1:18が最も自然に心にしみ込んできました。いくら経験と知識を積み上げたところで、まさに伝道者の書1:18、「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。」そのとおりです。どんなに一生懸命に物事に取り組んだところで、結局は、「どんぐりの背くらべ」にすぎないではないか、「大海に一滴」を投じているにすぎないではないか、という無力感と脱力感に襲われるのです。
3.イエス・キリストとの出会い。
私はイエス・キリストと出会うことによって、ようやく私が必死に探し求めていた本当の救いと解決に出会ったのです。そして、ついに「出会うべきお方に出会った。帰るべきところに帰った。」という平安と確信が与えられました。私の人生の最高の対象に出会って、心のフォーカスがそれにしっかり定まったということです。
イエス・キリストに出会い、キリストと共に歩む人生が始まって以来、聖書を通して唯一・絶対・永遠・無限なる天地万物の創造主の力の一部である、「絶大な力」を知りかつ体験するようになりました。
その力は考えれば考えるほど、探求すれば探求するほど、圧倒されるような強い力です。その力は極大の大宇宙にも、極小の素粒子にも等しく及んでいる神の力です。宇宙のビッグバンを引き起こし、核分裂による核爆発を生じさせる力です。
そして本当に素晴らしいことは私たちがキリストを信じてキリストに結ばれることによって、神の「絶大な力」に寄り頼むことができるということです。詩篇28:7、「主は私の力、私の盾。私の心は主に寄り頼み、私は助けられた。」と言うことができるのです。
そうすると、次のようなキリストの御言葉を信じることができるようになります。マタイの福音書 17:20、『もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、「ここからあそこに移れ」と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。』
マルコの福音書11:22-24、『イエスは答えて言われた。神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、「動いて、海に入れ」と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』
「何だ、俺はもうこれ以上、何もできないと思っていたが、本気で神を信じるなら、どんなことでもできるではないか。」と思えるようになります。このようにして、私は無力感から解放されました。私自身は全く弱く、無力な者ですが、キリストの御言葉に心を集中し、集中しつづけていくと、キリストの御言葉から神の「絶大な力」が心に湧き起こってくるのを体験するからです。
4.スポーツに及ぶ神の力。
重度の心臓病で医師団から再起不能を宣告され、ボクシング出場資格まで剥奪されたアメリカのイベンダー・ホーリーフィールドは、ピリピ人への手紙4:13、「私は、私を強くして下さる方(キリスト)によって、どんなことでもできるのです。」という御言葉を信じて立ち直りました。彼は2度にわたって当時無敵だったマイク・タイソンを打ち破って、プロボクシング世界ヘビー級チャンピオンの座を守りました。ホーリーフィールドのその力は、まさに信仰による神の「絶大な力」なのです。
また25歳のときにモハメド・アリに負けて、ヘビー級チャンピオンのタイトルを失ったジョージ・フォアマンは、すさんだ生活の後、キリストを信じて牧師になりました。フォアマンはニューヨークで大きな教会を牧会していました。ところがある時、神の召命を受けて20年振りにリングに立って、最高年齢のヘビー級チャンピオンとなったわけです。
5.裁判に及ぶ神の力。
あるクリスチャンのKさんは、大手商社マンとして永らくアメリカに駐在していました。しかし、息子さんが車の追突事故を起こして被害者から6百万ドル(日本円で6億円位)の賠償請求の裁判を起こされたのです。息子さんの乗っていた車の所有者であったKさんも共同被告にされました。交通事故賠償保険は最高50万ドルしかカバーできません。
Kさん一家は6年間、絶えず6百万ドルの裁判におびやかされてきました。夜も眠れない日々が続いたのです。そしてついに陪審員による審理を行うため、呼び出しがかかったのです。アメリカの陪審員のことですから当然に、「かわいそうなアメリカ人に損害を与えていながら金持ちの日本人が、十分な賠償を拒否しているのは、けしからん。」と考えることが予想されました。
Kさんはこの問題があまりにも重すぎて誰にも話せなかったのですが、ついにクリスチャン友人に打ち明けて、神の「絶大な力」に寄り頼んで、一緒に祈りました。そうしたら、すぐに心が平安になりました。そして法外な請求をして、Kさん一家を6年間も困らせてきた事故の被害者である原告ですが、彼のためにこれまで一度も祈ったことがなかったことに気がつきました。それから、Kさんは原告をゆるし、原告に神の祝福があるようにと毎日祈りつづけていたところ、2週間ほどして、突然原告から提案があって50万ドルで和解しました。もちろん、全額保険でカバーできたわけです。こういうふうに神の「絶大な力」は私たちの信仰に応じて訴訟事件にまで、人々の心にまで及ぶのです。
6.燃えるまでフォーカスを合わせつづけることです。
私たちは神の力強い活動によって働く力がキリストを信じる者にとって、いかに絶大なものであるかを、もっともっと知る必要があります。この神の力はスポーツや裁判や社会に限らず、私たちの人生と生活のすべてに及ぶ力です。
日本におけるクリスチャンの数は極めて少数です。しかしギデオンやダビデやエリヤを選ばれた時のように、神は人の数などを決して頼みとしないのです。イエス様も12人の弟子しか選びませんでした。神はむしろ、いかに少数であっても(たった1人であっても)神を100%信頼する(神にすべてを賭ける)クリスチャンを用いるのです。
ぜひ皆さんも、80%や90%ではなく、いや99%でもなく、100%全知全能の神(イエス・キリスト)を信頼しつづけてください。唯一・絶対・永遠・無限・最高・最善・最強であられるイエス・キリストに、心のフォーカスをぴったり合わせつづけてください。
レンズをとおして太陽の光を集めて、その焦点を合わせつづけると、紙が燃えてくるように、私たちの心のフォーカスをキリストにぴったり合わせつづけていくと、心が燃え上がってくるのです。それはキリストの愛が私たちに強く迫ってくるからです(コリント第二5:14)。また聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれてくるからです(ローマ5:5)。それはまさに、神の「絶大な力」の現れです。そのようにして、私たちは「霊に燃えて、主に仕える。」ことができるようになります。
そうすれば、私たちを通して神の「絶大な力」が発揮されます。神の「絶大な力」は人々の心に、体に、家庭に、勉学に、仕事に、教会に、福音宣教に、社会に、国家に、世界に、あらゆる場所、あらゆる分野に働きます。こういうふうにキリストを信じる者を通して神の「絶大な力」が正しく発揮されるなら、どれほど多くの人々が救われることでしょうか。
ルカの福音書10:19、「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」マルコの福音書16:17-18、「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」エペソ人への手紙6:10、「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。」
7.心の平安と健康の増進。
以前の私は気が弱く、病弱でした。しかし今ではキリストを信頼することにより、いつも心に大きな平安があります(ヨハネ14:27)。だから状況の変化や人の評価があまり気になりません。心の平安が健康にも良い影響を与えるのは当然です。私は定期健康診断も受けず、健康法など全く関心がありません。花粉症以外には医者のお世話になったことがありません。病気になっても、癒し主である神が癒してくださると信じて、安心していられるからです。
一時は胃腸が弱かったため、コーヒーや紅茶などをいっさいやめて、お水ばかり飲んでいました。寿司も食べられず、カレーなどの刺激の強い料理と油っこい食べ物はいっさいとりませんでした。たまに、どうしてもコーヒーを飲まなければならなかったときはその晩はカフェインが効きすぎてひと眠りもできませんでした。天ぷらを食べると、2-3日胃がむかついて調子が悪くなるのです。しかし今では天ぷらを食べても、コーヒーを飲んでも、ぐっすり眠れます。
8.力の源の発見。
かつては、いつも気力・体力の限界にぶつかってきました。それはちっぽけな自分の気力と自分の体力に頼ってきたからです。今では、「力の源」があります。それは「イエス・キリスト」です。キリストを信じる者には神の「絶大な力」が与えられます(エペソ1:19)。
最近私は「何でもできる」という確信があります。祈っていると、主からそのような確信が与えられます。それは気の弱い私から出たものはなく、神を信頼するときに主からたっぷりと与えられる力によるものです。自分で頑張って、しぼり出すような肉の力ではなく、自然に湧き起こってくる神の力です。かつては10時間以上寝ても気力が回復しませんでしたが、今はあまり寝なくても疲れた気がしないので、不思議でたまりません。
9.おわりに。
今私の人生を振り返って見ると、あまりにも豊かな神の愛と恵みに圧倒される思いがします。もちろん私がキリストに出会う前から、神は愛と恵みを与えつづけて来られました。
ただそれらを神からのものと認識することができなかっただけです。それは本当に大きな罪です。本来はこの世に生まれ、生かされ、数え切れないほど受けている神の祝福に感謝し、神を讃えるほかないにもかかわらず、私の罪のためにいつも不平、不満、劣等意識を持ちつづけてきたのです。
実は日本で働く宣教師になったのもじっくり考えると、神の恵みの導き以外の何ものでもありません。もちろん数々の試練を体験し、失敗もしましたが、それもすべて益にされてきました。最愛の妻が与えられ、2人の子どもにも恵まれ、家族全員がキリストを信じる幸いにあずかっています。「韓国で活躍する牧師」にはなれませんでしたが、「日本でTBICの牧師として神の恵みに満たされた宣教師」となることができました。キリストを信じる者はだれでも「神の恵みに満たされた人」になることができます(コリント第二9:8)。
神の恵みによって、イエス・キリストと出会ってから、私の人生は180度転換しました。霊の次元において、キリストに結ばれて新しく生まれたからです。まさに今日の本文通りに、私の心の奥底に力と愛と慎みの霊(知恵)が与えられたからです。こうして私は新しい生きがいを発見し、無力から解放されたのです。
ヨハネの福音書3:3、『イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」』
コリント人への手紙第二5:17、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
私はイエス・キリストを信じて、「新しい生きがい」を発見しました。真のキリストを信じる前の私は、自分なりに大勢の人々の中で仲良く生きてきましたが、本質的には独りぼっちであることを知っていたのです。いわゆる「群衆の中の孤独」を知っていました。だから、最終的に頼れるのは自分しかいないと思っていました。しかし、同時に「自分ほど頼りにならない者はいない」ことも知っていたのです。
そのためにいつも3つの問題を抱えていました。それは不安とむなしさ、無力でした。ところが、イエス・キリストに出会ったことによって、この3つの問題から解放されたのです。それで今日は、「無力からの解放」というタイトルで皆さんと分かち合いたいと思います。
1.力の源泉はフォーカスを合わせることです。
私たちはそれぞれ、いろいろな能力が与えられています。この能力が十分に発揮されている時は、それなりに充実感があって、力が湧いてきて次から次へといろいろなことができます。私は一時期、風景画を描いたり、風景写真の撮影に凝ったことがあります。その時はいつも神の創られた美しい自然に魅かれ、感動する気持ちは人一倍あったように思います。だからあちこち、山を飛び回り、写真を撮ったり絵を描くようになりました。そのうちにだんだん「こんなに素晴らしく楽しい世界はない。よしプロの画家になろう。そしてたくさんの絵を描いて、そこに聖書の御言葉を付けて多くの人々に配ろう。」と思いました。だから牧師になるのを辞めて、まず美術の専門学校で美術を学ぼうと考えたりもしましたが、これは宣教師になってから、未だに実現していません。
皆さん、絵とか写真撮影で一番重要なのは、フォーカスを合わせることです。これで作品としての価値がほとんど定まると言っても良いほどです。「何に、どのように焦点を合わせるのか」ということです。それは逆に言えば、その人が「何に感動しているのか。どのようにその感動を表現するのか。」ということです。つまり「いかにフォーカスの対象を選んで、フォーカスをその対象に集中させるか。」ということです。本当に感動する場面を見つけて、それにフォーカスがぴったり合わされると、そこに無限の世界が見えてきます。そこに神の国が現れ、あるものすごい力に圧倒されそうになります。しかしプロの人でもなかなか感動する場面に出会えないのが現実です。たまに運良く出会っても、それにぴったりとフォーカスを合わせて絵を描いたり、シャッターを切ることがなかなかできません。「本当に感動し、心から納得できるような絵や写真が出来上がるのは、千枚に1枚あれば良い方だ。」と言われています。
2.無力の原因はフォーカスが合わないことです。
私たちの人生もこれと同じではないかと思います。根本的な救いと解決を求め、あれこれといろいろなことに手を出してやってみるのです。でもどれもこれも「これだ!」と言えるものがありません。一時的に「あっ、これだ!」と思っても、時がたてば「やっぱり、これではない。」とがっかりするのです。人生の焦点がボケていると、何をやってもだめなのです。いずれは疲れ果てて、無力になっていくわけです。
私も人生の根本的な救いと解決を求めて、実にいろいろなことをやってきました。大学生のときは授業にすぐに飽きてしまって、卓球部だ、読書研究会だ、子供の宣教会だ、五つを越えるクラブやサークルに所属しました。そして合宿だ、集会だ、デモだ、旅行だ、パーティーだと夢中になって動き回っていたのです。牧師になってからは宣教師として、韓国と日本のあちこちを飛び回って仕事をしました。私は映画製作に携わったこともあります。しかし仕事も勉強も遊びも、やればやるほど、やるべきことは増えてきます。責任も重くなってきます。
またやればやるほど、難しくなってきます。そうすると、自分の力の限界にぶつかってしまうのです。いろいろなことに手を出してやればやるほど、無力感に悩まされるようになります。「あれもやらなければ、これもやらなければ、あれもやりたい!これもやりたい!」と中毒患者のようにあせっても、もう力が出ません。
そして「いったいなんのために無力感に悩まされるほど、やっているのか。」と問われると、答えられません。「あれもやった。これもやった。」と思っても、「それがいったいどういう意味?」 「So What?」と聞かれたら、何の返事もできないのです。伝道者の書1:2-3、「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」私は聖書を読んだ時に、特に旧約聖書の伝道者の書1:18が最も自然に心にしみ込んできました。いくら経験と知識を積み上げたところで、まさに伝道者の書1:18、「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。」そのとおりです。どんなに一生懸命に物事に取り組んだところで、結局は、「どんぐりの背くらべ」にすぎないではないか、「大海に一滴」を投じているにすぎないではないか、という無力感と脱力感に襲われるのです。
3.イエス・キリストとの出会い。
私はイエス・キリストと出会うことによって、ようやく私が必死に探し求めていた本当の救いと解決に出会ったのです。そして、ついに「出会うべきお方に出会った。帰るべきところに帰った。」という平安と確信が与えられました。私の人生の最高の対象に出会って、心のフォーカスがそれにしっかり定まったということです。
イエス・キリストに出会い、キリストと共に歩む人生が始まって以来、聖書を通して唯一・絶対・永遠・無限なる天地万物の創造主の力の一部である、「絶大な力」を知りかつ体験するようになりました。
その力は考えれば考えるほど、探求すれば探求するほど、圧倒されるような強い力です。その力は極大の大宇宙にも、極小の素粒子にも等しく及んでいる神の力です。宇宙のビッグバンを引き起こし、核分裂による核爆発を生じさせる力です。
そして本当に素晴らしいことは私たちがキリストを信じてキリストに結ばれることによって、神の「絶大な力」に寄り頼むことができるということです。詩篇28:7、「主は私の力、私の盾。私の心は主に寄り頼み、私は助けられた。」と言うことができるのです。
そうすると、次のようなキリストの御言葉を信じることができるようになります。マタイの福音書 17:20、『もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、「ここからあそこに移れ」と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。』
マルコの福音書11:22-24、『イエスは答えて言われた。神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、「動いて、海に入れ」と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』
「何だ、俺はもうこれ以上、何もできないと思っていたが、本気で神を信じるなら、どんなことでもできるではないか。」と思えるようになります。このようにして、私は無力感から解放されました。私自身は全く弱く、無力な者ですが、キリストの御言葉に心を集中し、集中しつづけていくと、キリストの御言葉から神の「絶大な力」が心に湧き起こってくるのを体験するからです。
4.スポーツに及ぶ神の力。
重度の心臓病で医師団から再起不能を宣告され、ボクシング出場資格まで剥奪されたアメリカのイベンダー・ホーリーフィールドは、ピリピ人への手紙4:13、「私は、私を強くして下さる方(キリスト)によって、どんなことでもできるのです。」という御言葉を信じて立ち直りました。彼は2度にわたって当時無敵だったマイク・タイソンを打ち破って、プロボクシング世界ヘビー級チャンピオンの座を守りました。ホーリーフィールドのその力は、まさに信仰による神の「絶大な力」なのです。
また25歳のときにモハメド・アリに負けて、ヘビー級チャンピオンのタイトルを失ったジョージ・フォアマンは、すさんだ生活の後、キリストを信じて牧師になりました。フォアマンはニューヨークで大きな教会を牧会していました。ところがある時、神の召命を受けて20年振りにリングに立って、最高年齢のヘビー級チャンピオンとなったわけです。
5.裁判に及ぶ神の力。
あるクリスチャンのKさんは、大手商社マンとして永らくアメリカに駐在していました。しかし、息子さんが車の追突事故を起こして被害者から6百万ドル(日本円で6億円位)の賠償請求の裁判を起こされたのです。息子さんの乗っていた車の所有者であったKさんも共同被告にされました。交通事故賠償保険は最高50万ドルしかカバーできません。
Kさん一家は6年間、絶えず6百万ドルの裁判におびやかされてきました。夜も眠れない日々が続いたのです。そしてついに陪審員による審理を行うため、呼び出しがかかったのです。アメリカの陪審員のことですから当然に、「かわいそうなアメリカ人に損害を与えていながら金持ちの日本人が、十分な賠償を拒否しているのは、けしからん。」と考えることが予想されました。
Kさんはこの問題があまりにも重すぎて誰にも話せなかったのですが、ついにクリスチャン友人に打ち明けて、神の「絶大な力」に寄り頼んで、一緒に祈りました。そうしたら、すぐに心が平安になりました。そして法外な請求をして、Kさん一家を6年間も困らせてきた事故の被害者である原告ですが、彼のためにこれまで一度も祈ったことがなかったことに気がつきました。それから、Kさんは原告をゆるし、原告に神の祝福があるようにと毎日祈りつづけていたところ、2週間ほどして、突然原告から提案があって50万ドルで和解しました。もちろん、全額保険でカバーできたわけです。こういうふうに神の「絶大な力」は私たちの信仰に応じて訴訟事件にまで、人々の心にまで及ぶのです。
6.燃えるまでフォーカスを合わせつづけることです。
私たちは神の力強い活動によって働く力がキリストを信じる者にとって、いかに絶大なものであるかを、もっともっと知る必要があります。この神の力はスポーツや裁判や社会に限らず、私たちの人生と生活のすべてに及ぶ力です。
日本におけるクリスチャンの数は極めて少数です。しかしギデオンやダビデやエリヤを選ばれた時のように、神は人の数などを決して頼みとしないのです。イエス様も12人の弟子しか選びませんでした。神はむしろ、いかに少数であっても(たった1人であっても)神を100%信頼する(神にすべてを賭ける)クリスチャンを用いるのです。
ぜひ皆さんも、80%や90%ではなく、いや99%でもなく、100%全知全能の神(イエス・キリスト)を信頼しつづけてください。唯一・絶対・永遠・無限・最高・最善・最強であられるイエス・キリストに、心のフォーカスをぴったり合わせつづけてください。
レンズをとおして太陽の光を集めて、その焦点を合わせつづけると、紙が燃えてくるように、私たちの心のフォーカスをキリストにぴったり合わせつづけていくと、心が燃え上がってくるのです。それはキリストの愛が私たちに強く迫ってくるからです(コリント第二5:14)。また聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれてくるからです(ローマ5:5)。それはまさに、神の「絶大な力」の現れです。そのようにして、私たちは「霊に燃えて、主に仕える。」ことができるようになります。
そうすれば、私たちを通して神の「絶大な力」が発揮されます。神の「絶大な力」は人々の心に、体に、家庭に、勉学に、仕事に、教会に、福音宣教に、社会に、国家に、世界に、あらゆる場所、あらゆる分野に働きます。こういうふうにキリストを信じる者を通して神の「絶大な力」が正しく発揮されるなら、どれほど多くの人々が救われることでしょうか。
ルカの福音書10:19、「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」マルコの福音書16:17-18、「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」エペソ人への手紙6:10、「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。」
7.心の平安と健康の増進。
以前の私は気が弱く、病弱でした。しかし今ではキリストを信頼することにより、いつも心に大きな平安があります(ヨハネ14:27)。だから状況の変化や人の評価があまり気になりません。心の平安が健康にも良い影響を与えるのは当然です。私は定期健康診断も受けず、健康法など全く関心がありません。花粉症以外には医者のお世話になったことがありません。病気になっても、癒し主である神が癒してくださると信じて、安心していられるからです。
一時は胃腸が弱かったため、コーヒーや紅茶などをいっさいやめて、お水ばかり飲んでいました。寿司も食べられず、カレーなどの刺激の強い料理と油っこい食べ物はいっさいとりませんでした。たまに、どうしてもコーヒーを飲まなければならなかったときはその晩はカフェインが効きすぎてひと眠りもできませんでした。天ぷらを食べると、2-3日胃がむかついて調子が悪くなるのです。しかし今では天ぷらを食べても、コーヒーを飲んでも、ぐっすり眠れます。
8.力の源の発見。
かつては、いつも気力・体力の限界にぶつかってきました。それはちっぽけな自分の気力と自分の体力に頼ってきたからです。今では、「力の源」があります。それは「イエス・キリスト」です。キリストを信じる者には神の「絶大な力」が与えられます(エペソ1:19)。
最近私は「何でもできる」という確信があります。祈っていると、主からそのような確信が与えられます。それは気の弱い私から出たものはなく、神を信頼するときに主からたっぷりと与えられる力によるものです。自分で頑張って、しぼり出すような肉の力ではなく、自然に湧き起こってくる神の力です。かつては10時間以上寝ても気力が回復しませんでしたが、今はあまり寝なくても疲れた気がしないので、不思議でたまりません。
9.おわりに。
今私の人生を振り返って見ると、あまりにも豊かな神の愛と恵みに圧倒される思いがします。もちろん私がキリストに出会う前から、神は愛と恵みを与えつづけて来られました。
ただそれらを神からのものと認識することができなかっただけです。それは本当に大きな罪です。本来はこの世に生まれ、生かされ、数え切れないほど受けている神の祝福に感謝し、神を讃えるほかないにもかかわらず、私の罪のためにいつも不平、不満、劣等意識を持ちつづけてきたのです。
実は日本で働く宣教師になったのもじっくり考えると、神の恵みの導き以外の何ものでもありません。もちろん数々の試練を体験し、失敗もしましたが、それもすべて益にされてきました。最愛の妻が与えられ、2人の子どもにも恵まれ、家族全員がキリストを信じる幸いにあずかっています。「韓国で活躍する牧師」にはなれませんでしたが、「日本でTBICの牧師として神の恵みに満たされた宣教師」となることができました。キリストを信じる者はだれでも「神の恵みに満たされた人」になることができます(コリント第二9:8)。
神の恵みによって、イエス・キリストと出会ってから、私の人生は180度転換しました。霊の次元において、キリストに結ばれて新しく生まれたからです。まさに今日の本文通りに、私の心の奥底に力と愛と慎みの霊(知恵)が与えられたからです。こうして私は新しい生きがいを発見し、無力から解放されたのです。
ヨハネの福音書3:3、『イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」』
コリント人への手紙第二5:17、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
合計 178
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New マタイの福音書22:35-40(イエス様の誕生、十字架の愛)
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マラキ書4:1-3(義の太陽であるイエス様)
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ルカの福音書10:1-9 (さあ、リバイバルの町へ出よう)
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マタイの福音書6:20-24(自分のために、天に宝をたくわえなさい)
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ルカの福音書10:25-28(あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ)
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詩篇32:1-11(私にとって一番大きな感謝とは)
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列王記第一19:13-18(うつ状態からの脱出)
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2024.11.10
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創世記14:17-24(聖書から学ぶ金銭管理)
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詩篇 121:1-2(ゆるがない平安を持つ秘訣)
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2024.10.27
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