メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ヨハネの黙示録3:1-13(ダビデの鍵を持っている方)

投稿者
tbic
投稿日
2024-05-26 18:52
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368
ヨハネの黙示録3:1-13「1.また、サルディスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊と七つの星を持つ方が、こう言われる──。わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。2.目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。3.だから、どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り、悔い改めなさい。目を覚まさないなら、わたしは盗人のように来る。わたしがいつあなたのところに来るか、あなたには決して分からない。4.しかし、サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らがそれにふさわしい者たちだからである。5.勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。わたしはその名を、わたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。6.耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』7.また、フィラデルフィアにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方、彼が開くと、だれも閉じることがなく、彼が閉じると、だれも開くことがない。その方がこう言われる──。8.わたしはあなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。9.見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しているが、実はそうではなく、噓を言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来させてひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。10.あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。11.わたしはすぐに来る。あなたは、自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい。12.わたしは、勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書き記す。13.耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』」

本文の1節に、「また、サルディスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊と七つの星を持つ方が、こう言われる──。わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。

神の七つの御霊」は黙示録に出る「小アジアの七つの教会」それぞれに命令を下す一つの聖霊に対する比喩的描写です。聖霊は地上に送られた「小羊の七つの目」でも現れます。イエス様はこのサルディスにある教会が「名ばかり」で、「実は死んでいる」と言われます。またイエス様は教会の真のアイデンティティを象徴する「七つの星」を握っておられます。

本文の2節に、「目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。

サルディスにある教会の信者たちは、神様と断絶した信仰生活を送っていました。信仰生活をしているようですが、その中心に神様がいなかったということです。礼拝が神様に向かっていません。神様が自分たちの礼拝を受けるという期待もありません。ただそこに集まった人々同士で楽しんで、人々に見せるための礼拝をささげるのです。神様の目で見れば、その礼拝の場に生きた人は一人もおらず、まるで死体が座って礼拝しているようだということです。

今日多くの教会が人を中心に人本主義的な礼拝をしています。そこに神様はおられず、人だけ見えるのです。また神様に頼らず、人に頼っています。これは今日のサルディスにある教会の様子です。それで神様は、表は華やかですが、中身は死んだ人々の骨でいっぱいだと言われ、そのような礼拝は不法で表面的な礼拝だと言われます。

テモテへの手紙第二 3:5、「見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。こういう人たちを避けなさい。」敬虔の形はあるのですが、敬虔の力は否定する者に対して警告しています。今日の多くの教会の姿です。表面的には敬虔に見えるのですが、真の力はないのがまさに死んだ教会の姿です。力を失った敬虔は神様のいない信仰生活をすることです。それは人から見れば、良さそうに見えるのですが、中身がなく、力がないことです。つまり敬虔に見えるのですが、より重要な敬虔の力はないということです。

礼拝をしても感動と情熱がなく、御言葉を学んでも信仰の成長はありません。共に交わるのですが、真心が通じずに、奉仕をするにも感謝と喜びがなく、伝道をするのに実がありません。クリスチャンの形をしているのに、世の人々と何が違うのかと尋ねると、変わらない人生を生きていくのです。それはクリスチャンが人生の目的を失ったまま、ただ時間が経つだけで、歳月が流れるままに無感覚で生きていくことです。それが死んだクリスチャンの姿です。

イエス様が私たちに願っておられることは敬虔の力を持ち、その力を発揮する人になることです。自分が今どんな姿なのか、きちんと見なければなりません。もちろん私たちは不足で不完全ですが、まだ消えていない信仰と恵みをつかんで、新しく始めなければなりません。

このように今日の多くの教会がサルディスにある教会のように深い霊的眠りに落ちて、死にかけています。しかし教会が受けた恵みの御言葉と、そこから流れ出る聖さを要求されるキリストからの呼びかけを、教会は聞けないほどではありません。

本文の3節、「だから、どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り、悔い改めなさい。目を覚まさないなら、わたしは盗人のように来る。わたしがいつあなたのところに来るか、あなたには決して分からない。

ここで「盗人のように」という御言葉は新約聖書によく出る比喩で、人間はキリストの再臨の時を予言できません。「目を覚ましなさい」という命令は、サルディスの町が歴史上2度も難攻不落と思われていた城壁を持ちながらも、密かに這い上がった敵の軍隊によって陥落されたという事実を思い起こさせます。

本文の4-5節に、「しかし、サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らがそれにふさわしい者たちだからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。わたしはその名を、わたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。

リバイバルへの期待は、このサルディスにある教会でもまだ残っていて、汚されていない弟子数人を見つけることができたという事実にあります。彼らの汚れていない衣は、一貫した従順と大胆な信仰を象徴しています。ヨハネの黙示録22:14、「自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。

自分の衣をきれいにする」ということは「信仰の良心をきれいにする」ということであり、罪を犯さず、常に聖い状態にいるということです。クリスチャンの人生は聖い人生、欠点のない人生にならなければなりません。それはイエス様の中でのみ可能です。また「自分の衣を汚さなかった」という話は「世俗に染まっていない」ということです。世俗に染まらず、信仰を守りながら生きていく人々が、サルディスにある教会に何人かいました。 彼らがサルディスにある教会のプライドであり、希望でした。

イエス様は彼らに「勝った者に与えられる賞」すなわち「ご自分との交わり」と「勝利の白い衣」を約束なさいます。彼らの「」は「いのちの書」に確実にあり、彼らは敵対的な環境でもイエス様を認めたので、イエス様も彼らの「名前」を認めます。

本文の7節からは、「フィラデルフィアにある教会」への手紙です。フィラデルフィアは主後17年に大きな地震があり、都市が破壊されました。これはトルコ地震を思い出させます。トルコには地震断層帯である火の輪が通るところで、古代から今まで多くの地震が発生したところであり、トルコの領土であるフィラデルフィアも、やはり古代に地震で大きな被害を受けたところです。またフィラデルフィアはワインが特産品だったため、酒の神ディオニソス(Dionysus)崇拝と皇帝崇拝が盛んでした。また農業と商業が発達して経済的に富んでいた都市で、偶像崇拝と快楽の文化が発達しました。しかし地震が多くて、地震の被害が多かったのです。特に、多くの異教の神殿や宗教的な行事が多く、5世紀頃には「小さなアテネ」と呼ばれたりもしました。

ヨハネの黙示録2章と3章に出る「小アジアの七つの教会」の中で、フィラデルフィアにある教会は最も短い歴史を持っていたにもかかわらず、小アジアがイスラム教徒たちによって踏みにじられた時、唯一のキリスト教の砦として信仰を守ることによって、主から最も多くの称賛を受けた教会になりました。

本文の7節、「また、フィラデルフィアにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方、彼が開くと、だれも閉じることがなく、彼が閉じると、だれも開くことがない。その方がこう言われる──。

イエス様は「ダビデの鍵」を持っておられて、神の国に受け入れたり、その国から除外したりすることのできるお方として、「イエス様の権限は変わらない」ことを意味します。フィラデルフィアにある教会は少しばかりの力を持っていても、主のことばを守り、主の名を否認しないことによって、イエス様から信仰が認められました。

聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方、彼が開くと、だれも閉じることがなく、彼が閉じると、だれも開くことがない。」と言われました。ここで「真実な方」というのは「真理」という意味です。「真理で聖なる方」という意味です。「ダビデの鍵を持った」ということは、イザヤ預言者が伝えた御言葉を背景にしています。

イザヤ書22:22-23、「 わたしはまた、彼の肩にダビデの家の鍵を置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。わたしは彼を杭として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。

ダビデに与えられた約束が、イエス·キリストによって、完全に成就されたという意味を含んでいる表現です。ダビデの子孫として来られたイエス様は約束の実体として真の王様であり、「」とは「真理と権威」の象徴です。イエス·キリストは教会の頭であり、すべての権威を持った方です

本文の8節、「わたしはあなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。

ユダヤ人の会堂から排除されたフィラデルフィアにある教会の信者たちは神の神殿の柱になる(本文の12節)ので、イエス様は彼らの前に神の国に入る「開かれた門」を置いたのです。「少しばかりの力を持っていても、わたしのことばを守り、わたしの名を裏切らなかった。」、「少しばかりの力」、スミルナにある教会の信者たちは肉体的には貧しかったのですが、霊的には富んでいたように、フィラデルフィアにある教会の信者たちも弱い者たちでしたが、イエス様のことばを固く握り、守り通しました。

イエス·キリストの権威が絶対的だということは、その方が開けば閉じる人がおらず、閉じれば開ける人がいないということから、はっきりと明らかになります。罪人たちにとって、最終的な限界は死です。死はこの地上で誰も防ぐことができず、滅亡の終わりに見えるのですが、その死までも、イエス様の権威に対抗することができませんでした。

十字架の死と復活によって、イエス·キリストだけが「陰府の鍵を持った方」です。「陰府の鍵を持たれた」ということは「審判の権威を持たれた」ということと同じ意味です。(ヨハネの福音書5:22-27)それでイエス様は十字架の死と復活によって、約束をすべて成就され、ご自分を開かれた門に渡してくださいました。 門とは、門のこちらとあちらを区分する装置で、つまりイエス·キリストによって開かれた門の中にいるか、外にいるかは、信仰によって分かれます。

イエス様が既にご自分を開かれた門に渡してくださったので、フィラデルフィアにある教会は御言葉であるイエス·キリストを心に抱いて刻むことができたということです。これがフィラデルフィアにある教会にくださった「少しばかりの力」です。

本文の9節に、「見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しているが、実はそうではなく、噓を言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来させてひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。

エルサレムから逃れてきたユダヤ人の会堂とキリスト教の教会との激しい対立がありました。またユダヤ人たちは自分たちだけが神の民だと主張し、真のメシアであるイエス様に従うクリスチャンたちを迫害しました。そのため、クリスチャンたちはユダヤ人の会堂を「サタンの会衆」と呼びました。フィラデルフィアにある教会は、他の教会のように皇帝崇拝を断って迫害を受けただけでなく、同じ同族のユダヤ人からも迫害を受けました。

サタンの会衆」のメンバーたちは自称ユダヤ人と言うのですが、かえってクリスチャンたちを迫害し、神の敵に仕えていました。まるでイザヤ預言者によって預言された「異邦人たちがイスラエルの民の前でひれ伏す」と言うように、キリストもこの迫害者たちがご自分に従う人々の足の前にひれ伏して、ご自分の人々を愛することを認めさせます。

本文の10節に、「あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。

キリストはご自分のことばを守った人々に「地上に住む者たち」を試す「試練の時」に「あなたを守る」と約束しました。この試練は「世界中に臨む試練」なので、ヨハネの黙示録では、最終的な完成以前に「将来短い期間の教会に対する激しい迫害」と、「裏切る者」を指す表現である「地上に住む者たちに対する神の怒り」が、ますます大きくなっていく現象があると言われます。

本文の11-12節、「わたしはすぐに来る。あなたは、自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい。わたしは、勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書き記す。

イエス様は信者たちを苦難や殉教から守ると約束するのではなく、彼らを神の怒りから守り、殉教を勝利に変えると約束しました。

わたしはすぐに来る。」これは、来られるイエス様を待ちながら、持っているものを固く掴めと言うのではなく、忍耐の御言葉で、既に自分に臨んだイエス·キリストその方の中にいる状態を意味します。「」とは「王冠」を意味しますが、イエス·キリストの中で、既に受けた「いのち冠」です。イエス·キリストが信じられた、聖霊を受けたとすれば、イエス·キリストが信者たちを捕らえておられるので、私たちもイエス·キリストを捕らえているほかはありません。そこでパウロはこのように宣言しました。

ピリピ人への手紙3:12-14、「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。

パウロはクリスチャンの生活に成長の必要性を強調し、自分を神の国の拡張のために、絶えず前に走って行く者として表現します。パウロは自分が既に完全に成し遂げた者ではないことを強調します。自分は今も堕落した世の中で奮闘する人生に関わっており、それによって今もなお罪を犯していると正直に告白しています。復活の完全な栄光は、まだ未来のことです。「キリスト・イエスが私を捕らえてくださったこと、それを捕らえようと走っている。」ここには信仰と行い、神の呼びかけと信者の反応の間にバランスがあります。

目標(ギリシャ語、スコポス)」は、「レースでの決勝戦や弓を射る時の的」を指す言葉です。パウロの人生は「目的のある人生」でした。彼は絶えず天の御国を目標として狙っているからです。「」とは、これから来る時代にある豊かな祝福と補償であり、その中で最も特別な賞は永遠に「キリストと完璧な交わりができる」ということです。「勝利を得る者」は神の名が刻まれた神の神殿の柱として、神の臨在から決して排除されません。信者たちはダビデ王のような相続者として、神の「新しいエルサレム」に住むからです。

適用)ダビデは神様に仕える時、三つの決断を下し、それを実行することによって、神様から尊く用いられました。私たちもダビデのように決断しましょう。

1、ダビデの三つの決断。

(1)ただ神様だけ愛することを決心しました。

詩篇18:1-2、「彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。 主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。

(2)ただ信仰によって生きました。

サムエル記第一17:45、『ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう。」

(3)最後まで忠実でありました。

詩篇131:3、「イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。」エレミヤ書33:2-3、「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。

2、私たちもダビデの鍵を受け取って使いましょう。

(1)天国の鍵は信仰です。

マタイの福音書16:19、「わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。

(2)問題解決の鍵は祈りです。

ヨハネの手紙第一5:15、「私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。

(3)お金の鍵は什一献金です。

マラキ書3:10-12、「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。――万軍の主は言われる―― わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。わたしはあなたがたのために、食い荒らすものを𠮟って、あなたがたの大地の実りを滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。――万軍の主は言われる―― すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。――万軍の主は言われる。

(4)霊的目の鍵は悔い改めです。

使徒の働き2:2-3、「すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。

聖霊が臨むと、霊的目が開かれ、悔い改めるようになります。私たちは毎日悔い改めて、聖い者になりましょう。

結論は、サルディスにある教会のように生きるのではなく、フィラデルフィアにある教会のように生きることです。フィラデルフィアにある教会は、少しばかりの力を持っていても、主のことばを守り、主の名を裏切りませんでした。
合計 179
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