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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

マタイの福音書18:18-20(祈ることを決心しなさい)  

投稿者
tbic
投稿日
2024-07-03 13:20
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293
マタイの福音書18:18-20「18.まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。19.まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。20.二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」

今日はイエス・キリストの、個人の祈りの生活を通して分かる五つの祈りの大切なキーポイントを分かち合いたいと思います。

1.イエス様は決まった祈りの時間がありました。

マルコの福音書1:35、「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
朝早くまだ暗いうちに起きて..」これは時間を意味します。「そこで祈っておられた。

イエス様の祈りの生活の中で、一番目の大切なキーポイントは、イエス様は祈りの時間を確保したということです。

確かに主は祈りの時間があって、祈りの時間を区別して父なる神と対話し、交わりをしました。どんなことがあっても、イエス様と祈りの時間を引き離すことは出来ませんでした。

イエス様は祈れないぐらい忙しくなかったし(He was not too busy to pray)、あまりにも成功して祈りの時間がなかったわけでもありません(He was not too successful to pray)。また祈れないぐらい活動的ではなかったのです(He was not too active to pray)。

つまりイエス様は祈るための時間が必要であることをご存じだったし、祈らなかったら、いやしを始め、いろいろな奇跡の働きが出来なかったことを、もうご存じでした。

しかし私たちの問題は何ですか?祈りの時間が、あまりないということです。イエス様さえ、祈りの時間を区別し、持ち続けたんですけれども、私たちはどうでしょうか?イエス様より信仰が強いんですかね、、ルカの福音書5:16にも、同じことをおっしゃいます。「しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。

皆さん、イエス様の祈りの生活は真面目でした。したりやめたり三日坊主ではなく、規則的に祈られて、その祈りを多くの人々がいつも予測できるほど、特定の時間を決めて祈られました。イエス様は朝早く祈られて、次の朝にも、また次の朝にも祈りつづけました。

だからイエス様はどんな王の前でも、裁判官の前でも堂々と振る舞い、彼らの前で恐れず、どんな権力者の前でも、堂々とした行動を取りました。それは天地万物の創造主であられる神様に、まずひざまずき、祈られたからです。

ルカの福音書9:18に、 「さて、イエスがひとりで祈っておられたとき、
イエス様が 「ひとりで(alone」祈られたことに注目してください。だから教会の中だけで祈ることではなく、ひとりでも祈りの時間を持ち続けることがとても大切だと思います。

神の御子イエス・キリストが祈りの時間を持っていたのであれば、私たちは言うまでもありません。決まった祈りの時間を持ち続けるべきだと思います。教会はただ、集まって礼拝だけささげるところではありません。「教会は祈りの家と呼ばれよう」と主は言われました。また私たちとイエス様の関係がただ主日(日曜日)にだけ出会う関係であれば、それはとても寂しい関係です。皆さんがもし、まことに成長し、真の勝利をしたいのであれば、時間を決めて、ひとりで神様との交わり(祈り)の時間を持たなければなりません。

主はその祈りを喜んでおられます。私は今までずっと祈って来たのですが、特定の場所で特定の時間に祈ることを、あまりこだわっていませんでした。しかし主は最近、私にこう言われます。

わたしは特定の場所、特定の時間にあなたに会いたいのだ。わたしはそこであなたが現れるときを待とう。あなたはわたしと約束したのだ。だからあなたがそこに来なければ、わたしを待たせることになる。もしあなたが来なくても、わたしはそこにいる。わたしはあなたをその祈りの場所に呼び続けている。

私たちは天地万物の創造主であられる神様と交わり(祈り)の時間が約束されていて、その方は私たちを待っておられます。

私たちは毎日朝から晩まで、イーメールとか携帯電話などに時間を取られています。しかしこれからはそれらを置いといて、こう言うべきです。「今はイエス様との時間だ。

イエス様の祈りの生活の中で、一番目のキーポイントは、祈りの時間を区別なさったということです。

2.イエス様は特定の祈りの場所がありました。

先ほど読んだマルコの福音書1:35に、「、、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

寂しい所へ出て行き、」イエス様は祈りの場所があったということです。エルサレムに行かれたときは、しょっちゅうオリーブ山のゲッセマネの園に行かれ、そこのオリーブの木々の間で祈られました。またガリラヤに行かれたときは野原で祈り、山に登っては、そこでもひざまずき、祈られました。こういう風にイエス様は祈る場所を探し回り、祈られったのです。「祈りの場所」があったということです。

私も祈りの場所がありました。韓国の自分の実家の近くに小さな森があるのですが、十数年間毎日そこに行って岩のある所で祈りました。自分に与えられた仕事や、こころみ、家族との問題などを神様と相談しながら、祈りをささげました。

私は今も韓国の実家に帰ったら、必ずそこに行って岩の所にひざまずき、祈りをささげ、自分の過去を振り返って見て、勝利の人生を与えて下さった神様に感謝をささげています。「神様がここで私に勝利を与えて下さったのだ。一時その問題が重荷になったが、それはこの場所で勝利に変わったのだ。」と。そこでもう一度、感激するわけです。

3.イエス様の祈りの生活の中で見られる三番目の特徴は、声を出して祈られたということです。

私たちはいつでも、どこでも静かに心の中で祈ることが出来ます。しかしイエス様の祈りの生活の中では、秘密がありました。マタイの福音書26:39です。「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。わが父よ..」この御言葉に注目してください。「祈って言われた (prayed saying)」です。

祈りながら考えた、祈りながら心の中で黙想したのではなく、「祈って言われた (prayed saying)」と言われます。ここでイエス様が声を出して祈りをささげたのは、偶然ではありません。祈りというのは、考えだけではなく、声を出して言葉で申し上げるという意味があります。

まさに、ここに真の力があるのです。私は声を出して祈る、その力をもう知っています。教会が大きな声で祈る方法を知った時、大きな働きが起こされます。

私たちは教会の中でたくさんの事を気にして、礼儀正しくふるまいます。そして人々が自分をどう思っているか、気にするのです。しかし聖書には人を喜ばせるより、神様を喜ばせることがもっと大切だと出ます。

私たちは声を出して祈る方法を学ばなければなりません。家で声を出して祈る父と母が必要です。もしいなければ、おじいさん、おばあさんでも、声を出して祈る人がいるべきです。

私には祈る父と母はいなかったのですが、幼いごろから小さな部屋から漏れる祖母の祈りを聞きながら育ちました。「主よ!私の家族を哀れんでください。一人ひとりに聖霊の力と守りがありますように。」祖母の祈りの声を、いまだに鮮明に覚えています。

お母さんとお父さんが声を出して祈るのを、子どもたちが聞くとき、神の御わざが起こされます。それは子どもたちに、大きな力となります。

皆さんの家族は、皆さんが祈る声を聞いたことがありますか?もちろん、人々に聞かせるために、わざと声を出して祈ることはダメですが、しかし声を出して祈る習慣を持っていることは、とても素晴らしいことです。信仰によって宣言する言葉には力があるからです。

箴言18:21、「死と生は舌に支配される。」と言われます。

だから切にささげる祈りの声に、サタンと悪霊は逃げ出します。そして天のみ使いがそこから訪ねて来られます。私たちが祈るとき、神様はその場所を清め、天使がそこを囲んで、私たちの神様との会話に、サタンと悪霊が入り込まないように、守られます。イエスの御名によって祈るときは、いつもそうです。

4.イエス様は人々の名前をそれぞれ呼びながら祈られました。

主は友達と家族のために、彼らの名前を呼びながら祈られたんですね。ルカの福音書22:31-32、「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。

主はこういう風に祈られました。つまりイエス様の祈りはおおざっぱで曖昧の祈りではなく、大きな声を出して祈り、人々のそれぞれの名前を呼びながら祈られたわけです。ヨハネの福音書10:3、「(イエス様)は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。

私たちも時々ペテロのように、サタンが麦のようにふるいにかけながら、試みるときがあります。サタンは私たちを倒すために続けて攻撃し、私たちは倒れる寸前まで追い込まれる、そんな危機の時があります。しかしイエス様は今も、私たちのために祈っておられます。その尊い唇で私たちのそれぞれの名前を呼びながら、祈っておられます。

数十億の主の子どもたちのために、適当な一般的の祈りではなく、一人ひとりの名前を呼びながら永遠にとりなしの祈りをしておられます。なぜでしょうか。サタンが私たちを狙って攻撃し続けることを、もう御存じだからです。

イエス様はシモンの名前を呼びながら祈られました。その時、サタンがペテロを麦のようにふるいにかけようとしたからです。この時、サタンはペテロを試みることを要請したのですが、誰に要請したのでしょうか。神様ではなく、空中に権威ある者、つまりサタン(ルシファー)に要請したと思います。

なぜかというと、ペテロには偉大な可能性があって、神様の御手と使命が感じられたから、悪魔が総動員され、その使命を止めようとしたのです。だから悪魔の群れ、悪霊たちは答えます。「私たちがそうします。」と。彼らはペテロの人生の中に地獄の悪霊たちを送り出しました。

しかしイエス様が来られ、こう言われます。「わたしはあなたのために祈ります。シモン、わたしがあなたのために名前を呼びながら祈ります。だからあなたは堕落せず、失敗しない。あなたは絶対にあきらめず、立ち直ったら、ペンテコステの日に3千人があなたを通して救われるだろう。」これはすべて、イエス様がシモンのために、彼の名前を呼びながら祈られた内容です。

名前を呼びながら祈ることはとても大切です。サタンは私たちの家庭のDNA(遺伝的)の背景を研究します。私たちの過去の失敗を徹底的に調査し、その弱点を徹底的に分析します。そして悪霊たちの群れを送りながら、サタンはこう話します。「おれは必ずあの人をつぶす!彼の人生への神の計画と目的があることを知っている限り、ほっておくにはいられない。今彼のところに行って、彼をやっつけよう!

しかし私たちが息子のために声を出して祈り、彼の名前を呼びながら祈るとき、また私たちの夫のために祈り、その名前を呼ぶとき、まさにその瞬間、聖霊の力と恵みが彼らを覆うわけです。

皆さん、ぜひ定まった時間に、定まった場所で声を出して祈ってください。特に愛する家族の名前を呼びながら、祈ってください。それが主の御座に届く祈りとなるはずです。

ヨハネの手紙第一5章には、私たちが祈るとき、どういうことが起きるのかが明確に書かれています。ヨハネの手紙第一5:14、「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

このみことばに注目してください。私たちの確信は自分の勇気と自分の清い生き方によって与えられるのではありません。私たちが祈る時、確信が与えられるのですが、どういう確信でしょうか。

神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる。

私たちの家族が救われることは神のみこころです。(使徒の働き16:31)私たちの子どもたちが正しい決定を下し、正しい結婚相手を見つけて結婚することは、神のみこころです。

私たちがこういう風に神のみこころにかなう祈りをささげるとき、そういう確信が与えられます。これは私たちが神のみこころにかなう祈りをささげるなら、必ず成し遂げられるという確信と大胆さです。

だから祈る時、神の子どもはイエス様を信じるのが簡単で、イエス様を拒否することはとても難しいことです。また神のみこころは正しい決定を下すことだから、神の子どもが正しい決定を下すのはとても簡単で、愚かな決定を下すのが、むしろとても難しいことです。

私たちが子どもたちのために、神のみこころにかなった祈りをささげるときに、神のみこころはすべて、かなえられます。もし子どもが今、罪によって倒れ、汚れた人生を送っていても、その中でもっと溢れる恵みを体験するようになります。だからこそ、私たちは祈りながら、そういう期待を持つべきだと思います。

聖書には神の御座のまわりに天使たちが囲んで立っていると出ます。彼らはいつも主の命令を待っています。そして「私たちが行くべきでしょうか。私たちが行って、悪霊たちをやっつけてもいいのでしょうか。」と申し上げると、主は言われます。「そうだ!今お母さんの祈りが届いている。もうあなたがたは行って、悪霊たちをやっつけなさい。

そうすると、天使たちが彼らの息子、娘のところに行って、彼らの回りを囲みます。詩篇34:7、「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。

もし子どもたちが、愚かなことをやろうとするその瞬間に、彼らを止める聖霊の力が臨み、彼らは助け出されます。

もし彼らが堕落していても、お母さんの祈りが金の祈りの器に満たされた時、神の恵みが子どもたちに注がれ、彼らを再び立ち上がらせることができます。だから子供のための祈りを止めてはなりません。

ヤコブの手紙5:16、「義人の祈りは働くと、大きな力があります。

5.イエス様は時々、他の人々と一緒に祈られました。
もちろん、イエス様はひとりで祈られたことがたくさんあります。

しかし、ルカの福音書9章を読みますと、イエス様はペテロとヤコブ、ヨハネを連れて、祈るために山に登って行かれました。これはまさに、「祈りの輪、 prayer band」です。

申命記32:30、「、、ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させた。」と言われた通りです。

イエス様は弟子たちと祈りの輪を作られました。こういう風に、一緒に祈ることが大切な理由は、ひとりではなく、今日の本文、マタイの福音書18:20に、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」と主が言われたからです。

私たちが二人でも三人でも集まって祈る時、そこが職場であれ、家庭であれ、病院であれ、そこがどこであっても主は臨在し、主の臨在があれば、主の御わざは起こされます。

使徒の働き16章に、パウロの一行がマケドニアに来た時、川辺で祈っている群れがいました。もし私たちの教会にも、こういう風に集まって祈る群れが、いくつもあるのであれば、どれほど素晴らしい教会になれるのでしょうか!

皆さん、ぜひとりなしの祈りの手となってください。自分の知り合いの中で最低3人を選び、彼らの名前をそれぞれ呼びながら、祈って見てください。力が臨みます。自分にも彼ら(3人)にも力が臨むのを目の当たりにすると思います。

また子どもたちのためにも名前を呼びながら、祈って見てください。そのとき、天使が彼らを守るために、天から派遣されるでしょう。必ず神の御手が彼らを覆うのを私たちは見るはずです。
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