メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
サムエル記第一30:1-6(苦難が与える有益)
投稿者
tbic
投稿日
2024-07-03 13:23
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サムエル記第一30:1-6「1.ダビデとその部下が三日目にツィクラグに帰ったとき、アマレク人はすでに、ネゲブとツィクラグを襲っていた。彼らはツィクラグを攻撃して、これを火で焼き払い、2.そこにいた女たちを、子どもも大人もみな捕らえ、一人も殺さず、自分たちのところへと連れ去っていた。3.ダビデとその部下が町に着いたとき、なんと、町は火で焼かれていて、彼らの妻も息子も娘も連れ去られていた。4.ダビデも、彼と一緒にいた兵たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。5.ダビデの二人の妻、イズレエル人アヒノアムも、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルも連れ去られていた。6.ダビデは大変な苦境に立たされた。兵がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩ませ、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したからだった。しかし、ダビデは自分の神、主によって奮い立った。」
本文の背景はダビデがサウル王から追われ、逃げ出す場面です。その中で、むしろ敵であるペリシテ王のアキシュの助けによってツィケラグに定着しました。しかしアマレク人がそのツィケラグを襲い、ダビデの家族を含め、部下たちの家族も、みんな連れ去ってしまったというのです。完全に泣き面に蜂です。
ダビデの人生もそうですが、私たちの人生は苦しみと苦難の連続です。だからある人はこう言ったのです。「生まれてから死の間では苦難しかない」と。しかし忘れてはならないことは、この苦難が与える機能、有益があるということです。
それでは、苦難が与える有益について、皆さんと分かち合いたいと思います。
1.苦難は神様を求めるように導きます。
私はソウルの北の方にある貧しい町の中渓洞という所で生まれ育ちました。そこは仮設住宅地で、失敗した人々が集まるバラック(仮小屋)の集団の所でした。韓国の冬はものすごく寒いです。マイナス10度以下は普通です。当時、冬の燃料は練炭を使っていたのですが、冬はいつも練炭ガスを吸い込んで、死ぬ直前まで何度も行った覚えがあります。うちの家族は失敗して、そこに移り住んだわけではなく、父親が詐欺にあって、そこに入ったわけです。(ソウルの良い所だと。誰かの紹介で、、)父親は当時、高校の教師だったので、うちはその町で、わりと裕福な暮らしをしていました。毎月給料があったからです。他の家は一日雇われたら、やっと食べていける労働者がほとんどでした。雇われなかったら、飢え続けるわけです。
私は叔父が牧師で、その町に立てた唯一の教会に通っていました。もちろんそこで洗礼を受けましたが、物心がついた頃は毎日朝天祈祷会に行きました。その時、毎日4時半ぐらい起きたら、薄暗い白熱灯がつけられている家々が目に入り、同じ環境で、同じ悩みを持っている人々の朝迎えを、未だにはっきり覚えています。当時は親密感というか、彼らにすごく親しみを感じたわけです。だから今も貧しい人々や疎外されている人々を見ますと自分の家族のように親しみを感じるのです。
最近は精神的に貧しい人々も多くて、みんな貧しい人生を生きると思うわけです。私たちは、みんな似ている人生を生きるのです。苦しみ、困難、悩み、、クリスチャンたちは信仰の問題もあるし、みんな似ている苦難を味わいながら生きるわけです。こういう風にみんな苦しみながら生きるのですが、その中で一番苦しいことは、人々が自分のことを知らない、分かってもらえない自分の状況、自分のことを全然理解してくれない人々のことで、私たちは一番悩んでいます。しかしクリスチャンとして一番大きな苦しみは、神様が自分のことを、あまり顧みないような感じがするときです。神様の沈黙です。そして「神様さえ自分のことを知らない。神様さえ沈黙すれば、どうする。世の人々が自分を捨てたとしても、神様が自分を捨てれば、それはダメじゃないか!」とつぶやく人がいます。しかし忘れてはならないことは、こういう神様の沈黙の中で、私たちの信仰は成長するということです。
だから神様が沈黙なさるときこそ、私たちは神様をもっと考えるべきです。店とか食堂で頼んだ料理に問題があり、トラブルが起きた時(髪の毛とか、死んだハエが落ちた。)には普通に店の店長を呼ぶわけです。それと同じように、私たちがトラブルに巻き込まれ、いろんな問題が起き、苦しんでいる時は真のクリスチャンであれば、必ず神様を呼び、神の御前に立つわけです。ヨブのように苦しみの中では、人の前ではなく、神様の前に立つわけです。哲学者カール・ヤスパースはこの苦難の問題をこういう風に説明しました。「人間が苦しみ(限界状況)に会えば、神様(最終的包括者)を求めるようになる。」と。それが人間だと言っています。
本当に私たちは、うまく行っているとき(祝福と恵みのとき)に、神様を求めるのではなく、苦難の中で神様を求めるようになります。だから続けられる祝福と恵みの中では、深さのない浅い人生を生きますが、苦しみの中では、私たちの人生に対して大切な決断を下し、問題の中でも、深い重みのある人生を生きる場合がたくさんあります。なぜでしょうか。その時こそ、真剣に神様を求め、神の前に立つからです。結局、苦難は神様を求め、神様に出会うチャンスだということです。
ダビデも苦難のとき、神様の御声を聞いたから、偉大な人生を生き抜いたと思います。詩篇119:71に、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」だから私たちも苦しんで、苦しんで自暴自棄しようとする心であれば、その瞬間がまさに神様に出会うチャンスであることを忘れてはなりません。私たちは苦しみの中で神様に出会い、導かれる人生であることを忘れてはなりません。
2.苦しみは自分の無能さを悟らせてくれます。
私たちは大体最初は簡単なことを学んで、次にもっと難しいことを学ぶわけです。(算数から数学)人生も同じように、時間が経てばたつほど、難しくなる感じがします。ダビデの人生を見ても時間が経てば経つほど、ひどい訓練を受けるのです。ダビデの人生はヨセフの人生と、ものすごく似ています。ヨセフは17歳の時、奴隷として売られ、30歳にエジプトの総理大臣になりました。ダビデも17歳の時、サムエルが来て油をそそぎ、ヘブロンで王になったのが30歳だったのです。つまり共通点は13年の間、苦難の人生を経験したということです。
皆さん、今日の本文で描いている通りに、ダビデが王様になる前の、最後の訓練は何ですか?ツィケラグでの訓練です。普段私たちは華やかなイメージで、栄光溢れる姿で王様になることを期待します。しかし、神様の方法は違います。泥沼の中で、ボロボロの姿で、急に王様になるケースが多いのです。みんながきちんとした姿で、きれいに導かれることを期待しますが、神様は多くの場合、失敗だらけの、ぼろぼろの人生を用いられるお方です。ダビデもそうですが、ペテロもそうですし(ペテロはイエス様を3度も否認し、傷だらけの人生)、パウロはクリスチャンを迫害し、ステパノを殺す現場にいた張本人でした。
だから私たちは苦しまれる自分の人生に対して、心を痛める必要はありません。むしろ苦しみの痕跡は栄光のしるしであることを覚えてください。世の人々はこれを失敗(傷)だと言っていますが、聖書は成長の痕跡(Stigma)だと言っています。傷は痛いのですが、痕跡(傷跡)は全然痛くないし、むしろそれが力の源となります。
王様になる前のダビデの人生の内容は何でしょうか。信仰と勇気はあったのですが、最初の人気は全部消え去り、崩れる一方でした。長年、サウルの目を避け、敵の国のペリシテに逃げ込む間違った選択をし、偶像崇拝の国の助けを受けるわけです。そして今日の本文では戦場から帰って来て、すぐ部下たちの反乱を目の当たりにするのです。6節、「ダビデは大変な苦境に立たされた。」その時、ダビデは自分が無能な存在だと強く感じたと思います。全然人気のない姿で、さらに信頼していた400人の部下たちが自分を殺そうとしました。しかし、もっと大きな問題は、それを止めようとする人が一人もいなかったということです。ダビデは寂しさ、孤独の中で苦しむ自分を見るわけです。
以前、ダビデは信仰と勇気があり、プライドはとても高かったのです。巨人ゴリヤテを打ち破るほどの人気ある者でした。しかし、今の姿は勇気どころか、信仰さえ揺さぶられています。21:13には、ペリシテ(ガテ)の王、アキシュに見せかけの卑怯で恥ずかしい姿を見せるダビデの姿が生々しく描がかれています。Hollywood Actionのショーを見せるダビデの姿です。「それでダビデは彼らの前で気が違ったかのようにふるまい、捕らえられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。」と出ます。信仰も勇気もない、本当に恥ずかしい演技をするダビデの姿です。
結局、神の御前で力強く用いられるためには、みんなが白紙状態にならなければなりません。すべての原因は神様にありますから。特に良い結果は、すべてが神様の恵みで神様が原因だと告白しなければなりません。ダビデもこのツィケラグで最後の試練のとき、「I am nothing」と。「自分は何もない」と始めて告白したわけです。神様が「ダビデ、あなたに信仰はあるのか。」と聞かれたら、「私には信仰がありません。」と。また「ダビデ、あなたに勇気はあるのか。」と聞かれたら、「ありません。弱虫です。」と。そして「ダビデ、あなたに人気はあるのか。」と聞かれたら、「人気もありません。」と答えたに違いありません。その時、ダビデは「私には主しかありません。」と告白したと思います。だから本文の6節の後半の所に、何と出ますか?「しかし、ダビデは自分の神、主によって奮い立った。」と出るわけです。
つまり王になる前にダビデは、神様によって、めちゃくちゃに、つぶされたということです。だからキリスト教の教育の基本は二つです。一番目は因果律です。理性の教育、つまり啓示の御言葉で説得する、説教です。説教を通して、説得するということは、人間を人格として尊重し、理性的にアプローチすることです。二番目は因果律より、もっと大切な教育の基本として恵みの教育です。説教によって説得することは50%で、次は恵みに移らなければなりません。恵みは原因のない結果でもあり、すべての原因は神様であることを教えることです。これは救いの領域で、理由のない救いを私たちは受けた、とみんなに知らせることです。だから自分の失敗を認め、完全なる神の救いを受け入れなければなりません。
しかし人間は高慢で、神の領域を奪い取る存在です。いつも自分が第一の原因となりたがるのです。功労主義、業績主義が人間の世界を支配するわけです。常にバベル塔を築き上げます。人間の高慢さはきりがありません。しかし恵みの世界では、原因は無条件に神様となります。人間が築き上げたものはすべてが崩れ落ち、ただ神様だけが永遠であることを私たちは忘れてはなりません。つまり原因が自分となれば、神の御前で高慢になり、必ず滅びます。
だから神様はダビデに最後の訓練として、この原因の訓練を、「お前が原因となれるのか、違う!」という訓練をさせたと思います。つまりダビデの信仰、勇気、人気ではなく、ただ神様の恵みだけが原因となるということを神様はダビデに見せようとされたわけです。その訓練が終わった瞬間、急にサウル王とその息子たちが死んで、ダビデが王になるわけです。その内容が今日の本文のサムエル記第一30章の、次に出る31章の内容です。
結局、ダビデが王になった背景にはダビデの業績ではなく、ただ神様だけがいらっしゃることを聖書は強調するわけです。だから最終的にダビデは神殿の建築を自分が築き上げ、原因となろうとした思いを、神様の命令に従って、その神殿の建築をやめたということです。それは、ダビデの信仰の絶頂を見せる「はい、やりません。」という反応だったわけです。
3.苦難は神様の守りと導きを与える通路です。
今日の本文のツィケラグでの状況も大変だったのですが、その前の29章でのダビデの状況はもっと大変で、どうしようもない状況だったわけです。つまりサウルから逃れ、敵の国ペリシテにやって来たダビデはペリシテ王のアキシュの命令によって、自分の同族のイスラエルと戦わなければならなかったのです。しかし自分の同族を殺すこともできないし、自分を助けたアキシュの命令に従うこともできなかったわけです。ダビデはジレンマに落ちて悩んだということです。
どうしようもない状況の中でとても感謝ですが、ペリシテ人の首長たちがダビデの出陣を反対しました。29:4に、「しかし、ペリシテ人の首長たちはアキシュに対して腹を立てた。ペリシテ人の首長たちは彼に言った。この男を帰らせてください。あなたが指定した場所に帰し、私たちといっしょに戦いに行かせないでください。戦いの最中に、私たちを裏切るといけませんから。この男は、どんなことをして、主君の好意を得ようとするでしょうか。ここにいる人々の首を使わないでしょうか。」
これはものすごい神様の助けです。ダビデは自然に止められ、同族と戦わなくてもいいということになったわけです。
皆さん、ある時には反対する人々が私たちを助ける人々であることを覚えてください。私たちが決定しづらい時、むしろ私たちを反対する人々が、決定をしやすく助ける場合があります。これは神様の特別な守りです。つまり苦難とは、例えば、火はすべてを焼き尽くす危ないものでもあり、反対に私たちを暖かく守るものでもあります。その両面性を、神様はうまく用いられるお方です。しかしハンセン病(チャラアート)の場合は、その苦しみと痛みを感じられないから、致命的な病気です。ケガをしても分からないから、ほったらかして皮膚が腐っていきます。だから痛みと苦しみを感じられるのが恵みです。
私たちの人生の中でも願ってない苦難がやって来ますが、時間がたって振り返ってみたら、それがむしろ、私たちを守る役割をしたということがよく分かります。だから、神様が私たちを一番良い道へ導いてくださることを信じるのであれば、私たちはすべてに感謝できると思います。神様の恵みが分かれば、すべての原因は神様にあるから、自分が働きをするのではなく、働きが自然にできて、自然に「働きになる」ことがよく分かります。
それを告白したのが、今日の本文の6節、「ダビデは大変な苦境に立たされた。、、しかし、ダビデは自分の神、主によって奮い立った。」とあります。結局、11節にいくと、彼らは一人のエジプト人を野原で見つけるのです。アマレク人が捨てた一人のエジプト人に出会うわけです。これも神様の導きです。彼の助けによって、家族みんなを救い出します。
そして、31章ではサウル王と息子たち、サムエル記第二1章ではサムエルと3人の息子たち、みんな死ぬわけです。これも神様の導きです。その息子たちの中で一人でも生き残ったら、ダビデが王になることはできなかったと思います。神様の導きと摂理です。
神様の方から恵みが注がれれば、働きは自然に流れて、自然に成し遂げられます。だから働きはするのではなく、なるのです。皆さん、是非この「働きになる」という神の恵みを体験してください。
私たちの過ちと失敗によって、神のご計画とみこころが崩れることは絶対にありません。神の力によって、私たちに与えられた使命は必ず成就します。しかし私たちには行き過ぎた自分頼りの傾向があります。それを殺して、自分の力ではなく、神の力に頼らなければなりません。
そして、神様はこの世の競争論理ではなく、一人ひとりにそれぞれの使命を与えられたということです。その使命は、その人だけが成し遂げられるものだから、最後の最後まで、その人を訓練させ、その使命を全うさせる神様です。だから私たちに与えられた使命は私たちの弱さや失敗のため、取り消されることはありません。神様の導きによって、私たちの使命は必ず実現するから、躊躇せず、大胆に進まなければなりません。私たちが躊躇するのは、自分の力で、事(働き)を成し遂げようとする証拠です。皆さん、自分の力ではなく、最後の最後まで神様の力で、使命を全うしてください。それが神のみこころであり、ずっと楽な人生です。
本文の背景はダビデがサウル王から追われ、逃げ出す場面です。その中で、むしろ敵であるペリシテ王のアキシュの助けによってツィケラグに定着しました。しかしアマレク人がそのツィケラグを襲い、ダビデの家族を含め、部下たちの家族も、みんな連れ去ってしまったというのです。完全に泣き面に蜂です。
ダビデの人生もそうですが、私たちの人生は苦しみと苦難の連続です。だからある人はこう言ったのです。「生まれてから死の間では苦難しかない」と。しかし忘れてはならないことは、この苦難が与える機能、有益があるということです。
それでは、苦難が与える有益について、皆さんと分かち合いたいと思います。
1.苦難は神様を求めるように導きます。
私はソウルの北の方にある貧しい町の中渓洞という所で生まれ育ちました。そこは仮設住宅地で、失敗した人々が集まるバラック(仮小屋)の集団の所でした。韓国の冬はものすごく寒いです。マイナス10度以下は普通です。当時、冬の燃料は練炭を使っていたのですが、冬はいつも練炭ガスを吸い込んで、死ぬ直前まで何度も行った覚えがあります。うちの家族は失敗して、そこに移り住んだわけではなく、父親が詐欺にあって、そこに入ったわけです。(ソウルの良い所だと。誰かの紹介で、、)父親は当時、高校の教師だったので、うちはその町で、わりと裕福な暮らしをしていました。毎月給料があったからです。他の家は一日雇われたら、やっと食べていける労働者がほとんどでした。雇われなかったら、飢え続けるわけです。
私は叔父が牧師で、その町に立てた唯一の教会に通っていました。もちろんそこで洗礼を受けましたが、物心がついた頃は毎日朝天祈祷会に行きました。その時、毎日4時半ぐらい起きたら、薄暗い白熱灯がつけられている家々が目に入り、同じ環境で、同じ悩みを持っている人々の朝迎えを、未だにはっきり覚えています。当時は親密感というか、彼らにすごく親しみを感じたわけです。だから今も貧しい人々や疎外されている人々を見ますと自分の家族のように親しみを感じるのです。
最近は精神的に貧しい人々も多くて、みんな貧しい人生を生きると思うわけです。私たちは、みんな似ている人生を生きるのです。苦しみ、困難、悩み、、クリスチャンたちは信仰の問題もあるし、みんな似ている苦難を味わいながら生きるわけです。こういう風にみんな苦しみながら生きるのですが、その中で一番苦しいことは、人々が自分のことを知らない、分かってもらえない自分の状況、自分のことを全然理解してくれない人々のことで、私たちは一番悩んでいます。しかしクリスチャンとして一番大きな苦しみは、神様が自分のことを、あまり顧みないような感じがするときです。神様の沈黙です。そして「神様さえ自分のことを知らない。神様さえ沈黙すれば、どうする。世の人々が自分を捨てたとしても、神様が自分を捨てれば、それはダメじゃないか!」とつぶやく人がいます。しかし忘れてはならないことは、こういう神様の沈黙の中で、私たちの信仰は成長するということです。
だから神様が沈黙なさるときこそ、私たちは神様をもっと考えるべきです。店とか食堂で頼んだ料理に問題があり、トラブルが起きた時(髪の毛とか、死んだハエが落ちた。)には普通に店の店長を呼ぶわけです。それと同じように、私たちがトラブルに巻き込まれ、いろんな問題が起き、苦しんでいる時は真のクリスチャンであれば、必ず神様を呼び、神の御前に立つわけです。ヨブのように苦しみの中では、人の前ではなく、神様の前に立つわけです。哲学者カール・ヤスパースはこの苦難の問題をこういう風に説明しました。「人間が苦しみ(限界状況)に会えば、神様(最終的包括者)を求めるようになる。」と。それが人間だと言っています。
本当に私たちは、うまく行っているとき(祝福と恵みのとき)に、神様を求めるのではなく、苦難の中で神様を求めるようになります。だから続けられる祝福と恵みの中では、深さのない浅い人生を生きますが、苦しみの中では、私たちの人生に対して大切な決断を下し、問題の中でも、深い重みのある人生を生きる場合がたくさんあります。なぜでしょうか。その時こそ、真剣に神様を求め、神の前に立つからです。結局、苦難は神様を求め、神様に出会うチャンスだということです。
ダビデも苦難のとき、神様の御声を聞いたから、偉大な人生を生き抜いたと思います。詩篇119:71に、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」だから私たちも苦しんで、苦しんで自暴自棄しようとする心であれば、その瞬間がまさに神様に出会うチャンスであることを忘れてはなりません。私たちは苦しみの中で神様に出会い、導かれる人生であることを忘れてはなりません。
2.苦しみは自分の無能さを悟らせてくれます。
私たちは大体最初は簡単なことを学んで、次にもっと難しいことを学ぶわけです。(算数から数学)人生も同じように、時間が経てばたつほど、難しくなる感じがします。ダビデの人生を見ても時間が経てば経つほど、ひどい訓練を受けるのです。ダビデの人生はヨセフの人生と、ものすごく似ています。ヨセフは17歳の時、奴隷として売られ、30歳にエジプトの総理大臣になりました。ダビデも17歳の時、サムエルが来て油をそそぎ、ヘブロンで王になったのが30歳だったのです。つまり共通点は13年の間、苦難の人生を経験したということです。
皆さん、今日の本文で描いている通りに、ダビデが王様になる前の、最後の訓練は何ですか?ツィケラグでの訓練です。普段私たちは華やかなイメージで、栄光溢れる姿で王様になることを期待します。しかし、神様の方法は違います。泥沼の中で、ボロボロの姿で、急に王様になるケースが多いのです。みんながきちんとした姿で、きれいに導かれることを期待しますが、神様は多くの場合、失敗だらけの、ぼろぼろの人生を用いられるお方です。ダビデもそうですが、ペテロもそうですし(ペテロはイエス様を3度も否認し、傷だらけの人生)、パウロはクリスチャンを迫害し、ステパノを殺す現場にいた張本人でした。
だから私たちは苦しまれる自分の人生に対して、心を痛める必要はありません。むしろ苦しみの痕跡は栄光のしるしであることを覚えてください。世の人々はこれを失敗(傷)だと言っていますが、聖書は成長の痕跡(Stigma)だと言っています。傷は痛いのですが、痕跡(傷跡)は全然痛くないし、むしろそれが力の源となります。
王様になる前のダビデの人生の内容は何でしょうか。信仰と勇気はあったのですが、最初の人気は全部消え去り、崩れる一方でした。長年、サウルの目を避け、敵の国のペリシテに逃げ込む間違った選択をし、偶像崇拝の国の助けを受けるわけです。そして今日の本文では戦場から帰って来て、すぐ部下たちの反乱を目の当たりにするのです。6節、「ダビデは大変な苦境に立たされた。」その時、ダビデは自分が無能な存在だと強く感じたと思います。全然人気のない姿で、さらに信頼していた400人の部下たちが自分を殺そうとしました。しかし、もっと大きな問題は、それを止めようとする人が一人もいなかったということです。ダビデは寂しさ、孤独の中で苦しむ自分を見るわけです。
以前、ダビデは信仰と勇気があり、プライドはとても高かったのです。巨人ゴリヤテを打ち破るほどの人気ある者でした。しかし、今の姿は勇気どころか、信仰さえ揺さぶられています。21:13には、ペリシテ(ガテ)の王、アキシュに見せかけの卑怯で恥ずかしい姿を見せるダビデの姿が生々しく描がかれています。Hollywood Actionのショーを見せるダビデの姿です。「それでダビデは彼らの前で気が違ったかのようにふるまい、捕らえられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。」と出ます。信仰も勇気もない、本当に恥ずかしい演技をするダビデの姿です。
結局、神の御前で力強く用いられるためには、みんなが白紙状態にならなければなりません。すべての原因は神様にありますから。特に良い結果は、すべてが神様の恵みで神様が原因だと告白しなければなりません。ダビデもこのツィケラグで最後の試練のとき、「I am nothing」と。「自分は何もない」と始めて告白したわけです。神様が「ダビデ、あなたに信仰はあるのか。」と聞かれたら、「私には信仰がありません。」と。また「ダビデ、あなたに勇気はあるのか。」と聞かれたら、「ありません。弱虫です。」と。そして「ダビデ、あなたに人気はあるのか。」と聞かれたら、「人気もありません。」と答えたに違いありません。その時、ダビデは「私には主しかありません。」と告白したと思います。だから本文の6節の後半の所に、何と出ますか?「しかし、ダビデは自分の神、主によって奮い立った。」と出るわけです。
つまり王になる前にダビデは、神様によって、めちゃくちゃに、つぶされたということです。だからキリスト教の教育の基本は二つです。一番目は因果律です。理性の教育、つまり啓示の御言葉で説得する、説教です。説教を通して、説得するということは、人間を人格として尊重し、理性的にアプローチすることです。二番目は因果律より、もっと大切な教育の基本として恵みの教育です。説教によって説得することは50%で、次は恵みに移らなければなりません。恵みは原因のない結果でもあり、すべての原因は神様であることを教えることです。これは救いの領域で、理由のない救いを私たちは受けた、とみんなに知らせることです。だから自分の失敗を認め、完全なる神の救いを受け入れなければなりません。
しかし人間は高慢で、神の領域を奪い取る存在です。いつも自分が第一の原因となりたがるのです。功労主義、業績主義が人間の世界を支配するわけです。常にバベル塔を築き上げます。人間の高慢さはきりがありません。しかし恵みの世界では、原因は無条件に神様となります。人間が築き上げたものはすべてが崩れ落ち、ただ神様だけが永遠であることを私たちは忘れてはなりません。つまり原因が自分となれば、神の御前で高慢になり、必ず滅びます。
だから神様はダビデに最後の訓練として、この原因の訓練を、「お前が原因となれるのか、違う!」という訓練をさせたと思います。つまりダビデの信仰、勇気、人気ではなく、ただ神様の恵みだけが原因となるということを神様はダビデに見せようとされたわけです。その訓練が終わった瞬間、急にサウル王とその息子たちが死んで、ダビデが王になるわけです。その内容が今日の本文のサムエル記第一30章の、次に出る31章の内容です。
結局、ダビデが王になった背景にはダビデの業績ではなく、ただ神様だけがいらっしゃることを聖書は強調するわけです。だから最終的にダビデは神殿の建築を自分が築き上げ、原因となろうとした思いを、神様の命令に従って、その神殿の建築をやめたということです。それは、ダビデの信仰の絶頂を見せる「はい、やりません。」という反応だったわけです。
3.苦難は神様の守りと導きを与える通路です。
今日の本文のツィケラグでの状況も大変だったのですが、その前の29章でのダビデの状況はもっと大変で、どうしようもない状況だったわけです。つまりサウルから逃れ、敵の国ペリシテにやって来たダビデはペリシテ王のアキシュの命令によって、自分の同族のイスラエルと戦わなければならなかったのです。しかし自分の同族を殺すこともできないし、自分を助けたアキシュの命令に従うこともできなかったわけです。ダビデはジレンマに落ちて悩んだということです。
どうしようもない状況の中でとても感謝ですが、ペリシテ人の首長たちがダビデの出陣を反対しました。29:4に、「しかし、ペリシテ人の首長たちはアキシュに対して腹を立てた。ペリシテ人の首長たちは彼に言った。この男を帰らせてください。あなたが指定した場所に帰し、私たちといっしょに戦いに行かせないでください。戦いの最中に、私たちを裏切るといけませんから。この男は、どんなことをして、主君の好意を得ようとするでしょうか。ここにいる人々の首を使わないでしょうか。」
これはものすごい神様の助けです。ダビデは自然に止められ、同族と戦わなくてもいいということになったわけです。
皆さん、ある時には反対する人々が私たちを助ける人々であることを覚えてください。私たちが決定しづらい時、むしろ私たちを反対する人々が、決定をしやすく助ける場合があります。これは神様の特別な守りです。つまり苦難とは、例えば、火はすべてを焼き尽くす危ないものでもあり、反対に私たちを暖かく守るものでもあります。その両面性を、神様はうまく用いられるお方です。しかしハンセン病(チャラアート)の場合は、その苦しみと痛みを感じられないから、致命的な病気です。ケガをしても分からないから、ほったらかして皮膚が腐っていきます。だから痛みと苦しみを感じられるのが恵みです。
私たちの人生の中でも願ってない苦難がやって来ますが、時間がたって振り返ってみたら、それがむしろ、私たちを守る役割をしたということがよく分かります。だから、神様が私たちを一番良い道へ導いてくださることを信じるのであれば、私たちはすべてに感謝できると思います。神様の恵みが分かれば、すべての原因は神様にあるから、自分が働きをするのではなく、働きが自然にできて、自然に「働きになる」ことがよく分かります。
それを告白したのが、今日の本文の6節、「ダビデは大変な苦境に立たされた。、、しかし、ダビデは自分の神、主によって奮い立った。」とあります。結局、11節にいくと、彼らは一人のエジプト人を野原で見つけるのです。アマレク人が捨てた一人のエジプト人に出会うわけです。これも神様の導きです。彼の助けによって、家族みんなを救い出します。
そして、31章ではサウル王と息子たち、サムエル記第二1章ではサムエルと3人の息子たち、みんな死ぬわけです。これも神様の導きです。その息子たちの中で一人でも生き残ったら、ダビデが王になることはできなかったと思います。神様の導きと摂理です。
神様の方から恵みが注がれれば、働きは自然に流れて、自然に成し遂げられます。だから働きはするのではなく、なるのです。皆さん、是非この「働きになる」という神の恵みを体験してください。
私たちの過ちと失敗によって、神のご計画とみこころが崩れることは絶対にありません。神の力によって、私たちに与えられた使命は必ず成就します。しかし私たちには行き過ぎた自分頼りの傾向があります。それを殺して、自分の力ではなく、神の力に頼らなければなりません。
そして、神様はこの世の競争論理ではなく、一人ひとりにそれぞれの使命を与えられたということです。その使命は、その人だけが成し遂げられるものだから、最後の最後まで、その人を訓練させ、その使命を全うさせる神様です。だから私たちに与えられた使命は私たちの弱さや失敗のため、取り消されることはありません。神様の導きによって、私たちの使命は必ず実現するから、躊躇せず、大胆に進まなければなりません。私たちが躊躇するのは、自分の力で、事(働き)を成し遂げようとする証拠です。皆さん、自分の力ではなく、最後の最後まで神様の力で、使命を全うしてください。それが神のみこころであり、ずっと楽な人生です。
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New マタイの福音書22:35-40(イエス様の誕生、十字架の愛)
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tbic | 2024.11.18 | 1 | 95 |
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列王記第一19:13-18(うつ状態からの脱出)
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2024.11.10
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創世記14:17-24(聖書から学ぶ金銭管理)
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詩篇 121:1-2(ゆるがない平安を持つ秘訣)
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2024.10.27
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