メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
詩篇27:1-8(主の顔を慕い求めよ)
投稿者
tbic
投稿日
2024-09-30 23:54
閲覧数
129
詩篇27:1-8『1.主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。2.私の肉を食らおうと 悪を行う者が私に襲いかかったとき 崩れ落ちたのは 私に逆らう者 私の敵であった。3.たとえ 私に対して陣営が張られても 私の心は恐れない。たとえ 私に対して戦いが起こっても それにも私は動じない。4.一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。5.それは 主が 苦しみの日に私を隠れ場に隠し その幕屋のひそかな所に私をかくまい 岩の上に私を上げてくださるからだ。6.今 私の頭は 私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は 主の幕屋で喜びのいけにえをささげ 主に歌い ほめ歌を歌おう。7.聞いてください 主よ。私が呼ぶこの声を。私をあわれみ 私に答えてください。8.あなたに代わって 私の心は言います。「わたしの顔を慕い求めよ」と。主よ あなたの御顔を私は慕い求めます。』
今日の本文のテーマは8節です。『あなたに代わって 私の心は言います。「わたしの顔を慕い求めよ」と。主よ あなたの御顔を私は慕い求めます。』
ダビデはたった一つを、追い求めることに自分の人生の全てをかけました。今日の本文の詩篇27:4には彼が何に全部をささげたのか、明確に出ます。「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。」
彼は人生を顧みて、ただ一つの問題、一つの願いに集中します。自分の未来を見て、これよりもっと願うことはありませんでした。また、今自分の人生の中で、これよりもっと願うことはありませんでした。誰かに生涯の中で一つの目的、一つの情熱が何か質問した時、こういう答えをするのであれば、驚くべきことだと思います。
ある日本の宣教師が私に祈りを頼みました。だから私は「何を祈りましょうか?」と聞くと、彼は「一千万のたましいを主に立ち返らせたいのです。」と答えました。素晴らしい考え、立派な祈りの課題ですが、ダビデがもっていた願いはそういうものではありませんでした。
私たちが残りの人生の中で追い求め、成就すべき一つの目的(目標)は何でしょうか?ダビデと同じ目標(目的)だと思います。本文の27:4、「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。」
ダビデは王座と自分の召命(使命)を捨てて、主の宮に移って過ごしたいと願うことではありません。彼は今、霊的に何かを見ています。霊の深い所に何かを慕い求める飢え渇きがあったのです。彼は禁欲主義者でも、隠れて隠遁生活をする人でもありませんでした。彼は戦士であり、行動する人であって、情熱的な人でした。
だからダビデは閉鎖的な人生を過ごさず、今のように霊的戦いをしようとしています。彼は人間が生涯の中で成就できるすべてを成就した人です。権力と地位と名誉を経験し、群衆の誉れを受けた素晴らしい王様です。人々はダビデが数万の敵を打ち破ったと賞賛しました。彼は神様に対する熱心があったし、神様に対する飢え渇きがありました。彼は祈る人であって、敬虔な人でした。しかし足りないものがありました。彼にはまだないものがあったのです。
彼は大軍が襲いかかって来る状況の中で、この詩篇27篇を書きました。敵は攻めながら、彼を飲み込もうとしたのです。本文の27:2、「私の肉を食らおうと 悪を行う者が私に襲いかかったとき 崩れ落ちたのは 私に逆らう者 私の敵であった。」ダビデは神様に自分を救ってくださいと祈りませんでした。そういう祈りはしなかったのです。
彼は自分のたましいを本当に満足させるもの、つまり主を以前よりもっと深く知ることを願いました。彼の目標は絶えず主と一つになることでした。だからこそ、絶えず主と一つになることを願わない人生はダビデのように王様になっても、たくさんの人気と名声を得ても、結局は空しい人生となるということです。
王様になること、人気と名声を得ることが私たちの人生の目標ではありません。ダビデは主の家、主の宮に移って住むのは不可能であることを知っていたのですが、主の家(主の宮)というのは神様の臨在がある所であり、祈りの家だということが分かったのです。だから彼は主の家、神の宮(聖所)に行って、そこで自分が満足できない何かを見ました。彼は祭壇と犠牲のいけにえを見たのですが、それよりもっと深い何かがあると考え始めました。
信仰をもったダビデは、敵を全然恐れませんでした。本文の27:1、「主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。」彼は祈る人であって、主が自分の力であることを知っていたから、恐れていませんでした。しかし彼は何かが足りないと言っています。
数百万の敬虔なクリスチャンが神様を愛しています。しかしほとんどが内側に満足できない飢え渇きを感じています。彼らは解決できない霊的問題を持っているのです。もっと深い何かがあるはずだともう分かっています。神の素晴らしいみわざ、栄光、情熱、残りの人生のすべてをささげて追い求めるべき価値があることを、彼らは知っています。それは私の唯一の目的であり、唯一の望みでもあります。
ダビデの目標はただ一つでした。完全に主と一つになることが何であるかを知りたかったし、主をいつも呼び求め、祈りが人生そのものになることが彼の目標でした。だから彼は主の家に、主の宮にとどまりたいと願っています。
彼は今絶えず祈りたい、人生そのものが祈りの人生となりたいと切に願っています。彼は勝利のために祈り続け、勝利も体験し、神のみわざも経験しましたが、そういう経験、油注ぎと救いの経験にもかかわらず、ダビデは堅固なもの、揺れないもの、邪魔されない神様との交わりを願い、彼がまだ経験していない尊い何かを求めています。
多分ダビデは主の家にあるたくさんの儀式、死んだセレモニーにうんざりしていたと思います。祭司たちは子羊について語りましたが、ダビデはその子羊が誰なのかを知りたかったのです。燃え上がる宮の火の意味と祭壇の火が何を意味し、その裏側の実際の存在、真の実体を見ることを切に願いました。彼は主の家に入る時、その祈りをささげ、本当に主の家を愛したのです。しかし主の家が死んでいるから、人々は偶像礼拝をします。主の宮にいのちがないからです。祭司が来て御言葉を伝えても、それらは死んだ文字であり、単純な知識に過ぎません。いのちがありませんでした。
多くのクリスチャンが打ち明ける一番大きな悩みは自分が通っている教会が死んでいるということです。牧師が伝えるメッセージが適当に研究して作り出したのか、祈りを通して与えられたのかは、クリスチャンであれば誰でも分かります。一番尊い聖書的メッセージであっても、祈りで準備されていないのであれば、それは乾いた草のような説教であり、聖徒たちはそれをすぐ分かります。
ダビデは何かが失われていて、情熱が足りないことを知っていました。そういうものは死であり、だからダビデは主の家で落胆しています。しかしダビデは決断しました。「おれは残りの人生を、こういう風に満足できない状態で過ごしたくない。もっと深い何かがおれを呼んでいる。あの垂れ幕の後ろに、おれがまだ体験していない何かがあるはずだ。おれはおれの人生の目標、人生の願いをもう決めた。それは主の臨在の中にとどまり、その方を求めることだ。つまり主が誰であって、主の顔をおれはずっと慕い求めるんだ。」と。
だからダビデは自分の家に戻り、主の家、主の宮が祈りの家であれば、自分の家を祈りの家にし、神様に出会うときまで祈り続けることを決断しました。もしこういうものが自分の教会の牧師やその説教から得られないのであれば、自ら自分自身がキリストの深さを探し求めなければなりません。毎週同じ儀式を繰り返しながら、飢え渇いているにもかかわらず、主の御顔を求めないのであれば、真のクリスチャンではありません。しかしもし皆さんが、あきらめずに「主の御顔」を求め続けるのであれば、必ずそれを得るはずです。
テレビの前に座って時間を費やしながら聖書を読まず、祈りも怠っているのであれば、皆さんのすべての信仰生活は宗教儀式になってしまいます。自分の祈りに聖霊の油注ぎがあり、祈りながらいつも永遠の一つの楽しみ、つまり主の再臨の時まで自分を守り、永遠に至らせる一つは、主との障害のない親密な関係です。聖書は「モーセが数千年後に来られるキリストの日を見て、喜んだ。」と記しています。ダビデもメシヤの日を見て、その偉大なメシヤの顔を慕い求めました。モーセとダビデの信仰の目標は主の御顔を求めることだったのです。だからダビデは家に帰って祈ります。それが今日の本文の7節です。「聞いてください 主よ。私が呼ぶこの声を。私をあわれみ 私に答えてください。」神様、私はあなたを知りたいのです。ダビデは「自分の中に飢え渇きがあるので、哀れんでください。」と求めています。「敵の軍隊が襲いかかり、数えきれないたくさんの敵ですが、神様、一回だけでもあなたの心を私に見せて下さい。あなたを知りたいし、あなたが見たいのです。」と。その時、神様はこういう風に答えてくださいました。本文の27:8に、「わたしの顔を慕い求めよ」と。
「儀式的に、習慣的に祈りなさい。」ということではありません。もうすでにダビデは一日何回も儀式的に祈ってきました。また「聖書の学びをたくさんしなさい。」ということでもありません。聖書の学びは良いことですが、「主の御顔」は一番大切な神の召しであり、呼びかけです。
だから私たちの一番大切な人生の目標は「主は誰なのか」を知り、「主のように生きる」ことです。主の御顔を求めることは、神様がどういう方であって、どういう風に人間を取り扱い、神の品性が何であるかを知って、主と共に時間を過ごしながら、神を求め、主がなさったように妻と夫に、家族と隣人にすることです。
主の御顔を求めることはただ祈りなさいということではありません。私たちの生き方が完全に主を反映する生き方を意味します。聖書は「キリストが御父の形を見せている」と記しています。ダビデは今、その主の御顔を求めています。
ヨブは「神様が御顔を隠された」と言ったのです。神様が御顔を隠されたのであれば、行って探しなさいとヨブの友達はヨブに忠告しました。旧約の時代には主の御顔が完全に啓示されていなかったので、御顔を探すのはとても難しいことでした。
イエス・キリストは主の御顔であり、神の形の表しです。イエス様は天の父なる神様と同じ要素をもって同じ栄光の肉の形を取った神様です。新約の時代に生きる私たちは主の御顔を見て触れる特権を、すでに持っています。主が人の形を取っているからです。だから主は私たちの苦しみを感じておられます。主は私たちのように試みを受け、私たち人間のように生きられたからです。イエス様の生涯は、人間が神様に完全に頼って生きられる事実を模範として見せてくださいました。イエス様は完全に御父に頼り、神様と完全な連合が可能であることを自ら見せてくださいました。
だから「私たちもイエス様のように生きながら神様と完全に一つになって、主の御顔を求めながら生きられる。」ということです。それが私たちの人生の目標にならなければなりません。一千万人のたましいを求めることも大切ですが、ある業績ではなく、私たちが主の御顔を求めながら生きるのであれば、一千万人のたましいを得ることは、あるいは王様になって治めることは、後でついて来るものです。
だからこそ、私たちの人生の優先順位の目標は、今日の本文の詩篇27篇でダビデが求めたように、またモーセが求めたように、主の御顔を求めることであり、主と共に歩みながら親密な交わりを持ち続けることです。
今日の本文のテーマは8節です。『あなたに代わって 私の心は言います。「わたしの顔を慕い求めよ」と。主よ あなたの御顔を私は慕い求めます。』
ダビデはたった一つを、追い求めることに自分の人生の全てをかけました。今日の本文の詩篇27:4には彼が何に全部をささげたのか、明確に出ます。「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。」
彼は人生を顧みて、ただ一つの問題、一つの願いに集中します。自分の未来を見て、これよりもっと願うことはありませんでした。また、今自分の人生の中で、これよりもっと願うことはありませんでした。誰かに生涯の中で一つの目的、一つの情熱が何か質問した時、こういう答えをするのであれば、驚くべきことだと思います。
ある日本の宣教師が私に祈りを頼みました。だから私は「何を祈りましょうか?」と聞くと、彼は「一千万のたましいを主に立ち返らせたいのです。」と答えました。素晴らしい考え、立派な祈りの課題ですが、ダビデがもっていた願いはそういうものではありませんでした。
私たちが残りの人生の中で追い求め、成就すべき一つの目的(目標)は何でしょうか?ダビデと同じ目標(目的)だと思います。本文の27:4、「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。」
ダビデは王座と自分の召命(使命)を捨てて、主の宮に移って過ごしたいと願うことではありません。彼は今、霊的に何かを見ています。霊の深い所に何かを慕い求める飢え渇きがあったのです。彼は禁欲主義者でも、隠れて隠遁生活をする人でもありませんでした。彼は戦士であり、行動する人であって、情熱的な人でした。
だからダビデは閉鎖的な人生を過ごさず、今のように霊的戦いをしようとしています。彼は人間が生涯の中で成就できるすべてを成就した人です。権力と地位と名誉を経験し、群衆の誉れを受けた素晴らしい王様です。人々はダビデが数万の敵を打ち破ったと賞賛しました。彼は神様に対する熱心があったし、神様に対する飢え渇きがありました。彼は祈る人であって、敬虔な人でした。しかし足りないものがありました。彼にはまだないものがあったのです。
彼は大軍が襲いかかって来る状況の中で、この詩篇27篇を書きました。敵は攻めながら、彼を飲み込もうとしたのです。本文の27:2、「私の肉を食らおうと 悪を行う者が私に襲いかかったとき 崩れ落ちたのは 私に逆らう者 私の敵であった。」ダビデは神様に自分を救ってくださいと祈りませんでした。そういう祈りはしなかったのです。
彼は自分のたましいを本当に満足させるもの、つまり主を以前よりもっと深く知ることを願いました。彼の目標は絶えず主と一つになることでした。だからこそ、絶えず主と一つになることを願わない人生はダビデのように王様になっても、たくさんの人気と名声を得ても、結局は空しい人生となるということです。
王様になること、人気と名声を得ることが私たちの人生の目標ではありません。ダビデは主の家、主の宮に移って住むのは不可能であることを知っていたのですが、主の家(主の宮)というのは神様の臨在がある所であり、祈りの家だということが分かったのです。だから彼は主の家、神の宮(聖所)に行って、そこで自分が満足できない何かを見ました。彼は祭壇と犠牲のいけにえを見たのですが、それよりもっと深い何かがあると考え始めました。
信仰をもったダビデは、敵を全然恐れませんでした。本文の27:1、「主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。」彼は祈る人であって、主が自分の力であることを知っていたから、恐れていませんでした。しかし彼は何かが足りないと言っています。
数百万の敬虔なクリスチャンが神様を愛しています。しかしほとんどが内側に満足できない飢え渇きを感じています。彼らは解決できない霊的問題を持っているのです。もっと深い何かがあるはずだともう分かっています。神の素晴らしいみわざ、栄光、情熱、残りの人生のすべてをささげて追い求めるべき価値があることを、彼らは知っています。それは私の唯一の目的であり、唯一の望みでもあります。
ダビデの目標はただ一つでした。完全に主と一つになることが何であるかを知りたかったし、主をいつも呼び求め、祈りが人生そのものになることが彼の目標でした。だから彼は主の家に、主の宮にとどまりたいと願っています。
彼は今絶えず祈りたい、人生そのものが祈りの人生となりたいと切に願っています。彼は勝利のために祈り続け、勝利も体験し、神のみわざも経験しましたが、そういう経験、油注ぎと救いの経験にもかかわらず、ダビデは堅固なもの、揺れないもの、邪魔されない神様との交わりを願い、彼がまだ経験していない尊い何かを求めています。
多分ダビデは主の家にあるたくさんの儀式、死んだセレモニーにうんざりしていたと思います。祭司たちは子羊について語りましたが、ダビデはその子羊が誰なのかを知りたかったのです。燃え上がる宮の火の意味と祭壇の火が何を意味し、その裏側の実際の存在、真の実体を見ることを切に願いました。彼は主の家に入る時、その祈りをささげ、本当に主の家を愛したのです。しかし主の家が死んでいるから、人々は偶像礼拝をします。主の宮にいのちがないからです。祭司が来て御言葉を伝えても、それらは死んだ文字であり、単純な知識に過ぎません。いのちがありませんでした。
多くのクリスチャンが打ち明ける一番大きな悩みは自分が通っている教会が死んでいるということです。牧師が伝えるメッセージが適当に研究して作り出したのか、祈りを通して与えられたのかは、クリスチャンであれば誰でも分かります。一番尊い聖書的メッセージであっても、祈りで準備されていないのであれば、それは乾いた草のような説教であり、聖徒たちはそれをすぐ分かります。
ダビデは何かが失われていて、情熱が足りないことを知っていました。そういうものは死であり、だからダビデは主の家で落胆しています。しかしダビデは決断しました。「おれは残りの人生を、こういう風に満足できない状態で過ごしたくない。もっと深い何かがおれを呼んでいる。あの垂れ幕の後ろに、おれがまだ体験していない何かがあるはずだ。おれはおれの人生の目標、人生の願いをもう決めた。それは主の臨在の中にとどまり、その方を求めることだ。つまり主が誰であって、主の顔をおれはずっと慕い求めるんだ。」と。
だからダビデは自分の家に戻り、主の家、主の宮が祈りの家であれば、自分の家を祈りの家にし、神様に出会うときまで祈り続けることを決断しました。もしこういうものが自分の教会の牧師やその説教から得られないのであれば、自ら自分自身がキリストの深さを探し求めなければなりません。毎週同じ儀式を繰り返しながら、飢え渇いているにもかかわらず、主の御顔を求めないのであれば、真のクリスチャンではありません。しかしもし皆さんが、あきらめずに「主の御顔」を求め続けるのであれば、必ずそれを得るはずです。
テレビの前に座って時間を費やしながら聖書を読まず、祈りも怠っているのであれば、皆さんのすべての信仰生活は宗教儀式になってしまいます。自分の祈りに聖霊の油注ぎがあり、祈りながらいつも永遠の一つの楽しみ、つまり主の再臨の時まで自分を守り、永遠に至らせる一つは、主との障害のない親密な関係です。聖書は「モーセが数千年後に来られるキリストの日を見て、喜んだ。」と記しています。ダビデもメシヤの日を見て、その偉大なメシヤの顔を慕い求めました。モーセとダビデの信仰の目標は主の御顔を求めることだったのです。だからダビデは家に帰って祈ります。それが今日の本文の7節です。「聞いてください 主よ。私が呼ぶこの声を。私をあわれみ 私に答えてください。」神様、私はあなたを知りたいのです。ダビデは「自分の中に飢え渇きがあるので、哀れんでください。」と求めています。「敵の軍隊が襲いかかり、数えきれないたくさんの敵ですが、神様、一回だけでもあなたの心を私に見せて下さい。あなたを知りたいし、あなたが見たいのです。」と。その時、神様はこういう風に答えてくださいました。本文の27:8に、「わたしの顔を慕い求めよ」と。
「儀式的に、習慣的に祈りなさい。」ということではありません。もうすでにダビデは一日何回も儀式的に祈ってきました。また「聖書の学びをたくさんしなさい。」ということでもありません。聖書の学びは良いことですが、「主の御顔」は一番大切な神の召しであり、呼びかけです。
だから私たちの一番大切な人生の目標は「主は誰なのか」を知り、「主のように生きる」ことです。主の御顔を求めることは、神様がどういう方であって、どういう風に人間を取り扱い、神の品性が何であるかを知って、主と共に時間を過ごしながら、神を求め、主がなさったように妻と夫に、家族と隣人にすることです。
主の御顔を求めることはただ祈りなさいということではありません。私たちの生き方が完全に主を反映する生き方を意味します。聖書は「キリストが御父の形を見せている」と記しています。ダビデは今、その主の御顔を求めています。
ヨブは「神様が御顔を隠された」と言ったのです。神様が御顔を隠されたのであれば、行って探しなさいとヨブの友達はヨブに忠告しました。旧約の時代には主の御顔が完全に啓示されていなかったので、御顔を探すのはとても難しいことでした。
イエス・キリストは主の御顔であり、神の形の表しです。イエス様は天の父なる神様と同じ要素をもって同じ栄光の肉の形を取った神様です。新約の時代に生きる私たちは主の御顔を見て触れる特権を、すでに持っています。主が人の形を取っているからです。だから主は私たちの苦しみを感じておられます。主は私たちのように試みを受け、私たち人間のように生きられたからです。イエス様の生涯は、人間が神様に完全に頼って生きられる事実を模範として見せてくださいました。イエス様は完全に御父に頼り、神様と完全な連合が可能であることを自ら見せてくださいました。
だから「私たちもイエス様のように生きながら神様と完全に一つになって、主の御顔を求めながら生きられる。」ということです。それが私たちの人生の目標にならなければなりません。一千万人のたましいを求めることも大切ですが、ある業績ではなく、私たちが主の御顔を求めながら生きるのであれば、一千万人のたましいを得ることは、あるいは王様になって治めることは、後でついて来るものです。
だからこそ、私たちの人生の優先順位の目標は、今日の本文の詩篇27篇でダビデが求めたように、またモーセが求めたように、主の御顔を求めることであり、主と共に歩みながら親密な交わりを持ち続けることです。
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