メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
詩篇55:22(心配は要らない)
投稿者
tbic
投稿日
2024-10-13 20:52
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詩篇55:22「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」
皆さん、主が私たちのことを心配して下さっています。なんと素晴らしいことでしょう。他人から「あなたの事を心配していますよ」と言われても、励ましにしかなりませんが、神様が私たちの事を「心配して下さる」のは、ヘブライ語の原文で見ますと、「支えて下さる」という意味です。
この頃は心配が多いです。コロナウイルスが全世界に広がり、もしかしたら全人類が滅亡するかもしれないという危機を通りました。これは、「グローバル・パンデミック」と呼び、いわゆる世界大流行として、また起こりうる伝染病です。今戦争もあり、全世界が絶滅するかもしれないという危機に直面しているわけです。
この時代にあって、私たちは色々と考えさせられます。人は目に見えないウイルスがあちこち飛び回るだけで、倒れていくような弱い存在です。目に見えない敵に怯えているのです。しかし私たちクリスチャンは素晴らしい事に「神が心配して下さっている」と約束されていますから、私たちは神のみことばの上に、約束の上に、土台を置かなければいけません。どんなことが起きようとも、主が私たちの事を心配しておられると信じなければなりません。「主は決して、正しいものが揺るがされるようにはなさらない。」とありますから。
さて「正しい者は揺るがされない」とありますが、今度は「正しいかどうか」が問題になります。しかしイエス様が私たちの罪の身代わりとなり、十字架にかかって死んでくださったのですから、多少汚れがあったとしても、十字架の血潮によりきよめられ、義と認められ、正しいと見なされるわけです。このみことばは「主を信じる者たち」に対して語られているみことばです。
ヨハネの福音書14:1にも、大変素晴らしいみことばがあります。これはイエス様が十字架にかかる前、心騒いでいた弟子たちに語られたみことばです。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」私たちは時々、心を騒がせることがありますが、そんな時に主は私たちに語られます。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、また『わたし』イエス・キリストを信じなさい。」と。
誰かが気遣ってくれる、心配してくれるというのは、とても嬉しい事です。「愛」とは何かというと、やはりある人に対して気遣っているかどうかだと思います。「愛していますよ」と言っても、何の気遣いもなければ、愛ではありません。「気遣っている、気になっている」それは愛している証拠です。イエス様は私たちのことが気になって、気になって、しょうがないわけです。
皆さんも、家族のことや、友達、愛している人のことを気になると思います。もし何かあれば、「大丈夫かな。何とかならないか。」そういう気持ちがあります。「愛する」というのは気遣う事です。神様が私たちのことを、「心配して下さっている」のです。そればかりか「あなたの重荷をゆだねなさい」と語られています。
時々私たちは、自分で重荷を抱え込んでしまって、ゆだねる事が出来ない事があります。しかし、私たちは既に主のみ手の上で運ばれていますから、「心配しないで、その荷物を下ろしなさい。」と言われるのです。
ある時、トラックの運転手が大きな荷物を背負ったおばあさんが道を歩いているのを見かけたそうです。それで親切な運転手さんは車を止めて、おばあさんを荷台にのせてあげました。おばあさんは「本当に申し訳ありません」と言い、荷台に乗りました。しばらく走ってバックミラーで見るとなんとおばあさんは、荷台に荷物を背負ったまま、座っていたそうです。それで運転手さんは車を止めて、「おばあさん、荷物を下に置いて下さいよ。」と勧めると、「いや、車に乗せて頂いて、その上荷物まで下ろさせていただいたら、申し訳ない。」と答えたそうです。おばあさんの気持ちも分からないではありませんが、トラックに乗っていれば、荷物も既に運ばれていますから、遠慮せず降ろせば良いのです。
私たちも、そういうところがあると思います。永遠の神のみ手の中に抱かれ、運ばれていますが、「この荷物は自分で背負う」とがんばってしまいます。徳川家康が言ったように、「人生とは重荷を背負って遠い道を行くことだ」と頑張るのです。聖書は、「あなたが背負っている荷物を降ろしなさい」と語っています。英語の聖書では、「Cast your burden on the Lord」となっています。「Cast」とは、「投げる」という意味もあります。時々政治家が官僚に問題を丸投げしているとか聞きますが、丸投げは良い意味では使われません。しかし私たちは神様にすべての問題を丸投げして良いのです。
重荷を、「イエス様、あなたに任せます。」とお委ねすれば良いと教えています。マタイの福音書6:33-34は大変有名なみことばです。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」
人生において何を中心に求めるべきか。色々な事があれば、その問題を一番考えやすいのですが、「神の国と神の義」を第一に求めたら良いということです。神を熱心に求めたら、全てが付け加えられるのです。
「明日のための心配は無用です。明日の心配は明日がします。」とは、面白い表現です。私たちは瞬間しか生きる事ができない存在です。明日はどうなるのか分かりません。もしかしたら、明日は来ないかもしれません。しかし「明日」とは、神ご自身のことです。明日を確実に持っておられるお方、それが天地万物を造られた神、イエス・キリストです。私たちは明日を持っていませんが、神様は明日を確実に持っておられます。「今日のことだけを考えて生きていきなさい」と語られています。このように気持ちを整理して歩むことができたら、すばらしいです。しかしそれは、ただ言葉の遊びではなく、本当にそのことをなして下さる神様が共におられるからです。
「心配する」というギリシャ語の概念の中に、「分解する」という意味が含まれているそうです。私は物を分解するのが大好きです。何でも、ちょっと分解してみたいという気持ちでいっぱいです。「どんな構造になっているのか」と興味があります。しかし組み立てるのは苦手です。
心配というのは一つの物事を分解することによって、ウイルスのように増大します。私は以前一人のおじいさんをよく訪問しました。おじいさんは少し心臓が悪くて、訪問すると、いつも同じ位置に座って、暗い顔をしていました。こたつの上には、いつも一冊の分厚い本が置いてありました。聖書かなと思うと、そうではなく、「家庭の医学」という本でした。そして自分の身に起きている症状を一つ一つ調べ、「お腹が痛い。ガンかもしれない。腸のほうにも、いや全身に、すでに移転しているかもしれない。」と。家庭の医学を読みながら、いつも心配していました。話すことと言えば、現在の自分の症状から、「どのような重大な病が隠れている可能性があるか」という事でした。私は「おじいさん、あまり心配しなくてもいいですよ。もう、十分生きたことだし、こんな家庭の医学などで縛られるより、聖書を読んで自由に生きた方がずっといいですよ。」と言ったのですが、「いやいや心配で」と。いつも病気を恐れていました。家庭の医学の本を読むより、もっと自由に生きたら楽しいはずです。おじいさんはほとんど毎日同じ場所に座って、家庭の医学の本を読みながら、心配しながら人生を生きたのです。多分そのまま人生を終えたでしょう。とにかく、そのおじいさんは一つのことを分解するのが得意でした。
しかし私たちも色々な事が起きると、分解して心配します。子供が病気になれば、「重大な病ではないか。ああなったら、こうなったら」と。豊かな想像力を働かせて、どんどん問題が大きくなるのです。でも神様は何と言われるかというと、詩篇68:19に「ほむべきかな、日々、私達のために重荷を担われる主。私達の救いであられる神」。
これを新共同訳聖書で見ると、「主をたたえよ。日々、私たちを担い、救われる神を。」となっています。私たちの神は、日々私たちを担って下さるお方です。有名な詩に「砂の上の足跡」というのがあります。これは大変有名で、多くの人々を励ました詩です。「ある晩、男が夢を見ていた。夢の中で彼は、主と並んで浜辺を歩いているのだった。そして空の向こうには、彼のこれまでの人生が映し出されては消えていった。どの場面でも、砂の上には二人の足跡が残されていた。一つは彼自身のもの、もう一つは主のものだった。人生のつい先ほどの場面が目の前から消えていくと、彼は振り返り、砂の上の足跡を眺めた。すると、彼の道のりには、一人の足跡しか残っていない場所がいくつもあるのだった。しかもそれは彼の人生の中で、特に辛く悲しい時におきているのだった。すっかり悩んでしまった彼は、主にその事を尋ねてみた。『主よ、私があなたに従って生きると決めた時、あなたは私と一緒に歩いて下さると仰せられました。しかし私の人生の最も困難な所ではいつも一人の足跡しか残っていないではありませんか。私が一番、あなたを必要としていた時、なぜあなたは私を見捨てられたのですか。』主は答えた。『わが子よ、わたしの大切な子どもよ。わたしはあなたを愛している。わたしはあなたを見捨てはしない。あなたの試練と苦しみの時に一人の足跡しか残されていないのは、その時はわたしがあなたを背負って歩いていたのだ。」
時々苦しい事があったりすると、神様は自分から離れてしまったのではないか。一人ぼっちではないか。そんな気分になることがあります。でもその時、神様はこう言われます。「足跡をよく見て下さい。それはあなたの足跡ではなく、わたしの足跡です。普段の足跡よりも深くめり込んでいるでしょう。それは、あなたをかついで救いだしたからです。」
この詩は誰が作ったのか、分からないと言われていましたが、カナダのご婦人が作ったというのが判明したそうです。どんな時に判明したかというと、この詩を作った婦人がご主人と子どもと共に海難事故に遭い、大変な試練に投げ込まれました。幸いにも救助されて命は助けられたのですが、病院で看護士さんが、「この詩を読むと励まされますよ」と言って、彼女にこの詩を紹介したそうです。それは、かつて自分(その婦人)が作った「砂の上の足跡」という詩だったというのです。
この「砂の上の足跡」は感動的な詩ですが、聖書に照らし合わせると、少し違います。なぜなら、先ほどの聖書のみことばには、何と記されていたかというと、「日々私たちを担い、救われる神を。」となっていました。大変な時だけ、担いでくれる神ではなく、「日々担って下さる神」なのです。だからこの詩以上に素晴らしい神です。日々私たちを担い、救いだして下さる神が共にいて下さる、その事を知るだけで励まされます。お母さんが子どもを背負っている姿を、昔はよく見かけました。同じように神様は私たちを背負って、どんな状況の中からも助け出して下さいます。
私たちは日々色々な重荷を負いながらやっていますが、それらを全て自分で背負い込んでしまったら、ノイローゼになってしまいます。しかし主が共にいて下さり、主が負って下さると信じて、日々、重荷を降ろして歩んで頂きたいと思います。世界で最も大きな重荷を負った人物といえば、もちろんイエス様ですが、人間としてはやはり「モーセ」だと思います。モーセはパロの支配下にあった100万人ものへブル民族を解放し、エジプトから連れ出したわけです。それが何歳の時かというと、なんと「80歳」でした。80歳でそれだけの人数をパロの手から解放し、連れ出したというのは驚きです。よほど頭がおかしくなければ、そんな事はできないと思います。それも、どこへ連れ出したかというと、砂漠へ連れ出しました。砂漠に100万人もが食べる食物があるのか、それを分かっていたのかと聞きたくなります。しかし、よくやったものです。
彼は民を砂漠に連れ出しました。民から文句が出ないはずがありません。彼は初めは元気に進んで行きましたが、だんだんパワー・ダウンしたのです。イテロが心配して、「モーセ、組織を作った方がいいよ。」と勧めました。それで組織作りをしました。生活の現場が砂漠ですから、皆が何を言いだしたかと言うと、「なぜ俺たちをこんな砂漠に連れ出したんだ。肉が食べたい、魚、にんにく、にら、きゅうりが食べたい。」と文句を言い始めました。それで民を連れ出した二年後を見ると、彼はだいぶ、へこんでいます。民数紀11:11「モーセは主に申し上げた。なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご好意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。」
モーセには重荷が多かったのです。しかしモーセはこの難局を切り抜けることができました。なぜできたのでしょうか。それは彼が聖霊に満たされていたからです。続いて、彼が受けていた聖霊の油注ぎが、70人の長老たちの上に注がれ、その時、難局を切り抜けることができたのです。そして問題が消え去りました。
皆さん、私たちは様々な局面に出会いますが、一番必要な事は、「聖霊の油注ぎを求める事」です。聖霊の油注ぎによって、重荷が打ち砕かれていくと聖書は告げています。イザヤ書10:27、「その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。」ここを他の聖書の訳で見ますと、「油注ぎによって砕かれる」となっています。私たちは色々な重荷を負って苦しみ、悩むことがありますが、聖霊の油注ぎが来る時に重荷が打ち砕かれます。問題がある時は何をすれば良いか。それは「神の国と神の義を求める」すなわち「聖霊の油注ぎを求め」なければいけません。聖霊の油注ぎを求める時、肩から重荷が落ちるのです。
私は毎日みことばを読み、祈りをささげていますが、それはどのような礼拝かというと、聖霊の油注ぎを求める礼拝です。聖霊の油注ぎが注がれると、問題があっても打ち砕かれていくのを体験しています。聖霊の油注ぎがなければ、一歩も進むことができません。しかし聖霊の油注ぎがあればモーセの事を考えたらよく分かりますが、80歳で100万人も連れ出すことができるのです。聖霊の油注ぎは私たちの重荷を砕きます。
しかしエジプトから引き出された民は、色々と文句を言いました。時々私たちも様々な問題に出会うと、「何でこんな事になったんだ。こんな家に生まれたせいだ。この仕事のせいだ。」等々文句が出てきます。実はエジプトから引き出された民はある大切なことを理解していなかったのです。それが、自分たちが解放されたのは、ただ単に奴隷から、重労働から解放されたという理解しかなかったのです。だから初めは感謝していたのが、荒野に出て同じような環境になると、また文句が出たわけです。
神はへブル民族をどこから解放したかというと、民数紀33:4、「エジプトは彼らの間で、主が打ち殺された全ての初子を埋葬していた。主は、彼らの神々に裁きを下された。」と記されています。へブル民族が解放された決め手は、エジプトの長男がみんな殺された事件でした。その意味は、「エジプトの神々に対する裁き」だったというのです。その結果、解放が起きました。
これは何を意味しているのかと言うと、時々私たちは表面的な様子だけ見て、苦しいことや悲しい事が無くなれば、それで良いと思うのですが、ヘブル人たちもただ重労働や、エジプトの支配からの表面的な解放しか考えていなかったのです。それでまた砂漠でつらい環境に出されたら、不平・不満が出たわけです。実はこの解放とは表面的なものではなく、霊的解放だったのです。根本的には「エジプトの神々」すなわち「エジプトを支配していた悪霊どもからの解放」でした。その結果として、彼らはエジプトから自由になったわけです。
霊的戦いに気づくと、重荷が軽くなり、心配がなくなります。私たちは表面しか見る事が出来ず、霊的な領域に対して理解がないので苦しめられます。しかし「この問題は見えない世界に発生源がある」と気付かされたら、重荷が落ちるのです。
マタイの福音書11:28のみことばは、私たちに励ましを与えるものです。多くの教会が看板に掲げているみことばです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
今日、もしも人生に疲れている方がおられたら、イエス様の所に来たら良いのです。この頃、日本でも自殺が多いですが、韓国も自殺する人が本当に多いです。更に今世界規模で起きている戦争や伝染病で亡くなる方々が多くいて、その当事者や世話する人々は背負いきれない重荷があります。しかしもしイエス様のところに来たら、重荷を取り去って、休ませて下さいます。もし皆さんの周りで、自殺するほど悩んでいる人がいたら、イエス様を紹介して下さい。絶対に変わりますから。イエス様に出会ったら、人生が変わります。教会はそのための所ですから、もし皆さんの周りに大きな悩みを持っておられる人がいれば、「教会に行きましょう。イエス様と出会って下さい。」と勧めて頂きたいと思います。
イエス様に出会ったら、今申し上げたように見えない敵の力が分かるのです。そうすると、イエス様と共に敵に立ち向かい、その結果、重荷が消えていく事を体験します。実は「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしの所に来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」という言葉は単独で使われているのですが、聖書を読む時には文脈をよく見なければいけません。この言葉が語られた背景はマタイの福音書11章とルカの福音書を比べると、よく分かります。ルカの福音書10:17-22『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」』
70人の弟子たちが宣教に出て行く前に「あなたがたを送り出すのは、狼の中に羊を送るようなものだ。」と言われ、弟子たちは恐れながら出て行きました。しかし結果は「大勝利」でした。イエス様の御名を使うと、悪霊どもでさえ服従し、弟子たちは喜んで帰って来たのです。その時イエス様が何と語られたかというと、マタイの福音書11:27-28です。「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
これはルカの福音書10:22と対応しているのです。70人の弟子たちが、霊的戦いに勝利して帰ってきた後、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」と語られたのです。
それは私たちが敵の力に立ち向かう時、その中で休みを得ることができ、勝利を得ることもできると教えているのです。霊的戦いの重荷は決して重いものではないと教えています。「悪魔や悪霊と戦ったら、恐ろしいのではないか。」と思うかもしれませんが、実は「その重荷は軽く、大勝利があり、もしも重荷があればイエス様が休ませ、癒して下さる。」のです。霊的戦いに気付けば重荷が消えていく事を、全体的に教えているのです。
私たちは必ず勝利ある人生を送ることができます。その約束をここに見る事ができます。今日もしも心配があれば、全て主に委ねましょう。
最後にもう一度詩篇55:22節を読み、終りにしたいと思います。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」
「あなた」を「私」と置き換えて、大きな声で読んでみましょう。「私の重荷を主にゆだねよ。主は、私のことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」
ご一緒にお祈りしたいと思います。今日は、自分の持っている重荷を、主にお渡しする祈りをしましょう。「イエス様、私が持っている重荷を差し上げます。丸投げします。どうか、私を支えて下さい。この重荷の背後で働く敵の力を打ち破る権威を与えて下さっている事を感謝します。」と。しばらくの間、祈りの時を持ちましょう。
お祈り、
主よ。今私たちは、自分の重荷を主にお渡しいたします。何一つ残さずにあなたに任せますから、受け取ってください。またこの問題の背後で働いている、敵の力に勝利する権威を授けて下さっていることを感謝します。「蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を与えた。」と主は言われます。感謝します。今日は油注ぎの中で、全ての重荷が砕かれますように。すべての心配事がなくなりますように。主よ。あなたは日々私たちを背負って下さいますから感謝します。全ての重荷が取り去られ、自由な者として、多くの重荷を負っている人々のために、福音を伝えることができますように。あの70人の遣わされた者たちのように、働くことができるようにお願いいたします。お一人ひとりを祝福して下さい。イエス様の御名によって、感謝してお祈りいたします。アーメン。
皆さん、主が私たちのことを心配して下さっています。なんと素晴らしいことでしょう。他人から「あなたの事を心配していますよ」と言われても、励ましにしかなりませんが、神様が私たちの事を「心配して下さる」のは、ヘブライ語の原文で見ますと、「支えて下さる」という意味です。
この頃は心配が多いです。コロナウイルスが全世界に広がり、もしかしたら全人類が滅亡するかもしれないという危機を通りました。これは、「グローバル・パンデミック」と呼び、いわゆる世界大流行として、また起こりうる伝染病です。今戦争もあり、全世界が絶滅するかもしれないという危機に直面しているわけです。
この時代にあって、私たちは色々と考えさせられます。人は目に見えないウイルスがあちこち飛び回るだけで、倒れていくような弱い存在です。目に見えない敵に怯えているのです。しかし私たちクリスチャンは素晴らしい事に「神が心配して下さっている」と約束されていますから、私たちは神のみことばの上に、約束の上に、土台を置かなければいけません。どんなことが起きようとも、主が私たちの事を心配しておられると信じなければなりません。「主は決して、正しいものが揺るがされるようにはなさらない。」とありますから。
さて「正しい者は揺るがされない」とありますが、今度は「正しいかどうか」が問題になります。しかしイエス様が私たちの罪の身代わりとなり、十字架にかかって死んでくださったのですから、多少汚れがあったとしても、十字架の血潮によりきよめられ、義と認められ、正しいと見なされるわけです。このみことばは「主を信じる者たち」に対して語られているみことばです。
ヨハネの福音書14:1にも、大変素晴らしいみことばがあります。これはイエス様が十字架にかかる前、心騒いでいた弟子たちに語られたみことばです。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」私たちは時々、心を騒がせることがありますが、そんな時に主は私たちに語られます。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、また『わたし』イエス・キリストを信じなさい。」と。
誰かが気遣ってくれる、心配してくれるというのは、とても嬉しい事です。「愛」とは何かというと、やはりある人に対して気遣っているかどうかだと思います。「愛していますよ」と言っても、何の気遣いもなければ、愛ではありません。「気遣っている、気になっている」それは愛している証拠です。イエス様は私たちのことが気になって、気になって、しょうがないわけです。
皆さんも、家族のことや、友達、愛している人のことを気になると思います。もし何かあれば、「大丈夫かな。何とかならないか。」そういう気持ちがあります。「愛する」というのは気遣う事です。神様が私たちのことを、「心配して下さっている」のです。そればかりか「あなたの重荷をゆだねなさい」と語られています。
時々私たちは、自分で重荷を抱え込んでしまって、ゆだねる事が出来ない事があります。しかし、私たちは既に主のみ手の上で運ばれていますから、「心配しないで、その荷物を下ろしなさい。」と言われるのです。
ある時、トラックの運転手が大きな荷物を背負ったおばあさんが道を歩いているのを見かけたそうです。それで親切な運転手さんは車を止めて、おばあさんを荷台にのせてあげました。おばあさんは「本当に申し訳ありません」と言い、荷台に乗りました。しばらく走ってバックミラーで見るとなんとおばあさんは、荷台に荷物を背負ったまま、座っていたそうです。それで運転手さんは車を止めて、「おばあさん、荷物を下に置いて下さいよ。」と勧めると、「いや、車に乗せて頂いて、その上荷物まで下ろさせていただいたら、申し訳ない。」と答えたそうです。おばあさんの気持ちも分からないではありませんが、トラックに乗っていれば、荷物も既に運ばれていますから、遠慮せず降ろせば良いのです。
私たちも、そういうところがあると思います。永遠の神のみ手の中に抱かれ、運ばれていますが、「この荷物は自分で背負う」とがんばってしまいます。徳川家康が言ったように、「人生とは重荷を背負って遠い道を行くことだ」と頑張るのです。聖書は、「あなたが背負っている荷物を降ろしなさい」と語っています。英語の聖書では、「Cast your burden on the Lord」となっています。「Cast」とは、「投げる」という意味もあります。時々政治家が官僚に問題を丸投げしているとか聞きますが、丸投げは良い意味では使われません。しかし私たちは神様にすべての問題を丸投げして良いのです。
重荷を、「イエス様、あなたに任せます。」とお委ねすれば良いと教えています。マタイの福音書6:33-34は大変有名なみことばです。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」
人生において何を中心に求めるべきか。色々な事があれば、その問題を一番考えやすいのですが、「神の国と神の義」を第一に求めたら良いということです。神を熱心に求めたら、全てが付け加えられるのです。
「明日のための心配は無用です。明日の心配は明日がします。」とは、面白い表現です。私たちは瞬間しか生きる事ができない存在です。明日はどうなるのか分かりません。もしかしたら、明日は来ないかもしれません。しかし「明日」とは、神ご自身のことです。明日を確実に持っておられるお方、それが天地万物を造られた神、イエス・キリストです。私たちは明日を持っていませんが、神様は明日を確実に持っておられます。「今日のことだけを考えて生きていきなさい」と語られています。このように気持ちを整理して歩むことができたら、すばらしいです。しかしそれは、ただ言葉の遊びではなく、本当にそのことをなして下さる神様が共におられるからです。
「心配する」というギリシャ語の概念の中に、「分解する」という意味が含まれているそうです。私は物を分解するのが大好きです。何でも、ちょっと分解してみたいという気持ちでいっぱいです。「どんな構造になっているのか」と興味があります。しかし組み立てるのは苦手です。
心配というのは一つの物事を分解することによって、ウイルスのように増大します。私は以前一人のおじいさんをよく訪問しました。おじいさんは少し心臓が悪くて、訪問すると、いつも同じ位置に座って、暗い顔をしていました。こたつの上には、いつも一冊の分厚い本が置いてありました。聖書かなと思うと、そうではなく、「家庭の医学」という本でした。そして自分の身に起きている症状を一つ一つ調べ、「お腹が痛い。ガンかもしれない。腸のほうにも、いや全身に、すでに移転しているかもしれない。」と。家庭の医学を読みながら、いつも心配していました。話すことと言えば、現在の自分の症状から、「どのような重大な病が隠れている可能性があるか」という事でした。私は「おじいさん、あまり心配しなくてもいいですよ。もう、十分生きたことだし、こんな家庭の医学などで縛られるより、聖書を読んで自由に生きた方がずっといいですよ。」と言ったのですが、「いやいや心配で」と。いつも病気を恐れていました。家庭の医学の本を読むより、もっと自由に生きたら楽しいはずです。おじいさんはほとんど毎日同じ場所に座って、家庭の医学の本を読みながら、心配しながら人生を生きたのです。多分そのまま人生を終えたでしょう。とにかく、そのおじいさんは一つのことを分解するのが得意でした。
しかし私たちも色々な事が起きると、分解して心配します。子供が病気になれば、「重大な病ではないか。ああなったら、こうなったら」と。豊かな想像力を働かせて、どんどん問題が大きくなるのです。でも神様は何と言われるかというと、詩篇68:19に「ほむべきかな、日々、私達のために重荷を担われる主。私達の救いであられる神」。
これを新共同訳聖書で見ると、「主をたたえよ。日々、私たちを担い、救われる神を。」となっています。私たちの神は、日々私たちを担って下さるお方です。有名な詩に「砂の上の足跡」というのがあります。これは大変有名で、多くの人々を励ました詩です。「ある晩、男が夢を見ていた。夢の中で彼は、主と並んで浜辺を歩いているのだった。そして空の向こうには、彼のこれまでの人生が映し出されては消えていった。どの場面でも、砂の上には二人の足跡が残されていた。一つは彼自身のもの、もう一つは主のものだった。人生のつい先ほどの場面が目の前から消えていくと、彼は振り返り、砂の上の足跡を眺めた。すると、彼の道のりには、一人の足跡しか残っていない場所がいくつもあるのだった。しかもそれは彼の人生の中で、特に辛く悲しい時におきているのだった。すっかり悩んでしまった彼は、主にその事を尋ねてみた。『主よ、私があなたに従って生きると決めた時、あなたは私と一緒に歩いて下さると仰せられました。しかし私の人生の最も困難な所ではいつも一人の足跡しか残っていないではありませんか。私が一番、あなたを必要としていた時、なぜあなたは私を見捨てられたのですか。』主は答えた。『わが子よ、わたしの大切な子どもよ。わたしはあなたを愛している。わたしはあなたを見捨てはしない。あなたの試練と苦しみの時に一人の足跡しか残されていないのは、その時はわたしがあなたを背負って歩いていたのだ。」
時々苦しい事があったりすると、神様は自分から離れてしまったのではないか。一人ぼっちではないか。そんな気分になることがあります。でもその時、神様はこう言われます。「足跡をよく見て下さい。それはあなたの足跡ではなく、わたしの足跡です。普段の足跡よりも深くめり込んでいるでしょう。それは、あなたをかついで救いだしたからです。」
この詩は誰が作ったのか、分からないと言われていましたが、カナダのご婦人が作ったというのが判明したそうです。どんな時に判明したかというと、この詩を作った婦人がご主人と子どもと共に海難事故に遭い、大変な試練に投げ込まれました。幸いにも救助されて命は助けられたのですが、病院で看護士さんが、「この詩を読むと励まされますよ」と言って、彼女にこの詩を紹介したそうです。それは、かつて自分(その婦人)が作った「砂の上の足跡」という詩だったというのです。
この「砂の上の足跡」は感動的な詩ですが、聖書に照らし合わせると、少し違います。なぜなら、先ほどの聖書のみことばには、何と記されていたかというと、「日々私たちを担い、救われる神を。」となっていました。大変な時だけ、担いでくれる神ではなく、「日々担って下さる神」なのです。だからこの詩以上に素晴らしい神です。日々私たちを担い、救いだして下さる神が共にいて下さる、その事を知るだけで励まされます。お母さんが子どもを背負っている姿を、昔はよく見かけました。同じように神様は私たちを背負って、どんな状況の中からも助け出して下さいます。
私たちは日々色々な重荷を負いながらやっていますが、それらを全て自分で背負い込んでしまったら、ノイローゼになってしまいます。しかし主が共にいて下さり、主が負って下さると信じて、日々、重荷を降ろして歩んで頂きたいと思います。世界で最も大きな重荷を負った人物といえば、もちろんイエス様ですが、人間としてはやはり「モーセ」だと思います。モーセはパロの支配下にあった100万人ものへブル民族を解放し、エジプトから連れ出したわけです。それが何歳の時かというと、なんと「80歳」でした。80歳でそれだけの人数をパロの手から解放し、連れ出したというのは驚きです。よほど頭がおかしくなければ、そんな事はできないと思います。それも、どこへ連れ出したかというと、砂漠へ連れ出しました。砂漠に100万人もが食べる食物があるのか、それを分かっていたのかと聞きたくなります。しかし、よくやったものです。
彼は民を砂漠に連れ出しました。民から文句が出ないはずがありません。彼は初めは元気に進んで行きましたが、だんだんパワー・ダウンしたのです。イテロが心配して、「モーセ、組織を作った方がいいよ。」と勧めました。それで組織作りをしました。生活の現場が砂漠ですから、皆が何を言いだしたかと言うと、「なぜ俺たちをこんな砂漠に連れ出したんだ。肉が食べたい、魚、にんにく、にら、きゅうりが食べたい。」と文句を言い始めました。それで民を連れ出した二年後を見ると、彼はだいぶ、へこんでいます。民数紀11:11「モーセは主に申し上げた。なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご好意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。」
モーセには重荷が多かったのです。しかしモーセはこの難局を切り抜けることができました。なぜできたのでしょうか。それは彼が聖霊に満たされていたからです。続いて、彼が受けていた聖霊の油注ぎが、70人の長老たちの上に注がれ、その時、難局を切り抜けることができたのです。そして問題が消え去りました。
皆さん、私たちは様々な局面に出会いますが、一番必要な事は、「聖霊の油注ぎを求める事」です。聖霊の油注ぎによって、重荷が打ち砕かれていくと聖書は告げています。イザヤ書10:27、「その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。」ここを他の聖書の訳で見ますと、「油注ぎによって砕かれる」となっています。私たちは色々な重荷を負って苦しみ、悩むことがありますが、聖霊の油注ぎが来る時に重荷が打ち砕かれます。問題がある時は何をすれば良いか。それは「神の国と神の義を求める」すなわち「聖霊の油注ぎを求め」なければいけません。聖霊の油注ぎを求める時、肩から重荷が落ちるのです。
私は毎日みことばを読み、祈りをささげていますが、それはどのような礼拝かというと、聖霊の油注ぎを求める礼拝です。聖霊の油注ぎが注がれると、問題があっても打ち砕かれていくのを体験しています。聖霊の油注ぎがなければ、一歩も進むことができません。しかし聖霊の油注ぎがあればモーセの事を考えたらよく分かりますが、80歳で100万人も連れ出すことができるのです。聖霊の油注ぎは私たちの重荷を砕きます。
しかしエジプトから引き出された民は、色々と文句を言いました。時々私たちも様々な問題に出会うと、「何でこんな事になったんだ。こんな家に生まれたせいだ。この仕事のせいだ。」等々文句が出てきます。実はエジプトから引き出された民はある大切なことを理解していなかったのです。それが、自分たちが解放されたのは、ただ単に奴隷から、重労働から解放されたという理解しかなかったのです。だから初めは感謝していたのが、荒野に出て同じような環境になると、また文句が出たわけです。
神はへブル民族をどこから解放したかというと、民数紀33:4、「エジプトは彼らの間で、主が打ち殺された全ての初子を埋葬していた。主は、彼らの神々に裁きを下された。」と記されています。へブル民族が解放された決め手は、エジプトの長男がみんな殺された事件でした。その意味は、「エジプトの神々に対する裁き」だったというのです。その結果、解放が起きました。
これは何を意味しているのかと言うと、時々私たちは表面的な様子だけ見て、苦しいことや悲しい事が無くなれば、それで良いと思うのですが、ヘブル人たちもただ重労働や、エジプトの支配からの表面的な解放しか考えていなかったのです。それでまた砂漠でつらい環境に出されたら、不平・不満が出たわけです。実はこの解放とは表面的なものではなく、霊的解放だったのです。根本的には「エジプトの神々」すなわち「エジプトを支配していた悪霊どもからの解放」でした。その結果として、彼らはエジプトから自由になったわけです。
霊的戦いに気づくと、重荷が軽くなり、心配がなくなります。私たちは表面しか見る事が出来ず、霊的な領域に対して理解がないので苦しめられます。しかし「この問題は見えない世界に発生源がある」と気付かされたら、重荷が落ちるのです。
マタイの福音書11:28のみことばは、私たちに励ましを与えるものです。多くの教会が看板に掲げているみことばです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
今日、もしも人生に疲れている方がおられたら、イエス様の所に来たら良いのです。この頃、日本でも自殺が多いですが、韓国も自殺する人が本当に多いです。更に今世界規模で起きている戦争や伝染病で亡くなる方々が多くいて、その当事者や世話する人々は背負いきれない重荷があります。しかしもしイエス様のところに来たら、重荷を取り去って、休ませて下さいます。もし皆さんの周りで、自殺するほど悩んでいる人がいたら、イエス様を紹介して下さい。絶対に変わりますから。イエス様に出会ったら、人生が変わります。教会はそのための所ですから、もし皆さんの周りに大きな悩みを持っておられる人がいれば、「教会に行きましょう。イエス様と出会って下さい。」と勧めて頂きたいと思います。
イエス様に出会ったら、今申し上げたように見えない敵の力が分かるのです。そうすると、イエス様と共に敵に立ち向かい、その結果、重荷が消えていく事を体験します。実は「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしの所に来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」という言葉は単独で使われているのですが、聖書を読む時には文脈をよく見なければいけません。この言葉が語られた背景はマタイの福音書11章とルカの福音書を比べると、よく分かります。ルカの福音書10:17-22『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」』
70人の弟子たちが宣教に出て行く前に「あなたがたを送り出すのは、狼の中に羊を送るようなものだ。」と言われ、弟子たちは恐れながら出て行きました。しかし結果は「大勝利」でした。イエス様の御名を使うと、悪霊どもでさえ服従し、弟子たちは喜んで帰って来たのです。その時イエス様が何と語られたかというと、マタイの福音書11:27-28です。「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
これはルカの福音書10:22と対応しているのです。70人の弟子たちが、霊的戦いに勝利して帰ってきた後、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」と語られたのです。
それは私たちが敵の力に立ち向かう時、その中で休みを得ることができ、勝利を得ることもできると教えているのです。霊的戦いの重荷は決して重いものではないと教えています。「悪魔や悪霊と戦ったら、恐ろしいのではないか。」と思うかもしれませんが、実は「その重荷は軽く、大勝利があり、もしも重荷があればイエス様が休ませ、癒して下さる。」のです。霊的戦いに気付けば重荷が消えていく事を、全体的に教えているのです。
私たちは必ず勝利ある人生を送ることができます。その約束をここに見る事ができます。今日もしも心配があれば、全て主に委ねましょう。
最後にもう一度詩篇55:22節を読み、終りにしたいと思います。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」
「あなた」を「私」と置き換えて、大きな声で読んでみましょう。「私の重荷を主にゆだねよ。主は、私のことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」
ご一緒にお祈りしたいと思います。今日は、自分の持っている重荷を、主にお渡しする祈りをしましょう。「イエス様、私が持っている重荷を差し上げます。丸投げします。どうか、私を支えて下さい。この重荷の背後で働く敵の力を打ち破る権威を与えて下さっている事を感謝します。」と。しばらくの間、祈りの時を持ちましょう。
お祈り、
主よ。今私たちは、自分の重荷を主にお渡しいたします。何一つ残さずにあなたに任せますから、受け取ってください。またこの問題の背後で働いている、敵の力に勝利する権威を授けて下さっていることを感謝します。「蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を与えた。」と主は言われます。感謝します。今日は油注ぎの中で、全ての重荷が砕かれますように。すべての心配事がなくなりますように。主よ。あなたは日々私たちを背負って下さいますから感謝します。全ての重荷が取り去られ、自由な者として、多くの重荷を負っている人々のために、福音を伝えることができますように。あの70人の遣わされた者たちのように、働くことができるようにお願いいたします。お一人ひとりを祝福して下さい。イエス様の御名によって、感謝してお祈りいたします。アーメン。
合計 178
手順 | タイトル | 投稿者 | 投稿日 | 推薦 | 閲覧数 |
178 |
New マタイの福音書22:35-40(イエス様の誕生、十字架の愛)
tbic
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2024.12.24
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推薦 1
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閲覧数 23
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tbic | 2024.12.24 | 1 | 23 |
177 |
New ルカの福音書6:20-21(貧しい人々のクリスマス)
tbic
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2024.12.24
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推薦 1
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閲覧数 24
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tbic | 2024.12.24 | 1 | 24 |
176 |
マラキ書4:1-3(義の太陽であるイエス様)
tbic
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2024.12.15
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閲覧数 30
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tbic | 2024.12.15 | 2 | 30 |
175 |
ルカの福音書10:1-9 (さあ、リバイバルの町へ出よう)
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2024.12.08
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推薦 1
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閲覧数 52
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tbic | 2024.12.08 | 1 | 52 |
174 |
マタイの福音書6:20-24(自分のために、天に宝をたくわえなさい)
tbic
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2024.12.01
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推薦 1
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閲覧数 63
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tbic | 2024.12.01 | 1 | 63 |
173 |
ルカの福音書10:25-28(あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ)
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2024.11.24
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tbic | 2024.11.24 | 2 | 69 |
172 |
詩篇32:1-11(私にとって一番大きな感謝とは)
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2024.11.18
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推薦 1
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171 |
列王記第一19:13-18(うつ状態からの脱出)
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2024.11.10
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170 |
創世記14:17-24(聖書から学ぶ金銭管理)
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2024.11.03
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169 |
詩篇 121:1-2(ゆるがない平安を持つ秘訣)
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2024.10.27
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