メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
列王記第一19:13-18(うつ状態からの脱出)
投稿者
tbic
投稿日
2024-11-10 18:35
閲覧数
108
列王記第一19:13-18『エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て洞穴の入り口に立った。すると声がして、こう言った。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」主は彼に言われた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。ハザエルの剣を逃れる者をエフーが殺し、エフーの剣を逃れる者をエリシャが殺す。しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。」』
21世紀に生きる私たちにとって一番脅威的なサタンの攻撃は「うつ病」だと思います。うつになったらどうなるのでしょうか。すべての意欲が消えて、力を失ってしまいます。体がだるくてやる気が全然沸いてこない状態になります。これは男女、年齢と関係ありません。みんなに適用できる共通の問題です。つまり「うつというのは精神的に弱くなった」という意味です。そしてさらに、もっと大きな問題になるのは「集団うつ病」の現象です。今は集団怒り、集団暴力、集団自殺が広がりつつあります。
このうつ状態は社会の問題だけでなく、クリスチャンの中でも教会の中でも、起きているのが現実です。一般的にクリスチャンといえば、純粋で親切だし、節約しながらしっそな生き方をすることで肯定的なイメージが強いのです。しかし今クリスチャンの現実はどうでしょうか。悩みも多く、真理を求める人生がとても論争的です。もちろん聖書的ですが、攻撃的な性格が多いのが現実です。最初は喜んで信仰に入るのですが、後では暗くて、親切より攻撃的に変わり、心が閉ざされて、結局うつ病になるクリスチャンが多くなっているのが今のキリスト教の現実です。だから私たちはいつも明るい光の前に出て進まなければなりません。光であられるイエス様にしがみついて、自分の心の管理をちゃんとしなければなりません。
今日の本文、列王記第一19章を読んでみますと、うつ状態のエリヤの姿を見ることができます。これがますます深刻になって、burn outになったエリヤは、大変な苦しみを経験しています。
人間はみんな失敗し、倒れます。だから今日の本文は私たちに大切な教訓を与える箇所です。私たちは教会でもどこでも、「すべてを自分がやるのではなく、神さまがなさることだ。」とちゃんと認識し、relaxする必要があります。歯を食いしばって、がんばる戦闘の姿勢はクリスチャンの姿ではありません。例えば、ソロモンは自分が全部コントロールしようとしたから、人生がうまく行かずにダメになって、最後にはめちゃくちゃに失敗しました。しかしダビデは自分がコントロールせずに人生のすべてを主に委ねたから、勝利したということです。
だから私たちも人生の中で失敗したとき、主に自分の人生を委ね、主からの恵みだけを求めるのであれば、必ず再び立ち上がることができます。
普通、うつ病の人々はプライドがあまりにも強くて、彼らのプライド(自我)に触れることはできません。彼らは自我が弱くなる場所、プライドを傷つけられるところを避けようとするから、対人忌避症、対人恐怖症のような問題を経験します。つまりこういう人々は弱いから問題が発生するのではなく、あまりにも強いから問題が発生したということです。だから私たちは弱くなることを恐れてはならないし、その状態をいつも受け入れなければなりません。
だからこそ、十字架を覚えなければなりません。十字架は弱さと恥、混沌の極致です。十字架は自分の人生のどん底を受け入れ、神様に対する絶対信頼を通して、いのちを体験し、それによってむしろ、以前よりもっと素晴らしい人生を経験することです。
伝道者の書を読んでみますと、完璧だったソロモンの人生は無意味だったことが分かります。しかしダビデは失敗したり、倒れたり、また自分をバカにし、のろう人までも認めたから力強く、美しい人生を生きることができたわけです。
皆さん、自分に対する呪いも神様が善に変えてくだされば、益になることを覚えてください。つまりすべてを主に委ねれば、一番不幸な状況も祝福に変わるケースがたくさんあります。私もそれを何度も体験しているし、神の世界にはゴミ箱がありません。全部用いられます。ローマ人への手紙8:28、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
結局、私たちは主の御前ですべてを受け入れる、悪い出来事さえも受け入れる人生を生きなければなりません。
しかしエリヤの姿はどうだったのでしょうか。今日の本文、14節の後半のところに「、、ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」
エリヤは自分がすべての重荷を負っていく人生を生きていったということです。しかし神様は自分一人ですべての重荷を負ってはならないと言われます。つまり、神様が私たちの主権者であり、すべての道を整え、備えてくださることを信じ、委ねて進まなければなりません。主の御前にすべてを降ろして委ねれば、以前よりもっと大きな栄光を体験するはずです。
だから、1.あまり分析的な人生を生きてはなりません。
ソロモンのように分析的な人生を生きると、とても疲れます。分析したからといって、私たちの人生の問題が解決されるわけではありません。人生は論理が支配するのではなく、神の愛がすべての問題を解決し、道を開いてくださることを、私たちは忘れてはなりません。
新約聖書を読んでも、弟子たちの行動はそれぞれが異なります。ピリポは分析的な人でした。イエス様のパン五つと魚二匹の奇跡を体験した時も、ピリポは「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。(ヨハネ6:7)」と言ったわけです。しかしイエス様が願っていたのはピリポの信仰でした。信仰をもってほしかったのです。それとは違って、ペテロは信仰の飛躍を見せます。イエス様がピリポ・カイザリヤに行かれた時、弟子たちに聞いたのです。マタイの福音書16:15に「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」その時、有名なペテロの告白が出ます。16節『シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」』イエス様は私たちにも、こういう告白を願っておられます。
信仰の世界には「理性の世界」があり、「感情の世界」があります。だから私たちの人生には「じっくり細かく」の世界と「うっかりして何気なく」の世界があります。私たちは、ある時は「じっくり細かく」見つめなければなりません。論理の世界です。しかし、「うっかりして何気なく」から直観と魅力が出てきます。例えば、結婚の場合、「じっくり細かく」見つめれば、結婚は難しくなります。しかし、「何気なく」やってしまえば、結婚は簡単です。
結局、神様は私たちがじっくり細かく見るべき世界と、細かく見る必要がない世界を、同時に与えてくださいます。つまり神様に対してはじっくり細かく見上げ、世に対しては適当に見る必要があります。だから私たちクリスチャンはあまり分析的な人生を生きてはなりません。
エリヤは信仰の世界から、分析の世界に渡ってきたから恐れにとらわれ、うつ状態に陥ったということです。過去に信仰だけ握り締め、走った時には恐れから解放されたのですが、分析的な生き方が彼の人生を支配する瞬間、彼は恐れにとらわれ、身動きが取れなくなったのです。
だから私たちの人生も分析しながら生きるのではなく、聖霊に導かれる人生を生きなければならないし、こういう生き方が私たちの人生をもっと豊かに導きます。
この世は私たちに毎日毎日「分析しなさい」と強要します。しかし私たちは神様と共に生きる世界で、神様だけに信頼し、神の約束を握り締めて飛躍する、冒険の人生を歩まなければなりません。つまり、ダビデのように準備されていない人生でも、神の約束を握り締め、飛躍する人生を生きるのであれば、必ず勝利するということです。
だからこそ、2.使命を全うする人生を生きるべきです。
使命を全うするためには、「自分が全部しなければならない」という考えを捨てなければなりません。エリヤは自分がすべてをしなければならないと間違った考えをもっていました。しかし今日の本文、15節の以下を読みますと、神様から与えられたほとんどの使命はエリヤの後任であるエリシャが成し遂げたということです。
結局、使命というのは自分がすべてを成し遂げるという考えではなく、他の人を通しても神の使命は充分成し遂げられるという信仰を持つことです。エリヤは共に働く大切さを忘れていたということです。
皆さん、可能であれば、たくさんの人々を刺激して、共に働いてください。神様は私たち一人ひとりを通しても働きますが、私たちのみんなを通しても働きます。だからお互いに喧嘩してはなりません。教会内でも、教会同士でも喧嘩は絶対にダメです。
中国の共産党が成功した理由があります。中国の共産党は後継者を養うのに、ものすごく努力したことが分かります。つまり中国は10年単位で指導者訓練を通して、今の中国を作り出したということです。例えば、毛沢東(マオチョトゥン)を始め、リュウサオチ、ドンシャオピン、ジャンチョミン、フジンタオ、今の習近平(シーチンピン)主席に至るまで、ちゃんと指導力が受け継がれています。
もし中国がアメリカ式民主主義に基づいて選挙を導入したのであれば、今の中国を成し遂げることはできなかったと思います。むしろ共産主義の体制だから、今の中国を可能にしたということです。中国共産党は福音書の原理である弟子訓練を知っていたようです。私たちも使命を全うするために弟子訓練が必要です。ちゃんと信仰を受け継がれていく者になってください。
21世紀に生きる私たちにとって一番脅威的なサタンの攻撃は「うつ病」だと思います。うつになったらどうなるのでしょうか。すべての意欲が消えて、力を失ってしまいます。体がだるくてやる気が全然沸いてこない状態になります。これは男女、年齢と関係ありません。みんなに適用できる共通の問題です。つまり「うつというのは精神的に弱くなった」という意味です。そしてさらに、もっと大きな問題になるのは「集団うつ病」の現象です。今は集団怒り、集団暴力、集団自殺が広がりつつあります。
このうつ状態は社会の問題だけでなく、クリスチャンの中でも教会の中でも、起きているのが現実です。一般的にクリスチャンといえば、純粋で親切だし、節約しながらしっそな生き方をすることで肯定的なイメージが強いのです。しかし今クリスチャンの現実はどうでしょうか。悩みも多く、真理を求める人生がとても論争的です。もちろん聖書的ですが、攻撃的な性格が多いのが現実です。最初は喜んで信仰に入るのですが、後では暗くて、親切より攻撃的に変わり、心が閉ざされて、結局うつ病になるクリスチャンが多くなっているのが今のキリスト教の現実です。だから私たちはいつも明るい光の前に出て進まなければなりません。光であられるイエス様にしがみついて、自分の心の管理をちゃんとしなければなりません。
今日の本文、列王記第一19章を読んでみますと、うつ状態のエリヤの姿を見ることができます。これがますます深刻になって、burn outになったエリヤは、大変な苦しみを経験しています。
人間はみんな失敗し、倒れます。だから今日の本文は私たちに大切な教訓を与える箇所です。私たちは教会でもどこでも、「すべてを自分がやるのではなく、神さまがなさることだ。」とちゃんと認識し、relaxする必要があります。歯を食いしばって、がんばる戦闘の姿勢はクリスチャンの姿ではありません。例えば、ソロモンは自分が全部コントロールしようとしたから、人生がうまく行かずにダメになって、最後にはめちゃくちゃに失敗しました。しかしダビデは自分がコントロールせずに人生のすべてを主に委ねたから、勝利したということです。
だから私たちも人生の中で失敗したとき、主に自分の人生を委ね、主からの恵みだけを求めるのであれば、必ず再び立ち上がることができます。
普通、うつ病の人々はプライドがあまりにも強くて、彼らのプライド(自我)に触れることはできません。彼らは自我が弱くなる場所、プライドを傷つけられるところを避けようとするから、対人忌避症、対人恐怖症のような問題を経験します。つまりこういう人々は弱いから問題が発生するのではなく、あまりにも強いから問題が発生したということです。だから私たちは弱くなることを恐れてはならないし、その状態をいつも受け入れなければなりません。
だからこそ、十字架を覚えなければなりません。十字架は弱さと恥、混沌の極致です。十字架は自分の人生のどん底を受け入れ、神様に対する絶対信頼を通して、いのちを体験し、それによってむしろ、以前よりもっと素晴らしい人生を経験することです。
伝道者の書を読んでみますと、完璧だったソロモンの人生は無意味だったことが分かります。しかしダビデは失敗したり、倒れたり、また自分をバカにし、のろう人までも認めたから力強く、美しい人生を生きることができたわけです。
皆さん、自分に対する呪いも神様が善に変えてくだされば、益になることを覚えてください。つまりすべてを主に委ねれば、一番不幸な状況も祝福に変わるケースがたくさんあります。私もそれを何度も体験しているし、神の世界にはゴミ箱がありません。全部用いられます。ローマ人への手紙8:28、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
結局、私たちは主の御前ですべてを受け入れる、悪い出来事さえも受け入れる人生を生きなければなりません。
しかしエリヤの姿はどうだったのでしょうか。今日の本文、14節の後半のところに「、、ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」
エリヤは自分がすべての重荷を負っていく人生を生きていったということです。しかし神様は自分一人ですべての重荷を負ってはならないと言われます。つまり、神様が私たちの主権者であり、すべての道を整え、備えてくださることを信じ、委ねて進まなければなりません。主の御前にすべてを降ろして委ねれば、以前よりもっと大きな栄光を体験するはずです。
だから、1.あまり分析的な人生を生きてはなりません。
ソロモンのように分析的な人生を生きると、とても疲れます。分析したからといって、私たちの人生の問題が解決されるわけではありません。人生は論理が支配するのではなく、神の愛がすべての問題を解決し、道を開いてくださることを、私たちは忘れてはなりません。
新約聖書を読んでも、弟子たちの行動はそれぞれが異なります。ピリポは分析的な人でした。イエス様のパン五つと魚二匹の奇跡を体験した時も、ピリポは「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。(ヨハネ6:7)」と言ったわけです。しかしイエス様が願っていたのはピリポの信仰でした。信仰をもってほしかったのです。それとは違って、ペテロは信仰の飛躍を見せます。イエス様がピリポ・カイザリヤに行かれた時、弟子たちに聞いたのです。マタイの福音書16:15に「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」その時、有名なペテロの告白が出ます。16節『シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」』イエス様は私たちにも、こういう告白を願っておられます。
信仰の世界には「理性の世界」があり、「感情の世界」があります。だから私たちの人生には「じっくり細かく」の世界と「うっかりして何気なく」の世界があります。私たちは、ある時は「じっくり細かく」見つめなければなりません。論理の世界です。しかし、「うっかりして何気なく」から直観と魅力が出てきます。例えば、結婚の場合、「じっくり細かく」見つめれば、結婚は難しくなります。しかし、「何気なく」やってしまえば、結婚は簡単です。
結局、神様は私たちがじっくり細かく見るべき世界と、細かく見る必要がない世界を、同時に与えてくださいます。つまり神様に対してはじっくり細かく見上げ、世に対しては適当に見る必要があります。だから私たちクリスチャンはあまり分析的な人生を生きてはなりません。
エリヤは信仰の世界から、分析の世界に渡ってきたから恐れにとらわれ、うつ状態に陥ったということです。過去に信仰だけ握り締め、走った時には恐れから解放されたのですが、分析的な生き方が彼の人生を支配する瞬間、彼は恐れにとらわれ、身動きが取れなくなったのです。
だから私たちの人生も分析しながら生きるのではなく、聖霊に導かれる人生を生きなければならないし、こういう生き方が私たちの人生をもっと豊かに導きます。
この世は私たちに毎日毎日「分析しなさい」と強要します。しかし私たちは神様と共に生きる世界で、神様だけに信頼し、神の約束を握り締めて飛躍する、冒険の人生を歩まなければなりません。つまり、ダビデのように準備されていない人生でも、神の約束を握り締め、飛躍する人生を生きるのであれば、必ず勝利するということです。
だからこそ、2.使命を全うする人生を生きるべきです。
使命を全うするためには、「自分が全部しなければならない」という考えを捨てなければなりません。エリヤは自分がすべてをしなければならないと間違った考えをもっていました。しかし今日の本文、15節の以下を読みますと、神様から与えられたほとんどの使命はエリヤの後任であるエリシャが成し遂げたということです。
結局、使命というのは自分がすべてを成し遂げるという考えではなく、他の人を通しても神の使命は充分成し遂げられるという信仰を持つことです。エリヤは共に働く大切さを忘れていたということです。
皆さん、可能であれば、たくさんの人々を刺激して、共に働いてください。神様は私たち一人ひとりを通しても働きますが、私たちのみんなを通しても働きます。だからお互いに喧嘩してはなりません。教会内でも、教会同士でも喧嘩は絶対にダメです。
中国の共産党が成功した理由があります。中国の共産党は後継者を養うのに、ものすごく努力したことが分かります。つまり中国は10年単位で指導者訓練を通して、今の中国を作り出したということです。例えば、毛沢東(マオチョトゥン)を始め、リュウサオチ、ドンシャオピン、ジャンチョミン、フジンタオ、今の習近平(シーチンピン)主席に至るまで、ちゃんと指導力が受け継がれています。
もし中国がアメリカ式民主主義に基づいて選挙を導入したのであれば、今の中国を成し遂げることはできなかったと思います。むしろ共産主義の体制だから、今の中国を可能にしたということです。中国共産党は福音書の原理である弟子訓練を知っていたようです。私たちも使命を全うするために弟子訓練が必要です。ちゃんと信仰を受け継がれていく者になってください。
合計 178
手順 | タイトル | 投稿者 | 投稿日 | 推薦 | 閲覧数 |
178 |
New マタイの福音書22:35-40(イエス様の誕生、十字架の愛)
tbic
|
2024.12.24
|
推薦 1
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閲覧数 23
|
tbic | 2024.12.24 | 1 | 23 |
177 |
New ルカの福音書6:20-21(貧しい人々のクリスマス)
tbic
|
2024.12.24
|
推薦 1
|
閲覧数 24
|
tbic | 2024.12.24 | 1 | 24 |
176 |
マラキ書4:1-3(義の太陽であるイエス様)
tbic
|
2024.12.15
|
推薦 2
|
閲覧数 30
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tbic | 2024.12.15 | 2 | 30 |
175 |
ルカの福音書10:1-9 (さあ、リバイバルの町へ出よう)
tbic
|
2024.12.08
|
推薦 1
|
閲覧数 52
|
tbic | 2024.12.08 | 1 | 52 |
174 |
マタイの福音書6:20-24(自分のために、天に宝をたくわえなさい)
tbic
|
2024.12.01
|
推薦 1
|
閲覧数 63
|
tbic | 2024.12.01 | 1 | 63 |
173 |
ルカの福音書10:25-28(あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ)
tbic
|
2024.11.24
|
推薦 2
|
閲覧数 69
|
tbic | 2024.11.24 | 2 | 69 |
172 |
詩篇32:1-11(私にとって一番大きな感謝とは)
tbic
|
2024.11.18
|
推薦 1
|
閲覧数 95
|
tbic | 2024.11.18 | 1 | 95 |
171 |
列王記第一19:13-18(うつ状態からの脱出)
tbic
|
2024.11.10
|
推薦 2
|
閲覧数 108
|
tbic | 2024.11.10 | 2 | 108 |
170 |
創世記14:17-24(聖書から学ぶ金銭管理)
tbic
|
2024.11.03
|
推薦 1
|
閲覧数 112
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tbic | 2024.11.03 | 1 | 112 |
169 |
詩篇 121:1-2(ゆるがない平安を持つ秘訣)
tbic
|
2024.10.27
|
推薦 1
|
閲覧数 218
|
tbic | 2024.10.27 | 1 | 218 |