メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
ルカの福音書10:25-28(あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ)
投稿者
tbic
投稿日
2024-11-24 23:40
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69
ルカの福音書10:25-28『25.さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」26.イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」27.すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」28.イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」』
今日お読みした聖書箇所は、皆さんがよくご存じの御言葉ですが、これは本当に重要な箇所です。一人の律法の専門家が、イエス様がどのくらい聖書に精通しているかを試したかったわけです。「先生!何をしたら、永遠のいのちを得ることができるのですか?」と。ひっかけ問題のような質問を投げかけたわけです。
実はイエス様の時代はモーセ五書を基本とする、純粋な旧約聖書の言葉から、かなり遠く離れていた時代でした。宗教家ラビという存在がいて、神の御言葉にさまざまな解釈を付け加えていました。イエス様もそんな宗教家の一人だろうということで、「何と答えるだろうか」と、律法学者はひっかけ問題を出したのです。回答によっては、「つついてやろう」というところだったと思います。
だからイエス様は少しむかついて、逆にこの専門家に質問を投げかけています。それは重要な問いでもありました。「律法には何と書いてあるか、知っていますか?」というイエス様の問いかけに、この律法の専門家は基本に忠実に、正しく答えました。「『心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」そのように答えました。その時、イエス様は律法の専門家に言われました。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
いのち溢れる生活に必要なことは難しくありません。たった「二つ」だというのです。それは何かと言うと、「神を愛すること」そして「隣人を愛すること」です。この二つを心がけ実行したら、いのちを得ることができるのです。
コインには、裏と表があります。それは切り離すことが出来ません。それと同じです。「神を愛すること」と「隣人を愛すること」は、決して切り離すことができません。コインを使う時は毎回、思い出していただきたいと思います。「神を愛すること」と「隣人を愛すること」は表裏一体で、切り離すことができないと。毎日私たちは神であられる主を心から愛し、隣人を愛することを心がけなければなりません。
皆さん、神様を愛しておられますか?愛しているから、礼拝に来ていらっしゃると思います。クリスチャンになると不思議です。神様は目に見えませんが、その方に対して、またイエス様に対して、愛情が湧いてくるからです。そして信頼感が湧いてくるのです。一度も会ったこともないのに、実在されている方として、自分の心を向けることができるようになります。これは救われている証拠です。教会に来ても、イエス様のことを思い浮かんだことがないといったら、ちょっと問題ですが、教会に来て、何だか知らないのですが、「イエス・キリストに心が向いていく」というのは、聖霊の働きであり、救われている証拠です。
すでに、ここにおられる方々は主を心から愛しておられると思います。でも、ただ心にかけるだけでなく、『心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』とありますから、全力で愛することが重要です。やはりクリスチャンになったら、「全力」という言葉をキーワードにしなければいけないと思います。一度しかない人生だから、全力で主を愛し、全力で隣人を愛する人生を送りたいものです。
神を全力で愛するといっても、やはり姿が見えないから、どういう風に愛していいのか、分からないところもあります。しかし神を愛することを補完し、本当の意味で神の愛を理解するために必要なのが「隣人を愛する」という行動に含まれているわけです。隣人愛を実行すると、神を愛することも分かってくるはずです。隣人愛に関しての具体的な例をイエス様は挙げられました。それが有名な良きサマリヤ人のたとえ話です。
ルカの福音書10:29-37、『しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』
エルサレムからエリコという町に行く街道は大変険しい道でした。エルサレムからエリコは、千メートル以上の標高差があります。距離は直線距離にして40キロ足らずだそうです。ということは、本当に険しい山道なのです。だから強盗が隠れるのにはちょうどいい場所で、旅人をたびたび襲っていたのです。
さらに、この旅人は強盗から半殺しにあい、倒れていたのですが、そこに他の旅人が近づいて来ました。まずは祭司、レビ人という、宗教家が通りかかったというのです。イエス様に質問しているのも宗教家でした。彼らは神を愛するとか、隣人を愛するということを、知識的にはよく知っていたのですが、全く実行していない人たちでした。知っていても、こっそり通り過ぎてしまったのです。
でも、傷ついている人を助けたのは、サマリヤ人でした。それも、ただちょっとだけ助けたのではなく、徹底的に助けたのです。自分の目的地があったにも関わらず、倒れていた旅人を抱え、自分のロバに乗せ、宿屋にまで連れて行って、宿代を払って、彼のために全力を尽くしました。
それで、イエス様は言われたのです。「この三人の中で、誰が、この旅人の隣人になったのですか?」律法学者は答えました。「その人にあわれみをかけてやった人です」と答えました。彼は「サマリヤ人」とは言わなかったのです。当時サマリヤ人は蔑視されていて、口にもしたくありませんでした。イエス様は、「じゃぁ、あなたもその通りにしてください。」と言われました。
私たちも教会で、いろいろな知識を得ることができるのですが、やはり実行することが大切です。イエス様時代の律法学者たちは、多くの知識はあったのですが、実行しなかったのです。しかしこのサマリヤ人は異教徒です。サマリヤという地域は、かつてアッシリアという大国が攻め込んで、他民族が住むようになり、イスラエルの十部族と混ざって以来、何百年も経っていました。隣のユダヤは文化や習慣が変わっていました。そこには土着の偶像やアッシリアの神々があり、ゲルジム山という山を聖地とし、偶像を拝んでいた異教徒たちです。しかし異教徒であるサマリヤ人が旅人を助けたのです。
「知識的に神様を知るだけではなく、行動が必要ですよ」とイエス様は法学者に対し、嫌みのように、当てつけのように語られたわけです。このストーリーの中から、私たちは多くのことを学ぶことができます。これは倒れた人を助けたという話でもありますが、同時に民族問題を扱っている箇所でもあります。ユダヤとサマリヤは地理的にくっついており、隣にサマリヤ人という、他民族が暮らしていたわけです。しかしエルサレムからエリコに下る道は共通の道で、二つの民族の人たちが一緒に使わなければならない道だったのです。そしてそこに強盗が出没していたわけです。当時の状況だと、ユダヤ人がぶっ倒れていたら、サマリヤ人はちょっと嬉しかったと思います。「あっ、ユダヤ人が倒れている。やった!」という感じです。サマリヤ人が倒れていたら、ユダヤ人も「やった!」と通り過ぎていたわけです。
このストーリーで倒れていたのは多分、ユダヤ人です。ユダヤ人が倒れていたにも関わらず、同胞である祭司とか、レビ人は横を通り過ぎたのですから、最悪です。彼らは教えておきながら、同胞も助けていないわけです。しかし助けたのが日頃は喧嘩している隣の民族、サマリヤ人が助けてくれたというのです。
私たちも国際社会の中に住んでいますが、日本人と韓国人は「俺たちは単一民族で、特別だ」という、変な誤解があります。これを捨てなければいけません。実は遠い昔、文明が始まった中東の近所に住んでいた人たちが東に移動し、中国大陸に入り、また朝鮮半島に入り、さらに南下して、日本に来て定着したからです。しかし長い時間が経つと、どうでしょうか。「私はサマリヤ人、私はユダヤ人、私は日本人、私は韓国人」という風に、「国々」ができてしまうわけです。しかし聖書は国を超えて、お互いに愛し合うことが大事だと教えているわけです。ぜひTBIC教会はお互いに兄弟姉妹として、愛し合うことに心がけて頂きたいと願います。
人生の中で誰かと壁ができると、幸せになれないのです。皆さんはどうでしょうか。「私は誰とも壁がなく、嫌いな人とか、心引っかかる人は誰一人いません。」という人は幸せです。「私はあの人、大嫌い!あの人の顔を見ただけでむかつく」とか、そういう人は本当の祝福を受けることができません。いのちを得るためには隣人を愛すること、近くの人を愛することも重要なテーマです。教会に来ると、隣人を愛することを聖書から学びますから、自分を調整することができます。それは、すばらしいことです。今日、ぜひとも、自分の心をリセットしていただきたいのです。ちょっと苦々しく思っている人とか、あんまりよろしく思っていない人がいたら、それをリセットしましょう。「その人を祝福します」という立場に立って、神を愛したら、いのちがそこに流れます。
私は牧師をやっていますが、牧師の世界も、案外狭い世界なので、あまり好きではない牧師もいます。それは良くないことですが、私をいじめる、ある牧師があまり好きではありませんでした。彼は牧師たちを集めて、私の悪口を頻繫に行っていたわけです。噂話というのは絶対に羽が生えて飛んで行って、本人の耳に入るものです。
皆さん、どの世界にも、お知らせ鳥みたいな人がいて、報告してくれるわけです。その牧師のことも、「田先生にお知らせします。あの先生がこういう事を言っていました。」と。それを聞いて、「くっそー!」と思いました。でも、私は祈りの中で聖霊が注がれ、神様から御言葉が与えられました。「田、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」今日の本文の御言葉でした。神様はちゃんと見ておられます。だから今まで悪く思っていた牧師のために祈りました。赦しの祈りだけでなく、「主よ。その牧師を祝福します!」と。祝福の祈りをするようになりました。自分の心はそこまでついて行ってなかったのですが、「祝福します!」と宣言しました。宣言すると不思議です。心に詰まっていたものがすっと流れるような感じでした。これは大事な祈りだと思って、いろいろ祈るようになったわけです。
良きサマリヤ人の話から、私たちは敵が倒れた時、その時が関係回復のチャンスだということも学ぶ事が出来ます。普段サマリヤ人がユダヤ人の所に行って、「ユダヤ人さん。一緒に仲良くしましょう。」と言ったって、なかなかうまくいきません。しかしユダヤ人が倒れている時に、サマリヤ人が助ければ、文句なしに一つになることができます。それは一つのチャンスです。だからうまくいかない人がいたら、その人と関わるチャンスが与えられるように、祈ってください。伝道のチャンスだと思います。
皆さん、聖霊が注がれると、何が起きるかというと、見えないものが見えるようになります。大地震の時に、何が見えるかというと、普段では見えないものが見えるようになるわけです。それが建物の土台です。「こんな弱い土台では、倒れるのは当たり前だ。もう一度、土台から造り直そう!」となるわけです。
教会も同じです。聖霊が注がれると、教会の土台が露わにされ、個人に聖霊が注がれると、自分の罪に気づかされます。聖霊様が来てくださったら、ただハッピーと思いがちですが、そうではなく、土台が見せられるわけです。聖霊が来る時に、「罪について、義について、裁きについて、世にその誤りを認めさせます。」とヨハネの福音書16:8にありますから、聖霊が注がれたら、教会の土台が見えるようになって、悔い改めに導かれるということです。そうしたら教会に霊的リバイバルが起こって、個人的解放が起こってきます。
皆さん、壁がある人たちは、その向こうに、神の目的とみこころがあると考えたほうがいいです。その壁が壊れますようにと祈ったほうがいいと思います。壁がある国々とか、その民族と一致してたら、すごい事が起こるわけです。祈らなければなりません。だから良きサマリヤ人とは、壁を越える者たちのことを意味するのではないかと思います。
良きサマリヤ人は、傷ついた人を「宿屋」に連れて行きました。宿屋とは、今日においては、「教会」を意味します。今年のクリスマスは、周りにいる人たちを、教会にお連れする、良きサマリヤ人の働きから始めなければいけないと思います。まだイエス様を知らない家族とか、友人の方々をクリスマスの時に、ぜひとも教会の集まりにつれて来て下さい。そこで傷が癒され、永遠のいのちを得ることができるよう、私たちは祈らなければなりません。
皆さん、特に今週は神を愛すること、隣人を愛することに、心をとめて生活しましょう。もう一つは、自分と壁がある人がいたら、その人の祝福を祈って下さい。すぐには和解ができないかもしれませんが、祈り始めたら、必ずきっかけを下さいます。それは後になって、「うわ!こんなすごいことが、この中に含まれていたのか!」と。びっくりすることが、起こってくるはずです。それが良きサマリヤ人のたとえの中に、含まれているような気がします。
皆さん、今年のクリスマスはぜひ赤ちゃんのイエス様ではなく、やがて帰って来られる、終末の時のイエス様に心を向けたいと願っています。一言お祈りさせていただきます。
ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝いたします。あなたは生きておられる神様ですから、ありがとうございます。私たちはすでにイエス・キリストを信じて、永遠のいのちが与えられています。このすばらしい福音を、多くの人たちに伝えることができますように。良きサマリヤ人のように行動出来ますように、お願いします。主よ!今年も、もう来月で終わりです。12月のクリスマスを迎える私たちを良きサマリヤ人として下さい。人生の中で苦い思いを持ったり、壁があったり、決してありませんように。イエス様が私たちを赦して下さったように、私たちも多くの人々を赦し、受け入れ、祝福を祈る者とさせて下さい。良きサマリヤ人であられるイエス様、あなたの心を私たちの心とさせてください。主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。アーメン!
今日お読みした聖書箇所は、皆さんがよくご存じの御言葉ですが、これは本当に重要な箇所です。一人の律法の専門家が、イエス様がどのくらい聖書に精通しているかを試したかったわけです。「先生!何をしたら、永遠のいのちを得ることができるのですか?」と。ひっかけ問題のような質問を投げかけたわけです。
実はイエス様の時代はモーセ五書を基本とする、純粋な旧約聖書の言葉から、かなり遠く離れていた時代でした。宗教家ラビという存在がいて、神の御言葉にさまざまな解釈を付け加えていました。イエス様もそんな宗教家の一人だろうということで、「何と答えるだろうか」と、律法学者はひっかけ問題を出したのです。回答によっては、「つついてやろう」というところだったと思います。
だからイエス様は少しむかついて、逆にこの専門家に質問を投げかけています。それは重要な問いでもありました。「律法には何と書いてあるか、知っていますか?」というイエス様の問いかけに、この律法の専門家は基本に忠実に、正しく答えました。「『心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」そのように答えました。その時、イエス様は律法の専門家に言われました。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
いのち溢れる生活に必要なことは難しくありません。たった「二つ」だというのです。それは何かと言うと、「神を愛すること」そして「隣人を愛すること」です。この二つを心がけ実行したら、いのちを得ることができるのです。
コインには、裏と表があります。それは切り離すことが出来ません。それと同じです。「神を愛すること」と「隣人を愛すること」は、決して切り離すことができません。コインを使う時は毎回、思い出していただきたいと思います。「神を愛すること」と「隣人を愛すること」は表裏一体で、切り離すことができないと。毎日私たちは神であられる主を心から愛し、隣人を愛することを心がけなければなりません。
皆さん、神様を愛しておられますか?愛しているから、礼拝に来ていらっしゃると思います。クリスチャンになると不思議です。神様は目に見えませんが、その方に対して、またイエス様に対して、愛情が湧いてくるからです。そして信頼感が湧いてくるのです。一度も会ったこともないのに、実在されている方として、自分の心を向けることができるようになります。これは救われている証拠です。教会に来ても、イエス様のことを思い浮かんだことがないといったら、ちょっと問題ですが、教会に来て、何だか知らないのですが、「イエス・キリストに心が向いていく」というのは、聖霊の働きであり、救われている証拠です。
すでに、ここにおられる方々は主を心から愛しておられると思います。でも、ただ心にかけるだけでなく、『心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』とありますから、全力で愛することが重要です。やはりクリスチャンになったら、「全力」という言葉をキーワードにしなければいけないと思います。一度しかない人生だから、全力で主を愛し、全力で隣人を愛する人生を送りたいものです。
神を全力で愛するといっても、やはり姿が見えないから、どういう風に愛していいのか、分からないところもあります。しかし神を愛することを補完し、本当の意味で神の愛を理解するために必要なのが「隣人を愛する」という行動に含まれているわけです。隣人愛を実行すると、神を愛することも分かってくるはずです。隣人愛に関しての具体的な例をイエス様は挙げられました。それが有名な良きサマリヤ人のたとえ話です。
ルカの福音書10:29-37、『しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』
エルサレムからエリコという町に行く街道は大変険しい道でした。エルサレムからエリコは、千メートル以上の標高差があります。距離は直線距離にして40キロ足らずだそうです。ということは、本当に険しい山道なのです。だから強盗が隠れるのにはちょうどいい場所で、旅人をたびたび襲っていたのです。
さらに、この旅人は強盗から半殺しにあい、倒れていたのですが、そこに他の旅人が近づいて来ました。まずは祭司、レビ人という、宗教家が通りかかったというのです。イエス様に質問しているのも宗教家でした。彼らは神を愛するとか、隣人を愛するということを、知識的にはよく知っていたのですが、全く実行していない人たちでした。知っていても、こっそり通り過ぎてしまったのです。
でも、傷ついている人を助けたのは、サマリヤ人でした。それも、ただちょっとだけ助けたのではなく、徹底的に助けたのです。自分の目的地があったにも関わらず、倒れていた旅人を抱え、自分のロバに乗せ、宿屋にまで連れて行って、宿代を払って、彼のために全力を尽くしました。
それで、イエス様は言われたのです。「この三人の中で、誰が、この旅人の隣人になったのですか?」律法学者は答えました。「その人にあわれみをかけてやった人です」と答えました。彼は「サマリヤ人」とは言わなかったのです。当時サマリヤ人は蔑視されていて、口にもしたくありませんでした。イエス様は、「じゃぁ、あなたもその通りにしてください。」と言われました。
私たちも教会で、いろいろな知識を得ることができるのですが、やはり実行することが大切です。イエス様時代の律法学者たちは、多くの知識はあったのですが、実行しなかったのです。しかしこのサマリヤ人は異教徒です。サマリヤという地域は、かつてアッシリアという大国が攻め込んで、他民族が住むようになり、イスラエルの十部族と混ざって以来、何百年も経っていました。隣のユダヤは文化や習慣が変わっていました。そこには土着の偶像やアッシリアの神々があり、ゲルジム山という山を聖地とし、偶像を拝んでいた異教徒たちです。しかし異教徒であるサマリヤ人が旅人を助けたのです。
「知識的に神様を知るだけではなく、行動が必要ですよ」とイエス様は法学者に対し、嫌みのように、当てつけのように語られたわけです。このストーリーの中から、私たちは多くのことを学ぶことができます。これは倒れた人を助けたという話でもありますが、同時に民族問題を扱っている箇所でもあります。ユダヤとサマリヤは地理的にくっついており、隣にサマリヤ人という、他民族が暮らしていたわけです。しかしエルサレムからエリコに下る道は共通の道で、二つの民族の人たちが一緒に使わなければならない道だったのです。そしてそこに強盗が出没していたわけです。当時の状況だと、ユダヤ人がぶっ倒れていたら、サマリヤ人はちょっと嬉しかったと思います。「あっ、ユダヤ人が倒れている。やった!」という感じです。サマリヤ人が倒れていたら、ユダヤ人も「やった!」と通り過ぎていたわけです。
このストーリーで倒れていたのは多分、ユダヤ人です。ユダヤ人が倒れていたにも関わらず、同胞である祭司とか、レビ人は横を通り過ぎたのですから、最悪です。彼らは教えておきながら、同胞も助けていないわけです。しかし助けたのが日頃は喧嘩している隣の民族、サマリヤ人が助けてくれたというのです。
私たちも国際社会の中に住んでいますが、日本人と韓国人は「俺たちは単一民族で、特別だ」という、変な誤解があります。これを捨てなければいけません。実は遠い昔、文明が始まった中東の近所に住んでいた人たちが東に移動し、中国大陸に入り、また朝鮮半島に入り、さらに南下して、日本に来て定着したからです。しかし長い時間が経つと、どうでしょうか。「私はサマリヤ人、私はユダヤ人、私は日本人、私は韓国人」という風に、「国々」ができてしまうわけです。しかし聖書は国を超えて、お互いに愛し合うことが大事だと教えているわけです。ぜひTBIC教会はお互いに兄弟姉妹として、愛し合うことに心がけて頂きたいと願います。
人生の中で誰かと壁ができると、幸せになれないのです。皆さんはどうでしょうか。「私は誰とも壁がなく、嫌いな人とか、心引っかかる人は誰一人いません。」という人は幸せです。「私はあの人、大嫌い!あの人の顔を見ただけでむかつく」とか、そういう人は本当の祝福を受けることができません。いのちを得るためには隣人を愛すること、近くの人を愛することも重要なテーマです。教会に来ると、隣人を愛することを聖書から学びますから、自分を調整することができます。それは、すばらしいことです。今日、ぜひとも、自分の心をリセットしていただきたいのです。ちょっと苦々しく思っている人とか、あんまりよろしく思っていない人がいたら、それをリセットしましょう。「その人を祝福します」という立場に立って、神を愛したら、いのちがそこに流れます。
私は牧師をやっていますが、牧師の世界も、案外狭い世界なので、あまり好きではない牧師もいます。それは良くないことですが、私をいじめる、ある牧師があまり好きではありませんでした。彼は牧師たちを集めて、私の悪口を頻繫に行っていたわけです。噂話というのは絶対に羽が生えて飛んで行って、本人の耳に入るものです。
皆さん、どの世界にも、お知らせ鳥みたいな人がいて、報告してくれるわけです。その牧師のことも、「田先生にお知らせします。あの先生がこういう事を言っていました。」と。それを聞いて、「くっそー!」と思いました。でも、私は祈りの中で聖霊が注がれ、神様から御言葉が与えられました。「田、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」今日の本文の御言葉でした。神様はちゃんと見ておられます。だから今まで悪く思っていた牧師のために祈りました。赦しの祈りだけでなく、「主よ。その牧師を祝福します!」と。祝福の祈りをするようになりました。自分の心はそこまでついて行ってなかったのですが、「祝福します!」と宣言しました。宣言すると不思議です。心に詰まっていたものがすっと流れるような感じでした。これは大事な祈りだと思って、いろいろ祈るようになったわけです。
良きサマリヤ人の話から、私たちは敵が倒れた時、その時が関係回復のチャンスだということも学ぶ事が出来ます。普段サマリヤ人がユダヤ人の所に行って、「ユダヤ人さん。一緒に仲良くしましょう。」と言ったって、なかなかうまくいきません。しかしユダヤ人が倒れている時に、サマリヤ人が助ければ、文句なしに一つになることができます。それは一つのチャンスです。だからうまくいかない人がいたら、その人と関わるチャンスが与えられるように、祈ってください。伝道のチャンスだと思います。
皆さん、聖霊が注がれると、何が起きるかというと、見えないものが見えるようになります。大地震の時に、何が見えるかというと、普段では見えないものが見えるようになるわけです。それが建物の土台です。「こんな弱い土台では、倒れるのは当たり前だ。もう一度、土台から造り直そう!」となるわけです。
教会も同じです。聖霊が注がれると、教会の土台が露わにされ、個人に聖霊が注がれると、自分の罪に気づかされます。聖霊様が来てくださったら、ただハッピーと思いがちですが、そうではなく、土台が見せられるわけです。聖霊が来る時に、「罪について、義について、裁きについて、世にその誤りを認めさせます。」とヨハネの福音書16:8にありますから、聖霊が注がれたら、教会の土台が見えるようになって、悔い改めに導かれるということです。そうしたら教会に霊的リバイバルが起こって、個人的解放が起こってきます。
皆さん、壁がある人たちは、その向こうに、神の目的とみこころがあると考えたほうがいいです。その壁が壊れますようにと祈ったほうがいいと思います。壁がある国々とか、その民族と一致してたら、すごい事が起こるわけです。祈らなければなりません。だから良きサマリヤ人とは、壁を越える者たちのことを意味するのではないかと思います。
良きサマリヤ人は、傷ついた人を「宿屋」に連れて行きました。宿屋とは、今日においては、「教会」を意味します。今年のクリスマスは、周りにいる人たちを、教会にお連れする、良きサマリヤ人の働きから始めなければいけないと思います。まだイエス様を知らない家族とか、友人の方々をクリスマスの時に、ぜひとも教会の集まりにつれて来て下さい。そこで傷が癒され、永遠のいのちを得ることができるよう、私たちは祈らなければなりません。
皆さん、特に今週は神を愛すること、隣人を愛することに、心をとめて生活しましょう。もう一つは、自分と壁がある人がいたら、その人の祝福を祈って下さい。すぐには和解ができないかもしれませんが、祈り始めたら、必ずきっかけを下さいます。それは後になって、「うわ!こんなすごいことが、この中に含まれていたのか!」と。びっくりすることが、起こってくるはずです。それが良きサマリヤ人のたとえの中に、含まれているような気がします。
皆さん、今年のクリスマスはぜひ赤ちゃんのイエス様ではなく、やがて帰って来られる、終末の時のイエス様に心を向けたいと願っています。一言お祈りさせていただきます。
ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝いたします。あなたは生きておられる神様ですから、ありがとうございます。私たちはすでにイエス・キリストを信じて、永遠のいのちが与えられています。このすばらしい福音を、多くの人たちに伝えることができますように。良きサマリヤ人のように行動出来ますように、お願いします。主よ!今年も、もう来月で終わりです。12月のクリスマスを迎える私たちを良きサマリヤ人として下さい。人生の中で苦い思いを持ったり、壁があったり、決してありませんように。イエス様が私たちを赦して下さったように、私たちも多くの人々を赦し、受け入れ、祝福を祈る者とさせて下さい。良きサマリヤ人であられるイエス様、あなたの心を私たちの心とさせてください。主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。アーメン!
合計 178
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New マタイの福音書22:35-40(イエス様の誕生、十字架の愛)
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マタイの福音書6:20-24(自分のために、天に宝をたくわえなさい)
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ルカの福音書10:25-28(あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ)
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詩篇32:1-11(私にとって一番大きな感謝とは)
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創世記14:17-24(聖書から学ぶ金銭管理)
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