メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

マラキ書4:1-3(義の太陽であるイエス様)

投稿者
tbic
投稿日
2024-12-15 18:17
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95
マラキ書4:1-3「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。‐万軍の主は言われる‐しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。‐万軍の主は言われる‐」

世界中の教会でイエス様が賛美されているクリスマスが近づいています。イエス・キリストという人物は、ただの人ではありません。神が人となってくださったお方です。だからクリスマスを共にお祝いできることは、すばらしいことです。イエス様は決して偶然にお生まれになったのではありません。旧約聖書の中で預言されていて、生まれるべき方としてお生まれになった方です。それがイエス様です。

今日読んでいただいた聖書の箇所はマラキ書です。マラキ書は旧約聖書の最後の書です。旧約聖書から新約聖書は私たちが持っている聖書なら紙一枚ですが、マラキ書からイエス様のお生まれまでは400年のギャップがあります。聖書はマラキ書を最後にして、400年間沈黙しています。そしてイエス様がお生まれになるのです。ゆえにマラキ書は未来に向けて大きな預言的要素を含んでいるわけです。今読んでいただいた4:1には『見よ。その日が来る。』と宣言されています。この表現は確実にその日が来ることを強調しています。やがてイエス様がこの地に再び来られて、この地の悪をすべて一掃し、世界の王となるという、新天新地を預言している箇所でもあります。

今世界を見るなら、多くの悪がはびこっています。人間の手ではどうにも解決できない問題ばかりです。だからクリスマスは赤ちゃんのイエス様を待ち望むのではなく、やがて来られるイエス様、王としてこの地に帰って来られる、よみがえりのイエス様を待ち望む日にしなければなりません。

皆さん、歴史の延長線上に、もう一度イエス様は姿を現されることを覚えてください。誰の目にも見えるように主は帰って来られ、世界の王となり、すべての悪を一掃し、この地を治めてくださいます。同時にイエス様がどのような目的で、初めこの地上に来られたのかが、この預言から分かります。ここで「義の太陽」という言葉が使われていますが、聖書の中、ただこの一箇所だけ、イエス様のことを義の太陽と表現しています。もう一度マラキ書4:1から読んでみたいと思います。

見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。万軍の主は言われるしかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。万軍の主は言われる

2節に『わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。』とあります。実はイエス様がお生まれになったのは「1225」ではないのです。聖書はイエス様の誕生日が何月何日だとは記録していません。しかし一年365日中、どこかがイエス様の誕生日ですから、記録されていないのなら、12月25日をイエス様の誕生日としても、悪いことではないと思います。

ではどうして12月25日と決められたのかというと、4世紀くらいに決められたというのですが、ローマ帝国がキリスト教を国教とした事と重なります。当時、アジアに強力な騎馬民族がいました。それは後にモンゴル帝国を形成したフン族という騎馬民族です。彼らがゲルマン人たちを西のほうに追って行ったわけです。その結果、ゲルマン人たちはローマ帝国に逃げ込みました。

当時、ゲルマン人の宗教はミトラ教といい、太陽を神として拝んでいる人たちでした。日本とよく似ています。まさに日本は国旗が日の丸で、アマテラスという太陽神を拝んでいます。これは日本だけでなく、ヨーロッパ、特に寒い地域では太陽を拝む宗教が流行っていました。つまりゲルマン人たちはその地域の人で、ローマに来ても太陽を拝むことを真剣にしていたわけです。

そんな中、ローマ帝国がキリスト教を国教と定め、権力でゲルマン人たちを改宗させようしたわけです。力ずくで改宗させると、いろいろな問題が起こります。それでローマ帝国は、ミトラ教の人たちが12月25日を太陽再生の祭りの日として大切にしていたので、この日をキリストの誕生日と重ねたわけです。

冬至までは日照時間が短くて、このまま昼間がなくなってしまうのではないかと思うのですが、冬至から徐々に日が長くなります。それで太陽再生の記念日として、ゲルマン人たちは12月25日に太陽を拝んでいたわけです。そんな人たちに対して、「1225日をイエス・キリストの誕生日としなさい」と強制的にキリストの誕生日としたようです。それが定着して、今日に至るわけです。

もちろん太陽礼拝は間違いです。太陽は神ではありません。太陽を造られた創造主がおられるわけです。太陽を神として拝む日を義の太陽、イエス様の誕生日として置き換えたのは政治的な策略があったにせよ、結果的に偶像礼拝を勝ち取ったという意味合いもあると思います。だから私たちがクリスチャンになるためには日本のアマテラスのような太陽礼拝を乗り越えて義の太陽イエス様を信じる必要があります。12月25日がイエス様の誕生日とされたのは結構、意味深いと思います。

どの国の宗教も、権力が関わって国教となります。ローマ帝国も皇帝とローマ・カトリック教会が関わって、キリスト教が国教となりました。しかしキリスト教の凄いのは、原点においてはベツレヘムという貧しい村に生まれ、ナザレという村で育ったイエス様が30年間はほとんど人前に出ず、最後の3年間だけで今や、世界を変えた事です。クリスマスは世界中で祝われています。日本は、仏教の国なのに、なぜクリスマスをお祝いするのかと思いますが、不思議にお釈迦様の誕生日よりも、ずっとイエス様の誕生日のほうが有名です。これは、すごいことです。

世界宗教は何といっても、キリスト教です。私はキリスト教を宗教と表現したくありません。なぜなら、本物の神がおられ、その方を信じるのは宗教ではなく、当然のことですから、宗教と言いたくありません。ある事実を受け入れるだけですから。しかしあえて、宗教というジャンルで表現するなら、キリスト教は世界最高の宗教です。このキリスト教は権力によらず、能力によらず、ただ聖霊によって拡大してきました。

イエス様がお生まれになったのは今から2024年前になるわけですが、西暦の原点が少しずれていると言われています。正確には2028年前にイエス様がお生まれになったわけです。当時イスラエルにどんな支配があったかというと、ローマ帝国が地域を支配していました。イスラエルはローマ帝国の植民地でした。イエス様時代の歴史についていろいろと勉強すると、ローマはイスラエルを三分割して、それぞれに支配者を置いて、統治していたことを学ぶことが出来ます。世界帝国の歴史はバビロニア帝国から始まり、メド・ペルシャ、ギリシャ、次にローマ帝国が当時の世界を支配したわけです。

マラキ書はイエス様がお生まれになる400年前に記された書物であると話しましたが、旧約聖書が書き終えられ、新約聖書に入るまでの400年の空白の時代は「ギリシャ帝国」がイスラエルを支配していました。聞いたことがあると思いますが、アレキサンダーというギリシャの王が出て東西の文化を融合させ、世界をギリシャ文化で支配しようとしたわけです。その時代のことを「ヘレニズム時代」とも呼びます。ギリシャ的な町が世界中に出来たのも、この時代です。

日本に仏教が伝わりましたが、最初の仏像はギリシャ人の顔をしています。ということはインドにまでヘレニズムの勢力が及んでいたことを意味します。その時代はギリシャ神話の神々の全盛期でした。だからイスラエルもギリシャ神話の神々に乗っ取られていた時代でした。当時のイスラエルがユダヤ教だったと単純に考えるのですが、支配者の持ち込んだ神々は強いですからローマ神話はギリシャ神話をそっくり使ったもので、ギリシャ神話の神々がパレスチナに満ちていたわけです。もちろんイスラエルにはユダヤ教に熱心なパリサイ派とか、サドカイ派というような人たちもいたのですが、一般民衆は支配者の持ち込んだ宗教に傾倒していたわけです。イエス様はギリシャ神話の神々が満ちているただ中にお生まれになり、育たれたということです。新約聖書には、そういう情報はあまり含まれていないのですが、当時のことをよく調べますと、イスラエルにも多くの偶像があったことが分かります。

実は新約聖書の中にも、その情報があります。イエス様がエルサレムに上られた時の話ですが、ヨハネの福音書5:1-9『その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大勢の病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。

イエス様がベテスダの池に行かれた記事です。現在、ベテスダの池が発掘されて、廃墟が残っています。病人が飛び込むと、治ると信じられていたギリシャ神話と民間宗教が重なった神話があったみたいです。ここからも分かるように聖書は神話ではなく、歴史的事実の上に成り立っているわけです。イエス様は、この場所で38年間も床について動けない男をいやされました。

先ほども話しましたが、宗教がすべての国民に受け入れられるためには、第一に権力者が関わらないと無理です。当時ギリシャ神話の神々が満ちていたのは、ローマ帝国という権力のゆえでした。しかしイエス様は田舎から出て来た政治的権力と全く関係ない男でしたが、べテスダに行く人々の心を一瞬で塗り替え、救い主として信じさせました。そして今や世界宗教にまでなったわけです。これは何を意味するのでしょうか。それはイエス様を通して、当時すさまじい癒しや奇蹟が起こったことを意味します。そのようなことがない限り、絶対に人々の心を変えるのは不可能です。

当時の権力者が持ち込んだ宗教さえも一瞬で塗り替えてしまうほどの、すごい癒しや奇跡をイエス様は行われたわけです。まさしく、それはマラキの預言の成就でした。イエス様は義の太陽のように現れ、その翼には癒しがあったのです。人々は実際にイエス様の行われた癒しや奇跡に接して、権力者が持ち込んだ神々を捨てて、イエス様の所に行ったことを意味します。

まさにイエス様は癒し主です。昨日も今日も変わらないイエス様は今日もこの場所でいやすことができるお方です。マタイ、マルコ、ルカの福音書は共観福音書と呼ばれています。同じような視点からマタイ、マルコ、ルカがイエス様の生涯を描いているのですが、そのストーリーの中、50話は癒しのストーリーです。そして弟子たちが行った奇跡や並行記事を含めると、何と105話に及ぶ癒しのストーリーがあるのです。つまりイエス様が地上におられた時の仕事は「病人をいやす」働きでした。イエス様はこの地上にいやし主として来てくださったのです。今日、もしも癒しを必要としている方がおられたら、イエス様は癒すために来て下さったことを堅く信じて下さい。

イザヤ書61:1-3、『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。

イエス様がこの地上に来て下さった第一の目的に『心の傷ついた者をいやすために』とあります。心の傷のいやしも、病のいやしと深くつながっています。

イエス様がベテスダの池に行かれた時、38年間、床についていた男をいやされました。ベテスダの池には一つの伝説がありました。「時々、池の水がかき回される時がある、それは、天使が下りて来て、水をかき混ぜているから、最初に飛び込んだ病人は治る。」という伝説でした。五つの回廊には聖書が記録しているように、大勢の病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていたというわけです。いつ水が動くのかと、その瞬間を待ちながら、病人たちのたまり場となっていました。しかしベテスダの池を調べてみると、なぜ水が動いたのか、その理由が分かりました。ここはガイザーと呼ばれる「間欠泉」が吹き出す温泉だったのです。

昔はそんなことは分かりませんから、天使が水をかき混ぜていると考えたわけです。下からガスが吹き出して、水が泡だった時「それ、飛びこめ!天使が来たぞ!」と人々はやっていたわけです。本当に治ったのかどうかは知りませんが、みんなその現象が起きると、「我先に」と飛び込んでいたようです。

聖書を見ると、その場所に来て、すでに38年も経った男がいたわけです。イエス様は、その男に、「よくなりたいか?」と質問されています。よくなりたくなかったら、ここにいるはずがないのです。38年です。38年前って、皆さんは何をされていましたか?私の38年前は、18歳です。この男は癒しを待ちわびて、ベテスダで過ごしていたわけです。「よくなりたい」という強い願望がなかったら、この場所にいるはずがありません。そんな彼にイエス様はあえて、「よくなりたいか」と質問されているのです。しかしこの男は素直に「よくなりたい」とは答えませんでした。『病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

ここは病人で溢れていましたから、最初に水が泡立った時に飛び込むことができる病人なんて、「病人の中でも一番健康な人」だったと思われます。元気じゃなかったら、こんな池に一番に入ることはできません。

一方、この男は、病人たちの集団の中で、最もあわれな男だったかもしれません。38年もみんなが飛び込んで行く姿を見ていた、最も弱い男だったと思われます。何とイエス様はその男に近づいて「よくなりたいか」と聞かれたのです。これ、すごいじゃないですか。

聖書は宗教的な読み方をしなくても、本当に価値観、世界観がいいです。普通はどうですか?人間って自己中心ですから、自分が病気なら、最初に池に飛び込みたいと思うのが普通だと思います。「我先に!」という考えです。世の中の宗教は、我先に神々から祝福をもらおうという考えです。また祈りを受け取る神々らも、その考えを肯定していて「最もお金を積んだ者、大きな犠牲を払った者、最初に飛び込んだ者はいやしてやる!」という宗教ばかりです。

しかしイエス様は、何と最もみじめな希望のない、「よくなりたいか?」と聞かれても「よくなりたい」とさえ、答えることができない男の所に来られたのです。私たちが信じる神様は愛なるお方であることがよく分かります。決して努力や犠牲、生け贄を要求される方ではありません。最も傷ついて、倒れて、他人はいやされていくのですが、私だけ、全然いやされない、省みられないという人の所に来て下さるのです。

今、高校とか、大学受験でがんばっている人が多くいますが、学校はよくできる人から入学させてくれます。私はそれはおかしいと思います。勉強ができない人をできるようにしてあげるのが教育です。本当にできない人たちから入学させる学校を作りたいのです。

でも世界はそうではありません。できる人にはちゃんとした教育を施すのですが、できない人は「自分で生きていって」と見捨てられるような社会です。しかしイエス様は違います。できないほうから採用してくださるお方です。今日皆さんの中で、「私は駄目だ。夢も希望もない。ビリかもしれない。」そんな人がいたら、その人の所にイエス様は行って「よくなりたいか?」と聞いてくださいます。

この男は38年間、ベテスダの池の所に床を敷いていました。イエス様が「床を取り上げて歩きなさい」と言われましたが、この「」とは、言い換えれば、「彼の人生そのもの」だったわけです。「床を取り上げる」とは、彼の人生が全く変わってしまうことです。イエス様の権威ある言葉を通して、何と男が床を取り上げて、歩き始めたというのです。すごいです。

しかしこれは、すでにマラキが預言していた事でした。「義の太陽が上る時にはその翼にいやしがあって、あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回るようになる。」と預言していた通りのことが、何と偶像の神殿のただ中で起こったわけです。

日本も病気になったら、偶像の所に行って、癒しを求める人が多くいます。本当の神様が分からなければ、しょうがないです。それしか神はいないと思っていますから。でもイエス様は「あんたが偶像を拝んでいるから、癒してあげないよ。」とは言われません。「っと努力したら、いやしてあげるよ。」とも言われません。一番しんがりとなっているような人の所に来て、「よくなりたいか?」と聞き、よくなりたいとも答えられない人を癒やされるお方です。イエス様の癒しはどんな場所でも、完璧に行われる癒しです。

福音書の中にイエス様が行われた癒しの奇跡は50話にも上ると話しました。並行記事なども含めると、105話にも上るというのです。イエス様が行われた奇跡を病名で分析すると、105話中48話が、「汚れた霊からの解放」という、病の背後に、暗闇の力が関わっていた事を意味しています。悪しき力からの解放が癒しにつながっているわけです。

イエス様が地上に来てくださった目的は「囚われ人を解放し、囚人には釈放を告げるため」と預言されています。マラキは「舎の子牛が飛び跳ねるようになる」と預言しています。「牛舎」とは、牛たちを押し込め、閉じ込めておく牢獄のようなものです。牛舎の中に閉じ込められた牛は、周りを囲われていますから、飛び跳ねたくても出来ないわけです。でも牛舎が壊れたら、外に出て飛び跳ねることができるのです。

まさに病の中に閉じ込める牛舎があるのです。38年間ベテスダの池の背後に働く悪霊どもに囚われていた男が牢獄から解き放たれて、外に出て飛び跳ねることができたわけです。「癒しが霊的戦いと共にある」ということを聖書は教えており、偶像の背後に暗闇が関わっていることも教えています。38年間病に伏せていてどこにも希望がない、どうにもならない最後の列に着いていた人の所にイエス様が来られて癒された箇所から、私たちは神の愛を知ることができます。

皆さん、今日ご一緒に祈る時、病の方がおられたら、癒しの翼が覆ってくださるように求めましょう。病が家族を覆っていたら、癒されるように祈りの時を持ちたいと思います。

最後に、もう一度今日の御言葉を宣言したいと思います。マラキ書4:2-3、『しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。--万軍の主は言われる--

ハレルヤ。天の父なる神様、御名をあがめて心から感謝します。今日はいやしの日であることを、心から感謝します。あなたがベテスダの池に来てくださり、男を解き放たれたように、日本に主が来てくださり、解き放ってください。特に、長い間、病で苦しんでいる方々がいやされ、解放されて、義の太陽といやしの翼が現れる、12月のクリスマスにしてください。今日は天を開いてください。病からいやされて、健康で長生きしますように。ここはベテスダの池のような悪しき水が動く場所でなく、あなたの聖霊の水が動く場所であることを宣言します。すべての病をいやし、奇蹟を起こしてくださるイエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン!
合計 184
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
184
New ピりピ人への手紙4: 13 (天路歴程)
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ピリピ人への手紙4:6 (何も思い煩うな)
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サムエル記第二15:1-37、(アブサロムとダビデ)
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ローマ人への手紙8:18-23(今の時のいろいろの苦しみは)
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ルカの福音書10:38-42(必要なことは一つだけです)
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へブル人への手紙4:10(神の安息に入った者)
tbic | 2024.12.29 | 推薦 1 | 閲覧数 69
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マタイの福音書22:35-40(イエス様の誕生、十字架の愛)
tbic | 2024.12.24 | 推薦 1 | 閲覧数 84
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177
ルカの福音書6:20-21(貧しい人々のクリスマス)
tbic | 2024.12.24 | 推薦 1 | 閲覧数 84
tbic 2024.12.24 1 84
176
マラキ書4:1-3(義の太陽であるイエス様)
tbic | 2024.12.15 | 推薦 2 | 閲覧数 95
tbic 2024.12.15 2 95
175
ルカの福音書10:1-9 (さあ、リバイバルの町へ出よう)
tbic | 2024.12.08 | 推薦 1 | 閲覧数 104
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