メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

マルコの福音書16:1-6(復活の奇跡)

投稿者
tbic
投稿日
2025-04-20 20:38
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マルコの福音書16:1-6『1.さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。2.そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。3.彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。4.ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。5.それで、墓の中にはいったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。6.青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。」』

復活祭(イースター)、おめでとうございます。今日は復活祭の礼拝ですが、こんな形でも御言葉を分かち合えることを心から感謝します。

ところで復活祭とは、毎年日が変わる祝日です。それはイエスさまが死んで三日目に甦られた日を記念する日ですが、毎年日にちが変わるので、少々面倒なところがあります。現在、世界の教会が復活祭として定めているのは、「春分の日の次の満月の次の日曜日」です。復活祭については、昔から色々論争があります。なぜなら、異なった暦が用いられていたからです。イエスさまが甦られたのは、週の初めの早朝と聖書には記されています。それは日曜日ですが、暦が違うと、曜日も変わってくるので決着がつきません。4月の第二日曜日を、復活祭と決めたらどうかという意見もあります。復活祭のことを英語で「イースター」と呼びますが、これもあまり良い意味ではありません。それはもともと月の女神の名前であり、異教の文化を取り替えて呼んでいますので、私たちはイースターと呼びますが、復活祭と呼んだほうが良いと思います。

今世界のあちこちで戦争や災害によって、たくさんの人々が亡くなっています。これは今も進行中なので、これからもたくさんの人々が亡くなると思いますが、しかし考えたら、後100年後には、地球の人口のほとんどが総入れ替えです。100年も経てば今生きている人たちは、ほとんどいなくなってしまいます。昨日生まれた赤ちゃんも、この地上から出ていかなければならないのです。そしてこの地球は全く違った人たちによって支配されるはずです。そう考えてみると、人生は寂しいです。シャボン玉のように「壊れて消えた」と終わってしまうなら、人生って何なのだろうと感じます。しかし聖書は、人生はこの地上だけで終わるのではなく、永遠につづくものだと教えています。そしてそれを証明するために、イエスさまは三日目に甦りました。それを記念するのが復活祭です。

もしもイエスさまの甦りがでっち上げで偽りだとしたら、クリスチャンは世界の全ての人々の中で最も哀れな人たちです。なぜなら、イエスさまは死んでしまったのに、「甦りました」などと言って噓をつくからです。聖書もこのように語っています。コリント第一の15:14に、「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」続けて19節を見ますと、「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

死んでしまった人たちに希望を置いて、永遠の世界などないにもかかわらず、あると盲信している人たちがクリスチャンだとしたら、あまりにも惨めです。しかしイエスさまが本当に甦られたとしたら、キリスト教は最高に素晴らしいものだと言えます。また人類の最も大きな希望となるのです。

イエスさまは甦って後、40日後、天にお帰りになりました。この地上から姿を消してしまったのです。にもかかわらず、復活のイエスさまに出会った弟子たちは命がけで福音を地の果てにまで伝えていったという事実も普通ではあり得ないことです。普通なら、教祖が消えてしまったら、宗教はだんだんと下火になるものです。しかし2000年で地球を一周し、世界最大の宗教となっているキリスト教が言っているイエスさまの甦りは、作り話や幻覚、またマジックではなく、事実だということです。

皆さん、私たちが信じているイエスさまの十字架と復活は事実なのです。そして特に復活が事実なら、そんな素晴らしい事はありません。イエスさまは弟子たちに次のように語られました。マタイの福音書28:18-20、『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

この御言葉は現代に生きる私たちにも語られている御言葉です。イエスさまは今も生きておられ、私たちと共にいてくださるのです。今日も目には見えないのですが、共におられます。そのイエスさまは死の力を打ち破り、甦った後、天に帰られました。どうしてでしょうか。せっかく甦ったのですから、地上にいて下さったら、もっと良かったのではないでしょうか。しかしイエスさまが地上にとどまっていたとしたら、その働きは限られた範囲にしか及びません。しかしイエスさまは肉体を脱ぎ捨てて、霊的な姿として、聖霊によって今も私たちの所におられます。そもそも甦りとは肉体の制限を超えたものです。これがキリスト教の中心的教えです。そのことを知る時、毎日の生活にも勇気が湧いてきます。

皆さん、人間は死んだらどうなるのでしょうか。このことに関して人間は、はっきりとした回答を持っていません。一般的には、人は死んだらまた生まれ変わるという考え方があります。すなわち輪廻思想です。死んでもまた地上に戻ってくるという考え方です。日本では人が死ぬと49日まで、一生懸命拝みます。なぜかと言うと、死んで49日間は閻魔大王の前で人は裁かれるからだそうです。地上で悪を行うと、とがめられて人間にはなれず、動物や昆虫に輪廻するそうです。そんなことになったら大変なので、周りの家族は真剣にとりなして拝むのが49日法要です。そうすると悪者でも人間になれたりするそうです。49日に子供が生まれる10ヶ月10日を足すと365日、すなわち一年になります。仏教によれば、人は死後一年で、もう一度どこかに生まれ変わるのです。つまりリサイクルです。でも地上は苦しいところという設定であり、苦しみのリサイクルが永遠に続くわけです。

皆さんはこの輪廻の中で生きることを、どう思いますか?地上で大変な思いで過ごし、やがて辛いこの世のどこかに戻ってくる、ひょっとすると、人間以下の下等生物に輪廻するかもしれない、そんな輪廻の世界に生きたいのでしょうか。しかし日本の方は輪廻を語りながらも、実際に行っていることは祖先崇拝です。実は祖先崇拝と輪廻は互いに相容れない、真っ向から対立する理念なのです。仏教の根源は輪廻ですので死者は戻ってくるのですが、戻って来るなら、墓場は要りません。むしろ輪廻の考え方では墓に古い体が残っていると、うまく輪廻できないと考えています。だから生前の全ての痕跡をなくさなければなりません。インド人は輪廻を信じていますので、人が死ぬと火葬して残った灰まで全て水に流してしまいます。何も残さないのです。だから墓は作りません。また全員リサイクルで一年もすれば地上に戻ってきますので、先祖の霊などは存在しないのです。

しかし日本の方は仏教と言いながらも、やっていることは祖先崇拝であり、墓を大切にし、先祖の霊が現世に一緒に住んでいるという前提で、祖先崇拝がなされます。これは大きな矛盾です。一方では輪廻を語り、一方では祖先崇拝することは、実は全く異なる考え方を同時に受け入れているわけです。ということは、日本では死後の世界に関して、回答を持っていないのです。

しかし聖書は死後の世界に関して、はっきりとした回答を持っています。聖書の素晴らしい所は曖昧な所がなく、クリヤーな所です。生ける世界も死後の世界も永遠の世界も、全てはっきりと告げています。死後の世界に関して一番はっきり分かるストーリーは、イエスさまが語られたラザロと金持ちの話です。また一度、良く読んで頂きますと分かりますが、ルカの福音書16:19-31を読んでみましょう。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』

この地上においては、貧富の差があります。しかしやがてどちらも地上から去らなければなりません。この頃は長生きするようになったとはいえ、100歳まで生きる人はまれです。死は誰も避けられない事実です。しかしその後が大切なのです。今書かれていた、22節から見ると、「さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

人間には、「死後の世界がある」ことを聖書ははっきりと告げています。アブラハムの懐とは、神の国を現しています。ラザロは死後、神の世界に連れて行かれました。しかし金持ちは神を信じなかったので、永遠の滅びの世界に行きました。

死後の世界には二つあります。「神の世界」か、「滅びの世界」のどちらかです。死後の世界の人たち同士はコミニュケーションが出来るみたいです。金持ちは神の世界に声をあげて会話しています。「何とか、私の苦しみを軽減して下さい」と。少しでも楽になれるようにと懇願しましたが、聞き入れられませんでした。そして金持ちは何と叫んだかと言うと、27節から、「彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』」そのあまりの苦しみの故に、「地上にいる家族がこの場所に来ないように」と懇願したのです。しかしそれも聞き届けられませんでした。死後の世界では死者同士の会話は成り立つようです。しかし死後の世界から生きている人たちに何らかの情報を伝えることは出来ないのです。これは死んだ者と生ける者との間には大きな隔たりがあって、「情報の行き来がない」ことを現しています。

日本では死者と生きている者たちが同じ空間にいて、コミュニケーション可能と考えていますが、そうではありません。人は死ぬと、神の100パーセントの管理下に置かれ、ある人は苦しまなければなりません。いずれにしても死んだ人々が願っていることは、「生きている者たちが決して滅びの場所に来ないように、神を信じて永遠のいのちに生きること」を願っているのです。

ときどき先祖を拝んであげないと先祖が悲しむと考えますが、それは間違いです。死者は拝まれることによって慰められたり、行き先が変わったりしないのです。彼らが願っていることは、「皆が主を信じて、永遠のいのちに入ること」です。主を信じ、クリスチャンとして一生を過ごした方々は今確実に神の国にいるのです。そして主の前で、この地上のためにとりなし祈っています。このように私たちが聖書に触れますと、死後の世界観もはっきりします。そしてどのように生きたら良いのかも、分かってくるのです。

復活のストーリーを見ますと、その時、どのようなことが起こったかが記されています。今日の本文、マルコの福音書16:1-5、『さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。」

すでにイエスは死んでも甦るという噂があったために、ローマの兵隊はイエスさまを葬った墓の入り口に、大きな石を置いて、皇帝カイザルの印鑑を押して封印し、石を絶対取りのけられないように番兵をつけていました。遺体のある所へ行って香料を塗るのはユダヤの習慣だったのですが、そんなことはとても出来ない状況でした。でも女性たちはイエスさまを愛していたので、何とかイエスさまの体に香料を塗ってあげたいという一心で墓に向かいました。ここには男性と女性の違いが現れていると思います。良い意味でも悪い意味でも女性は感情で行動する事が多いと言われます。しかし男性は一般的に理性的に行動することが多いから、普通ならイエスさまが葬られ、ローマの兵隊がいて、封印された大きな石があったら、墓には絶対に行きません。行っても無駄だと思います。しかし女性は違います。何とかイエスさまに香料を塗って差し上げたい一心で、愛情から女性たちは行動したわけです。でも課題がありました。「あの大きな石を誰が取りのけてくれるのか?

墓にたどり着くと、何と、その石がすでに転がっていて墓が開いていたのです。びっくりして墓の中を覗いてみたら、何と、イエスさまの遺体がないではありませんか。そればかりか、女性たちは甦りを伝える天使に出会ったというストーリーです。

ここから色々なことを教えられます。時々私たちは理性的に神さまのことを考え、そんなことはあり得ない、復活なんかあり得ない、そんなことはおかしいと言って、頭ごなしで否定してしまいます。そうすると、神さまには会えないのです。この女性たちの行動のように、真っすぐにイエスさまの所に向かう時、奇跡が起こるのです。人生には目の前に大きな石が据えられ、取りのけられない限り、前に進むことが出来ない時があります。今日ももしかしたら、一歩も前に進むことが出来ないと言われる人もいるかもしれません。しかし希望をもっていただきたいと思います。イエスさまに期待して、イエスさまに真っすぐに近づくと何が起こるのか、気がつくと目の前の大きな岩がなくなり、甦りのイエスさまと出会うのです。

日本のクリスチャン人口は0.3%です。韓国は30%がクリスチャンなのに、日本では0.3%です。日本に教会は8000軒ぐらいあるのですが、一つの教会の平均出席人数はたったの20人辺りです。田舎は10人ぐらい集まれば、まあよくできたという感じです。そして教会に来られる方々の多くは自分の前に大きな石があって、何とかその石を動かして欲しいと教会に来られる事が多いです。もちろんそれで良いと思います。石を何とか動かして欲しいと教会に来る時、不思議なことにその先におられるイエスさまと出会うからです。もちろん目に見える形でイエスさまと出会ったのではなく、イエスさまが今も生きておられることを霊的に体験するのです。私も毎日、本当にイエスさまは生きておられると感謝しています。今日も生けるイエスさまと出会って頂きたいと心から願っています。

復活のストーリーは死を打ち破った出来事です。死は本当に人間にとって辛いことです。どんな人も打ち破ることが出来ない、一番大きな壁です。人類にとっての一番大きな問題は、ひと言で言えば「死」だと思います。死ほど恐ろしい壁はありません。しかし聖書の素晴らしさ、イエス・キリストの素晴らしさは、まさしく人間が超えることが出来ない、誰もが超えることが出来ない、死をイエスさま自らが体験し、そればかりではなく、「死を打ち破った」ところに素晴らしさがあるのです。そればかりではなく、誰も打ち破ることができなかった死から、何と新たな命が出てくる、これほど意外なストーリーはないと思います。

聖書は、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして人の心に思い浮かんだことのないもの、神を愛する者のために神の備えてくださったものはみなそうである。」と告げています。神さまが私たちに用意してくださっているものは、見たことも、聞いたことも、思ったこともないものです。そしてその裏付けが、「イエスさまの死と甦り」にあるのです。復活という奇跡の事実があるが故に、見たことのないもの、耳が聞いたこともないもの、人の心に思い浮かんだことのないことが起こるのです。それが、コリント第一の2:9に記されています。皆さんの人生に、これから何が起こるのか、素晴らしい事が待っているのです。それはなぜか、イエスさまが死を体験しただけではなく、死を打ち破り、甦ってくださったからです。誰も超えることが出来なかったことをイエスさまが超えてくださったのですから、私たちに素晴らしいものを用意してくださらないはずがありません。最も人類が恐れていた死から、驚くべき命がわき上がったわけです。これが復活の奇跡です。

旧約聖書の中には、いわゆる、ひな形となるようなストーリーがいくつかあります。そんな中に、サムソンという人物の物語が出てきます。サムソンが一頭の若い獅子に出会った出来事が記されています。士師記の14:5-6を見ると、「こうして、サムソンは彼の父母とともに、ティムナに下って行き、ティムナのぶどう畑にやって来た。見よ。一頭の若い獅子がほえたけりながら彼に向かって来た。このとき、主の霊が激しく彼の上に下って、彼は、まるで子やぎを引き裂くように、それを引き裂いた。彼はその手に何も持っていなかった。サムソンは自分のしたことを父にも母にも言わなかった。

普通なら、どうでしょうか。若いライオンに襲われたら、その次に起こることは明かです。それは死以外のなにものでもありません。時々人生の中で、恐ろしいライオンのような存在に出会って、その先は死しかないという状況に陥る時があります。しかし主の霊がサムソンに下った時に、まるで子やぎを引き裂くように、ライオンを引き裂いたと記されています。私たちの前にも獅子のような猛獣の死が近づいてきたとしても、神の霊によって生きる人生は、まるで子やぎを引き裂くかのように、敵をやっつけるパワフルな人生になるのです。こんなすごいことをサムソンはしたのですが、その後、もう一つの体験をしました。ライオンを引き裂き放り投げ、帰り道に死んだライオンに、ある事が起こっていたのです。士師記14:12-14を見ると、サムソンがペリシテの人たちに謎かけをしています。

サムソンは彼らに言った。「さあ、あなたがたに、一つのなぞをかけましょう。もし、あなたがたが七日の祝宴の間に、それを解いて、私に明かすことができれば、あなたがたに亜麻布の着物三十着と、晴れ着三十着をあげましょう。もし、それを私に明かすことができなければ、あなたがたが亜麻布の着物三十着と晴れ着三十着とを私に下さい。」すると、彼らは言った。「あなたのなぞをかけて、私たちに聞かせてください。」そこで、サムソンは彼らに言った。「食らうものから食べ物が出、強いものから甘い物が出た。」彼らは三日たっても、そのなぞを明かすことができなかった。

ペリシテの人たちはサムソンの謎かけについて、三日間考えても分かりませんでした。分からないはずです。実はサムソンが再び戻って来た時に、何と、このライオンの上にミツバチがいっぱいになっていて、自分に襲いかかったライオンから蜜が出たのです。サムソンはその蜜を採って食べました。この体験から、「食らうものから食べ物が出、強いものから甘いものが出た」という、謎かけを考え出したのです。答えは、自分が倒したライオンのことを意味していたのです。普通はどうですか?ライオンに攻撃されたら、死ぬしかないのです。しかしサムソンが体験したことはライオンを倒しただけでなく、ライオンから食べ物が出たのです。強いものから甘いものが出たのです。

イエスさまを信じる人生は、まさにサムソンが体験したのと同じです。普通なら、喰われてしまう最大の敵、その死から食べ物が出る、まさにイエスさまの死はそのようなものでした。人類の誰も倒すことの出来なっかった死によって、人類を救い出す大勝利が引き出されたからです。食らうものから出た食べ物、これは永遠のいのちであり、いのちのパンである甦りのイエスさまです。「強いもの」とは何でしょうか。それは、ヘブル人への手紙の2:14-15を見ると、「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

この強い獅子とは、「悪魔」を指しているわけです。人類になぜ多くの問題があるのか、それは目に見えない獅子がいるからです。獅子がいて、人々が喰われているのです。人類はこの見えない獅子に対して、全く無力です。この獅子の力は死の力です。人々を滅びに連れて行く力です。しかし何と、イエスさまはご自分の死と甦りによって、死の力を持つ悪魔を滅ぼしてくださったのです。そしてイエス・キリストを信じる人生は襲いかかってくる猛獣の獅子、悪魔を切り裂き、打ち破り、自分をアタックした獅子から食べ物が出る人生に変えてくださるのです。獅子に襲われ、喰われる人生が良いのか、それとも獅子を子やぎのように引き裂いて、そこから食べ物が出るような人生が良いのか、選択は私たち一人ひとりにゆだねられています。甦りのイエスさまを信じるなら、目に見えない獅子に倒されることはありません。サムソンと同じように、獅子をまるで子やぎのように引き裂き、食べ物が出てくるパワフルな人生を私たちに下さるというのです。それはイエスさまは死んだのですが、甦られたという事実の故です。

今日私たちは、復活の主を礼拝していますが、復活のイエスさまはここにおられます。そして死を打ち破り、死さえも克服することが出来る完全な勝利を与えてくださいます。人生を終えても永遠のいのちの世界へと入る連続性の中で、支えてくださるお方です。先ほども、マタイの福音書28章を読みましたが、イエスさまは弟子たちに近づいて言われました。

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

どんな時でもイエスさまが私たちとともにいて、励ましてくださり、神の霊によって私たちに襲いかかる獅子さえも、子やぎを引き裂くように簡単に引き裂くのです。そんな素晴らしい人生を歩ませてくださいます。大きな石が目の前にあったとしても、イエスさまは取りのけて下さると堅く信仰を持ちましょう。

最後に、ご一緒にお祈りしましょう。

父なる神さま、私は甦って下さったイエスさまを信じます。今それぞれの場所にイエスさまがおられることを固く信じます。生きておられる主を心から礼拝します。甦りのイエスさまに近づいていきます。目の前の大きな石も取り去ってください。イエスさまがその石を取り除いてください。私の心から全ての恐れを取り除いてください。死の恐怖から解放してください。永遠のいのちが与えられている事を宣言します。永遠に生きることを信じます。永遠のいのちの中で、人生を導いてください。日々守ってください。獅子の口から守ってください。そればかりではなく、神の霊によって力づけ、神の霊によって若い獅子も引き裂く力を与えてください。勝利を信じて、宣言します。甦りのイエスさまを心から礼拝し、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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