メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

箴言3:5-6(自分の悟りに頼るな)

投稿者
tbic
投稿日
2025-06-22 20:27
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100
箴言3:5-6「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」

1. 自分の悟りに頼るな

私はイエス様を信じてから、すぐ今日の本文の箴言3:5-6の、「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」この御言葉が与えられましたが、しばらくは自分の悟り(知識、知恵)にたよって生きていったので、心の中では、この御言葉に対するものすごい大きな抵抗がありました。「自分の悟りにたよるな」ということは、「自分を放棄せよ」ということです。つまりそれは自分以外の何者かの「あやつり人形になれ」ということでもあります。だからそんなことはとてもできるはずがないと心の中で抵抗していたのです。

しかしある日、私はこの聖書の御言葉が本当かどうか試してみようという気になりました。生活の中で何か決断しなければならない時に、「私はこうしたら良いと思うが、神がいるとしたら、どうするだろうか」と考えるようにしたのです。そして「神がいるとしたら、きっとこうするだろう」と思われることを実行していくうちに、次々とそれが良い結果を生み出すことを体験しました。

初めの数回は偶然が重なっただけだと思っていました。しかしあまりにもそのようなことが何度もつづいて起こったので、「目に見えない導き」が存在することを信じざるを得なくなりました。自分が神との交わりを断たれた者であることを自覚し、キリストを信じて神との生きた交わりに入れられるまでには、その後何年かかかりましたが、その時から「目に見えない導き」の存在を信じることによって、御言葉の確かさと神の存在を信じるようになりました。

そして「自分の悟りにたよるな」ということは、決して自分を放棄したり、誰かのあやつり人形になったりすることではなく、あくまでも自分の自由意志によって主に拠り頼み、主の導きに従って自分の知性を生かし用いることであることが分かってきました。つまり「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」ということは、神すなわち、霊(スピリット)の領域の事柄であり、自分の悟り、すなわち人間の知性(マインド)の領域を超越した領域の事柄であることが分かってきたのです。

2. どこにおいても主を認めよ

それで私の信仰は箴言3:5-6をもってスタートしましたが、これは私の生涯にわたって持ちつづけるべき御言葉のひとつとなりました。その理由は物事がうまくいかない時に、その原因をたどってみると、ほとんどの場合、自分の悟りにたよって行動していたことに気づかされます。ときどきは主に拠り頼むのですが、多くの場合に自分の悟りにたよってしまっているのです。

しかし御言葉は、「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。」と言っています。「いつでもどこでも主がおられることを意識して生活しなさい」ということです。これを実行することはなかなか難しいことですが、自分の悟りにたよったら、つまずきますから、どうしても実行せざるを得ません。だからこそ、「いつでもどこでも主を意識しよう」と自分なりにできる限り多くの時間を祈りと御言葉の学びに費やすようになりました。そして牧師として当たり前ですが、今では毎朝、家の中で祈り、御言葉を読んで、昼間には仕事中も、休憩の時も、必要に応じて祈りの時をもち、夜寝る前にも必ず祈ります。

エレミヤ書15:16、「私はあなたのみことばを見つけ出し、これを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」とあるように、今ではこれは「やらなければならないから、やっている」のではなく、「楽しいから、やっている」のです。「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」と詩編16:11に歌われているように、キリストと共に過ごし歩むことにまさる喜びと楽しみはありません。

そうしたら、こういう風に神様との交わりばかりすれば、自分はいったいいつ仕事をしているのだろうか、と思います。しかしまことに不思議なことに、祈れば祈るほど仕事はうまくいくのです。常に祈りの中で仕事をしているから、祈りの中で神様から指示をいただいて、自分の考えや方針をまとめていくのです。私がやれない分は全部、神様が直接やってくださるか、他の方々をとおしてやってくださいます。まさに箴言16:3に、「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」と言われた通りです。

このようにして祈りと御言葉を第一とする生活をつづけているうちに、次第に神の驚くべき恵みを経験させていただくようになりました。そして今は「あなたとともにいるこの民はみな、主のわざを見るであろう。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきものである。」との出エジプト記34:10の御言葉が与えられました。今日はそのうちで、私が主の導きに従ってささげた献金の驚くべき(恐るべき)恵みについてお話しさせていただきます。

3. トルコ地震のための献金

私が日本宣教のために、日本に初めて来たのは1997年12月10日です。独身の時です。一応日本語学校に登録して日本の生活が始まりました。その日の夜、主は私の心の中で、「日本はお金が偶像の国だ。あなたは絶対にお金が偶像になってはならない。」と言われ、テモテ第一6:10の御言葉が思い出されました。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」それで早速日曜日に近所の教会(志村栄光教会)に行って、自分がもっているお金を全部献金しようと決めました。それはお金ではなく、神様にだけ頼るという信仰の決断だったのです。

その週の日曜日の朝、近所の教会に出席して礼拝をささげましたが、言葉がほとんどわからず、とても大変でした。しかし教会の週報のお知らせを見たら、トルコに大きな地震が起きて大変なことになったので、教会が義援金を集めているとの報告が書かれていました。漢字はある程度理解していたので、その内容が分かりました。私はそれが神様からのしるしだと思って、私が韓国から持ってきた私の全財産を献金の時間に献金しました。しかし言葉も通じないし、また次の日から飢えることになったので仕事先を探し回ったら、家の近所に新聞(読売新聞)の販売店があったので、そこで新聞配達を始めました。あまり言葉も要らなかったので、本当に助かりました。

問題は給料日まで、一カ月の間どう生きられるかでした。一カ月の生活費は残しておいた方が良かったのにと少し後悔はしましたが、最後まで信仰をもって突破しようと決心しました。

それで次の日から新聞配達が始まったのですが、不思議なことが毎日起きました。新聞配達の途中に、地に落ちていたパンとか、おにぎりが目に入りました。賞味期限が切れていたかどうかは、当時確認していなかったので分かりませんが、とにかくそれは私にとってエリヤにパンと肉を運んだカラスのような存在でした。またある日は500円玉と100円玉もあちこち落ちていたり、ある日はおばあさんが夜明けの3-4時頃に起きて、自分の家の前で私を待っていて、3000円が入った封筒を渡してくださいました。そんな恵みを体験しながら、あっという間に一カ月が過ぎました。そのお金のない一カ月の間、一日も飢えていなかったのです。ハレルヤ!

4. 恐るべき恵み

この体験を通して、神の驚くべき恵みが与えられました。最大の恵みは、神ご自身との生きた交わりが一段と深められたことです。それまでは、祈りは私の方からの一方的な願いや感謝と賛美がほとんどで、神の側からの語りかけは、まれにしかありませんでした。しかしその後は神からの語りかけをどんどん受けることができるようになったのです。次第に祈りが神と親しく語り合う会話になってきました。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を超えた大いなる事を、あなたに告げよう。」というエレミヤ書33:3の御言葉が日常生活の中で現実になってきたのです。イザヤ書65:24には、「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く」と書かれています。これは私にとって、まことに驚くべき恵みでした。

さらに、「みことばと戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」と詩篇119:130にあるように、聖霊の働きにより、御言葉の文字の内に隠されている神の栄光を見ることができるようになりました。主は言われます。ヨハネの福音書8:12、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」ヨハネの福音書11:40、「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る。」また、ヨハネの福音書6:63、「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」とありますように、聖霊の働きにより、みことばの文字の内に隠されている神のいのちにふれることができるようになってきました。そして「神様はひとりの人に働きかけても、これほどのことができるお方である。だから神にできないことはなにもない」という確信が一層強められてきました。その後、日本語の勉強の面でも、アルバイトの収入の面でも祝福されたことは、言うまでもありません。

5. 主はあなたの道をまっすぐにされる

皆さん、生活の中で、自分の悟りにたよらず、心を尽くして主に拠り頼んで、絶えず絶えず主のご臨在とご内住を意識するようにしていくならば、主は私たちの道をまっすぐにしてくださいます。これはコリント第二5:7の「私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」という生活をすることです。

イスラエルの民は主の奇跡の恵みによって、紅海を渡ってエジプトを脱出した後、乳と蜜の流れる神の恵みの地、カナンを目前にしていました。わずか2週間で行ける距離です。ヨシュアとカレブは主に拠り頼んでまっすぐな道を進み、一挙にカナンの地を勝ち取ろうと言いました。しかし他の10人の斥候(スパイ)は自分の見たところによって、すなわち自分の悟りにたよって、戦う前から敗北を宣言してしまったのです(民数記13:30-31)。イスラエルの民全体が自分の悟りにたよって敗北宣言に同意したために、40年の間荒野を放浪しなければなりませんでした。

詩篇84:10に、「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。」という御言葉があります。「祈りと御言葉によって聖霊の臨在と内住の中に生きる1時間は、自分の悟りによってがんばって働く千時間にまさります。」ということです。それは「御霊によって歩みなさい」、「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」というガラテヤ5:16、25の生き方です。そうすれば、私たちは主のまっすぐな道を歩ませていただけるのです。

それでは「御霊によって歩む」、「御霊によって生きる」、「御霊によって導かれて進む」とは、どういうことでしょうか。それは、「私たちの心の内と、外におられるイエス・キリストによって歩み、生き、導かれて進む」ということです。私たちの心の内におられるイエス・キリスト、また私たちをご自身の内に入れておられるイエス・キリストがどういうお方であるかを、単に頭で理解するだけではなく、生活のすべての領域で体験していく、ということです。

聖書によれば、キリストこそ、唯一・絶対・永遠・無限・全知・全能なる神の御言葉、神の独り子なる御子、天地万物の創造主・支配者、王の王、主の主、万軍の主、栄光の主、勝利の主、平安の君、とこしえの父、またキリストは私たちの罪の身代わりとして命を惜しまずに与えてくださった救い主、あがない主、私たちに永遠の命を与えるために死の力を克服してよみがえられた復活の主、やがて私たちを迎えにきてくださる再臨の主です。さらにキリストは、私たちのためにどこにでもいてくださる遍在の主、私たちとともに、いつもいてくださる臨在の主、私たちの心の内に住んでいてくださる内住の主です。

そしてキリストは完全なる聖にして、義にして、愛なる方、最強の力なる方、道であり、真理であり、永遠の命であられる方、あらゆる病のいやし主、すべての問題における助け主、あらゆる束縛から自由にしてくださる解放の主、無限の恵みの与え主、最後の裁き主、大祭司なる方、最も良き教師・弁護人、最も慈しみ深い友なる方、そして私たちの花婿・夫となられる方です。

だからこそ、私たちにとって「すべてのすべて」であられる方です。これは、イエス・キリストについて聖書が語っていることの一部です。聖書全体がイエス・キリストを証しています(ヨハネ5:39)。私たちの心の内におられ、同時に私たちをご自身の内に入れておられるイエス・キリストはこのような素晴らしいお方です。また「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力がある。」とヨハネ第一4:4で言われています。私たちの内におられるイエス・キリストはこの世を支配している闇の力、サタンよりも力があります。だから私たちはサタンの誘惑や攻撃を打ち破っていけるのです。イエス・キリストはルカの福音書10:19で、「わたしは、あなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」と宣言しておられます。

主は、こうして私たちの人生の道をまっすぐにしてくださり、勝利から勝利へと、そして栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えていってくださいます。それは霊なる主の働きによるのです(コリント第二3:18)。

6. 心を尽くして主に拠り頼め

ここで今日の本文の箴言3:5の御言葉にもどりますが、私たちは「心を尽くして」主に拠り頼むように求められています。言いかえれば、「100」主に信頼せよということです。「99」では不十分であるということです。最近私は、この「100」と「99」の違いに気づかされつつあります。主は完全なるお方です。だから当然、私たちも完全な者であるようにと命じられています(創世記17:1、マタイ5:48)。しかし私たちが自分でがんばって完全になることは絶対にできません。完全なる主に「100」拠り頼むことによってはじめて、私たちは主の目に完全な者として見られます。

99」主に拠り頼んでも「心を尽くして」主に拠り頼んだことにはなりません。「最後の1」は主以外のものに拠り頼んでいるのですから。この「最後の1」が天と地の差をもたらします。「99」は99にすぎません。しかし「最後の1」を主にゆだねたならば、それは無限大になるのです。なぜなら、主は無限なるお方であるからです。「最後の1」を主にゆだねることによって、私たちは無限なるお方と完全に一体にされていきます。だからこの「最後の1」こそが私たちを地上の者(縛られた者)から天上の者(解放された者)へと移し変える質的変化をもたらします。

99」は自分の信仰と能力や努力や幸運で何とか達成できるかも知れません。しかし「最後の1」はそうは行きません。これは「死に至るまで主に従う(黙示録2:10)」ということです。自我に死に切って、自分自身を完全に主に明け渡すということです。これは私たちの内の「古い人」がキリストと共に「十字架」につけられていることを本当に悟り、現実にそのように生きることです。つまり私たちの内の「古い人」がキリストと共に死ぬことによってはじめて、私たちの内の「新しい人」がキリストと共に生きることができるということを体験するのです(ローマ6:6)。

イエス・キリストは地上のご生涯で、良い教えをし、悪霊を追い出し、病をいやし、大勢の群衆に食物を与え、嵐を静め、その他、数多くの業をなさいました。そのまま最良の王・君主として地を統治することもおできになりました。しかしそれでは99%です。それでは私たち全ての者の罪が許されることはなかったのです。それでは私たち全ての者が主の永遠の命をいただくことはできませんでした。しかしイエス・キリストが父なる神の導きに「100」従って、十字架について血を流し、ご自分の命をささげてくださったからこそ、私たちの罪が赦されたのです。そして主が死からよみがえって復活してくださったからこそ、私たちに永遠の命が与えられたのです。

一粒の麦が地に落ちて死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネ12:24)」とイエス・キリストは言われました。それが「TBIC教会の目標である」と思います。主のまっすぐな道とは、「十字架の道」です。しかし「十字架の道」こそ、「復活の道」です。そしてそれは「昇天の道」へとつづいているのです。

7. 神のご計画

最後に「主が私たちの道をまっすぐにされる」、そのご計画(その目的地)について考えてみたいと思います。神は愛そのものです(ヨハネ3:16、1ヨハネ4:8-9)。私たちをその瞳のように大切に守り(申命記32:10、詩篇17:8、ゼカリヤ2:8)、高価で尊いと思っておられます(イザヤ43:4)。神は私たちをねたむほどに愛しておられます(申命記6:16)。

愛とは、お互いを与え合って完全に一体になろうとする最も激しい情熱であり、最も強い力です。神はその愛のご性質のゆえに、私たちにご自分のもっておられるすべてを与えたいと願っておられます(ローマ8:32、エペソ3:19)。それゆえに私たちのなすべき最も大切なこととして、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22:37、申命記6:4)と命じておられます。

愛の神は私たちのために計画を持っておられます。それは災いを与える計画ではなく、平安と将来と希望を与える計画です(エレミヤ29:11)。親が子供に最も幸いな生活を与えたいと願い、子供の将来をいつも心配しているように、神は私たちに最も幸いな生活を与えたいと願い、私たちの明日を心配しておられます(マタイ6:25-34)。神は私たちに健康といやしと豊かな繁栄と安全を与えると言っておられます(エレミヤ33:6)。イエス・キリストは、すでに私たちに永遠の命、豊かな命、あふれて川のように流れ出る命を与えてくださっているのです(ヨハネ7:38、10:10)。私たちが、心からキリストを信じるならば、この神の無限の命が満ちあふれてくることを体験するようになります。

だから神は私たちがこの世のどんなことにも心配したり、思い煩ったりして欲しくないのです(ローマ8:28、ピリピ4:5、Iペテロ5:7)。ただ心を尽くして「100」神を信頼して、心を尽くして「100」神を愛して欲しいのです。神は私たちを驚くべき恵みの世界に導き入れたいのです(申命記28:1-14、エレミヤ17:7-8)。この驚くべき恵みの世界とは、かつての「カナンの地」に象徴される栄光に輝く「神の国」です(マタイ6:33、エペソ1:18)。確かにローマ人への手紙8:32、「私たちすべてのためにご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちのために恵んでくださらないことがありましょう。

やがてイエス・キリストがこの地上に再び来られて、全世界に完全なる「神の国」を実現してくださることになっています(黙示録22:10-20)。だから世の中がどのように移り変わろうとも、私たちにはキリストが再び来られるという「絶対的ハッピー・エンド」の平安と将来と希望が与えられているのです。だからこそ、私たちの心の中に、家庭に、教会(聖徒の集まり)に、職場に、社会に、日本に、アジアに、そして全世界に「神の国」が実現するように祈り求め、キリストの再臨を待ち望みつつ、心を尽くして「100」主に拠り頼んでいきましょう。

最後にゼカリヤ書4:6-7を読んで終わりたいと思います。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。権力によらず、能力によらず、わたしの霊によってと万軍の主は仰せられる。大いなる山よ、おまえは何者だ。ゼルバベルの前に平地となれ。
合計 212
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
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詩篇8:1-9(人間の存在の目的)
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210
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ゼカリヤ書2:1–13(火の城壁の神)
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エペソ人への手紙2:1-5 (ロープを掴みなさい)
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創世記2:24 (聖書的結婚観)
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ヘブル10:37-11:7(信仰とは何か?) 
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箴言3:5-6(自分の悟りに頼るな)
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エペソ人への手紙5:22-33(夫と妻に対するお勧め)
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