メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
ヨハネの福音書 13:34(新しい戒めの中に生きよう)
投稿者
tbic
投稿日
2025-07-27 22:27
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ヨハネの福音書 13:34『あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』
聖書は旧約聖書と新約聖書の二つがあります。旧約聖書とは訳し方が古いというのではなく、古い約束ということです。しかしイエス・キリストがこの地上に来られて、十字架にかかり、3日目によみがえってくださったことにより古い契約が新しい契約に置き換えられたのです。私たちは聖書を学ぶ時、古い契約を知りながら、新しい契約を知る時、神からの祝福を受けることができます。
今日の本文、ヨハネの福音書13:34でイエス様が『あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』と語られました。
イエス様は弟子たちに向かって、十字架にかかり死なれる前に、遺言のように語られたのが、この言葉です。「あなたがたに新しい戒めをあげます。これを守ったら幸せになることができますよ」という意味です。その中心的なことは何かというと、「互いに愛し合う」ことです。
教会は一般にはない社会だと思います。一人ひとりの背景を見たら、みんな違います。しかしここにはキリストの愛によって結ばれたコミュニティーがあるのです。これはどの世界にもない強力な神の国のコミュニティーです。教会は神が造られた社会だから、その基本は「互いに愛し合う」という、神の愛を基本としています。
教会にはいろいろなイベントがありますが、その根底に流れているのは神の愛です。神の愛を伝えたい、また神の愛によって結ばれているコミュニティーがどんなものであるのかを社会に発信するための働きです。それをイエス様は「新しい戒め」として与えたわけです。しかし聖書を詳しく読んでみますと、「互いに愛し合いなさい」という戒めは別に新しい戒めと言わなくても、旧約聖書の中にも出てくる戒めです。
では、なぜイエス様は「新しい戒め」という言葉をあえて使われたのでしょうか。そのところを学んでみたいと思います。旧約聖書のレビ記19:17-18に、こんな言葉があります。『心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。』
このように、『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。』この言葉は、イエス様が取り立てて言わなくても、旧約聖書にある戒めです。では、なぜイエス様はそう言われたのでしょうか。またどこに古い契約と、新しい契約の違いがあるのでしょうか。
旧約聖書の内容を見ていくと、まずは『心の中であなたの身内の者を憎んではならない』とあります。みなさんにも家族があると思いますが、誰とトラブルが起きやすいのかというと、遠くの人とはあまり起こりません。近くの人と起こるのです。日本に住んでいながら、韓国に住んでいる人とはもめないのです。すぐ近くに住んでいる人ともめるのです。最も近い関係は、やはり身内です。「身内を憎んではいけない」と書かれています。身内にもめ事があると、幸せになれないからです。18節には『あなたの国の人々を恨んではならない』とあります。毎日ニュース等を見ますと、やはり国内問題が中心です。『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』という言葉は、すごく重要な教えです。誰でも自分がかわいいです。自分を愛しています。しかしそれと同じように、自分を愛するのと同じ気持ちで、「隣人を愛しなさい」というのです。
この言葉が社会一般に通用するようになったら、事件なんか起きなくなります。私たちが気に掛けなければならないのは「この事をやったら、また自分にやられたら、どう感じるだろう」と自分に置き換えて物事を考えることは重要です。『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。』という教えは、最高の戒めだと聖書は告げています。これはレビ記19章に書かれているのですが、イエス様は今日の本文のヨハネの福音書13:34で、『あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』これが新しい戒めだというのです。しかし「何が新しいんだ?同じじゃないか。」と思います。しかしよく比べて読んでみると違うのです。
旧約の時代では、『あなたの隣人を「あなた自身のように」愛しなさい』となっています。これは自分が中心です。自分の価値観で隣人を愛したら、良いという事です。しかしイエス様は『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』と言われたのです。どこが違うのでしょうか。隣人を「自分自身のように愛する」のではなく、「イエス様が隣人を愛したように、私たちも愛する」という点が新しいのです。「自分にして欲しいように、人にもしてあげろ」という自分が中心ではなく、「イエス様が人々を愛されたように、人々を愛しなさい」と中心軸が自分からイエス様に移っているのです。これが「新しい戒め」です。自分がして欲しいように、人にもしてあげる以上にイエス様が隣人をどのように愛されたのかを学んで、それを実行するのが新しい戒めです。それが真の祝福となるのです。ここに新しい戒めの奥義があります。ヤコブの手紙2:8-9、『もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。』
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という戒めは旧約聖書中の、最高の律法だと告げています。しかしここではもう一つ付け加えて、『しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。』となっています。新約時代では、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』だけでは不完全で、「イエス様が愛されたように、隣人を愛する」という領域に進まなければなりません。その時、本当の幸せがあるのです。
ここでは「えこひいきするな」とはっきり語っています。自分を中心として、自分のして欲しいことを隣人にすれば、やはりそこにはおせっかいもあるし、えこひいきもあります。自己中心はどうしても否定できません。しかし私たちが目を向けなければならないのは「イエス様はどのように、隣人を愛されたのか」です。
イエス様が隣人を愛するということを、具体的に示された箇所がルカの福音書10章の「良きサマリヤ人の例え」に現されています。もうみなさん、すでにご存知だと思うので、読まなくてもいいのかもしれませんが、ちょっと読んでみます。ルカの福音書10:29-37、『しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』
これがイエス様が隣人を愛する姿です。エルサレムからエリコに下る道は、大変険しい道でした。よく強盗が出没しました。道ばたに一人の旅人が倒れていたわけです。その側を通りかかると、皆やっかいな事件には巻き込まれたくないから、通り過ぎていたのです。でも、一人のサマリヤ人が旅の途中、自分の目的があるにも関わらず、全てを投げ出して、倒れていた人をとことん助けたのです。これがイエス様が隣人に対して現した愛です。
しかしこのストーリーにはさらなる深い歴史的内容を含んでいます。エルサレムからエリコに至る道は、隣り合う二つの民族が共に使っていた道でした。それが「ユダヤ人とサマリヤ人」という、隣り合う民族でした。この内容はもちろん倒れていた旅人をとことん助ける内容ですが、倒れていたユダヤ人をサマリヤ人が助けるところに、ストーリーの奥義があります。これは何を語っているのかというと、隣人を愛するとは、旧約聖書のように、『あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』と。自分の民族は愛するのですが、隣国に住む民族は対象外だという視点ではいけないということです。
どこでも隣に住む民族とは関係が悪いものです。遠い国の民族ではなく、近い民族との関係が悪いのです。旧約聖書は、そのような視点が不足していました。他民族を愛する愛はユダヤ人の中に最も欠けていた部分でした。しかしイエス様が現れて『わたしがあなた方を愛したようにあなた方も互いに愛し合いなさい』と言われました。それは突き詰めると、「ユダヤ人とサマリヤ人」という民族を越えて愛を表す所に真の神の愛が表されると教えているのです。そこに真の隣人の姿が浮き彫りにされているのです。
日本と関係が悪い国々は遠い国々ではありません。南米の諸国とか、地球の裏側にある国々とは関係は悪くありません。しかし一番関係が悪いのは、お隣の韓国、北朝鮮、中国、そして周辺諸国です。日本に生まれ、日本人としてのアイデンティティを持っていれば、周辺諸国の人たちに対して愛を表すのは、中々難しいと思います。しかし神の愛とは、自国民だけの間では現れないのです。隣に住む、あまり関係のよくない民族との間に現されるのです。隣合わせに住んでいる民族に目を向ける時、神の愛と勝利を見ることができると教えています。聖書を学ぶ時、まずは大枠を押さえておき、それから内側に目を向けていかないと、真理に出会うことはできないと思います。
今、韓国は大きな問題を抱えています。それは何かというと、朝鮮半島が南北に分断しているからです。韓国と北朝鮮が対立し、分断しているのはご存知だと思います。今は休戦中です。それで韓国教会の一番激しい祈りは、民族が二つに分かれてしまっているので、統一のために真剣に祈っています。韓国の大きな問題の中で一つは、北朝鮮から逃げて、南に来ている脱北者たちのことです。北朝鮮は今もなお、すごく大変な状況です。多くの人たちが中国との国境から中国側に逃げていて、中国側の国境線では、韓国教会が脱北者を支援しています。北京の韓国大使館に逃げ込ませ、最終的に南に連れて来ているのです。今、韓国にどのくらいの脱北者が暮らしているのか、ご存じですか?何と、「3万人」もの脱北者たちが暮らしています。大勢の人たちが脱北して、韓国側で暮らしています。韓国教会は脱北者のために一生懸命、愛を表しています。
脱北者の中には子どもや若者たちもいます。北朝鮮にはストリートチルドレンが多く、本当に飢えているそうです。彼らは何を食べているのかと言うと、朝になると市が立って、市場の人たちがご飯を食べるというのです。そして食べ残しを水たまりに捨てるのです。水たまりに捨てられたそうめんとか、くずを食べます。また野菜のくずなどを拾って生活すると言うのです。日本で報道されている北朝鮮に対する報道の内容はほとんど事実だそうです。信じられない過酷な環境で、彼らは生き抜いています。
私たちの隣の国にはそのような人たちが多く暮らしていることに関して、私たちはどのくらい関心を持ち、愛を持って祈っているのかと強く問われます。私たちはただテレビの画面の中のことのように考えて、現実味がありません。それではいけないと思います。私たちも真剣に、そのような人たちのために祈らなくてはいけません。
イエス様は『わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも隣人を愛しなさい』と語られました。イエス様はユダヤ人だけでなく、隣の民族サマリヤにも福音を伝え、多くの苦しんでいる人、悲しんでいる人の友となりました。私たちも同じ気持ちで祈らなければなりません。これからは更に霊的戦いに目覚め、悪魔に立ち向かうことができるように、みんなで聖霊の油注ぎを受け、御言葉の剣を受けて、悪魔に立ち向かう祈りをたくさん持ちたいと思います。
人類が共通の敵に目を向けない限り、世界平和はありえないと思います。世界を苦しめている共通の敵に立ち向かう勇士として働いていかなければいけません。特にお隣の国の為に、真剣に祈っていかなければいけないと思います。エペソ人への手紙6章は、よくご存知の霊的戦いについて教えている重要な箇所です。10節から霊的戦いについて書かれているのですが、9節から読んでみたいと思います。エペソ人への手紙6:9-10、『主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』
パウロが最終的に自分の働きを終えた上で主から知らされたことが「霊的戦い」でした。彼は人生で数々の問題に直面しましたが、それらは血肉に対する戦いではない霊的戦いであったと気づかされ、この手紙を書いて諸教会宛てに送りました。人々を不幸にしている背後に暗闇の力が関わっていることを深く意識し、そこに御言葉の剣を向けて行かなければいけないことを、教えられるわけです。
国と国の間に働き、国の中に働き、人々を苦しめている敵の力にイエス様の愛の動機付けで、立ち向かうためには、何が必要なのか、私たちが霊的戦いのことを学ぶ時、6章10節から学んでしまうことが多いわけですが、聖書は全体的に学ばなければいけません。特に9節は重要です。何が書かれているのかというと、『主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。』実はパウロが生きていた時代は、今では考えられない違った社会構造の中に人々は生きていました。それは「奴隷制度」があたかも文化のようになっていたからです。主人は奴隷を使うのが当然でした。奴隷という身分に生まれたら、ずっと奴隷として生きなければなりませんでした。奴隷制度は文化のようになっていて、当然の制度として社会に受け入れられていたわけです。
しかしそんな社会制度の中、ある意味、その制度を認めながら、「主人はおどすことをしてはいけません。また奴隷は、主人に心から仕えなさい。」と言いつつも、パウロは最後に何と語っているのでしょうか。『彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。』『主は人を差別されることがない』と語っています。この言葉は、当時の奴隷制度が文化のように受け入れられていたただ中で、衝撃的な言葉でした。
この言葉を語った後に、霊的戦いに入っていくことが述べられているのです。私たちが霊的戦いを前にして準備しなければならない最も大きな事柄はどこにあるのでしょうか。それはもしかしたら、ここにあるのかもしれません。「神は人を差別されない」私たちの内側に差別意識があったら、霊的戦いはできないことを告げているのではないかと思います。
日本に生まれれば、教育の中で知らないうちに、周りの国々に対して差別的な意識が生まれます。日本はどうでしょうか。一般的には本当に悲しいことですが、アジアの諸国に対して、どのような気持ちを持っているのでしょうか。またアメリカやヨーロッパに対しては、どういう意識を持っているのでしょうか。アメリカやヨーロッパの人たちに対しては、「あこがれ」を持っていて、アジアの人たちに対しては優越意識を持っているのす。あこがれも差別の一種です。誰かを低く見る事も差別です。
その究極の姿、奴隷制度のただ中で「神は誰一人として差別される方ではない」とパウロは語ったのです。私たちが霊的戦いに勝利するためには、文化の中ですり込まれている「差別という意識」から解放されないと、主権的な力に対して立ち向かうことはできないと教えているように思います。リバイバルが起きるためには、日本の教会から、またクリスチャンの中から、まず差別意識を取り去らない限り、リバイバルは起きないと思います。
日本の方々は神の御前で悔い改めなければならないのは、1910年から1945年まで日本が朝鮮半島を植民地化し、半島の人たちを差別して扱った事です。その罪を悔い改めなければならないと思います。1945年8月15日、日本は戦争に負けました。その結果、その時、日本に取り残された朝鮮半島の人々が200万人くらいいました。その人々は日本において「在日コリアン」というコミュニティーを作りました。そのようなコミュニティーがなぜ出来たのかに対して、日本ではほとんど教育がなされてなく、多くの偏見があります。一般的には、その人々に対して差別的な意識を持っています。それが大きな罪だと認識し、心から悔い改めると共に、その壁を取り去らないと日本にリバイバルは起きないと思います。
日本にリバイバルを願うなら、内側から海外の人々に対する差別や、特に日本国内の在日コリアンの人々に対しての差別意識を捨て、心から受け入れる事がない限り、日本のリバイバルは難しいと思います。リバイバルの鍵は、遠い所に落ちているのではなく、結構私たちの足下にあるのです。私たちの心の中にある問題を解決する必要があります。イエス様が『あなたの隣人を愛しなさい』という事柄を「新しい戒め」として語られたのは、旧約聖書の中の『あなたの国々の人々を憎んではならない』とか、『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』というような自分を中心とする視点の隣人愛を越えるためでした。『わたしがあなた方を愛したように、あなた方も隣人を愛しなさい。』隣に住む民族の方々のために愛を表し、国内に住んでいる海外の人々や、一緒に住んでいる、日本が原因となって出来たコミュニティーの人々に愛の手を差し伸ばし、政治がらみではなく、神の愛によって受け入れることが新しい戒めです。その時に日本のリバイバルと世界のリバイバルにつながっていくと信じます。
今日は新しい戒め、『わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい。』というイエス様の視点で、隣人を愛するという者にならせていただきたいと心から願っています。一言お祈りさせていただきます。
ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて、心から感謝をいたします。あなたは私たちを愛してくださっていることを心から感謝します。新しい戒めの中で、あなたが私たちを愛してくださっているように、私たちも隣人を愛することができるようにしてください。私たちに一番欠けている所を補ってくださいますように。アジアの諸国に対して差別的な思いを持ったり、国内に住んでいる他民族の人々に対して良くない思いを持っていた罪を赦してください。私たちの内側から、民族的差別意識を捨て去ります。主よ、私たちを受け入れてください。イエス様の愛によって一つにされ、主の前に出ることが出来ますようにお願いします。今日、差別的な意識の中に働いている悪魔の力が打ち砕かれますように。この国が他の国々の人たちを心から愛し、仕える国と変えられますように。イエス様の御名を通し、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。
聖書は旧約聖書と新約聖書の二つがあります。旧約聖書とは訳し方が古いというのではなく、古い約束ということです。しかしイエス・キリストがこの地上に来られて、十字架にかかり、3日目によみがえってくださったことにより古い契約が新しい契約に置き換えられたのです。私たちは聖書を学ぶ時、古い契約を知りながら、新しい契約を知る時、神からの祝福を受けることができます。
今日の本文、ヨハネの福音書13:34でイエス様が『あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』と語られました。
イエス様は弟子たちに向かって、十字架にかかり死なれる前に、遺言のように語られたのが、この言葉です。「あなたがたに新しい戒めをあげます。これを守ったら幸せになることができますよ」という意味です。その中心的なことは何かというと、「互いに愛し合う」ことです。
教会は一般にはない社会だと思います。一人ひとりの背景を見たら、みんな違います。しかしここにはキリストの愛によって結ばれたコミュニティーがあるのです。これはどの世界にもない強力な神の国のコミュニティーです。教会は神が造られた社会だから、その基本は「互いに愛し合う」という、神の愛を基本としています。
教会にはいろいろなイベントがありますが、その根底に流れているのは神の愛です。神の愛を伝えたい、また神の愛によって結ばれているコミュニティーがどんなものであるのかを社会に発信するための働きです。それをイエス様は「新しい戒め」として与えたわけです。しかし聖書を詳しく読んでみますと、「互いに愛し合いなさい」という戒めは別に新しい戒めと言わなくても、旧約聖書の中にも出てくる戒めです。
では、なぜイエス様は「新しい戒め」という言葉をあえて使われたのでしょうか。そのところを学んでみたいと思います。旧約聖書のレビ記19:17-18に、こんな言葉があります。『心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。』
このように、『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。』この言葉は、イエス様が取り立てて言わなくても、旧約聖書にある戒めです。では、なぜイエス様はそう言われたのでしょうか。またどこに古い契約と、新しい契約の違いがあるのでしょうか。
旧約聖書の内容を見ていくと、まずは『心の中であなたの身内の者を憎んではならない』とあります。みなさんにも家族があると思いますが、誰とトラブルが起きやすいのかというと、遠くの人とはあまり起こりません。近くの人と起こるのです。日本に住んでいながら、韓国に住んでいる人とはもめないのです。すぐ近くに住んでいる人ともめるのです。最も近い関係は、やはり身内です。「身内を憎んではいけない」と書かれています。身内にもめ事があると、幸せになれないからです。18節には『あなたの国の人々を恨んではならない』とあります。毎日ニュース等を見ますと、やはり国内問題が中心です。『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』という言葉は、すごく重要な教えです。誰でも自分がかわいいです。自分を愛しています。しかしそれと同じように、自分を愛するのと同じ気持ちで、「隣人を愛しなさい」というのです。
この言葉が社会一般に通用するようになったら、事件なんか起きなくなります。私たちが気に掛けなければならないのは「この事をやったら、また自分にやられたら、どう感じるだろう」と自分に置き換えて物事を考えることは重要です。『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。』という教えは、最高の戒めだと聖書は告げています。これはレビ記19章に書かれているのですが、イエス様は今日の本文のヨハネの福音書13:34で、『あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』これが新しい戒めだというのです。しかし「何が新しいんだ?同じじゃないか。」と思います。しかしよく比べて読んでみると違うのです。
旧約の時代では、『あなたの隣人を「あなた自身のように」愛しなさい』となっています。これは自分が中心です。自分の価値観で隣人を愛したら、良いという事です。しかしイエス様は『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』と言われたのです。どこが違うのでしょうか。隣人を「自分自身のように愛する」のではなく、「イエス様が隣人を愛したように、私たちも愛する」という点が新しいのです。「自分にして欲しいように、人にもしてあげろ」という自分が中心ではなく、「イエス様が人々を愛されたように、人々を愛しなさい」と中心軸が自分からイエス様に移っているのです。これが「新しい戒め」です。自分がして欲しいように、人にもしてあげる以上にイエス様が隣人をどのように愛されたのかを学んで、それを実行するのが新しい戒めです。それが真の祝福となるのです。ここに新しい戒めの奥義があります。ヤコブの手紙2:8-9、『もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。』
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という戒めは旧約聖書中の、最高の律法だと告げています。しかしここではもう一つ付け加えて、『しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。』となっています。新約時代では、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』だけでは不完全で、「イエス様が愛されたように、隣人を愛する」という領域に進まなければなりません。その時、本当の幸せがあるのです。
ここでは「えこひいきするな」とはっきり語っています。自分を中心として、自分のして欲しいことを隣人にすれば、やはりそこにはおせっかいもあるし、えこひいきもあります。自己中心はどうしても否定できません。しかし私たちが目を向けなければならないのは「イエス様はどのように、隣人を愛されたのか」です。
イエス様が隣人を愛するということを、具体的に示された箇所がルカの福音書10章の「良きサマリヤ人の例え」に現されています。もうみなさん、すでにご存知だと思うので、読まなくてもいいのかもしれませんが、ちょっと読んでみます。ルカの福音書10:29-37、『しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』
これがイエス様が隣人を愛する姿です。エルサレムからエリコに下る道は、大変険しい道でした。よく強盗が出没しました。道ばたに一人の旅人が倒れていたわけです。その側を通りかかると、皆やっかいな事件には巻き込まれたくないから、通り過ぎていたのです。でも、一人のサマリヤ人が旅の途中、自分の目的があるにも関わらず、全てを投げ出して、倒れていた人をとことん助けたのです。これがイエス様が隣人に対して現した愛です。
しかしこのストーリーにはさらなる深い歴史的内容を含んでいます。エルサレムからエリコに至る道は、隣り合う二つの民族が共に使っていた道でした。それが「ユダヤ人とサマリヤ人」という、隣り合う民族でした。この内容はもちろん倒れていた旅人をとことん助ける内容ですが、倒れていたユダヤ人をサマリヤ人が助けるところに、ストーリーの奥義があります。これは何を語っているのかというと、隣人を愛するとは、旧約聖書のように、『あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』と。自分の民族は愛するのですが、隣国に住む民族は対象外だという視点ではいけないということです。
どこでも隣に住む民族とは関係が悪いものです。遠い国の民族ではなく、近い民族との関係が悪いのです。旧約聖書は、そのような視点が不足していました。他民族を愛する愛はユダヤ人の中に最も欠けていた部分でした。しかしイエス様が現れて『わたしがあなた方を愛したようにあなた方も互いに愛し合いなさい』と言われました。それは突き詰めると、「ユダヤ人とサマリヤ人」という民族を越えて愛を表す所に真の神の愛が表されると教えているのです。そこに真の隣人の姿が浮き彫りにされているのです。
日本と関係が悪い国々は遠い国々ではありません。南米の諸国とか、地球の裏側にある国々とは関係は悪くありません。しかし一番関係が悪いのは、お隣の韓国、北朝鮮、中国、そして周辺諸国です。日本に生まれ、日本人としてのアイデンティティを持っていれば、周辺諸国の人たちに対して愛を表すのは、中々難しいと思います。しかし神の愛とは、自国民だけの間では現れないのです。隣に住む、あまり関係のよくない民族との間に現されるのです。隣合わせに住んでいる民族に目を向ける時、神の愛と勝利を見ることができると教えています。聖書を学ぶ時、まずは大枠を押さえておき、それから内側に目を向けていかないと、真理に出会うことはできないと思います。
今、韓国は大きな問題を抱えています。それは何かというと、朝鮮半島が南北に分断しているからです。韓国と北朝鮮が対立し、分断しているのはご存知だと思います。今は休戦中です。それで韓国教会の一番激しい祈りは、民族が二つに分かれてしまっているので、統一のために真剣に祈っています。韓国の大きな問題の中で一つは、北朝鮮から逃げて、南に来ている脱北者たちのことです。北朝鮮は今もなお、すごく大変な状況です。多くの人たちが中国との国境から中国側に逃げていて、中国側の国境線では、韓国教会が脱北者を支援しています。北京の韓国大使館に逃げ込ませ、最終的に南に連れて来ているのです。今、韓国にどのくらいの脱北者が暮らしているのか、ご存じですか?何と、「3万人」もの脱北者たちが暮らしています。大勢の人たちが脱北して、韓国側で暮らしています。韓国教会は脱北者のために一生懸命、愛を表しています。
脱北者の中には子どもや若者たちもいます。北朝鮮にはストリートチルドレンが多く、本当に飢えているそうです。彼らは何を食べているのかと言うと、朝になると市が立って、市場の人たちがご飯を食べるというのです。そして食べ残しを水たまりに捨てるのです。水たまりに捨てられたそうめんとか、くずを食べます。また野菜のくずなどを拾って生活すると言うのです。日本で報道されている北朝鮮に対する報道の内容はほとんど事実だそうです。信じられない過酷な環境で、彼らは生き抜いています。
私たちの隣の国にはそのような人たちが多く暮らしていることに関して、私たちはどのくらい関心を持ち、愛を持って祈っているのかと強く問われます。私たちはただテレビの画面の中のことのように考えて、現実味がありません。それではいけないと思います。私たちも真剣に、そのような人たちのために祈らなくてはいけません。
イエス様は『わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも隣人を愛しなさい』と語られました。イエス様はユダヤ人だけでなく、隣の民族サマリヤにも福音を伝え、多くの苦しんでいる人、悲しんでいる人の友となりました。私たちも同じ気持ちで祈らなければなりません。これからは更に霊的戦いに目覚め、悪魔に立ち向かうことができるように、みんなで聖霊の油注ぎを受け、御言葉の剣を受けて、悪魔に立ち向かう祈りをたくさん持ちたいと思います。
人類が共通の敵に目を向けない限り、世界平和はありえないと思います。世界を苦しめている共通の敵に立ち向かう勇士として働いていかなければいけません。特にお隣の国の為に、真剣に祈っていかなければいけないと思います。エペソ人への手紙6章は、よくご存知の霊的戦いについて教えている重要な箇所です。10節から霊的戦いについて書かれているのですが、9節から読んでみたいと思います。エペソ人への手紙6:9-10、『主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』
パウロが最終的に自分の働きを終えた上で主から知らされたことが「霊的戦い」でした。彼は人生で数々の問題に直面しましたが、それらは血肉に対する戦いではない霊的戦いであったと気づかされ、この手紙を書いて諸教会宛てに送りました。人々を不幸にしている背後に暗闇の力が関わっていることを深く意識し、そこに御言葉の剣を向けて行かなければいけないことを、教えられるわけです。
国と国の間に働き、国の中に働き、人々を苦しめている敵の力にイエス様の愛の動機付けで、立ち向かうためには、何が必要なのか、私たちが霊的戦いのことを学ぶ時、6章10節から学んでしまうことが多いわけですが、聖書は全体的に学ばなければいけません。特に9節は重要です。何が書かれているのかというと、『主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。』実はパウロが生きていた時代は、今では考えられない違った社会構造の中に人々は生きていました。それは「奴隷制度」があたかも文化のようになっていたからです。主人は奴隷を使うのが当然でした。奴隷という身分に生まれたら、ずっと奴隷として生きなければなりませんでした。奴隷制度は文化のようになっていて、当然の制度として社会に受け入れられていたわけです。
しかしそんな社会制度の中、ある意味、その制度を認めながら、「主人はおどすことをしてはいけません。また奴隷は、主人に心から仕えなさい。」と言いつつも、パウロは最後に何と語っているのでしょうか。『彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。』『主は人を差別されることがない』と語っています。この言葉は、当時の奴隷制度が文化のように受け入れられていたただ中で、衝撃的な言葉でした。
この言葉を語った後に、霊的戦いに入っていくことが述べられているのです。私たちが霊的戦いを前にして準備しなければならない最も大きな事柄はどこにあるのでしょうか。それはもしかしたら、ここにあるのかもしれません。「神は人を差別されない」私たちの内側に差別意識があったら、霊的戦いはできないことを告げているのではないかと思います。
日本に生まれれば、教育の中で知らないうちに、周りの国々に対して差別的な意識が生まれます。日本はどうでしょうか。一般的には本当に悲しいことですが、アジアの諸国に対して、どのような気持ちを持っているのでしょうか。またアメリカやヨーロッパに対しては、どういう意識を持っているのでしょうか。アメリカやヨーロッパの人たちに対しては、「あこがれ」を持っていて、アジアの人たちに対しては優越意識を持っているのす。あこがれも差別の一種です。誰かを低く見る事も差別です。
その究極の姿、奴隷制度のただ中で「神は誰一人として差別される方ではない」とパウロは語ったのです。私たちが霊的戦いに勝利するためには、文化の中ですり込まれている「差別という意識」から解放されないと、主権的な力に対して立ち向かうことはできないと教えているように思います。リバイバルが起きるためには、日本の教会から、またクリスチャンの中から、まず差別意識を取り去らない限り、リバイバルは起きないと思います。
日本の方々は神の御前で悔い改めなければならないのは、1910年から1945年まで日本が朝鮮半島を植民地化し、半島の人たちを差別して扱った事です。その罪を悔い改めなければならないと思います。1945年8月15日、日本は戦争に負けました。その結果、その時、日本に取り残された朝鮮半島の人々が200万人くらいいました。その人々は日本において「在日コリアン」というコミュニティーを作りました。そのようなコミュニティーがなぜ出来たのかに対して、日本ではほとんど教育がなされてなく、多くの偏見があります。一般的には、その人々に対して差別的な意識を持っています。それが大きな罪だと認識し、心から悔い改めると共に、その壁を取り去らないと日本にリバイバルは起きないと思います。
日本にリバイバルを願うなら、内側から海外の人々に対する差別や、特に日本国内の在日コリアンの人々に対しての差別意識を捨て、心から受け入れる事がない限り、日本のリバイバルは難しいと思います。リバイバルの鍵は、遠い所に落ちているのではなく、結構私たちの足下にあるのです。私たちの心の中にある問題を解決する必要があります。イエス様が『あなたの隣人を愛しなさい』という事柄を「新しい戒め」として語られたのは、旧約聖書の中の『あなたの国々の人々を憎んではならない』とか、『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』というような自分を中心とする視点の隣人愛を越えるためでした。『わたしがあなた方を愛したように、あなた方も隣人を愛しなさい。』隣に住む民族の方々のために愛を表し、国内に住んでいる海外の人々や、一緒に住んでいる、日本が原因となって出来たコミュニティーの人々に愛の手を差し伸ばし、政治がらみではなく、神の愛によって受け入れることが新しい戒めです。その時に日本のリバイバルと世界のリバイバルにつながっていくと信じます。
今日は新しい戒め、『わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい。』というイエス様の視点で、隣人を愛するという者にならせていただきたいと心から願っています。一言お祈りさせていただきます。
ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて、心から感謝をいたします。あなたは私たちを愛してくださっていることを心から感謝します。新しい戒めの中で、あなたが私たちを愛してくださっているように、私たちも隣人を愛することができるようにしてください。私たちに一番欠けている所を補ってくださいますように。アジアの諸国に対して差別的な思いを持ったり、国内に住んでいる他民族の人々に対して良くない思いを持っていた罪を赦してください。私たちの内側から、民族的差別意識を捨て去ります。主よ、私たちを受け入れてください。イエス様の愛によって一つにされ、主の前に出ることが出来ますようにお願いします。今日、差別的な意識の中に働いている悪魔の力が打ち砕かれますように。この国が他の国々の人たちを心から愛し、仕える国と変えられますように。イエス様の御名を通し、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。
合計 212
手順 | タイトル | 投稿者 | 投稿日 | 推薦 | 閲覧数 |
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詩篇8:1-9(人間の存在の目的)
tbic
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2025.08.24
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tbic | 2025.08.24 | 1 | 23 |
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歴代誌 第二7:11-14(国のために祈ろう)
tbic
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2025.08.17
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推薦 1
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閲覧数 36
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210 |
詩篇121:1-8(わたしが、あなたの道を守る)
tbic
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2025.08.10
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推薦 2
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閲覧数 47
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tbic | 2025.08.10 | 2 | 47 |
209 |
ゼカリヤ書2:1–13(火の城壁の神)
tbic
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2025.08.03
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推薦 2
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閲覧数 65
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tbic | 2025.08.03 | 2 | 65 |
208 |
ヨハネの福音書 13:34(新しい戒めの中に生きよう)
tbic
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2025.07.27
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tbic | 2025.07.27 | 1 | 76 |
207 |
エペソ人への手紙2:1-5 (ロープを掴みなさい)
tbic
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2025.07.13
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tbic | 2025.07.13 | 1 | 85 |
206 |
創世記2:24 (聖書的結婚観)
tbic
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2025.07.06
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ヘブル10:37-11:7(信仰とは何か?)
tbic
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2025.06.29
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204 |
箴言3:5-6(自分の悟りに頼るな)
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2025.06.22
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203 |
エペソ人への手紙5:22-33(夫と妻に対するお勧め)
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2025.06.15
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tbic | 2025.06.15 | 1 | 95 |