メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
雅歌 2:10-17 (わが愛する者、私の美しいひとよ)
投稿者
tbic
投稿日
2025-09-29 12:00
閲覧数
180
雅歌 2:10-17 『10. 私の愛する方は、私に語りかけて言われます。「わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで。11. ご覧、冬は去り、雨も過ぎて行ったから。12. 地には花が咲き乱れ、刈り入れの季節がやって来て、山鳩の声が、私たちの国中に聞こえる。13. いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は花をつけて香りを放つ。わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで。14. 岩の裂け目、崖の隠れ場にいる私の鳩よ。私に顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は心地よく、あなたの顔は愛らしい。」 15. 私たちのために、あなたがたは狐を捕らえてください。ぶどう畑を荒らす小狐を。私たちのぶどう畑は花盛りですから。 16. 私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。17. 私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでに、あなたは戻って来て、険しい山々の上のかもしかや若い鹿のようになってください。』
雅歌1:1を見ると、「ソロモンの雅歌」と始まるのですが、「こぢんまりして優雅な歌」という意味です。この歌は花嫁ではなく、新郎が歌う歌です。もちろん花嫁の歌も混ざっていますが、全体的に「新郎が歌う歌」です。
新郎であるイエス・キリストが花嫁である聖徒たちに向かって歌う「愛の歌」、私たち花嫁たちが新郎を慕って歌う歌である前に、新郎が先に愛を告白する歌がこの雅歌です。
まずこう申し上げる理由は、私たちは何も考えずに雅歌を、「新婦が新郎に向かって歌う歌」と勘違いしがちです。主が私たち花嫁たちに向かって愛の歌を歌うとは、考えられないからです。ところがヨハネの手紙第一4:19にも、「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」と言われます。雅歌と一致します。
私たちが今日も主を賛美できるのは、主が先に私たちを愛し、私たちに向かって主が先に愛の歌を歌ったからです。私たちの救いは、私が主を信じて、私が愛する前に、主が先に私を選んで、予定して、呼んで、愛してくださり、救ってくださったということです。
この事実を思い出すとき、私たちは決して神学的に間違った道にそれないと思います。またもし私たちが弱くて疲れたり、座り込んだりするときがあっても、私たちは決して失望したり、自分を非難したりしません。なぜなら、私が救いの道を自ら行く前に、主が私を救いの道に行くように予定して/選択して/導き/引っ張って行くからです。(これを「カルバン主義」神学と言います。)
今日の本文、2:10-12に新郎はこう歌います。10節、『私の愛する方は、私に語りかけて言われます。「わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで。」』新郎は美しい花嫁をどこかに導くのですが、これは天国と見なすことができます。なぜなら、11節、「ご覧、冬は去り、雨も過ぎて行ったから。」12節、「地には花が咲き乱れ、刈り入れの季節がやって来て、山鳩の声が、私たちの国中に聞こえる。」と言われます。
これは冬と春が過ぎ、夏が近づいたという意味ですが、夏が過ぎ、秋になると収穫があり、それ(収穫、秋)は、「主の再臨」を象徴するからです。
マタイの福音書24:32-33、「いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。」つまり新郎は新婦を天国に導きたいということです。
今日の本文、2:14に新郎はずっとこう歌います。「岩の裂け目、崖の隠れ場にいる私の鳩よ。私に顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は心地よく、あなたの顔は愛らしい。」ここで「岩はキリスト」を象徴しています。鳩は岩の隙間の崖の隠れたところにいます。つまり聖徒はイエス様の保護を受けて、イエス様の懐で安全に住むという意味です。
本文の14節を詳しく読んでみると、新郎のイエス様の花嫁である聖徒に向けた愛と、その感情と、その世話はあまりにも強烈で情熱的です。私たちがこの14節を本当に信じるなら、私たちがどんな状況に置かれても、私の人生の不安感と未来の不確実性はすべて克服できると思います。それは私を深く愛してくださる新郎であるイエス様の中でのみ可能です。
私たちは「岩の裂け目、崖の隠れ場にいる私の鳩よ」のように、ひそかに隠されて保護され、愛されているのです。ところが本文の2:15に、「私たちのために、あなたがたは狐を捕らえてください。ぶどう畑を荒らす小狐を。私たちのぶどう畑は花盛りですから。」と言われます。
ぶどう畑を荒らす大きな獣(大きな罪)は私たちの目には簡単に見えます。それで簡単に防げます。ところが小狐たちがこっそりぶどう畑に侵入して、ぶどうの実を摘んで食べ、ぶどう畑を台無しにするのは本当に困ります。小さな獣たちは目立たないからです。
今日の本文は主と聖徒の間の関係を例えていますが、二次的に実際の私たちの現実の結婚生活にも適用できます。家庭の「ぶどう畑」が取り壊されるのは、夫が妻を暴行するなど、大きな「罪」ではありません。そのようなことは一般の普通の家庭ではほとんど起こりません。しかし「小狐たち」つまり夫や妻がよくイライラしたり、むやみに怒鳴ったりする「些細な罪」です。そのような「小狐」を捕まえて、彼らが私たちの心と、実際の結婚生活を台無しにしないように注意しなければなりません。
皆さんの結婚はまるでぶどう畑のようです。勤勉で賢い農夫のように、そのぶどう畑をよく手入れしてください。霊的に聖徒が主と関係を結ぶのは、まるでぶどう畑の手入れのようなものです。「殺人」や「姦淫」など、そのような大きな罪を犯す聖徒は多くありません。
聖徒に主との関係を遠ざけるものは、「小狐」たちです。つまり「清らかでない考え、お金を愛し、赦せない頑固さ、怠惰と安逸」などです。そんな小狐(小さな罪)が、私たちが主と同行したり、主の臨在を妨げる障害になります。したがって、私たちは勤勉にこのような「小狐」を排除していかなければなりません。
雅歌4:7を見ると、「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。」と言われます。雅歌4章では花嫁を本当に愛する新郎の姿を見ることができます。4:1から花嫁を賛美する、新郎の歌を私たちは聞くことができますが、4:1-3、「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。ああ、あなたは美しい。あなたの目は、ベールの向こうの鳩。髪は、ギルアデの山を下って来るやぎの群れのようだ。歯は、洗い場から上って来た、毛を刈られた雌羊の群れのよう。それはみな双子で、一方を失ったものはそれらの中にはいない。唇は紅の糸のようで、口は愛らしい。頬はベールの向こうで、ざくろの片割れのようだ。」
花嫁もこんな新郎の愛の歌を聞くことができます。成人である花嫁が霊的に成熟している証拠は、新郎から多くの声を「聞くこと」です。幼い信者は祈りでたくさん「話そう」とするのですが、成熟した信者は祈りでたくさん「聞こう」とします。だから本文の花嫁は新郎の賛美の歌を聞くのです。花嫁はだんだん成熟しつつあるという証拠です。
花嫁が成熟していくにつれて、新郎は花嫁のあらゆる面を愛するようになります。そしてこう告白します。雅歌4:7、「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。」そうしながら、新郎は花嫁にこう招待します。雅歌4:8、「花嫁よ。私と一緒にレバノンから、私と一緒にレバノンから来ておくれ。アマナの頂から、セニルの頂、ヘルモンの頂から、獅子の洞穴、豹の山から下りて来ておくれ。」これは天、つまり天国に行って一緒に住もうという招待です。
主がこう言われるのです。「低い世俗的観点で見ないで、わたしと一緒に天に上って、すべてを天の観点で見なさい。そこから見れば、世の中のすべてのことがどんなに大きくて大切なことでも、それは小さく、あまり価値がないように見えるはずだ。」
私たちが飛行機に乗って行くと、本当に大きな高層ビルもマッチ箱のように小さく見えます。ところがこの世には本当に政治と権力、空中に権威ある悪霊たちがいます。本文では、それを「獅子と豹」と表現しています。しかし私たちが「空中」よりも高い「天国」の次元に上ると、主と共に主の招待を受けて天国に住むようになります。そのような空中の権力、邪悪な悪霊をすべて克服できるのです。
もちろんそんな中、悪魔との霊的戦いは避けられないと思います。しかし私たちの新郎は今も成熟した花嫁たちに向かって霊的戦いに勝ち、「空中」よりも高い「天国」の次元に上るように招待しておられます。
雅歌4:12を見ると、「私の妹、花嫁は、閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉。」と言われます。ここで新郎は花嫁を、特に「閉じられた庭(locked garden)」と呼びます。新郎だけのために、他のすべての外部の接触は一切遮断されたという意味です。成熟した花嫁は彼と同じです。ただ新郎になったその方だけに片思いで、つまり「閉じられた庭」で、他の対象には一切目も一度も与えません。今皆さんが主との関係において、果たしてそうでしょうか。「閉じられた庭」でしょうか。主は私たちにこう言われます。「あなたはわたしの個人的な庭だ。ただわたしだけのための空間、合ってる?」
ここ日本には特に一戸建ての家を見ると、塀を高く張っておきません。だからあるところはそこがその家の庭なのか、一般の空き地なのか、区別がつかない時があります。だからある家主はその家の境界線に「private property(個人所有地)」などの標識を立てておきます。外部の人がそこにむやみに入ると、住居侵入になるのです。泥棒と誤解されたりもします。
主が私たちに、そんな「プライベートガーデン(private garden)」を望んでおられるということです。誰でも入ってくるのではなく、ただ主だけが所有できる、そんな「閉じられた庭」です。今日で言えば、「個人庭園(private garden)」よりもっと個人的で秘密の庭です。私たち花嫁たちが主とそんな関係になることを主は望んでおられます。
実は花嫁たちにも世の中の誘惑があります。自分が目を外に向けて、もう少し時間と情熱を投資するだけで、今自分に必要なお金よりも、よりたくさんのお金を稼ぐことができ、また自分がもう少し有名になったり、もう少し権力を享受できる道がいくらでも自分の前に開かれています。世俗的な誘惑の門です。
もちろん私たちは主を愛するのですが、主より世をもう少し愛すれば、花嫁が得られるお金、権力、人気、名誉など、世俗的なものが花嫁に、「自分を連れて行ってくれ」と。「自分を連れて行って利用し、楽しんでみろ」とずっと手招きし、目つきで誘惑します。
しかし清い花嫁は、そんな誘惑に一切揺らぎません。「閉じられた庭」だからです。新郎以外に外部からは一切目をそらさないことに決断したからです。成熟した花嫁は、この世と両足をかけません。ただ自分の全てが新郎であるキリストだけに属している「閉じられた庭」だからです。ところがそんな「閉じられた庭」のような信者は今日多くありません。主と非常に親密な関係を持ち、主を密かに深く知り、それで主の言葉を深く悟って生きていく信者は多くありません。
普通、聖徒や説教者が御言葉を深く理解できず、したがって御言葉を深く教えられない理由は、まさに彼らが「主と深い親密の関係」にいないからです。誰でも主と今日の本文の花嫁のように、「閉じられた庭」の関係に入ると、新郎が自分の意思を花嫁に示して見せ、悟らせてくださいます。イエス様が親しい弟子たちにそうされたように、御言葉を解いて説明してくださいます。今日でもです。イエス様が復活して「エマオに下って行く弟子たち」にそうされたように、彼らの目を開いて御言葉を悟らせたりもします。
ただ普通に聖書を読む人がいて、主がその目を開いて御言葉を悟らせてくださる信者もいます。また主がその心に御言葉を伝える火をつけてくださる信者たちもいます。これが私が主と親密な関係を何十年間持った後、気づいた事実です。主はご自分と親しい人たちに、特別に目を開いて御言葉を悟らせてくださり、その心に情熱の火をつけてくださるということです。
雅歌5:2に、『私は眠っていましたが、心は目覚めていました。すると声がしました。私の愛する方が戸をたたいています。「わが妹、わが愛する者よ。私の鳩よ。汚れのないひとよ。戸を開けておくれ。私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれているので。」』
ところが新郎と親しくなりすぎると、また新郎から遠ざかるようになり、あまりにも関係が親しくなると、お互いに無礼になる面があります。そんな日もやってきます。突然ある夜、花嫁は愛する新郎の声を聞きます。「私の愛する方が戸をたたいています。わが妹、わが愛する者よ。私の鳩よ。汚れのないひとよ。」
今日でも、主は突然私たちを呼ぶ時があります。旧約聖書でも、神様がアブラハムを予期せぬ時に呼び、それも真夜中です。幼いサムエルを呼ぶ時も、夜中の予期せぬ時間に呼びました。その時アブラハムやサムエルは、とてもよく反応しました。即座に応答したのです。ところが今日の本文の花嫁はちょっとそうではありません。5:3、「私は衣を脱いでしまいました。どうして、また着られるでしょう。足も洗ってしまいました。どうして、また汚せるでしょう。」
花嫁はあまりにも怠け者で、服を着て戸を開けに行くのが面倒です。彼女はすでに足を洗ったので、外で待っている新郎のために戸を開けに行くと、自分の足に土がつくのではないかと心配して遅れます。新郎は中から花嫁が遅れると、自ら戸を開けようと、戸の穴あたりに手を差し入れました。5:4に、「私の愛する方が、戸の穴あたりに手を差し入れ、私の胸は、あの方のゆえにときめきました。」
結局花嫁は心を変えて、煩わしさを克服して、外に出て戸を開けてくれました。ところが6節に、「愛する方のために戸を開けると、愛する方は、背を向けて去って行きました。」しまった!新郎はすでに家を出てしまいました。このようなことが、今日の私たちにも同じように起こります。主が私たちに言われます。「もうあなたがやっていることを、全部置いて、あなたが熱心に読む本をちょっとやめて、あなたが何時間ずつやっているその会話、もうちょっとやめて、私と会う時間をちょっとでも持ってほしい。他のことは全部置いて何もしないで、ただ私一人だけに集中してくれ。私たち二人だけでどこかを一緒に歩こう。」
しかし普通私たちはこう反応します。夕方にスケジュールがあるので、「主よ、ちょっと待ってください。今とても大事なことが残っています。15分だけ待ってください。もうすぐ終わります。その時行きます。」だから15分か、20分後に、私たちが主に会いに行きます。しかし主はもうそこにおられません。すでに去ってしまったのです。主は私たちを待ってくださりません。これは多くの信者が経験することです。
主は時には私たちを試したりもするので、私たちが本当に本を読むことや、友達と会って会話することや、働きをすること、そのようなことよりも主に会って直接交わることを、私たちがもっと大切に思うか、私たちを試してみる時もあります。だから私たちが主との交わりを最優先にしない時は、主はすぐにその場を離れてしまう時もあります。一番大切な方が、もしかしたら無視されたと感じられるかもしれません。
皆さんは本当に主に尊く用いられる神の民になることを望んでいるのでしょうか。それなら、主が皆さんを呼ぶ時(主が皆さんを呼ぶという感じを受ける時)、皆さんがしていたその大切な(?)物事を全部置いて、全部捨てて、ただ主に走って行って、主の声だけに耳を傾けてください。そうすれば、すべてを通り過ぎた後、皆さんは絶対に後悔しないと思います。
雅歌6:4-10を見ると、新郎はしばらく花嫁を離れたのですが、6章に来て新郎は再び花嫁を愛してくださいます。6:4-5に、「わが愛する者よ。あなたはティルツァのように美しい。あなたはエルサレムのように愛らしい。だが、旗を掲げた軍勢のように恐れられる。あなたの目を私からそらしておくれ。それが私を引きつける。あなたの髪は、ギルアデから下って来るやぎの群れのようだ。」
新郎が花嫁をどれだけ愛しているか、「すべての花嫁の中で、あなたのような者はいない」と賛美してくださいます。多くの女性の中から、その花嫁を特別に選んだと言われます。続いて8-9節に、「王妃は六十人、側女は八十人、おとめたちは数知れない。汚れのないひと、私の鳩はただ一人。彼女は、母にはひとり子、産んだ者にはまばゆい存在。娘たちは彼女を見て、幸いだと言い、王妃たち、側女たちも見て、彼女をほめた。」
これはもともと「主と花嫁である聖徒の関係」を意味しますが、私たちの家庭でも同じです。新郎が新婦にこう考えて言うべきです。「世の中に魅力的な女性が無数に多いけど、私の妻のような人はいない!私の目には、うちの妻が最高だ!」主がまさに私たち一人一人を見て、そう思って、そう認めてくださるということです。
この世には本当に賢い人も多く、裕福な人も無数に多いのですが、また偉い人、偉大な人々も多いのですが、主は主の花嫁である私たち一人一人に向かって、「あなたが無数の女性の中で断然最高だ!」と褒めてくださるということです。
雅歌1:1を見ると、「ソロモンの雅歌」と始まるのですが、「こぢんまりして優雅な歌」という意味です。この歌は花嫁ではなく、新郎が歌う歌です。もちろん花嫁の歌も混ざっていますが、全体的に「新郎が歌う歌」です。
新郎であるイエス・キリストが花嫁である聖徒たちに向かって歌う「愛の歌」、私たち花嫁たちが新郎を慕って歌う歌である前に、新郎が先に愛を告白する歌がこの雅歌です。
まずこう申し上げる理由は、私たちは何も考えずに雅歌を、「新婦が新郎に向かって歌う歌」と勘違いしがちです。主が私たち花嫁たちに向かって愛の歌を歌うとは、考えられないからです。ところがヨハネの手紙第一4:19にも、「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」と言われます。雅歌と一致します。
私たちが今日も主を賛美できるのは、主が先に私たちを愛し、私たちに向かって主が先に愛の歌を歌ったからです。私たちの救いは、私が主を信じて、私が愛する前に、主が先に私を選んで、予定して、呼んで、愛してくださり、救ってくださったということです。
この事実を思い出すとき、私たちは決して神学的に間違った道にそれないと思います。またもし私たちが弱くて疲れたり、座り込んだりするときがあっても、私たちは決して失望したり、自分を非難したりしません。なぜなら、私が救いの道を自ら行く前に、主が私を救いの道に行くように予定して/選択して/導き/引っ張って行くからです。(これを「カルバン主義」神学と言います。)
今日の本文、2:10-12に新郎はこう歌います。10節、『私の愛する方は、私に語りかけて言われます。「わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで。」』新郎は美しい花嫁をどこかに導くのですが、これは天国と見なすことができます。なぜなら、11節、「ご覧、冬は去り、雨も過ぎて行ったから。」12節、「地には花が咲き乱れ、刈り入れの季節がやって来て、山鳩の声が、私たちの国中に聞こえる。」と言われます。
これは冬と春が過ぎ、夏が近づいたという意味ですが、夏が過ぎ、秋になると収穫があり、それ(収穫、秋)は、「主の再臨」を象徴するからです。
マタイの福音書24:32-33、「いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。」つまり新郎は新婦を天国に導きたいということです。
今日の本文、2:14に新郎はずっとこう歌います。「岩の裂け目、崖の隠れ場にいる私の鳩よ。私に顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は心地よく、あなたの顔は愛らしい。」ここで「岩はキリスト」を象徴しています。鳩は岩の隙間の崖の隠れたところにいます。つまり聖徒はイエス様の保護を受けて、イエス様の懐で安全に住むという意味です。
本文の14節を詳しく読んでみると、新郎のイエス様の花嫁である聖徒に向けた愛と、その感情と、その世話はあまりにも強烈で情熱的です。私たちがこの14節を本当に信じるなら、私たちがどんな状況に置かれても、私の人生の不安感と未来の不確実性はすべて克服できると思います。それは私を深く愛してくださる新郎であるイエス様の中でのみ可能です。
私たちは「岩の裂け目、崖の隠れ場にいる私の鳩よ」のように、ひそかに隠されて保護され、愛されているのです。ところが本文の2:15に、「私たちのために、あなたがたは狐を捕らえてください。ぶどう畑を荒らす小狐を。私たちのぶどう畑は花盛りですから。」と言われます。
ぶどう畑を荒らす大きな獣(大きな罪)は私たちの目には簡単に見えます。それで簡単に防げます。ところが小狐たちがこっそりぶどう畑に侵入して、ぶどうの実を摘んで食べ、ぶどう畑を台無しにするのは本当に困ります。小さな獣たちは目立たないからです。
今日の本文は主と聖徒の間の関係を例えていますが、二次的に実際の私たちの現実の結婚生活にも適用できます。家庭の「ぶどう畑」が取り壊されるのは、夫が妻を暴行するなど、大きな「罪」ではありません。そのようなことは一般の普通の家庭ではほとんど起こりません。しかし「小狐たち」つまり夫や妻がよくイライラしたり、むやみに怒鳴ったりする「些細な罪」です。そのような「小狐」を捕まえて、彼らが私たちの心と、実際の結婚生活を台無しにしないように注意しなければなりません。
皆さんの結婚はまるでぶどう畑のようです。勤勉で賢い農夫のように、そのぶどう畑をよく手入れしてください。霊的に聖徒が主と関係を結ぶのは、まるでぶどう畑の手入れのようなものです。「殺人」や「姦淫」など、そのような大きな罪を犯す聖徒は多くありません。
聖徒に主との関係を遠ざけるものは、「小狐」たちです。つまり「清らかでない考え、お金を愛し、赦せない頑固さ、怠惰と安逸」などです。そんな小狐(小さな罪)が、私たちが主と同行したり、主の臨在を妨げる障害になります。したがって、私たちは勤勉にこのような「小狐」を排除していかなければなりません。
雅歌4:7を見ると、「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。」と言われます。雅歌4章では花嫁を本当に愛する新郎の姿を見ることができます。4:1から花嫁を賛美する、新郎の歌を私たちは聞くことができますが、4:1-3、「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。ああ、あなたは美しい。あなたの目は、ベールの向こうの鳩。髪は、ギルアデの山を下って来るやぎの群れのようだ。歯は、洗い場から上って来た、毛を刈られた雌羊の群れのよう。それはみな双子で、一方を失ったものはそれらの中にはいない。唇は紅の糸のようで、口は愛らしい。頬はベールの向こうで、ざくろの片割れのようだ。」
花嫁もこんな新郎の愛の歌を聞くことができます。成人である花嫁が霊的に成熟している証拠は、新郎から多くの声を「聞くこと」です。幼い信者は祈りでたくさん「話そう」とするのですが、成熟した信者は祈りでたくさん「聞こう」とします。だから本文の花嫁は新郎の賛美の歌を聞くのです。花嫁はだんだん成熟しつつあるという証拠です。
花嫁が成熟していくにつれて、新郎は花嫁のあらゆる面を愛するようになります。そしてこう告白します。雅歌4:7、「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。」そうしながら、新郎は花嫁にこう招待します。雅歌4:8、「花嫁よ。私と一緒にレバノンから、私と一緒にレバノンから来ておくれ。アマナの頂から、セニルの頂、ヘルモンの頂から、獅子の洞穴、豹の山から下りて来ておくれ。」これは天、つまり天国に行って一緒に住もうという招待です。
主がこう言われるのです。「低い世俗的観点で見ないで、わたしと一緒に天に上って、すべてを天の観点で見なさい。そこから見れば、世の中のすべてのことがどんなに大きくて大切なことでも、それは小さく、あまり価値がないように見えるはずだ。」
私たちが飛行機に乗って行くと、本当に大きな高層ビルもマッチ箱のように小さく見えます。ところがこの世には本当に政治と権力、空中に権威ある悪霊たちがいます。本文では、それを「獅子と豹」と表現しています。しかし私たちが「空中」よりも高い「天国」の次元に上ると、主と共に主の招待を受けて天国に住むようになります。そのような空中の権力、邪悪な悪霊をすべて克服できるのです。
もちろんそんな中、悪魔との霊的戦いは避けられないと思います。しかし私たちの新郎は今も成熟した花嫁たちに向かって霊的戦いに勝ち、「空中」よりも高い「天国」の次元に上るように招待しておられます。
雅歌4:12を見ると、「私の妹、花嫁は、閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉。」と言われます。ここで新郎は花嫁を、特に「閉じられた庭(locked garden)」と呼びます。新郎だけのために、他のすべての外部の接触は一切遮断されたという意味です。成熟した花嫁は彼と同じです。ただ新郎になったその方だけに片思いで、つまり「閉じられた庭」で、他の対象には一切目も一度も与えません。今皆さんが主との関係において、果たしてそうでしょうか。「閉じられた庭」でしょうか。主は私たちにこう言われます。「あなたはわたしの個人的な庭だ。ただわたしだけのための空間、合ってる?」
ここ日本には特に一戸建ての家を見ると、塀を高く張っておきません。だからあるところはそこがその家の庭なのか、一般の空き地なのか、区別がつかない時があります。だからある家主はその家の境界線に「private property(個人所有地)」などの標識を立てておきます。外部の人がそこにむやみに入ると、住居侵入になるのです。泥棒と誤解されたりもします。
主が私たちに、そんな「プライベートガーデン(private garden)」を望んでおられるということです。誰でも入ってくるのではなく、ただ主だけが所有できる、そんな「閉じられた庭」です。今日で言えば、「個人庭園(private garden)」よりもっと個人的で秘密の庭です。私たち花嫁たちが主とそんな関係になることを主は望んでおられます。
実は花嫁たちにも世の中の誘惑があります。自分が目を外に向けて、もう少し時間と情熱を投資するだけで、今自分に必要なお金よりも、よりたくさんのお金を稼ぐことができ、また自分がもう少し有名になったり、もう少し権力を享受できる道がいくらでも自分の前に開かれています。世俗的な誘惑の門です。
もちろん私たちは主を愛するのですが、主より世をもう少し愛すれば、花嫁が得られるお金、権力、人気、名誉など、世俗的なものが花嫁に、「自分を連れて行ってくれ」と。「自分を連れて行って利用し、楽しんでみろ」とずっと手招きし、目つきで誘惑します。
しかし清い花嫁は、そんな誘惑に一切揺らぎません。「閉じられた庭」だからです。新郎以外に外部からは一切目をそらさないことに決断したからです。成熟した花嫁は、この世と両足をかけません。ただ自分の全てが新郎であるキリストだけに属している「閉じられた庭」だからです。ところがそんな「閉じられた庭」のような信者は今日多くありません。主と非常に親密な関係を持ち、主を密かに深く知り、それで主の言葉を深く悟って生きていく信者は多くありません。
普通、聖徒や説教者が御言葉を深く理解できず、したがって御言葉を深く教えられない理由は、まさに彼らが「主と深い親密の関係」にいないからです。誰でも主と今日の本文の花嫁のように、「閉じられた庭」の関係に入ると、新郎が自分の意思を花嫁に示して見せ、悟らせてくださいます。イエス様が親しい弟子たちにそうされたように、御言葉を解いて説明してくださいます。今日でもです。イエス様が復活して「エマオに下って行く弟子たち」にそうされたように、彼らの目を開いて御言葉を悟らせたりもします。
ただ普通に聖書を読む人がいて、主がその目を開いて御言葉を悟らせてくださる信者もいます。また主がその心に御言葉を伝える火をつけてくださる信者たちもいます。これが私が主と親密な関係を何十年間持った後、気づいた事実です。主はご自分と親しい人たちに、特別に目を開いて御言葉を悟らせてくださり、その心に情熱の火をつけてくださるということです。
雅歌5:2に、『私は眠っていましたが、心は目覚めていました。すると声がしました。私の愛する方が戸をたたいています。「わが妹、わが愛する者よ。私の鳩よ。汚れのないひとよ。戸を開けておくれ。私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれているので。」』
ところが新郎と親しくなりすぎると、また新郎から遠ざかるようになり、あまりにも関係が親しくなると、お互いに無礼になる面があります。そんな日もやってきます。突然ある夜、花嫁は愛する新郎の声を聞きます。「私の愛する方が戸をたたいています。わが妹、わが愛する者よ。私の鳩よ。汚れのないひとよ。」
今日でも、主は突然私たちを呼ぶ時があります。旧約聖書でも、神様がアブラハムを予期せぬ時に呼び、それも真夜中です。幼いサムエルを呼ぶ時も、夜中の予期せぬ時間に呼びました。その時アブラハムやサムエルは、とてもよく反応しました。即座に応答したのです。ところが今日の本文の花嫁はちょっとそうではありません。5:3、「私は衣を脱いでしまいました。どうして、また着られるでしょう。足も洗ってしまいました。どうして、また汚せるでしょう。」
花嫁はあまりにも怠け者で、服を着て戸を開けに行くのが面倒です。彼女はすでに足を洗ったので、外で待っている新郎のために戸を開けに行くと、自分の足に土がつくのではないかと心配して遅れます。新郎は中から花嫁が遅れると、自ら戸を開けようと、戸の穴あたりに手を差し入れました。5:4に、「私の愛する方が、戸の穴あたりに手を差し入れ、私の胸は、あの方のゆえにときめきました。」
結局花嫁は心を変えて、煩わしさを克服して、外に出て戸を開けてくれました。ところが6節に、「愛する方のために戸を開けると、愛する方は、背を向けて去って行きました。」しまった!新郎はすでに家を出てしまいました。このようなことが、今日の私たちにも同じように起こります。主が私たちに言われます。「もうあなたがやっていることを、全部置いて、あなたが熱心に読む本をちょっとやめて、あなたが何時間ずつやっているその会話、もうちょっとやめて、私と会う時間をちょっとでも持ってほしい。他のことは全部置いて何もしないで、ただ私一人だけに集中してくれ。私たち二人だけでどこかを一緒に歩こう。」
しかし普通私たちはこう反応します。夕方にスケジュールがあるので、「主よ、ちょっと待ってください。今とても大事なことが残っています。15分だけ待ってください。もうすぐ終わります。その時行きます。」だから15分か、20分後に、私たちが主に会いに行きます。しかし主はもうそこにおられません。すでに去ってしまったのです。主は私たちを待ってくださりません。これは多くの信者が経験することです。
主は時には私たちを試したりもするので、私たちが本当に本を読むことや、友達と会って会話することや、働きをすること、そのようなことよりも主に会って直接交わることを、私たちがもっと大切に思うか、私たちを試してみる時もあります。だから私たちが主との交わりを最優先にしない時は、主はすぐにその場を離れてしまう時もあります。一番大切な方が、もしかしたら無視されたと感じられるかもしれません。
皆さんは本当に主に尊く用いられる神の民になることを望んでいるのでしょうか。それなら、主が皆さんを呼ぶ時(主が皆さんを呼ぶという感じを受ける時)、皆さんがしていたその大切な(?)物事を全部置いて、全部捨てて、ただ主に走って行って、主の声だけに耳を傾けてください。そうすれば、すべてを通り過ぎた後、皆さんは絶対に後悔しないと思います。
雅歌6:4-10を見ると、新郎はしばらく花嫁を離れたのですが、6章に来て新郎は再び花嫁を愛してくださいます。6:4-5に、「わが愛する者よ。あなたはティルツァのように美しい。あなたはエルサレムのように愛らしい。だが、旗を掲げた軍勢のように恐れられる。あなたの目を私からそらしておくれ。それが私を引きつける。あなたの髪は、ギルアデから下って来るやぎの群れのようだ。」
新郎が花嫁をどれだけ愛しているか、「すべての花嫁の中で、あなたのような者はいない」と賛美してくださいます。多くの女性の中から、その花嫁を特別に選んだと言われます。続いて8-9節に、「王妃は六十人、側女は八十人、おとめたちは数知れない。汚れのないひと、私の鳩はただ一人。彼女は、母にはひとり子、産んだ者にはまばゆい存在。娘たちは彼女を見て、幸いだと言い、王妃たち、側女たちも見て、彼女をほめた。」
これはもともと「主と花嫁である聖徒の関係」を意味しますが、私たちの家庭でも同じです。新郎が新婦にこう考えて言うべきです。「世の中に魅力的な女性が無数に多いけど、私の妻のような人はいない!私の目には、うちの妻が最高だ!」主がまさに私たち一人一人を見て、そう思って、そう認めてくださるということです。
この世には本当に賢い人も多く、裕福な人も無数に多いのですが、また偉い人、偉大な人々も多いのですが、主は主の花嫁である私たち一人一人に向かって、「あなたが無数の女性の中で断然最高だ!」と褒めてくださるということです。
合計 227
| 手順 | タイトル | 投稿者 | 投稿日 | 推薦 | 閲覧数 |
| 227 |
New コリント人への手紙 第二 1:7-11(絶望が入って来る門を閉じなさい)
tbic
|
2025.12.06
|
推薦 1
|
閲覧数 28
|
tbic | 2025.12.06 | 1 | 28 |
| 226 |
ダニエル書2:14-24(誰でも揺れる時がある)
tbic
|
2025.11.29
|
推薦 1
|
閲覧数 43
|
tbic | 2025.11.29 | 1 | 43 |
| 225 |
ヨハネの手紙 第一2:17(神のみこころを行う者)
tbic
|
2025.11.21
|
推薦 1
|
閲覧数 64
|
tbic | 2025.11.21 | 1 | 64 |
| 224 |
ヨハネの福音書 9:1-7 (苦難の原因は過去ではなく、未来にある)
tbic
|
2025.11.16
|
推薦 1
|
閲覧数 65
|
tbic | 2025.11.16 | 1 | 65 |
| 223 |
ヨハネの福音書14:6(失ったものを回復させて下さる主)
tbic
|
2025.11.08
|
推薦 2
|
閲覧数 85
|
tbic | 2025.11.08 | 2 | 85 |
| 222 |
ヨハネの福音書5:1-5(38年も病気にかかっている人)
tbic
|
2025.11.03
|
推薦 1
|
閲覧数 94
|
tbic | 2025.11.03 | 1 | 94 |
| 221 |
ルカの福音書8:40-56(救いへの招き)
tbic
|
2025.10.25
|
推薦 1
|
閲覧数 126
|
tbic | 2025.10.25 | 1 | 126 |
| 220 |
創世記15:1-7(信仰によって生きる)
tbic
|
2025.10.19
|
推薦 1
|
閲覧数 127
|
tbic | 2025.10.19 | 1 | 127 |
| 219 |
ヨハネの福音書3:16(永遠のいのちは神様との交わりです)
tbic
|
2025.10.11
|
推薦 1
|
閲覧数 148
|
tbic | 2025.10.11 | 1 | 148 |
| 218 |
エペソ人への手紙1:1-2 (使命が与える力)
tbic
|
2025.10.05
|
推薦 1
|
閲覧数 159
|
tbic | 2025.10.05 | 1 | 159 |

