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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ヨハネの手紙 第一2:17(神のみこころを行う者)

投稿者
tbic
投稿日
2025-11-21 19:36
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242
ヨハネの手紙 第一2:17「世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。」

マタイの福音書5:3でイエス様は「心の貧しい者に、天の御はその人のもの」とおっしゃいました。そしてマタイの福音書7:21では、「天におられるわたしの父のみこころを行う者が天の御に入るのです。

天の御国はその属性上、永遠です。だからただ教会に通い、洗礼を受けた人が入るところではなく、明らかに「神のみこころを行なう者」だけが入るところです。

天の御国は誰でも入れるし、今地上で会っていた私たちの家族、親戚、知人をそこで全部会えたら、どんなに良いのでしょうか。しかしマタイの福音書5:3の「心の貧しい者」とは、良心的に自分の足りなさを切実に認識し、神のみこころに完全に服従する者を意味します。したがってマタイの福音書5:3と、7:21は同じ流れです。

イエス様はいつも心が貧しかったのです。イエス様は「人は神を全面的にりながら、生きなければならない」という、その神の本来の意図通りに従順によって生きられました。イエス様は勝手に主張し、自分の思い通りに固執し、「神のみこころ」を外すことを、絶対に拒否されました。

イエス様の御言葉を直接聞いてみてください。ヨハネの福音書5:19、『イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同に行うのです。」

ヨハネの福音書5:30、「わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。

ヨハネの福音書8:28、『そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしにえられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。」

ヨハネの福音書8:42、『イエスは言われた。「神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。わたしは神のもとからてここにいるからです。わたしは自分でたのではなく、神がわたしを遣わされたのです。」

ヨハネの福音書12:49、「わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。

ヨハネの福音書14:10、「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。

御父の「」があります。イエス様は、単にある必要性を見た時、「ああ、必要なことだから、今そのきをして助けなきゃ」と。そんなに即座に出てこられませんでした。いくら必要なことだと思っても、神様に聞いてみて、相談してみて、「神のみこころ」という確信が持てる時、行なわれたのです。

イエス様はこの世に来られたときも、なんと預言されてから、4千年も待っておられました。その期間、ずっとこの世は救い主を切実に望んでいました。しかしイエス様はご自分で来られたのではなく、神様がイエス様を遣わされたのです(ヨハネの福音書8:42)。

ガラテヤ人への手紙4:4、「しかし時がちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。」神様は全てのことの適当な時を決めておられました。これに対して伝道者の書3章は、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」と語っています。ただ神様お一人だけ、その時を知っておられます。「再臨」の時は、御子も知らず、ただ御父だけが知っておられます。

皆さん、いくら正しいことでも、いくら切実に必要なことでも、必ず御父に「その時」を聞いてください。その働きは正しくなければならず、必ず必要なことでなければならないのですが、必ず「」までも「御父のみこころ」に合わなければなりません。イエス様がそうして、その模範を私たちに見せてくださいました。ご自分の考えに正しいと思うことに行かなかったのです。

イエス様がこの世におられる時、「あ、これは必要なことだ。わたしの思いにぱっと浮かんだ。」こうではなかったのです。イエス様は罪がなく、その良心と考えが清いお方です。イエス様の頭に浮かんだ考えが間違っている可能性はほとんどありませんでした。それにもかかわらず、イエス様はご自分の考えが思い浮かんだ通りに、あることを推進しませんでした。徹底的に御父のみこころを尋ね、そのみこころに従いました。もちろんこういうことは、長い訓練が必要です。一日でできることではありません。

イエス様は聖書にも堪能でした。もう12歳の時からエルサレムの学者たちと討論されるほど、その知識はすごかったのです。だからといって、イエス様が十代の年齢で聖書の教師として活動されたわけではありません。その実力はあまりにももったいないのですが、18年間も平凡な大工として過ごしながら、机や椅子を作る仕事をされました。どうしてでしょうか。御父のみこころに従ったからです。私たちだったら、30歳の公生涯の時まで待っていたら、頭に来たはずです。その時イエス様の周りにイエス様の説教を聞けず、死んでいく人々が数え切れませんでした。それでもイエス様は焦りながら、公生涯を宣言しませんでした。なぜなら、御父の時がまだ来ていなかったからです。

またイエス様は御父の時を待つのを、恐れませんでした。信じる者は急ぎません。そして、やっと御父の時が来ると、従順に出て行って、説教で御言葉を教える働きを始めました。そんな中でも、イエス様は時々こうおっしゃいました。「わたしの時はまだていない。(ヨハネの福音書2:47:6」イエス様がメシアとして、ご自分のアイデンティティを公に知らせる時はまだ来ていないという意味です(マルコの福音書8:31)。こういう風に見ると、イエス様の生涯は、いつも御父のみこころと御父の時を細かく見極めて、それに徹底的に従う人生の模範を見せてくださいました。「良いこと」だからといって、それがすべて神のみこころではありません。いくら「の必要」を見ても、それだけではイエス様を動かすことができませんでした。イエス様はご自分の思い通りに行なわれる方ではなかったからです。

イエス様はただ御父のみこころ通りにだけ行なわれたので、人々の必要を見ながらも、知っていながらも、じっと我慢しておられました。イエス様はご自分の周りの人々が何か良い提案をするからといって、そこに引っ張られて動きませんでした。一度は人々がどこかにイエス様が留まることを懇願しました(マルコの福音書1:35)。しかしイエス様は他の場所に行って福音を伝えなさいという神の声を聞いたので、その懇願を断られました。人間的に見れば、そこにずっと留まる理由が多かったのです。なぜなら、その地域の人々がイエス様の説教にすごい反応を示したからです。しかし神の思いは人の思いと異なり、神の道はいつも人が考える道とは異なります。(イザヤ書55:8)

早朝、イエス様は出て行って静かなところに行って祈りました(マルコの福音書1:35-39)。その時間に御父と一緒に相談して、その声に耳を傾けておられたのです。イエス様はペテロのような側近や親しい人の提案を先に聞く前に、御父と一緒に相談しました。イエス様は人間的な理性や判断より、神のみこころをもっと大事にされました。そしてその神様がご自分の道を指導してくださることを信じたのです。

箴言3:5-6に、「心をくして主にめ。自分の悟りにるな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」イザヤ書50:4には、「神である主は、私に弟子の舌をえ、疲れた者をことばでますことをえ、朝ごとに私を呼びまし、私の耳を呼びまして、私が弟子として聞くようにされる。」この預言がイエス様にそのまま成し遂げられました。

イエス様は人々と討論を長くしませんでした。何をするか、何を決めるか、祈りで神様と相談して決めたのです。もちろん人々との会議は必要ですが、人々との会議だけで時間を長く費やさず、むしろ人々と一緒に祈りで神のみこころを尋ねることが大切です。このように何事にも尋ねる祈りの習慣が形成された人が成熟したクリスチャンです。

またイエス様にとって、神の御言葉は一般の食事より、もっと重要でした。マタイの福音書4:4、『イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」』それでイエス様は記録された神の御言葉を通して、神のみこころを分別されました。そしてその御言葉に従順でした。ヨハネの福音書4:34、『イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。」』だからイエス様の食事が聖書に2つ出てきます。「神の御言葉(マタイの福音書4:4)」と「神のみこころを行なうこと(ヨハネの福音書4:34)」です。今日私たちの主な食事とかなり違います。私たちの主な食事はプルコギ、寿司、ステーキ、しゃぶしゃぶ..です。

イエス様が神殿で、両替する者たちを追い出した時も見てください。公生涯のイエス様はエルサレムに少なくとも3回上られたので、それなら少なくとも3回は神殿に入られました。ところでなぜ最後の時だけ、両替する商人たちを追い出して、神殿を綺麗にしたのでしょうか。毎回そうすることもできたはずです。それはどんなに義なることであっても、御父のみこころに従って行なわれたからです。おそらく肉的なクリスチャンは常に正義なことは無条件に全部良いと言って、実行しようとするのです。しかし神のみこころによって導かれる人は、ただ神様が語り、自分に感動を与えてくださる時だけ、そのことを行ないます。

イエス様の当時にも、世の中にはやるべき「必要」が山ほどあったはずです。ところがイエス様は信者を組織して、多くの予算を集めて、壮大なプロジェクトを遂行しませんでした。ただご自分の考えで必要と判断されることをすべて行わず、ただ御父のみこころと判断される、そのことだけに従順でした。今日の私たちとはかなり違います。

イエス様は12歳になった時、ルカの福音書2:49、「わたしが父の家(き、my Father's business)にいなければならないことを、知らなかったのですか。」と肉の両親に言われました。私たちの聖書には「わたしが父の家にいるべきだ」と意訳しましたが、原文には「父のきに含まれなければならない」とおっしゃいました。イエス様はその幼い年齢の時から「御父の」に関心を持っておられたのです。

そうして公生涯の終盤に、こう告白されました。ヨハネの福音書17:4、「わたしが行うようにと、あなたがえてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの光を現しました。

イエス様は宣教されるからと言って、全世界を歩き回らなかったのです。イエス様は教えると言って、本を執筆しませんでした。たった一冊も!イエス様は世の中にやるべき働きが散らばっているのに、ご自分に従う者の数が少ないと、人為的に数を増やしませんでした。それにもかかわらず、本当に不思議なのは「わたしが行うようにと、あなたがえてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの光を現しました。(ヨハネの福音書17:4)」と告白されたということです。これは今日私たちが深く考えてみるべき部分です。

イエス様は神の御子ですが、またしもべでした。しもべにとって、最も重要なことは主人が命じたことを行なうことです(コリント 第一4:2)。主は一生を御父のみこころを聞くことに集中されました。そしてその聞いた御父のみこころを成し遂げることに献身されたのです。御父のみこころを確かに聞き、その働きを成し遂げるのに献身された時、主は疲れて倒れたり、慌ただしさのために混乱しませんでした。私たちも同じです。疲れや慌ただしさで混乱した人生ではなく、主のみこころに集中する単純な人生を生きなければなりません。

またイエス様はご自分の個人的な利益や有益、興味など、こんなものを追求しませんでした。私たちのように肉的ではなかったからです。イエス様の興味や利益はただ御父のみこころを知り、そのみこころを行なうことでした。だからイエス様は何よりも祈りの生活をご自分の人生の最優先順位とされました。「だが、イエスご自身は寂しいところに退いて祈っておられた。(ルカの福音書5:16)

一度は、イエス様が12弟子を選ぶことのために夜通し祈られました。しかし肉的な信者は何事にもそのように祈りに献身することを時間の無駄と見なします。そしてただ心が不安な時だけ、祈りに献身します。そのような肉的な信者(私たちのほとんど)は、祈りが自分の人生に絶対に必要であると認識されていません。なぜなら、何事にも自分自身の力で、うまくやっていけるように見えるからです。しかし霊的な人は大きなことだけでなく、小さなことまでも、何事にも神様に頼ります。とても些細なことまでも、心の中で祈りながら決定します。だから神のみこころを行なう者は忙しくなく、いつも落ち着いています。

マルタは働きにとても忙しかったのです。これが肉的な信者の特徴です。それでイエス様に叱られました。マルタが何か道徳的な罪を犯したからではなく、イエス様のみこころに従わずに慌てたから叱責されたのです。マリアとマルタから私たちは霊的な信者と肉的な信者の対比を見極める必要があります。

ところが面白いのは、マルタがむしろマリアを叱責したということです。このように肉的な熱心な信者が、今日でも霊的な信者を叱責することもあります。肉的な信者の特徴はいつも忙しくて慌たしいです。自分でも心に平安がありません。だから神の安息に入れません(ヘブル書4:10)。彼らの目的と動機が善だとしても、彼らは神のみこころを見極めることができず、自ら行うすべての奉仕と苦労はただ「不潔な衣(イザヤ書64:6」のようなものです。それは花嫁として準備された者が着る白い衣ではありません。問題は悔い改めた信者もマルタと同じかもしれないということです。祈りと御言葉の黙想に怠けている時にそうなります。

サウル王がアマレクを聖絶せず、分捕り物がもったいないから残したのは、人間的な考えでは良い判断でした。全部絶滅させたら、経済的な論理で見れば、もったいないことです。しかし神のみこころではありませんでした。それで神様が激怒されました。「聞きうことは、いけにえにまさります。(サムエル記 第一15:22)」ところが問題は多くの場合、私たちが主のみこころを分別できず、その御声を聞けず、分からなくて従えない時が多いということです。従順になるには、まず「聞く」必要があります。したがって「聞く時間」、つまり御言葉の黙想と祈りに、より多くの時間を割り当てなければなりません。そうしてこそ、神のみこころを完全に行なうことができます。

マルタ」を見てください。彼らは奉仕をたくさんして、教会で忠実な信者だと称賛されます。ところがこのような「マルタ」たちは、実は自分自身のために奉仕をする時が多いです。御父のみこころは、まず「聞く」ことです。

使徒の働き3章で、神殿の美しの門の前にいた足の不自由な人をペテロとヨハネが治したのですが、彼はおそらくイエス様の当時にも、そこに座って物乞いをしたはずです。ところがイエス様は、なぜ彼をその当時に治してくださらなかったのでしょうか。イエス様はすべての良いことをすべて行なわれたのではなく、ただ御父のみこころに従って、御父がさせることだけを行なったからです。ペテロがその時、彼を治したのですが、「フェクトタイミング」でした。それで実際に多くのエルサレムの人々がその時、主のもとに立ち返りました(使徒の働き4:4)。

だから神のみこころだけを分別して行なわれたイエス様には「完全な安息」がありました。一日24時間、神のみこころを行なわれたのに、時間が足りなくて大変なことはありませんでした。もし、今日私たちの中に時間がなくて大変な人がいたら、それは「自分の」だから忙しいことです。そして長血の女のように、ご自分のスケジュールに誰かが予告もなく押し込んできたとき、イエス様はその女に寛大でした。時間に追われると、面倒くさいと怒らなかったのです。神のみこころだけを行なわれたので、一日与えられた24時間が追われず、いつも余裕がありました。

今日、人々の口についている言葉が「忙しい。時間がない。」です。そのような人は肉的なクリスチャンである可能性が非常に高いです。彼らはマルタのように神のみこころを分別せず、ただ自分の考えで良さそうなことは全て行うため、いつも時間に追われ、それで神経が敏感になり、精神的な安息がありません。だから疲れ果てて神経質になり、肉体的に疲れているのです。それはすべて「神のみこころ」を行わなかった結果です。

マタイの福音書11:29にも、「自分の十字架を負い、イエスう者に安息をえる」と言われたのであって、「える」とは言われなかったのです。主は私たちの羊飼いであり、私たちは詩篇23篇に出てくるように、緑の牧場の羊です。羊は羊飼いが導くままに行くだけで、自分だけでは行きません。

ところが現実は信者が自分を空にせず、自信満々でいつも羊飼いの導きを聞かず、自分だけの道に行くことです。その結果、自分の人生が疲れ果ててしまいます。しかし羊飼いの導きを受けると、私を緑の牧場に伏させていこいのみぎわに伴われることがその本質です。

肉的な信者の特徴は、常に自分の肉の力が強く、自分の肉の力を頼りにしています。だから羊飼いの導きを切実に渇望しません。しかし霊的な信者ほど、自分の肉の力を捨てて、常に羊飼いであるキリストの導きに従います。

だから私たちはいつも、主の祈りを祈らなければなりません。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」御父のみこころが天で成されるのは、天使たちがそのように完全に従順だからです。天使たちは人々と違って、自分の思い通りに行わず、ただ御父のみこころ通りにだけ従います。例えば、天使ガブリエルがザカリヤに言った言葉を見てください。ルカの福音書1:19、『御使いは彼に答えた。「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせをえるために遣わされたのです。」

天使たちが神の御言葉にいつも100%服従する理由は、彼らがいつも神の御前にいるからです。イエス様も同じでした。いつも神の御前にいらっしゃったので、御父のみこころに100%従順でした。私たちも同じです。私たちが神のみこころに全面的に従うことを望むなら、主の御前に、常に祈りで進まなければなりません。

肉的な信者は、それなりに疲れるほど奉仕をし、犠牲することもあります。ところが、ルカの福音書5:5の御言葉が彼に成就します。「先生。私たちは夜通しきましたが、何一つ捕れませんでした。」しかし自分の十字架を負い、主のみこころに従う方向に生きれば、網で豊かに捕れる人生となります。(ヨハネの福音書21:1-6)

何でも神様が植えなかったものは、全部抜かれるはずです(マタイの福音書5:13)。この御言葉から注意すべきことは、木がどんな種類の木かが重要ではなく、誰がその木を植えたのかということです。神様が植えたものは、それが何でも成長します。したがって、私たちは「が計されたこと」を細かく見極めて、そこに自分を投げ出す必要があります。それは私たちの世代だけでなく、永遠に続くことです。

今日の本文のヨハネの手紙 第一2:17、「世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生きけます。」この御言葉は、反対の場合も適用されます。「神のみこころではないことを行なう者は永遠に滅びます。

それでは具体的に神のみこころは何でしょうか。テサロニケ 第一5:16-18、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリストイエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

したがって私たちは常に神のみこころ通りに生き、また常にそのことを行わなければなりません。今週もただ神のみこころの中で生きることを切に願います。
合計 241
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
241
New エレミヤ書31:3-6(回復の日は必ず来る)
tbic | 2026.03.07 | 推薦 1 | 閲覧数 46
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240
マタイの福音書18:21-35 (どうしても赦せません)
tbic | 2026.02.28 | 推薦 1 | 閲覧数 78
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239
マタイの福音書12:43-45 (空っぽにすることよりも満たすことが大切)
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238
詩篇103:1-5 (聖霊に満たされた人生)
tbic | 2026.02.13 | 推薦 1 | 閲覧数 131
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237
マタイの福音書 11:2-6 (つまずかないためには)
tbic | 2026.02.07 | 推薦 1 | 閲覧数 125
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236
マタイの福音書10:1-4 (なぜ主はイスカリオテのユダを選ばれたのか)
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マタイの福音書 5:21-26 (信仰は愛の深さに比例する)
tbic | 2026.01.31 | 推薦 1 | 閲覧数 128
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234
マタイの福音書25:31-46 (最も小さい者たちの一人)
tbic | 2026.01.22 | 推薦 1 | 閲覧数 170
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233
マタイの福音書4:12 (主が私から退かれた時)
tbic | 2026.01.19 | 推薦 1 | 閲覧数 167
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詩篇23:4-6(契約)
tbic | 2026.01.09 | 推薦 1 | 閲覧数 198
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